何年かぶりの映画館「映画つき合ってよ、せっかく休みが合うんだし」
立香に誘われ、シネコンへ来た。
以蔵には映画を観る趣味はなく、一人で映画館へ足を運んだことは一度もない。人と行ったのも、龍馬とのつき合いとか、武市の教育的指導とか、その程度だ。
だからチケットの取り方もわからず、全部立香に任せた。
広いロビーの隅の発券機でチケットを出力し、ジュースとキャラメル味のポップコーンを買う。
「飲み物ばぁそこのコンビニで買うてもえいがやないか」
「ダメなの、映画館は飲み物食べ物で利益出してるから、ここで課金しないとつぶれちゃう」
そういうものか。立香は真面目だ。
とはいえ以蔵も競馬場やパチンコ屋が廃業したら困るので、気持ちはわからなくもない。
入場時間が来たので入口のもぎりスタッフにチケットを切ってもらい、エスカレーターで上映シアターのあるフロアに行く。
そこそこ広いシアターの真ん中やや後方まで階段で上り、指定された席に着いて、二人の間のドリンクホルダーにポップコーンのトレイをはめる。
まったくの予備知識なく来た、と伝えると、立香は呆れながらもこれから観る映画の概要を説明してくれた。
ハリウッドのアクションコメディ。続きものではなく、哲学的なセリフの応酬などもない。かといって話が薄っぺらいわけでもなく、派手なアクションで観客を飽きさせない。
「観る前にそんだけ知っちょったら、筋がわこうて面白うないがやないか」
「最低限のことがわかってないと、ちゃんと楽しめないんだよ。作り手の意図とか」
そういうものか。やはり立香は真面目だ。
甘いポップコーンを食べてウーロン茶をすすっていると、館内が暗くなった。
近日上映作の予告に挟まり、結婚式場のCMが流れる。白いウエディングドレスの無垢な花嫁がチャペルを背景に笑顔を作っているのを見ると、つい隣を意識してしまう。
以蔵は将来的に立香と結婚したい。
しかし探偵という仕事が確実に妻子を養えるかと言ったら、首をかしげざるを得ない。恋人の両親に明かして理解を得られる職ではないという自覚もある。もちろん、立香の人生設計も考えなければいけない。
なるべく早くプロポーズして、立香を安心させてやりたいのだが……。
父親につき添われてヴァージンロードを歩む立香は、きっと綺麗だろう。ヴェールをめくれば、花婿である以蔵のために粧われた顔が現れる。すべてを以蔵に委ねる誓いのキスは甘いはずだ。
数十秒のCMでトリップしてしまった。次の予告が始まったので、頬に触れて赤面をやり過ごす。喫煙できれば一本吸って落ち着きたかったが。
人知れず動揺を持て余していたら、短いアナウンス映像の後で本編が始まった。
いきなりの爆発。ビルからビルへ飛び移る主人公らしき男。重要そうなアイテムの入ったブリーフケースを持ち、謎の男が意味深に笑う。この俳優は見たことがある。
タイトルとオープニング映像に続いて、主人公がヒロインらしき女と会話を交わす。軽妙洒脱なやり取りは字幕だけでも伝わるが、英語がわかればより深く楽しめたと思うと少し悔しい。
学業に力を入れよという武市の教えを、十代の以蔵は耳をほじりながら聞いていたが、やはり武市は正しかった。将来若くして国政に打って出る男の聡さを、当時の以蔵は理解していなかった。こういうところを、新兵衛などは『愚かの二階建て』と言うのだろう。
――それにしても。
暗闇の中で立香を肩を並べるのは、ベッドの中を連想させる。
立香との間にはポップコーンがあるから、普段よりも食欲をそそる香りがしている。
かじってしまいたい。
どうせ館内は暗いのだ。手を取って口に運んでも誰も見てはいない。
そっと手をひじ掛けの向こうに伸ばす。立香は太腿の上に両手を揃えていた。
陶器のような肌触りの指に武骨な指を重ね、撫でる。
そのまま手を握って引き寄せようとしたら――
手の甲を叩かれた。
