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    エヌ原

    @ns_64_ggg

    SideMの朱玄のオタク 旗レジェアルテと猪狩礼生くんも好きです 字と絵とまんがをやる

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    エヌ原

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    スチパン朱玄の2話目です。薬物と煙草と酒が出てくるがスチパン時空なので合法です。

    #朱玄
    zhuXuan

    騒乱 その日紅井は黒野から晩飯の誘いを受けた。
     先の義賊団の事件ののち、黒野は紅井に対する態度を少し変えた。時折紅井を外食に誘い、定例会議の後にはふたりで朝食を摂るようになった。当初は猫柳と繋がっていたことが露見したかと怯え、あるいは自分の不満が丸見えだったかと恥じたが、どちらでもないようだった。
     次第に紅井は黒野の教育が第二段階に入ったことを察した。というのも黒野が選ぶ店はいつも雑然としていて、この帝都では珍しく様々な階級の人間が出入りしている。そこで黒野が拾おうとしている情報がなんなのか、紅井は彼の目端のひとつひとつに気を配るようになった。黒野は時折その視線に気づいて笑った。少なくとも紅井にはそう見えた。だからこの日々与えられる機会は、奢りだということを差し引いても、紅井にとって本当に嬉しい時間だった。

       *

     今日黒野が選んだのは酒も食事もとれるパブだった。当然立ち入り禁止の愛猫を路地に放して扉を叩く。入り口近くのカウンターには労働者階級ワーキングクラスの男たちが擦り切れたジャケットを着込んだまま並び、ジンを浴びるように飲んでいる。ホールの奥の二段上がったところには、それより少し暮らし向きのいい女連れが、気取った身振りでヤマシギの丸焼きを切り分けている。その間には黒ビールを流し込みながら急ごしらえの楽団にチップを振りまく男たちがいる。確かにここは人の坩堝で、――人が人を妬むに足るものにあふれている。
     黒野はメニューも見ずにビールを二杯とオリーブ、ナッツ、ハムのサンドイッチ、マッシュポテト、野菜のスープ、ローストビーフを頼んだ。それから紅井に向き直って、ここはそれなりに量もあるからお前も気にいるだろう、と素っ気なく言う。言いながらその顔はとっくに捜査中のものに切り替わっているので紅井も周囲に気を配りながらメニューを読むふりをする。
     間も無く大柄なウェイトレスが、ビールジョッキと二斤ぶんはありそうな大きなライ麦のパン、そしてこちらも一ポンドはあるバターの塊を運んできた。配膳台からすぐに舞い戻ってきた彼女はナッツとオリーブを黒野の前に置くと、左手に持っていた巨大な半球のボウルに山盛りになったマッシュポテトを紅井の目の前に置いた。面食らっていると、黒野はとぼけた顔で今日のツレが食うことは伝えてあるからな、と吐いた。
     ひとまず紅井は運ばれてきたビールに口をつける。最近よく出回っている、砂糖を多く入れた甘口のビールだ。一日叫び回った喉と走り回った体に炭酸とアルコールが染み渡る。次にマッシュポテトに木の匙を突き立てた。モッタリした感触を持ち上げて、自分の皿に盛った。バターとコショウの豊かな香りが広がる。それから自分の匙に持ち替えて口に運ぶ。
    「うめえ!」
    「そうだろ、ここは本物のバター使ってるからな」
    「うめえよこれ、うん、うめえ」
     あっというまに自分の皿のぶんを食い尽くした紅井に、黒野はボウルをそのまま寄越す。
    「一通り看板メニューは食うといい。次から選ぶのが楽だ」
     その〝次〟が何を指すのか知りたくなくて、紅井はあえてお代わりを皿に盛った。黒野はいつも大切なことを煙に巻く。バターが本物かどうかなんてことは、教えてくれなくたって構わない。それより一言ここは連れの食欲をあらかじめ知らせるくらいの行きつけだと、匂わせるのではなくその口で教えてくれれば自分は満足する。そんな気がしていた。
     紅井がふてくされながらボウルいっぱいのマッシュポテトを食い尽くし、次に運ばれてきたスープの具をつつき始めたころ、黒野は最初の一杯を干していた。ウェイターを呼んでアイリッシュウイスキーのストレートを頼む。
    「……お前、今のヤマはどう思う」
     普段外で仕事の話をしない黒野がそう振ってきたので紅井は不意を突かれた。それからどうってよ、と口ごもる。
     ふたりは今、阿片を中心とした薬物流通の大本を叩くために帝都中を飛び回っている。流通経路は地下水道と河川を利用したものというところまではわかってきた。だが帝都の水道は数百年前に掘られたものからつい最近着工が始まったものまで入り組んでいて、都市計画を担っている役所ですら正確な絵図を描けないでいる。
    「とりあえず河岸かしで聞きこむしかないんじゃねえか。正直、見当つかねえんだ」
    「そうか。俺は最近ちょいちょい貧民街の阿片窟に行ってんだが」
    「なんてことしてんだよ!」
    「ああ、お前は禁止後入庁だったか」
     黒野の言う〝禁止後〟とは五年前に施行された薬物に関する取り締まり法以後のことだ。それまで阿片は半ば万能薬のような扱いで国中に広まっていた。原因不明の疼痛やしつこい咳、果ては子供のむずかりに至るまで、確かに阿片は有効だった。だがやがて深刻な中毒があることが明らかになり、厚生省を中心に急ぎ法整備が勧められた。だから今では阿片やそれから抽出されるモルヒネ、ヘロインの類は一部の医療関係者以外には取り扱えない――ことになっている。
