割れ鍋に綴じ蓋[幸せの福音]
大戦後、里に帰り着くなり病院へ担ぎこまれたナルトとサスケはサクラや綱手たち医療忍者の尽力のお陰で片腕を失くした以外は大きな後遺症もなく済んだ。さすがに体力も気力も互いに限界だったようでサスケが次に目を覚ましたときには、里に帰ってきてからとうに四日は経っていた。
ナルトもつい先刻目覚めたらしい。隣のベッドの上で胡座をかいて椀にすりおろされた林檎を匙で掬って食べていた。味気ないのか不満げだ。サスケが目覚めたことに気づくと、ナルトは小憎らしい笑みを浮かべた。
「ようやくお目覚めかよ」
「うるせえ」
四日ぶりに出した声はみっともなく掠れてまるで老人のようだった。「お前も食べる?」と差し出された匙にサスケは首を横へ振る。重い身体をなんとか起こして部屋全体を見回した。室内にはナルトとサスケ以外に患者はおらず、大きめの個室をあてがわれたようだ。おそらく里長である綱手の気遣いなのだろう。床頭台の上に置かれた水差しが目に入り、サスケはひりつく喉を潤そうと手に取った。筋力もたった数日寝たきりだっただけで随分衰えたらしい。半分も水が入っていないというのにやけに重く感じる。
「サスケ」
名を呼ばれてサスケは顔を横へ向けた。空より深い蒼の瞳と視線がかち合う。
「お前にとってもオレにとってもこれから大変なこと山ほどある。でもオレ、諦めねぇからさ」
ナルトは一度そこで言葉を切った。考えるように一瞬だけ目を伏せて、真っ直ぐにサスケを見る。その瞳に迷いや恐れの色はなかった。
「だから、お前も投げないでいてくれ」
「……言われなくともわかってる」
「そうかあ? お前結構あれじゃん。考えたらすぐ行動するとこあんじゃん」
「お前にだけは言われたくない」
そうだ、きっとこれから自分たちが考える以上の難問がいくつも待ち構えている。里に戻った時点でそれはわかりきっていたことだ。もう日の目を拝めない可能性もある。でもナルトは諦めるつもりがないらしい。相変わらずのウスラトンカチだ。
「……なんて言うかさ」
ナルトは手元にあった薄手の布団を肩まで引き上げ、顔を背けて横になった。先ほどとは打って変わって耳をそば立てないと聞こえないくらい小さな声でぼそぼそ喋る。
「オレはこれからの人生でお前ができるだけ楽しいとか嬉しいとか……そういうの感じられたらいいって思う」
「は」
「そんで、一緒に分け合っていきてえ……以上!」
口ごもりながらも投げられた言葉にサスケは瞠目した。ナルトも言葉にするのが相当気まずかったらしい。サスケのほうを見ようともしない。逸らされた顔から表情は汲み取れないが耳が真っ赤に染まっている。そんな恥ずかしがるならなんで言ったんだお前。
「お前、ほんとバカじゃないのか」
「なにぃっ!?」
サスケの口をついで出た言葉はいつも通りナルトの怒りを買った。ナルトは布団を蹴って点滴をぶら下げたままベッドの上に仁王立ちになる。全身から怒りが立ち上る様はさながら阿修羅のようだった。
そこからは思いつく限り程度の低い罵倒が始まったので、鬱陶しくなったサスケは枕元にあったブザーを早々に押した。するとサクラが秒で飛んできて、一切の手加減なくナルトを拳で沈めていた。あまりに鮮やかな流れを見てサスケは思わず肩を震わせて笑った。
ああ、帰ってきたのだなとつくづく思えた。
結局二ヶ月ほど入院を余儀なくされ、退院してからが本番だった。
大戦の功労者でありながらも世界的大罪人であるサスケの処遇に関して、様々な意見が飛び交った。これまでの件を省みても極刑に処すべきだ、いいや生涯幽閉して稀有な能力を有効活用しろなど里の内外から毎日茶々を入れられる。
ただでさえ大戦後の里の立て直しや医療の最先端で指揮をとらねばならない綱手は、正直気が狂いそうだったと後になって漏らしていた。そしてこの件に関してまず黙ってないだろうと思われていたナルトは意外にも馬鹿な行動は起こさなかった。ただずっと難しい顔をしていて考えこんでいた。
処遇のこともだがそれよりも目下問題となったのは退院後のサスケをどう扱うかだった。自由にさせることはまずできない、しかしながら予後経過中の患者を牢へ閉じこめるのは憚られる。ここでも多くの激論が交わされた。結果として見張りつきではあるが、かつてのうちは邸でしばらくの間待機することとなった。