もちろん音が出るほどの強さではないが、明確な拒絶を感じさせる手つきだった。
思わず隣を振り返る。
立香は以蔵の方を向き、唇の前に人差し指を立てた。
静かにしていろ。
無言でメッセージを送った立香はすぐに顔を正面に戻す。
それがまた、飼い犬を見限った主人のようで。
以蔵は頭を叩かれたようなショックを受けた。
どうやら、また愚かなことをしてしまったらしい。
以蔵は気づかないうちに己の欲を優先し、場にふさわしくないことをする。
探偵事務所を開業した龍馬が拾ってくれるまで、そうやって失った職や人間関係がいくつもあった。
もう失敗したくない。己の短慮と愚かさで何かを手放すのは最後にしたい。
そう思っていたのに――
今度はよりによって一番大事な人から捨てられてしまうのか。
もう立香を抱きしめられない、と思うと涙が出てきた。
後悔してもし足りない。
映画の筋など目に入らなくなった。
気づいたらエンディングが流れ終わり、館内が点灯した。
「あー、面白かったね、以蔵さん……え?」
以蔵の方を見た立香は、驚きの声を上げた。あわててバッグからハンカチを取り出し、以蔵の手に握らせる。
「大丈夫? スティーブが死んだとこで泣いちゃった?」
登場人物の名前など覚えていない。しかし目許をハンカチで拭う以蔵に、立香は何かを納得するようにうなずいた。
「そっか……以蔵さんの涙腺、ちょっとわかったかも」
「違う……わし、おまんに捨てられるか思うて……」
「捨てる? なんで?」
立香は不思議そうな表情になる。失いたくない――と思うあまりに、両肩を掴む。
「わし、おまんが嫌がることしてしもうた……やき、もうわしはいらんろう……?」
「もしかして、手握ってきたこと?」
うなずくと、立香はころころと笑った。
「そんな、捨てるだなんて! 以蔵さん、映画見るの久しぶりだったでしょ。それにわたしと見るのは初めて。わたしは映画中にちょっかい出されるのが好きじゃないけど、それは覚えてくれればいいから」
「ほんに……ほんに許してくれるがか?」
「許すも許さないも! もちろん、あんまり繰り返したら怒るかもだけど、以蔵さんは天才だから大丈夫だよ!」
「り……立香ぁぁぁ~……」
思わず抱きついてしまう。以蔵は立香の肩口に顔を埋めてうめいた。
「立香、好きじゃ、好きじゃ、捨てんとうせ……」
「大丈夫、捨てないから」
ゆっくりと説くような口調に、確かな愛情を感じる。
――どいてこげなできた女がわしかたけを好いてくれちゅうがか……夢か?
以蔵には後先を考えられない割に、目の前の幸せを享受しきれないところがある。自分などにこんなにいいことがあってもいいのか? と落ち着かなくなってしまうのだ。
それすら見透かしたように、立香は以蔵の癖毛のポニーテールを撫でる。
「そろそろ出なきゃね……ポップコーンまだ残ってるから、ロビーで食べよう。ちょっと買い物にもつき合ってくれたら嬉しいな。その後なら、いっぱい手繋いであげられるから」
「おまんには……わしを甘やかすメリットがあるがか」
「え? 好きな人を甘やかしたいのは当たり前じゃない」
立香にとって、以蔵はそうするに足る人間だという。
そんな立香の好まないことはするまい、と己に誓う。
間違ったことをしても、立香はすぐには以蔵を捨てない。だから試行錯誤して、最適解を見つけ出したい。
かつて新兵衛から散々に罵られた性根を変えるのは簡単ではないだろうが――立香はそれを見守ってくれる。
愚かさも、甘えも、怠惰さも、少しでもマシになればいい。
今の以蔵は立香と出逢ったのだから。
「じゃ、行こ?」
立香に促され、以蔵は立ち上がった。トレイの上に乗ったポップコーンは半分ほどに減っている。
そっと立香に左手を差し出すと、立香の右手が触れた。小さな手を手のひらで包み込むと、柔らかい女の感触がする。
愛したい。愛されたい。捨てられたくない。
その気持ちが伝わるようにと、以蔵は手に力を込めた。