     実際のところは人間が覚えた快楽を手放すわけもなく、阿片の常用者は減っていない。むしろ闇で流通し始めたことに価値を見出した若年層で濫用が広がっているのが実態だ。そういう人間は警視庁にも多い、ということを紅井は知識としては叩き込まれていた。
    「俺はもともと常用組でね。今はもうだいぶ抜けてるが……耐性があるから潜るのに便利なんだ。許可状はもらってる」
    「そんな書類があんのかよ……」
     紅井は頭を抱える。警視庁は設置されて日が浅く――といってももう数十年は経っているが――下っ端の育成にまで手が回らないのが事実だ。紅井のような市井の出から血統書付きのお坊っちゃんまで、違いすぎる毛色をどうにか収めようとしてどうやら中枢もだいぶ無茶をしているようだ。
    「ああもう、書類の話はいい、玄武はどう思ってんだ」
    「俺か、そうだな。ここ半年で出回った阿片を粉から液体チンキから一部始終試したんだが……おい、そう怖い顔をすんじゃねえ。ありゃあ中身は全部同じだ。品質が均一、効き方が同じ、混ぜ物の量もほぼ同一。つまり元の〝塊〟はかなりデカい」
    「つうことはそいつの置き場があるってことか」
     黒野は黙ってうなずくとウェイターを呼んで同じウイスキーを頼む。
    「流通経路は水路だから河の周りから当たるのが早い、お前の推論は合ってる。ただ〝出口〟より〝入口〟を探すほうが早そうだな」
    「一度に出す量はちょっとでいいもんな」
     黒野はそういうことだ、と話を打ち切るとモルトの瓶を持ったウェイターにグラスを差し出す。ボトルを持った指と黒野の指が重なった瞬間、何かが受け渡されたのを紅井は確かに見た。一瞬見開いてしまった目に黒野のそれ以上動くなという視線が刺さって、紅井は全身の緊張を無理にほどいた。黒野はおかわりの礼を言い、彼の手のひらに銀貨を一枚落とした。ウェイターが立ち去ったのを確認して、紅井は黒野の指先に目を向ける。
    「玄武」
    「ん、これか?」
     つままれているのは小さな紙片だった。何重かに折りたたまれて、インクやワインのしみで何が書いてあるのかは判然としない。
    こういうの・・・・・は便利だって話だよ。さっきの話はわざとだ。まあ嘘もついてねえが……」
     口ぶりからするに阿片の話をしたのがキイで、密偵役の男が黒野に報告を持ってきたというのが正しいところなのだろう。つまり今日の夕食の誘いは教育が半分、この情報の受け渡しが半分だ。黒野が自分のためだけに時間を割くわけが、ましてや完全なプライベートで食事に誘ってくるわけがないと知りながら紅井の胸はどうも苛つく。勢いのままスープの具をかき込んで飲み干すと、ローストビーフに手を伸ばした。肉の塊にナイフを差し込むと赤い肉汁が滲み出る。黒野の言った通りこの店は旨い。そして密偵を放てる程度に黒野と親しい。そこを紹介してもらったくせに、自分はどうしてこんなに拗ねているのだ。腹いせに切り分けた肉を黒野に差し出すと彼は小さく首を横に振った。
    「食わねえのか。もらっちまうぞ」
    「いいぜ、俺はいつもつまむ程度だ」
    「かわりによく飲むな」
    「酒じゃ酔えねえからな。下戸か?」
    「飲めるけど明日ダメになんだよ。頭がはっきりしねえっていうか……」
    「じゃあビールのままで、違うのにするか」
    「ん。ちょっと待て。全部飲む」
     中身を干して口の周りに残った泡を舌で舐めとり、紅井は空いたグラスをさきほどは違うウェイターに渡した。遠くで樽からどぼどぼと注がれるアイリッシュビールは黒くて苦い。その味を教えてくれたのも他ではない黒野だ。酒といえば安いビールと暖房代わりのジンしか知らなかった紅井に、人間酒が入った時が一番落としやすいんだと、ブランデーやウイスキーを勧めた。それを飲んだ紅井は見るも無残なへべれけ具合で余計なことも必要なことも一切話せなくなり、黒野を笑わせた。それだって最近の話なのだ。
     紅井はそう高級ではない筋の残った肉を咀嚼しながら考える。黒野のことばかりではいけない。自分は仕事をしているのだから、阿片のことを、いや、黒野の阿片の話だって終わっていない。どの地区のどの阿片窟で吸ったのか。ひとりだったのか。いや、違う。それは大切なことではない……。
     いつの間にか机の上の料理はすべて紅井の胃の腑に収められている。黒野はよく食うなと半ば呆れた様子で、グラスの中身はブランデーに変わっている。紅井のビールはまだ半パイントばかり残っている。
     つまみのアーモンドをかじりながら、ふと紅井はかねてから尋ねたかった質問をぶつけようと思いついた。
    「玄武」
     呼ぶと視線をテーブルに落としていた黒野がふっと目をこちらに向ける。そのまなじりが少しだけ赤らんでいるので酔わないというのは嘘ではないにしろ方便なのだろうと思う。
    「おまえ、なんで警官になんか、なったんだ」
     尋ねる途中で声が喉に引っかかった。
    「頭がいいんだろ、学校だってちゃんとしたとこ出てんだろ。こんなヤバい仕事しなくたっていい」
     警官になんか。そうだ。警官なんてのは給料は安いし危険だしゴロツキには狙われるし、クソガキどものいい悪戯相手でしかない。ドブの中まで浚って何も出てこない日がほとんどだ。この利口な男がこんな仕事をわざわざ選ぶわけがない。
