ピンキーリングにまつわる二人の話 立香とは、二年の時に一緒の授業を取ったのを縁に知り合った。三年次でも同じゼミを取り、研究テーマやレポートへの取り組み方などをオフラインやオンラインで語り合った。
エレシュキガルにとって、立香は大事な友人だ。
自他ともに認める陰キャのエレシュキガルだが、立香は分け隔てなく接してくれる。「エレちゃん」と呼んでくれ、心安い笑顔を向けてくれる。
もちろん、立香にとってエレシュキガルは特別ではないだろう。友人はそこまで多くはなさそうに見えるが、ミス大学のメイヴや趣味友達の刑部姫ともよく話す。
それに、彼女には大事な人がいる。
「エレちゃん、おはよう!」
月曜日の二限。立香は校舎の入口にいたエレシュキガルにぶんぶんと手を振った。
なかば駆け寄ってくる立香へ返事をする。
「ご機嫌ね」
「そうなの!」
立香は笑顔で右手を見せる。その小指に、見慣れない輝きがあった。
「指輪」
「そう、以蔵さんがペアリングくれたの!」
恋する乙女という概念をそのまま形にしたような、輝く笑顔だった。
(あっ、あの反社の)
と言いかけて、あわてて口をつぐむ。
立香はこれまでも、よく『以蔵さん』のことをのろけてきた。
『以蔵さん』と知り合ってしばらくは、ストーカーとしてつきまとっていた。当初立香が『されている側』だと思って心配していたのが懐かしい(だってこんなに可愛い女の子がそんなことをするなんて思えなかったのだ)。
去年どうやら紆余曲折あって、交際を始めるに至った。
男らしくて時折悩ましげな翳も覗かせて、それでいて褒め言葉を惜しまない、最強にかっこいい人だ、と立香は言う。
しかしエレシュキガルにはそうとは思えない。
『以蔵さん』は何回か、車で立香を迎えに来たことがあった。
だいたいくたびれたスーツか、もしくはよれたTシャツにジーンズという姿で、エレシュキガルが立香の友人だと知れば、
「立香をよろしゅうお頼み申します」
と訛りの強い口調でぶっきらぼうに挨拶した。
陰キャのエレシュキガルから見ても陰鬱で、しかもどこか底知れない不気味さがあった。
しかも一度メイヴの親衛隊が集う会に現れ、つき合い参加の立香を連れ去ってメンバーを恫喝したという。
人の口に戸は立てられないもので、すっかり『藤丸さんの彼氏は反社』という認識が広まった。その噂を根拠に、立香を遠巻きにする者も何人かいる。
エレシュキガルは立香の恋愛に口を出せない。誰がなんと言おうが、立香が幸せならそれでいいとも思っている。
しかし、将来的に立香を幸せにしない男だとしたらどうだろう――。
「エレちゃん、右手のピンキーリングの意味って知ってる?」
「……知らないわ」
「『魅力を高める』んだって。お互いのいいところをもっとたくさん発見できるって言うの――以蔵さんの魅力が他の子に見つけられたら大変だなって思ったんだけどね」
立香はくふふと含み笑いした。
「でも以蔵さん、『誰がわしを見ても関係ない、わしが好きながはおまんだけじゃ』って言ってくれて! わたしも以蔵さんしか好きにならないし……」
この輝く顔を見たら、今抱いている感情はエレシュキガルの杞憂であると思いたくなる。
あの、地獄を知っているような顔の男が、本当に立香を陽の当たる方へと導けるかどうかはわからない。
しかし。
「エレちゃん、わたし、幸せなんだ……」
ととろけそうに笑う立香の生命力も、エレシュキガルは知っている。
陽光のようなオレンジ色の髪のこの少女なら、あの陰気な男すら陽向へと引っ張れるのではないだろうか。
「立香が幸せなのはよくわかったわ」
「そう! 以蔵さん、これ選ぶ時にね……」
『以蔵さん』の新エピソードの開陳に、エレシュキガルはうなずいて聞き手に回る。
おそらくこの調子では、メイヴや刑部姫など、顔を合わせた友人にもみなこのように話すだろう。
身振り手振りを添えて話す立香の小指のリングが、『以蔵さん』の独占欲を示すかのように光っている。その話を伝え聞いた者は、やすやすと立香に粉をかけたりはしないはずだ。
エレシュキガルにできることは、もし将来立香がこの指輪を捨てたくなった時に、心理的に寄り添うことだ。
立香が幸せでいるならそれに越したことはないが、もしその顔が曇ることがあったら、原因を取り除けるよう手伝いたい。
(わたしの大事な立香を傷つける男なんて許せないのだわ)
エレシュキガルの脳内で、『以蔵さん』は飴色の瞳を鋭く細めている。
しかるべき時には、なんとかあの男に負けないように頑張らなければ――。
坂本探偵事務所の客用ソファに寝そべり、以蔵は己の右手を蛍光灯に透かした。
何度まばたきしても、手のひらを返してみても、その小指には銀色の輝きがある。