ただ、見張りをつけると言っても暗部では束になろうがサスケに太刀打ちできないことはわかりきっていた。それこそ今のサスケと拮抗する忍者などいないに等しい。そのため、同じく予後経過中のナルトが衣食住を共にすることとなった。あのナルトが見張り番。随分甘いことだ。しかし的確にサスケの弱みを突いていた。サスケが自棄を起こせば、ナルトが処罰を受ける。暗にそういうことだった。
そうして何年振りに実家へと戻ったサスケは愕然とした。
当然と言えば当然なのだが、人の手が一切入らなくなった家は壮絶に荒れ果てていた。庭は雑草が生い茂り、部屋の中はカビ臭い。害虫が隙間から出てくるし、蜘蛛の巣は天井にいくつもかかっている。どこからか野犬でも入ったのか、畳には小さな足跡が点々と続いていた。まず人が住める環境ではない。
日が暮れるまでにどうこうできる問題ではないだろう。どうしたものかとサスケは表情には出さずとも、途方に暮れていた。電気や水はかろうじて通っていることだけが唯一の救いだ。なにから手をつけるべきか頭を悩ませていると、玄関先から「おーい」とよく知った声が聞こえてくる。
「サスケェ、いるかあ?」
ナルトの声だ。引戸を手で叩く音が部屋に響く。サスケは足裏に張り付く、い草を払って廊下へ出た。ナルトは立て付けの悪くなった戸を無理やり開けようとしているのか、ミシミシと異音が聞こえてくる。
あいつ、家壊す気じゃないだろうな。サスケは不穏な気配を察知して「おい、今開けるから待て」と声をかけた。素足のまま急いで三和土へ降りる。サスケが戸に手を伸ばしたのと同時にガコッと間抜けな音がした。
「あっ」
木製の古びた引戸が綺麗に外れて、足元を生暖かい風が抜けていく。
「よぉ、サスケ……。その、ごめん……」
ナルトは外れた引戸を両手で抱えたまま苦笑いを浮かべた。サスケがハアと溜息をついたのは言うまでもない。
結局外れた引戸は木枠が歪んでいるのか嵌らなかった。引戸自体を鉋で削って調整するしかないだろうが、あいにくそんな技術は持ち合わせていない。今日のところは物置にあったビニールシートとガムテープを玄関先に貼り付けて凌ぐほかなかった。
「お前、なにしに来たんだ」
「いやあ、サスケが今日からここに住むってばあちゃんから聞いたからさ。オレもしばらく一緒なわけだし手伝おうと思ってよ」
まあ、玄関壊しちまったけど……と後ろめたそうにナルトは指で頬をかいた。サスケはまたひとつ溜息をついた。
「……お前もオレも片手しかないだろ」
「あ」
どうやら本気で気づいてなかったらしい。そもそも二人だけじゃ、この荒れ果てた家を戻すのに時間がかかるだろう。
「で……でもさでもさ、そりゃ両手のときより数減るけど影分身は出せるし、一人よか全然いいだろ!」
「……絶対に余計な仕事は増やすなよ」
サスケは念押しして雑巾を数枚まとめてナルトに手渡した。ナルトは「まっかせといて!」と豪語して片手で印を結ぶ。すぐに現れた分身たちはかつてと比べると数は圧倒的に少ないが、雑巾を分け合って方々へ散っていく。
「おしっ、じゃあオレは窓拭くからサスケは床掃除な」
「天井の蜘蛛の巣はどうする」
「……おまえんちに脚立あったっけ」
二人して天井にかかるいくつもの白い糸を見上げた。記憶を遡っても誰かが脚立を使っていた覚えはない。
「まあ……いざとなったらオレかお前が肩車したらいいんじゃねえの」
天井を見上げたままナルトが何の気なしにそんなことを言う。思わずサスケはナルトの両肩に跨る自分の姿を浮かべてしまった。ないな。絶対にない。
ナルトは変な鼻歌を歌いながら物置から引っ張り出してきたバケツに水を張って雑巾を浸している。しかし、片手だとやはり絞りにくいのか大粒の雫がバケツの中に落ちていく。
「ドベ、ちゃんと絞ってから窓拭けよ」
「わかってるってばよ」
口ではそう言うが、難しいのだろう。ナルトは眉間に皺を寄せてぎゅうぎゅう引き絞っているがいまいち水の切れは悪い。
「あっ、そうだ! オレとお前で一緒に絞ればいーんじゃん!」
「それを毎回繰り返すのか? 非効率だな」
サスケがにべもなく断れば、ナルトは口先をすぼめてチェッと漏らした。この調子だと先が思いやられる。でも途方もない気持ちは少し薄れた気がした。気のせいかもしれないが。