     黒野は一瞬眉根を寄せるとその薄い唇に笑みを浮かべた。
    「お前はどうしてこの職を選んだ?」
     問い返しは紅井の想像になかった。大きく瞬きをすると黒野はまた笑みを深めて手のひらの中のブランデーを口にする。その身振りから余裕しか感じられず、紅井は採用面接を受けたときのように焦りながら頭の中身をまとめる。
    「……オレはオレなりに色々考えて、うちのシマ、荒らしに来る奴らを叩きのめしてたんだ。そしたら地区の警察ポリが来てよ、おんなじことやんなら、給料もらっちまえって言うんだ。だから……」
     言いよどんだ紅井を見て、黒野はグラスを机に置くと両腕を組んで椅子にもたれた。黒野が尋問の時によくやる、ひたすら待つというポーズだ。紅井はひとつ息を吐いてそれから肺にパブの浮かれた空気を吸い込む。この卓の周りだけ妙に沈んでいるような雰囲気を出してはいけない。これは捜査の途中で――教育と、おそらく何かの試験の真っ最中なのだから。
    「なんつうかよぉ、オレらみてえなのは、喧嘩して、金稼いで、飲んで、喧嘩して……そればっかりやってるんだ。だけどそれじゃあ喧嘩が強くなるだけで敵が増えるだけで飽きるし、……強いだけなら誰でもいいのは、もう嫌だったからよ」
     言いながら紅井はそれがすべてではないと思う。過去のことだけを語るのでは自分がこの仕事に就いた意味を伝えきることはできない。だが黒野に明白な言葉で話せることもこれだけだった。紅井は唾液を飲み込むと黒野に向き合う。
    「玄武はどうしてだ」
     今度こそ聞き出すつもりで黒野の真似をして腕を組むと、彼はにやっと笑って自分の腕をほどいた。ブランデーのグラスに残った最後の一滴を舐めるとかつんとわざと音を立ててテーブルに置く。
    「俺が東洋人なのは知ってるな?」
     紅井が頷くと黒野は口元を歪めてそのまま言葉をつづける。
    「正確に言うと親が東洋系だ。まあ俺もそうなんだろうが。もともと俺は孤児で、頭の出来がよかったから拾われて親が移民だから警官になった」
     黒野は一息で言い切りグラスに残ったウイスキーを飲み干した。
    「それにな、警官はいい。何をしようと国家が責任を取ってくれる。銃だって好きに撃てるし、この地位までくりゃ、ひとつの疑惑にかこつけてやり放題できる……」
     黒野はそこまで継いで、壁にかかった鳩時計を見た。ぐにゃぐにゃとゆがんだ短針がⅩとⅪの間を指している。
    「話しすぎた。明日に障るな。帰るぞ」
     そう吐き捨てて急に立ち上がると、黒野は多すぎるくらいのチップを含んだ硬貨を卓に並べ、外套を羽織って出口へ向かう。慌てて紅井も上着を羽織って、忘れ物がないか机の上を一通り見渡してから後を追った。
     外気は一時期の冷え込みが収まっていて、酔って火照った身体に風が温くそよいだ。黒野がガス灯の下で待っているので紅井は上着に袖を通して反り返った襟を直す。
    「待てよ酔っ払い、送るぜ」
    「そういうのは淑女レディー相手にやるもんだ」
    「散々ぱら飲んどいて危ねえんだよ」
    「俺は女じゃない。銃もある」
     黒野が急に内ポケットから銃を抜いて見せたので紅井は一瞬構えてしまった。黒野の大きい手のひらから少しはみ出すくらいの握りに短い銃身、跳ね上げ式の火蓋の上にざらついた光沢を見せる鉱石がついていた。
    火打石式フリントロックだ。マッチ代わりに便利でね」
    「ふうん、先込めだろ?」
    「そうだ。手間はかかるが信頼性は抜群だ。雷管はどうも安定しなくていけねえ」
     触ろうと紅井が伸ばした指先から銃をかすめ取ると、黒野はそれを懐にしまう。それから早く寝ろよ、とかろうじて聞こえる小さな声でつぶやくとさっと踵を返して石畳の上を駆けて行った。外套の裾がひるがえって道路に長い影を落とす。それが消えるのを紅井は茫漠とした表情で見ていた。
     黒野のことは――彼がしゃべりすぎたと言ったくらいにはっきり話してくれたのに、やはり何もわからない。それが相変わらず嫌だった。だが嫌な夜ではなかった。なにかが変わった気がして、せめてその感触をベッドまで持っていければいいと紅井も寮へ足を向けた。


     翌日、黒野は遅刻ぎりぎりまで登庁しなかった。全員が着席してから現れた朝の定例会では常のごとく沈黙し、終わるとすぐに外回りに出ていった。その行きがけに紅井は午後まで待機していろと耳打ちを受け、相棒の独断専行を甘受して席についている。本音ではまた黒野がどこかで扉を蹴り倒していないか不安がある。だがどこに行ったか知れないまま帝都中を駆け回るわけにもいかない。むしゃくしゃしたまま、紅井は引き出しから溜めた書類を取り出しペン先をインクにつける。
     昨日寮に戻って、黒野が喋り過ぎたという言葉のひとつひとつをメモに残した。孤児。東洋系。親。移民。銃。国家。責任。黒野は言った。警察官はいい――たぶん自由だという意味で。黒野はその身をがんじがらめにしているありとあらゆる束縛から逃れるために警察官になった。そして異常な実績を上げて昇進を果たし、今は遊軍を気取っている。氏名、黒野玄武。階級、警部。年はおおよそ二十代半ば——紅井より少し上。おそらく帝都生まれ。痩せぎすの身体に図抜けた長身。四十すぎの後家が営む下宿に住んでいる。そのわりによく寮にいる。正確に言えば、図書室で何かをしている。あの事件を終えてからも、黒野はまだ何かを調べている——まだ何かを企んでいる。紅井に何も知らせずに。