『わたしが以蔵さんのものだっていう証拠が欲しい』
そう言って、立香はスマホで宝飾ブランドのペアリングのホームページを見せてきた。
指輪なら、結婚を申し込む時にふさわしいものをプレゼントするつもりだ。しがない探偵の給料三ヶ月分などたかが知れているとしても、愛する気持ちを伝えたい。
だから最初は、立香のおねだりもそれほど真面目には受け取らなかった。
しかし立香は焦れたように何度も訴えた。
『早くもっと以蔵さんのものになりたい、でないと誰かに厭な目で見られちゃう』
いっそ割り勘でも、と言い募る立香に、さすがに根負けした。
左手の薬指は空けておきたかった。二人で指輪をつける指の意味を調べ、今の二人にふさわしいものを選んだ。
幸い、ギャンブルを控えていたおかげで少しは自由な金があった。
宝飾店に行くなど初めてで、借りてきた猫のようにサイズを測られていた以蔵がおかしかったらしく、立香はころころと笑った。笑われることは不快だったはずなのに、盛りの花のような笑顔に心を掴まれてしまった。
昨日の日曜日にオーダー品を取りに行き、二人でつけ合った。愛情を示す言葉が胸からとめどなくあふれ、自然と抱き合った。
大学卒業まで手は出さない、という誓いを危うく破るところだった。ブラウスのボタンに手をかけようとしたところで正気に戻れた。
立香を送り帰して一人で寝る時も、右手の小指から温かい感触が湧き出て以蔵の全身を包んだ。
明けて今日は、朝から人の穢い面を見せつけられる仕事だった。指輪をケースにしまって外回りをし、苦手なキーボードを打って報告書を作り、三分かけて手を洗って再び指輪をつけた。
こうして輝きを浴びていると、いい買い物をしたと思う。
以蔵もそう清廉な人間ではない。
武市を傷つけ、新兵衛を憤らせ、他の様々な人に迷惑をかけた。借金を踏み倒そうとして強制労働させられたこともある。
しかし立香の笑顔を見れば、自分が綺麗なものになった気になれる。この娘を幸福にさせているのが自分だと思えば、存在意義を感じられる。
恋は人を狂わせる。
愛は人を美しくする。
「立香」
小声で呼べば、脳内でオレンジ色の髪が揺れる。小作りな顔がこちらを振り向き、金色の目に己が映る。
胸が苦しくなる。抱きしめて叫びたくなる。
こんな自分を、以蔵は知らなかった。
「立香、りつか……」
「なーに呼んでるんだ」
呆れたような、女の声が割り込んできた。
玄関ドアを見れば、龍馬の頭上でお竜が実体化すしていた。龍馬が出かける時、お竜は姿を消して寄り添う。
「気持ち悪いぞ、クソザコナメクジ」
「やかましいわ、こんスベタ」
ふわふわと漂ってきたお竜に、以蔵は罵声を投げる。
「以蔵さん、ソファ使ったらアルコールで拭いてね」
龍馬はジャケットをハンガーにかけながら言う。静かで優しげだが、以蔵の不正を許さないという意志を感じる。
腹立たしくなったが、雇い主の言うことだ。以蔵は棚のアルコールスプレーとペーパータオルで座っていたソファを掃除する。
「今日の仕事はどうだったかな」
「報告書はメールにテンプして送っちゅう。確認しぃ」
「リョーマはそんなこと聞いてないぞ。リツカとお揃いの指輪をつけて、気が緩んでないかって聞いてるんだ」
「ほがなわけないろう、わしは天才じゃ」
言い切る以蔵に、龍馬は苦笑する。
「僕は以蔵さんの真面目さを信じてるよ」
肯定されると、それはそれで落ち着かない。
「ほたえな」
「イゾーの方がうるさい」
「僕としては、立香ちゃんのおかげで以蔵さんがちゃんとしてくれて嬉しいよ」
どうも居心地が悪い。
しかし立香と出逢わなければ、以蔵は居心地の悪さを覚える前に逃げるか見捨てられるかしていたはずだ。この以蔵に甘い幼馴染みも、堪忍袋の緒の強さは無限ではないだろう。
「立香ちゃんのためなら頑張れるだろう?」
龍馬の、以蔵を理解していると言いたげな口ぶりは癪だが、そのことは認めざるを得ない。
「……今週の予定寄越しぃ」
以蔵が言うと、龍馬はカバンからタブレットを取り出して画面を以蔵に見せる。
調べてもらいたいこと、足で稼ぐべきこと、伝えなければならないことを一目で図解する龍馬は有能だ。そうでなければ、以蔵のような不器用な人間を使えない。
「わかった、わしに任せぇ」
「以蔵さんがいてくれて助かるよ」
「ほうか」
以蔵が不承不承うなずくと、
「もっとリョーマに感謝しろ」
お竜が龍馬をかばう。
「お竜さん、僕はいいから」
眉尻を下げる龍馬にも、(これでも)ひところほどには苛立たない。
ずいぶんと穏やかになった――のかもしれない。
結局、すべてのことが、立香と出逢って好転している。