片手がないとは言え、ナルトの分身たちがそれぞれ手分けして掃除をしているだけあって無残だった室内がほんの少しだが以前の形を取り戻してきた。
畳はもう泥が固まって染みついているところが多く、全部替えるほかないかもしれない。額から滲み出る汗を肩口で拭いながらサスケはそう思った。同時に綺麗にしたところで自分はまたこの家に住まうつもりなのかという気持ちも去来する。
室内を隅から掃除しているとこの家で過ごした思い出が昨日のことのように浮かんでくる。箪笥に綺麗に仕舞われた幼い頃の衣服、靴箱に並んだままの両親の靴、家族で囲んだ卓袱台。縁側では兄さんとよく話をした。他愛のない話に沢山つきあってくれた。
こんなにも鮮明に思い出せるのに、もうどこにもいないのだ。知っている。散々自分が打ちのめされた現実だ。かつての痛みだ。それでも喉奥がひりついて、声にならない声が漏れそうになる。
サスケはその場にしゃがみこんだ。目頭が熱い。喉が引きつる。とてもじゃないが耐えきれそうになかった。どのくらいそうしていたのか。床板を素足で歩く音が近づいてくる。次第に足音が大きくなって戸が開けられる。早く顔を上げてなんでもないフリをしなければと思うのに、動けなかった。
「なあサスケ、雑巾余ってねえ? これもう真っ黒になっちまって——」
部屋を覗いたナルトはぎょっとして持っていた雑巾を放り投げた。部屋の中で一人耐えるようにして片膝に顔を埋めて動かないサスケがいたからだ。ナルトは慌てて足が縺れそうになりながら、サスケに駆け寄る。
「おいっ! 大丈夫か!? どっか痛むのかよ!?」
乱暴に右肩を摑んでくる手が焼けるように熱い。サスケは顔を上げないまま力なく首を横に振った。ナルトは焦ったように「ちょっと待ってろ」と言う。今にも部屋を飛び出して行きそうだった。
違う。開いた傷はお前と戦ったときのものじゃない。そう言いたかったが、この気持ちを明確に言葉にできそうもない。ただ引き止めるようにサスケは眼前で揺れる右袖を摑んだ。
「サスケ?」
袖を摑んだまま微動だにしないサスケにナルトは困惑した。ナルトはしばらく所在なさげに突っ立っていたが、大事ないと判断しただろう。静かにサスケの横に腰を下ろした。ここでサスケの顔を窺うのは矜持を傷つけることを理解しているのだろう。決して言葉にはしないけれど、こいつのこういう面に救われている。
ナルトは飴色の大黒柱に凭れかかって部屋の中を見回した。静まり返った部屋の中で衣摺れの音だけがやけに大きく聞こえる。
サスケはほんの少しだけ顔を上げた。滲んだ視界の中で互いに失った片腕の袖が交差するように畳の上に落ちている。まるでいつかのときのようだと思った。
「この家さあ、沢山思い出あるな」
「ああ」
「さっき食器棚開けたらよ、ちっせえお椀が入ってた。あれってサスケのか?」
「そうだな」
「写真、飾ってあったから勝手に見ちまった。サスケの母ちゃん美人だな」
「ああ」
「そういえばさあ! 襖に手裏剣刺さった跡あったけど、サスケがやったのか?」
「アレは兄さんがやったんだ」
「イタチがぁ? それぜってえ嘘だろ!」
ナルトが声を上げて笑った。釣られてサスケも口元を緩めた。
「オレってば家族と一緒に過ごしたことはねぇけどさ……みんなサスケのこと愛してたんだな」
「……ああ」
別れは済ませた。だが、ふとした折に寂しさは募る。ナルトはそれ以上何も言わなかった。触れてくることもしない。ただ側にいるだけだ。サスケは黙って横に座る相手の顔を盗み見た。ナルトは寂しそうな表情をして、ほんのり目尻に涙を浮かべていた。
その姿を見てなぜこいつなんだろうと思った。生まれ変わりだとか、運命だとかどうでもいい。傷つけあって、どれほど踏みにじったか知れない。それでも共にいようとする。
最後に終末の谷で戦ったときもそうだ。離れたいのに、離れがたい。なんでお前なんだろう。元はひとつの生き物だったんじゃないか。ナルトが乱雑に袖で目尻を拭った。拭ったそばからすぐにまた涙が溢れてくる。こいつの涙を見ると、形容し難い気持ちに襲われる。やめろ、泣くな。みっともないだろ。サスケの中で本音と建前がせめぎ合う。