     止まったペン先からインクがじわりと滲む。紅井は慌ててシミに吸取紙ブロッターを載せてそっと持ち上げる。どうにか破棄はせずに済みそうだが、署名の最後に不恰好な墨溜まりができてしまった。むしゃくしゃした思いで乾いた髪を乱暴に積んだ書類の一番上に投げ捨てる。わずかな空圧に押されて山から雪崩れた数枚が宙を舞う。地に落ちる前に捕まえようとドタバタしているのを見とめた先輩刑事が、また冷血野郎に置いていかれたのかと揶揄してきた。言い返すにもいい言葉が思いつかずに、紅井は黙って拾い集めた書類を整えて、改めて仕事に取り掛かる。記述、サイン、日付、サイン、サイン。机に座れば名前ばかり書くことになる。ペン先が質の悪い紙に引っかかってインクが飛ぶが、わずかな汚れは誰も気にやしない。公の職場ではどこにも何にもサインが要る一方で、書いた事実があればいいのだ。
     粗方を片付けた時には昼近くになっていた。気づくと部屋から人が減っている。紅井はペンを置き、インクで汚れた右手を反故紙で拭う。椅子から立ち上がりひとつ大きく伸びをした。肩のあたりでパキパキと音がする。昼飯を食いに行きたいがいつ黒野が帰ってくるとも知れない。強張った体をほぐしながら壁に貼られた地図に近寄る。
     帝都の中央を流れる大河は北から南に下り、街をふたつに隔てている。その流れを受ける地下水道は血管のように地下にはびこり、汚泥で満たされ、黴菌とネズミの巣窟になっている。水路がゴミで塞がれるたび新しいものを作っていた時期があるらしく、かつて使われていた空間がまだ生きているかは誰も知らない。紅井も地元にあたるダウンタウンの下水路には自信があるが、警視庁付近になるとさっぱりだ。
     水。黒野は阿片の取引は水路を利用していると言った。紅井はデスクに戻って黒野が揃えてくれた資料を取り出す。阿片はケシ科の植物から採れる麻薬だ。花が落ちた後に膨らむ実の部分に傷をつけると、ミルクのような白い液体が滲む。それを乾かして粉にする。そのまま鼻から吸って粘膜吸収させてもいいし、煙管に落として火をつけて煙を吸ってもいい。油に浸ければ成分が溶け出してチンキが出来上がる。依存性は強。湯に溶かして精製すればなお強。質のいいものをひと摑みも手に入れたいなら、公務員の月収があっという間に干上がる。
     一通りに目を通して紅井は考え込む。かつてひろく流通していたのはチンキだが、油のぶん重量もあれば嵩もあるから取引には向かない。保存状態は生阿片と呼ばれる樹脂やそれを乾燥させた粉末に近いはずだ。なら品は湿気を好まない。流通は水路だとしても保管は陸上と考えるべきだ。やはり河岸の倉庫を手当たり次第にガサ入れするしかないのだろうか。噂は人間の脚より速いから捜査は一斉にやらなくてはならない。そんな人員は——。
    「片付いたか?」
     かけられた声に振り向くと黒野が立っていた。どこへ行ってきたのか幾分さっぱりとした顔で紅井を見下ろしている。
    「終わったんなら飯にしよう。来い」
     仕事自体には切りはつけていた。紅井は署内の手伝いをやっている老婦人に外で食ってくると一声かけて黒野の後を追う。相手はいつも外套の裾を翻らせて大股で闊歩するので追いつくには少し骨がいる。目の前を歩く男は何も言わない、どこで何をしてきたのかも、これからどこへ行くのかも。紅井はどうしてもそれが悔しくてならずに脚を速めて隣に並ぶ。眼帯のないグレーの瞳が紅井の顔を見る。一瞬留まったその視線はすぐ街のどこかへ流れていった。
     じきに着いたのは異教徒街にほど近い路地だった。行き交う人々は東の血が混ざっているのか皆背が高く、普段なら頭一つ飛び出る黒野が群衆に馴染んでいる。見失いそうで紅井は急いで後を追う。そうして黒野は路地へと入り込み、一軒のカフェの前で立ち止まった。入るぞと目で合図してきたので紅井が扉を開ける。
     簡素な店内はうすら寒く、コートを着込んだ異邦人たちで溢れていた。馴染まない言葉をBGMのように聞きながら紅井はメニューを覗き込む。幸い読める言葉で書かれていたので、ベーグルのサンドイッチを三つとミルクティーを頼んだ。訛りの強い店主は黙って頷いて空席を指さした。台所では肥った女がレタスを大雑把に刻んでいる。ふたりは指示された小さな窓際の席に着いた。すぐにグラスとカラフに入った水が運ばれてくる。紅井が後輩ぶって水を注ぐと黒野は面白そうに笑った。
    「読んだか?」
     一瞬反応が遅れた紅井に黒野は読んだか、と繰り返す。遅れてそれが指すものがあの資料だと気付く。
    「読んだけど、まだ読めてねえ」
    「そうか」
     黒野は運ばれてきたコーヒーカップを盆から直接取る。親父の手からまた紙片が黒野の手に渡るのを紅井は確かに見た。顔が強張るのを感じて目の前に置かれたミルクティーを無理やり吞み下す。黒野は素知らぬ顔で紙片をポケットに入れると、片手に持ったままのコーヒーに口をつけた。
    「この間言ったように水路ってのはアタリだ。あとはどこをどう叩くかだが」
     酸っぱかったのか顔をしかめながら今度は胸元に手をやり、真新しい手帳を取り出した。いや、正確には手帳カバーだ。中にはリフィルの代わりにたくさんのパンチカードと、折りたたまれたトレーシングペーパーのような薄紙が数枚挟まっていた。
    「情報統制局に邪魔して作ってきた」
    「はあ?」
    「俺も詳しくはわからねえんだが、厚生局が疫病予防の名目で水路の流量の記録を取ってるんだそうだ。そいつをちょろまかして加工させた。地下の地図みてえなもんだ」
     黒野は薄紙を細やかな手つきで広げると紅井の前に並べて置く。紙面には一面に数字が並び紅井にはすぐさま何のことなのか判じられない。
