マーキングされたい、と思う恋心 なんという厄日だ。
雨上がりに気をつけていなかった立香にも非はあるのだが。
以蔵のマンションの前で、乱暴な運転をする乗用車に行き当たってしまった。水たまりの濁った水を頭から思い切りかけられ、立香は思わず悲鳴を上げた。
「ぴゃぁぁぁぁっ」
気が動転し、階段を駆け上がって以蔵の家の玄関に入り、改めて己の惨状を見下ろす。
オレンジ色の髪の先からは水滴が滴り、タイルの敷かれた三和土に垂れている。可愛いブラウスとスカートには黒い水が軌跡を描き、すぐ洗わなければ染みになりそうだ。
幸いここは、自宅と同じくらいに馴染んだ家である。たぶん立香は家主よりもこの家に詳しい。
床を汚したくないから玄関で服を脱ぎ、下着姿で洗面所へ入る。よく汚れが落ちると評判の洗濯石鹸(当然立香が持ち込んだ)を塗りつけ、洗濯機をおしゃれ着コースで回す。
バスタオルとフェイスタオルを用意し、下着を脱いで畳んで、
「お邪魔します……」
と浴室に足を踏み入れる。
浴室にはよく入る。掃除のためだ。
しかし本来の目的のために入るのは初めてである。緊張する。
髪も汚れているから、頭からお湯を浴びた。
シャンプーの隣に置かれたコンディショナーは、使われている気配がない。石鹸で頭を洗いかねない以蔵のためにプレゼントしたのだが、必要性を感じていないのだろう。
――あんなにきしきししてたら、過ごしにくいはずなのにな……。
快適さへのコストを払わない以蔵のことが、時折心配になる。
メントールの配合されたシャンプーを手に取り、冷水を浴びせかけられたような感覚に少し寒気を覚えながら地肌を優しくこする。以蔵も男の人の例外ではなく、メントールが好きらしい。
続いてコンディショナーを施し、すっきりと洗い流して髪を絞る。
頭をタオルでくるんで、優しく水を吸ってやる。その隙に身体をバスタオルで巻きつけた。
洗面所の鏡を見れば、それなりにくびれのある身体が映っている。とてつもなく魅力がないというわけではない、と自分では思う。
しかし、立香が意気込んでいても以蔵がその気にならなければどうにもならないわけで。
立香はまだ男に抱かれたことがない。高校時代の彼氏とは、そういうことにならなかった。
普通の大学生なら同世代とつき合ってどうにかなるはずだが、あいにく以蔵のストーカーになったからそんな機会はなくなった。
ストーカー行為の末に晴れて交際を始めても、以蔵は服の上からの抱擁とキスしかしない。
自分には何かよほど女としての欠陥があるのではないだろうかと疑いたくもなる。
「……はぁ」
口許を覆ったバスタオルにため息を吐き出す。以蔵の家のバスタオルは、洗ってもほんのり煙草の香りが残っている。これを悪臭と取る人もいるだろうけれど、立香には以蔵が抱きしめてくれているように感じられる。
髪を拭いて、以蔵の着古したTシャツに腕を通した。さすがにワンピース状態にはならないものの、身長と体格の差があるから、袖口が肘に来る。裾を折り曲げたジャージを穿いて、寝室のベッドの上に座り、ドライヤーを手に取る。
このドライヤーは龍馬からのプレゼントらしいが、しかし持ち主からは一向に見向きされていない。お前も放っておかれてるんだね、という勝手な親近感を抱きながらスイッチを入れ、熱風を髪に当てる。頭皮が温められて気持ちがいい。
横髪から後ろ髪にかけて乾かしていると、寝室のドアが空いた。立香はドライヤーのスイッチを切って以蔵を見上げた。
「ただいま……おまん、何しゆうが」
「聞いて、断じて色じかけじゃないから」
「誰も何も言うちょらんろう」
見下ろしてくる飴色の瞳は、淡々としている。以蔵は立香の突拍子もない行動に慣れつつあるのだ。
立香は、手ひどい挨拶をして走り去った車への文句から、以蔵のために着てきたブラウスとスカートの泥染みの危機、頭から垂れてくるぬるい水滴の不快さを、身振り手振りで話す。
「ほにほに、大変やったのう」
「そう、大変だった……」
「ところで、一張羅洗ったらどうやって帰るつもりじゃ。着る服がないろう」
以蔵はついでのように言った。
「はっ……えっ」
言われてみれば。早く洗濯しなければとばかり考えていて、その後のことが抜けていた。
立香はきょろきょろと首を巡らせる。
「……あぁ、どうしよう」
「今日はまだ飲んじょらんき、車出すか」
マンションの裏の駐車場に停めてあるワンボックスカーは以蔵の私物ではない。坂本探偵事務所の備品を、以蔵はしばしば私用している。立香の送り迎えに使われることもあるから、強くはたしなめられない。
「ざんじ去ねらぁて言わんき。洗濯物は洗い上がったらもんて干すか」
「でも、いいの? 飲めなくて」
「えい。おまんがそのナリで去ぬるよりはマシじゃ」
立香はシャツの裾を引っ張って己の身なりを確認した。
「まぁ、確かにだらしないよね」
「ほうやのうてな」
以蔵は斜め下へ視線を逸らせた。
「ほがな『彼シャツ』……そこらの者にむやみやたらに見せれるか」
左頬がほんのり赤い。
こういう時は、愛されているのではないかと思う。
立香を大事にする。照れた表情を浮かべる。他の男への嫉妬を見せる。
それだけで心を満たされればいいのだけれど、あいにくと立香は欲深だ。
ガードの堅かった人が立香に振り向いてくれたのだ。更にもう少し深く繋がりたいと思ってしまうのは、恋する乙女の性だ。
「シャツとジャージ、洗って返すね」
「おまんの匂いがしちょってもわしはかまん」
「そういうわけには」
「マーキングっちゅうがはするがもえいが、されるがもえい」
以蔵の言葉に、立香は心臓を撃ち抜かれた。
立香の匂いをまといたいと言う。
それはつまり、以蔵も立香のものになりたいということではないだろうか?
頬が熱くなる。
「……なら、洗わずに返します」
「えい子じゃ。ちっくと上向きぃ」
その通りにすると顎を取られ、軽くキスをされる。柔らかく温かい接触は、いつだって気持ちいい。
「好きじゃ、立香」
「わたしの方が好きだもん」
「言うちょけ」
穏やかな声音が、立香の鼓膜を震えさせる。
確かに、早く先に進みたい。
けれど同時に、この人がくれる愛情も尊重したい。
覆いかぶさるように抱きしめられて、立香はどっちつかずの心を持て余している。