でも、早くその濡れた頬が乾けばいいと思ってしまうのだ。そう考えたとき、以前ナルトにかけられた言葉の意味がようやく腑に落ちた気がした。
「おい」
「なんだってばよ」
「オレも同じだ」
「なにが」
「オレもこの先の人生でお前が幸いを見つけられたらいいと、そう願う」
常ならば中々言えないであろう言葉が、すんなり出てきた。しかしナルトはいまいち理解できていないようで、洟を啜りながら瞬きを二、三度繰り返す。睫毛についた涙がきらきら光っている。
「ハァ?」と怪訝そうに首を傾げていたが、しばらくすると合点がいったらしい。いつぞやのいたずら小僧が顔を出す。にやついた笑みを浮かべて暑苦しく肩を組んでくる。クソ、言うんじゃなかったとサスケは後悔したが、もう遅い。
「よーし! 掃除全部終わったらさあ、一緒に鍋でも食うかあ!」
「……まだ時期には早いだろ」
サスケとナルトは同じ人間じゃない。同じ人間じゃなくてよかった。これから幾度となく訪れる喜びも悲しみも共に分けあえるのだ。サスケがナルトに渡したい言葉はいくつもある。どうせ長い人生だ。ゆっくり時間をかけて少しずつ渡していけばいい。
いつかこの家の縁側から月でも眺めながら、思い出に浸るのもいいだろう。その日が待ち遠しくも、遠い未来であってほしいと願わずにはいられなかった。
[夢の途中]
早いものでサスケが里に戻ってきてもう四ヶ月が経った。
荒れ果てたうちは邸をサスケとナルトで大掃除して、どうにか人が住める形に整えたのがつい先月の半ばだ。広い家であるから部屋はいくつもあって、毎日朝から晩まで汗だくになって掃除をした。時々サクラやカカシも手伝いに来てくれたが、カカシに至っては部屋の隅で本を読んでいたことのほうが多かったように思う。痺れを切らしたサスケが「アンタ、なにしにきたんだよ」と露骨に顔を顰めたがカカシはどこ吹く風だった。果ては「二人で住む家なんだから、お互いが住みやすいようにしたほうがいいよ。お前ら仲良く片手なくなっちゃったしね」と宣った。かけられた言葉がむず痒くて、サスケはフンと鼻を鳴らした。
共に暮らし始めて一番驚いたのはナルトは意外にも生活力があるということだ。
馬鹿の一つ覚えのようにラーメンばかりを食べたり、野菜嫌いの面が目につくものだから、サスケは家事なんぞできないだろうと高をくくっていた。幼少期に一人にならざるを得なかった背景もあり、家事は多少なりともできる。だが、ナルトはろくすっぽできないだろう。そうなれば家事全般は全てサスケの担当になる。せめて役割分担をして手伝いくらいはさせようと気を重くしていたので、思わぬ事実にサスケは面食らった。
あまりにも意外だったので、ついつい本人に「料理できたのか」と言葉にしたことがある。片手で粗雑に中華鍋を振るうナルトは目をぱちくりさせながら「少しくらいならできるってばよ」と答えた。
「じゃあなんでお前アカデミーの頃、ラーメンばっか食ってたんだよ」
「だって一人で作る量がよくわかんなかったしよお。うまく材料使いきれなくて腐らせちまうこともあったし。そのぶんラーメンはぜってぇうめえし、三分でできるしサイコーだよな!」
実にナルトらしい。サスケは呆れ顔で「そうかよ」と投げやりに相槌をうった。
「それにさ、一人で作って食ってもあんま味しなかったんだよな」
「……そうだな」
それはサスケにも覚えがあった。作った料理を誰の気配もしないこの家で黙々と食べる。虚しさだけが募った。生きるために食べる。目的を果たすために食べる。あの頃の食事はただそれだけのものだった。
「よーし! できたあ! サスケ、棚から皿とってくれ」
「ああ」
サスケは流しを離れて、食器棚から二枚大皿を取り出して手渡す。中華鍋からは香ばしい胡麻油の香りがして、食欲をそそられる。ナルトの作る炒り卵の入った炒飯はいつも味付けが濃い。目分量とその時々の気分だからナルトの味付けは豪快だ。でもサスケはナルトの作る濃い味の料理が好きだった。あの頃と違って食べると味がする料理だった。
利き手も失い、同居人はナルトだ。前途多難だろうと思われていた生活だったが、さして苦労はなかった。掃除も洗濯もナルトは積極的にやらないだけで、全くできないのではなかった。ただ互いに許容範囲が違うので、横になって菓子の食べかすを畳にナルトが零していたときはサスケは迷わず片足で脇腹を蹴りあげた。