    「大雑把な数字なんだが、地図と被せるとおおよそどこに路が走ってるのか判る」
     そう言うと黒野は懐から小さな地図を取り出して薄紙の下に滑り込ませる。それで紅井にも数値の示す場所が理解できた。流量が多いところほど人口密度が高く整備が進んでいる——言ってしまえば栄えていて、金回りがいい。貧民窟のあたりは塞がりかけた水路なのだろう、数字は小さく頼りなく見える。そして地下中にはびこっているはずの路がないところが、ゼロという明白な結果となって印字されている。
     さらに黒野はもう一枚の薄紙を地図に重ねる。水路だろう細い路のあちらこちらに赤でバツが書かれている。
    「清掃局の報告では水路の複数地点に腐敗性の有毒ガスが溜まってる。このバツ印だ。それで上はこの印のとこは人の往来はねえと踏んでる。ところがこんなものが貧民窟スラムで売ってるときた。もちろん公じゃねえが」
     そういって黒野が投げ渡してきたものを紅井は検める。防毒マスクだった。安っぽいガラスの防塵ゴーグルから繋がる鼻と口を覆うだろう部分にはいくつか調整バルブが見え、左ほほには何かがえぐれたような跡がある。と、黒野からそこにはめろ、と缶がひとつ渡された。えぐれた穴にあてがってねじこむとピタリと止まる。
    「簡易的なもんだが有機ガスの類を遮断できるフィルターだ。値が張るから丁寧に扱えよ」
    「いくらすんだ」
    「お前の月給程度だ」
    「……そんでも阿片を売れば大した損にならねえ」
     頷くと黒野はゼロで囲まれた地図の一点を指差した。
    「マスクがあれば潜れる場所をいくつか探らせた。結果、ここだ。ここに倉庫がある」
     革手袋は窓からの光を受けてぬめるようにその照りを見せる。その指が示す一点を記憶して頷くと、黒野は薄紙と地図をまた丁寧に折りたたんで手帳カバーの中にしまった。それからキッチンのほうに合図をする。店主が黙って頷き、ベーグルサンドと食パンのサンドイッチを運んでくる。皿は盆に載せたまま卓上に置かれ、黒野は手袋を外すとハムとレタスのありふれたサンドイッチを摘まみ上げる。手入れが行き届いた爪にマヨネーズが垂れ、血のように赤い舌がそれを舐めとる。紅井は目をそらすようにベーグルサンドにかじりついた。中身はクリームチーズと燻したタラだ。モグついている間に黒野はまたポケットから地図を取り出した。先ほどのよりも縮尺が細かい。
    「さっき見てきたんだが、あのあたりは廃屋が並んでた。野良猫の巣みてえなところで、一見地下とつながってるようにゃ見えねえ。いい場所だ。なんなら精製施設のひとつやふたつ隠せる」
     黒野が心底楽しそうに笑みを浮かべる。その表情に胸が不吉さでざわめくのを感じ、紅井はまだ口の中で主張しているベーグルを飲み込みながら言う。
    「とにかくここに殴りこみゃいいんだな?」
     いつも通り、オレが先頭で。そう付け加えようとして、紅井の言葉は黒野の冷えた視線に弾かれる。
    「いや、俺が行く。お前には役目がある。俺にはできねえ仕事だ。それを持っていけ」
     そう言って黒野は渡したままの防毒マスクを指さした。紅井はポカンとして、次の指示を待つ。


       *


     雑然とした倉庫内では雑役夫に扮した数人の男たちが貨財を運んでいる。指揮をとる頭分の声が天井の高い倉庫で唯一意図を持った音だ。荷はごく小さく分けられて猫車に積まれていく。静かな作業の中に突如鳴りのいい低音が響く。
    「お前ら、阿片の扱いも分からねえ素人か」
     黒野が倉庫の埃に顔を顰めながら立っている。ブーツの踵で二度土床を蹴り、乱入者に動きを止めた男たちをねめつけて頭を持ち上げた。撫でつけた前髪が揺れるたび地に落ちた影も揺れる。
    「こういうブツは面倒でも小分けにして、防水布でもかけておくもんだ。それをこんな倉庫にひとまとめにして、拙速にもほどがある。知能は猿並みか?」
     そう言って笑みの形に口元を緩め、先を切った葉巻を咥えて愛用のオイルライターで火を点ける。泰然としたその態度に毒気を抜かれた男たちが呆然と見守る中、黒野は旨そうに煙を肺に入れ、吐き出す。
    「阿片か、あれはケシの実に傷をつけて汁をとるんだったな。松脂ワックスによく似てる。そうだ、ワックスだ。こういう倉庫は火気厳禁だぜ」
     黒野は嘲笑うように頬を歪めて外套の裏地に留め置いていた三本の筒を取り出した。男たちがどよめいたのはその先に細い紙縒——導火線がひとまとめにされていたからだ。オイルライターを左手で弄びながらブーツの踵を鳴らして倉庫の湿った床を練り歩く、黒野の一挙一動に男たちが反応する。懐手に持っていたナイフを取り出す者、銃を構える者、すべてを黒野は冷気の宿る表情で嘲笑する。
    「最新型の爆薬ってのはこんな倉庫でもどこでもあっという間に木っ端微塵にできるんだ。今度娑婆に出たら試してみろよ、まあその頃には型後れになってるだろうがな」
     そう言って黒野はライターで導火線に着火し、筒を天井に向けて放り投げた。男たちは一斉に身を屈めて衝撃に備えるが、地に落ちた筒は紙縒を燃え尽してなお爆発する気配はない。やがて燻されたような黒い煙が上がり始め、男たちは怪訝そうな顔をしてあたりを見回した。
    「中身はテメエらの大好きな阿片だよ。残念ながらこっちが本命だ!」
     黒野は懐から短銃を取り出して頭分に向けて一発見舞う。火打石フリントの衝撃音とともに火薬が爆発し轟音が響いた。硝煙の匂いに反射的に胸元を抑えた頭分が、やがて自分が無傷であることに気付き、構えろ! と訛りの強い言葉で叫ぶ。
    「馬鹿め、もう用は済んでるぜ」
     黒野はかちかちと引き金を引く、そのたびに火打石が火皿に封じられるはずの火花を散らした。頭分が慌てて背後を振り向いたその場所で、もう一本の導火線が今にも爆薬に着火しようとしている。黒野は哄笑しながら叫ぶ。
    「一片残さず燃えちまえ、《女王陛下万歳》!」

     紅井はその声を倉庫の扉の目の前で聞いた。


      *


     途端、轟音と共に廃屋が揺れ、外壁に立てかけてあったブリキの板ががらがらと崩れ落ちる。紅井は反射的に身を隠して中の様子を伺う。猛りだした炎が天井を舐めて屋根へ向かうのが見える。紅井は重い外套を脱ぎ捨てて、吸収缶の中身フィルタを確認し、マスクに装着する。右手のナイフを握り直して、用意した水を被ると倉庫の中に突っ込んだ。
     黒野は細かい指示を下した後、俺は倉庫を爆破すると言って笑った。思わず止めた紅井にそれくらいすれば次がねえことは分かるだろうと言い、爆破が済んだら己を助けるように頼んだ――いや、命じた。爆破できれば五〇パーセントの成功、自分が無傷で帰還すれば一〇〇パーセントの成功。お前にかかっていると冗談のように言ってのけて、黒野はそのまま三時に先ほど指し示した廃屋で、と言い捨ててカフェを出た。紅井は承諾するしかなかった。その三時に頼まれた諸々を済ませてようやくたどり着いた場所で、予告通りの爆発が起きた。これで五〇パーセントは成功した、残りは紅井が頑張る番だ。
     倉庫の広い敷地の方々で積まれた荷物がぱちぱちと火花を散らして燃え上がり、天井は炎と燻された樹脂が出す黒煙で焦げ始めている。巻き上がる煙をなるべく吸わないように体を屈めて前に進む。荷物のうちのどれだけが阿片なのかは紅井には判別できない。ただ、大量の阿片を一度に吸うのは麻酔を通り越して神経毒を摂取するに等しいことはわかる。黒野も犯人の男たちもろくに動けないどころか、呼吸が止まっている可能性すらある。彼の身を案じた身体が勝手に筋肉を緊張させるのを自覚して、紅井はマスクの中で大きく息を吐く。大丈夫だ、不良品ではない。身体は意思のままに動く。手袋の中で汗ばむ指を励まして、不要と見たナイフを折りたたむと懐に入れる。
     とにかく黒野を探さなければならない。積まれた荷が塔のように立ち並んでいて視野は狭く、見える範囲にはよく知った姿はない。火事の場合、天井は中心から崩落することが多い。基礎講習で習ったことを反復しながら、紅井は火が燃え移り始めた壁際を腕で火の粉を払い、目を覆うゴーグルが煤で烟るのを拭いつつ進む。途中、人影が身を痙攣させているのを見て慌てて駆け寄るが、数フィートのところまできて人違いに気づいた。雑役夫の格好をした男は煙のせいか阿片のせいか、不規則に胸を上下させている。悪い、と呟きながら紅井は先を急ぐ。荷駄の奥を覗き、崩壊した藁包みの中をかき分け、それでも黒野は見つからない。焦りばかりが募る。時間が過ぎれば崩落の危険性も高まる。本庁にしても紅井の命は使い捨てだが黒野は違う。闇雲に駆け出したくなる気持ちを抑えて炎が弱い場所を少しずつ歩く。
     そのとき、ようやく見知った長躯が倉庫の隅で倒れているのが見えた。広がる外套のシルエットに駆け寄り、煤けた床にうつ伏せになっているのを慌てて抱き起こす。腕にかかる体重の軽さに一瞬現実味が薄れ、顔の横で散った火花に現実が蘇る。揺さぶると黒野は防塵用のゴーグルに覆われた片目を瞬かせてしっかりと紅井の目を見据えた。
    「心配すんじゃねえ、間に合った」
     黒野は手袋に覆われた指でかつかつと口元のマスクを叩く。紅井のものよりさらに粗末な、吸収缶がない型の民製品だ。
    「馬鹿野郎、阿片の煙だぞ、ちょっとでも……」
    「だから慣れてる、それより外はちゃんと囲ってんのか」
    「もうみんな来てる、アイツらも逃げようがねえよ。オレらも出ようぜ。……玄武お前、本ッ当に平気なのかよ」
    「大丈夫だ」
     そう言いながら黒野は肩で大きく息をする。ゴーグルの奥の白目が充血しているのを見て取った紅井は、黒野の大丈夫の尺度は自分とは異なるのだと痛感する。肩に手をまわして支える姿勢を見せれば珍しく素直に体重を預けてきた。顔を覗き込むと黒野は若干気まずそうな表情を浮かべて、それから眼帯のせいか密閉が不十分らしいゴーグルを曇らせながら囁いた。
    「……少し休むから、裏手に回ってくれ。封鎖されてると思うが河に降りる階段がある。この格好見りゃあ通してくれるだろうから」
     その声は阿片のせいか今まで聞いたこともなく濡れている。紅井は一瞬たじろぎ、慌てて頭を縦に振る。細い身体を担ぎ上げなおして歩を進めると、黒野もおぼつかない足取りで歩きだす。途中何度か火花に素肌を焦がされながら、出入り口までは煙に背を押されて歩いた。外気に一歩足を踏み出すと、出入り口を囲んでいた警官たちが一瞬緊張するのがわかった。
    「警視庁捜査一課第九班所属、紅井朱雀だ! 犯人どもがまだ中にいる、あとは頼んだ!」
     紅井の怒声に近い声に反応した何人かの刑事が、ふたりを押しのけて煙の充満する倉庫に突入する。黒野はそれを横目で見ながら空いた手で外套の埃を払った。常日頃丁寧な手入れをされている上着もブーツも燻されて真っ黒になっている。
    「煤だらけだな」
    「玄武のせいだ」
    「そうだな。阿片の煤だ。吸うか?」
    「勘弁しろよ。オレは薬中なんか嫌だ」
     そのままふらふらと進むと、黒野の言う通り、ほど近い河岸に水面近くまで下りられる階段が見えてきた。レンガ造りのそれは苔生しているし、そもそも帝都の清濁を飲み込む河の流れは決して綺麗とは言えない。よろめく黒野の身体を支えながら滑らないように階段を降りた。少しでもましな場所を探して、背を預けられる高い段差に寄りかからせて座らせる。上背のある身体はそのまま脱力して前屈した。それが糸の切れた操り人形パペットのようで紅井は途端に不安になる。どれだけの常用者だろうが、あんなに阿片が燃え盛っている場所で煙を吸ってまともでいられるわけがないし、喉の火傷だって心配だ。うつむいたままの黒野に顔を近づけて、ひとまず口元を覆っているマスクを外してやる。そのまま自分のマスクも外すと生温い風が肌を撫でる。黒野はひとつふたつ瞬きをすると眠たげな眼で紅井を見た。その瞳はまだ彼岸の人のように曇って胡乱だ。
    「水をくれ」
     言われて紅井は階段を駆け上がり、倉庫の前で脱ぎ捨てた外套を回収する。内ポケットをまさぐるとスキットルが手に触れた。一旦それを咥えて、薄汚れた外套を払う。土埃が舞って紅井は軽く噎せた。拍子にスキットルとポケットにしまい込んでいた煙草がが地に落ちる。何もかも滅茶苦茶だ。そう思いながら落ちたものを拾い、外套を小脇に抱えて黒野の元へ戻る。黒野は怠そうに身を投げ出したまま、ぼうっと水面を眺めている。腰の周りに外套の長い裾がたぐまって皺になっている。黙ってスキットルを手渡すと、黒野は蓋を開けて瓶の口に鼻を近づけた。
    「ガス入りか、洒落たもん持ってきたな」
    「昼食ったとこが持たせてくれたんだよ、オレがそんなもん選べるわけねえだろ。……飲めよ」
     黒野は大人しく飲み口に唇をつけ、目を瞑ると頭ごとを傾けて炭酸水をちびりちびりと吞み下す。水滴が口端から溢れ、白い喉を伝って襟を濡らす。呼吸のたび鼻がすんと鳴り、目頭が痙攣するように動く。その一部始終を紅井は屈みこんだまま、病人を見守るように見届けた。実際少しでも異変があったなら辻馬車に放り込んで医務室に駆け込む気だった。黒野はその心配を気取ろうともせずに濡れた唇を朱い舌でぺろりと拭った。
    「もういい、すまねえな」
     黒野はそう言ってスキットルの蓋を閉めて手渡してくる。紅井はひとまずそれを受け取ってコートの内ポケットに突っ込む。値踏みするような視線に黒野は笑って、心配かけたなと呟いた。心配だけではない。そう思って紅井は黒野の襟元に手をかけた。一瞬黒野の身体が力むのを感じ取り、落ち着けと目で制して、襟を飾る黄金色のスカーフを解き第一ボタンを開ける。真白い喉元が生臭い風にさらされて、襟足の毛が少し揺れた。黒野は目を細めて紅井を見て、ふうとひとつ息を吐いてかぶりを振った。ようやく生気が戻った気がして紅井は安堵する。同時に自分の身の奥で持続していた怒りに似た沸騰が冷めていくのを感じた。
    「玄武おまえ、なんであんなバカやるんだ」
     そして口をついて出たのは純粋な疑問だった。計算高い男が自分のことだけは計算に入れない。前回だってそうだった。彼を動かすのが義侠心だかなんだかは紅井には量れない。それでも黒野が己を軽視して無茶を働いていることだけは伝わってくる。
    「おまえのやり方は、いつ死んでてもおかしくねえ」
    「そんな下手は打たねえよ」
    「そうじゃねえ!」
     さっき引いた熱が突沸する。紅井は自分で緩めた黒野の襟元を鷲摑んで引き寄せた。整った顔立ちが衝撃で歪むのを見て、いい気味だと脳の中で本能が言っている。反った身体は薄っぺらくて頼りない。そんな人間が独りで何ができるものか。握りしめた紅井の拳にそっと黒野の手が被さる。構わずもう一度力を込めてその優秀な頭蓋を揺さぶった。一筋垂れた前髪が揺れて頭が傾ぐ。黒野はそれを直そうともせずに、紅井の眉間を漠然と見つめてくる。
    「死ぬなって言ってるんだ、わかんねえのか!」
     気がつけば怒鳴っていた。唾が飛び散ったのか黒野が鬱陶しそうに口元を拭う。まだまどろみに似た怠さが消えない視線に、紅井の怒りはさらに増した。頬に一発加えようと拳を握ると、ようやく黒野は焦点を紅井の目に合わせて首を横に振る。違う、と地を這うような低い声がして、紅井は振りかぶろうとした右手を下ろす。そうして黒野がやっと重い口を開いた。
    「俺は女王陛下の善き臣民だからな。義務は果たさなきゃいけねえんだ」
     言われた言葉に紅井は眉根を寄せる。まだ阿片の煙が脳を冒しているのか。訝しむ表情を見て取った黒野が言葉を繋ぐ。
    「いや、俺は正気だ。誓詞を暗唱してるわけじゃねえ」
    「信じらんねえな。だいたい女王陛下がお前になにしてくれたっつうんだ」
    「彼女が俺に? そうだな、金をくれた」
     黒野はせせら笑うように口元を歪める。はぐらかすような言葉に、紅井は黒野を睨む。ところが黒野は表情を至極真面目なものに改めると、俺は真面目に言ってるんだ、と返してきた。
    「陛下は俺に奨学金スカラシップをくれた。他の誰もそんなことはしてくれなかった。年間数十ポンドだ。大した額じゃねえ。彼女が取り扱う予算からしたら微々たるもんだ。だが俺はそのおかげでクソみたいな養親の家を出て、パブリックスクールで学を得て、代わりに煙草と酒と阿片を覚えて、今こうして好き勝手やらせてもらってる」
     滔々と語る黒野の顔はどう見ても正気だった。紅井は黙って、掴んだままだった黒野の襟を離す。そのまま体は脱力して後ろに凭れる。筋張った背を壁に打ち付けたのか黒野は少し顔をしかめて、また紅井の目をまっすぐに見て続ける。
    「お前もわかるだろう、東洋人の顔と名前で後ろ盾もなくこんなところに放り込まれてみろ。俺みたいなヤツと組まされるしかねえ。この国で生きるってのはそういうことだ。だからって他に帰る場所もねえ。俺たちはどっちつかずで、まともじゃなくて、中途半端極まりねえ。そんな奴らに名前なんてねえんだ。だけどな、理由だけは陛下が与えてくれる。善き市民であれと。国に奉仕しろと」
     黒野は一息に語って、一瞬息を飲んで最後の言葉を吐いた。
    「だから、俺は敬愛する陛下の臣民以外のなんでもねえんだ」
     そう言って黒野は口をつぐみ、うつむいた。大河の流れる、せせらぎとは似てもつかないごうごうという音と、その上を往来する船頭たちの声が遠くに聞こえる。黒野の覚悟に対して何か告げるべきだと脳のどこかが言う。何かが間違ってると言わなければならないと良心が叫ぶ。だが、言葉を継ごうとして何も出てこない。茫漠とした感情を言語に落とし込むには紅井はあまりに力不足だった。だからただ黙って黒野がもう一度顔を上げるのを待つしかなかった。やがて黒野は川面に目をやり、それから紅井の顔を見てびっくりするほど優しく笑った。
    「……お前といると話しすぎるな。帰るか。そろそろ阿片も抜けたろ」
     そう言って立ち上がった身体は言葉の通りしっかりとした足取りで、黒野は苔の貼りついた外套の裾を払うと階段へと歩を進める。紅井は取り残されたような気持ちで川べりに立ったままその背中を見る。
    「なあ玄武」
     かけた声に黒野は振り返ってこちらを見た――見たと紅井は思った。眼帯に隠された瞳がどこを見ているかは本当のところはわからなかった。
    「オレは、オレはおまえの相棒だろ。そんで、おまえはオレの相棒だ。それは違わねえだろ」
     一息に喋って、黒野の反応を待った。黒野は少し間をおいて、その間になにか考えた様子もなく頷いた。そして小さく唇を動かした後、紅井にも聞こえるように言った。
    「そうだな、相棒だ」
    「いいじゃねえかよそれで」
     黒野は今度は確かに頬を緩めて、皮肉気な表情で頷いた。
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    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスに感情があるモブシリーズ4/5
    図書館の女 玄関に山と積まれた新聞の束を回収して、一番最初に開くのはスポーツ新聞だ。うちの館ではニッカンとスポニチをとっている。プロ野球も釣りも競馬も関係ない、後ろから開いて、芸能欄のほんの小さな四角形。そこにあの人はいる。
     最初に出会ったのはこの図書館でだった。私は時給980円で働いている。図書館司書になるためには実務経験が三年必要で、高卒で働いていた書店を思い切ってやめて司書補になり、前より安い給料で派遣として働き始めたのは本をめぐる資本主義に飽き飽きしてしまったからだ。
     べつに司書になったからって明るい未来が約束されているわけではない。いま公共の図書館スタッフはほとんどが今のわたしと同じ派遣で、司書資格があるからといって、いいことといえば時給が20円上がる程度だ。わたしはたまたま大学図書館に派遣されて、そこから2年、働いている。大学図書館というのは普通の図書館とはちょっと違うらしい。ここが一館目のわたしにはよくわからないけれど、まあ当然エプロンシアターとか絵本の選書なんかはないし、代わりに専門書とか外国の学術誌の整理がある。でもそれらの多くは正職員がきめることで、わたしはブックカバーをどれだけ速くかけられるかとか、学生の延滞にたいしてなるべく穏当なメールを書けるかとか、たまにあるレファレンス業務を国会図書館データベースと首ったけでこなすとか、そういうところだけを見られている。わたしもとにかく3年を過ごせればよかった。最初はほんとうにそう思っていた。
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    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスへ感情があるモブシリーズ3/5
    大学職員の男 秋は忙しい。学祭があるからでもあるが、うちの大学では建前上は学生が運営しているので、せいぜいセキュリティに口を出す程度でいい。まず九月入学、卒業、編入の手続きがある。それから院試まわりの諸々、教科書販売のテントの手配、それに夏休みボケで学生証をなくしただとか履修登録を忘れただとかいう学生どもの対応、研究にかかりっきりで第一回の講義の準備ができてないから休講にしたいという教授の言い訳、ひたすらどうでもいいことの処理、エトセトラエトセトラ。おれはもちうるかぎりの愛校精神を発揮して手続きにあたるが、古いWindowsはかりかりと音を立てるばかりでちっとも前に進まない。すみませんねえ、今印刷出ますから。言いながらおれは笑顔を浮かべるのにいいかげん飽きている。おまえら、もうガッコ来なくていいよ。そんなにつらいなら。いやなら。おれはそう思いながら学割証明書を発行するためのパスワードを忘れたという学生に、いまだペーパーベースのパスワード再発行申請書を差し出す。本人確認は学生証でするが、受験の時に撮ったらしい詰襟黒髪の証明写真と、目の前でぐちぐち言いながらきたねえ字で名前を書いているピンク頭が同一人物かどうかはおれにはわからん。
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