順調な共同生活だったが全く困りごとがないわけではなかった。サスケはうちはの居住区から出るなと厳命されている。ナルトはなんら問題なく外に出ることができるが、それでは見張り役として意味を成さない。そのため、サクラを筆頭に同期たちが数日ごとに交代で買い出しをしてくれていた。長らく里を離れていたサスケといまだ不信感を抱く同期たちの仲を深める目論見もあったのだろう。くだらないことをするもんだとサスケは内心失笑した。仲良しこよしもままごともごめんだ。同期たちもサスケの性格は知っている。今更距離を詰めたいとは思ってもないだろう。
そんなものだから結局サスケはあの大戦後、同期たちとろくに会話を交わしていない。いや正確に言えば一度声をかけたことはある。重そうに買い物袋を両の手に抱えたキバが肩で息をしながら届けにきたときだ。額からは玉の汗が噴き出していて、言葉を出すのもやっとの様相だった。あまりにも辛そうだったので思わずサスケは「手間をかけたな」と言葉をかけた。
すると、なんとも言い難い奇妙な顔をされたのだ。その場に不自然な沈黙が降りて、居た堪れなかった。キバの汗は一向に引きそうもない。それどころか先ほどより変な汗が滲み出ている気もする。とりあえず冷たい麦茶でも出してやろうかとサスケが考えあぐねていたときだ。見計らったようにナルトがひょっこり居間から顔を出して「キバ!」と玄関まで飛んでくる。ナルトの姿を見つけたキバはあからさまにほっとした様子だった。
「ナルトォ! お前この野郎! よりによってオレのときに大量に頼みやがって!」
「うわっ、キバ汗だくじゃんか。悪かったなあ」
「たくよお。次からはもっと人手があるときに言えよな」
「だから悪かったって!」
軽口の応酬が始まって、あっという間にサスケは蚊帳の外だった。上り口に置かれたままの食材をとりあえず冷蔵庫に入れようと、盛り上がる二人を尻目に買い物袋を運んでいく。食材を詰め替えていてキバがあんなにも疲労困憊していた理由がわかった。
冷蔵庫に入りきらないほどに買ったものが多い。いくら食べ盛りの男二人の生活とは言え、頼みすぎだろう。ナルトは財布の紐が緩い方ではないし、買いこみすぎるのは珍しいことだ。誰か来客の予定でもあるのか。不思議に思いながら、入りきらない食材はどうするんだと床板に置いた食材に目を落とした。急ぎまだ玄関で話しているナルトを呼びに戻ろうとして、廊下の途中でサスケはその足を止めた。
「しっかし、さっきは驚いたぜ」
「なんかあったのか?」
「あのサスケがさあ、オレを気遣うような言葉をかけてきたんだぜ」
「サスケが?」
「ああ。オレが汗だくになってんの見てアイツ、手間かけたなって言ったんだよ」
「サスケらしいじゃん」
「どこがだよ!? あのサスケだぞ。オレは正直固まったぜ」
「別になにもおかしくねえってばよ。元々アイツはわりと内でぐるぐる考えてんだ。優しいとこ、あんだよ」
ナルトが嬉しそうに表情を緩める。キバはいまいち釈然としない様子で口をへの字にして、乱暴に後ろ頭を掻いた。
「あー、なんかアレだな。お前ら毎日喧嘩してんじゃねーかと思ってたけど、案外うまくやってんだな」
「お前、オレとサスケをなんだと思ってんだ……」
ナルトがじとりとキバを睨めつける。キバは呵々大笑した。
「大喧嘩しても家壊すんじゃねーぞ」
「んなことするかっ!」
茶化すキバにナルトが拳を突き上げる振りをする。キバは楽しげに声を上げて戸口から出ていった。
サスケはどうにも居心地が悪かった。キバとナルトの会話もナルトの思いも、なんだか無性に恥ずかしくなった。つい立ち聞きしてしまって、居間に戻るタイミングを逃した。それが悪かった。ちょうどナルトが廊下のほうへ向き直り、視線がぶつかる。
「あれ、サスケ。そんなとこ突っ立ってどした?」
「……冷蔵庫に入りきらない食材が大量にある」
「えっ、そんなに買ったっけ? 常温で平気なものあったかなー」
ナルトは特に気にした風もなく、サスケの横を通り抜けて台所へ向かう。サスケはまだ心の内がこそばゆくて動けなかった。すぐに台所から「うわっ、サスケェ! せめてアイスは冷凍庫に入れとけよ!」と絶叫する声が聞こえた。
うるさい、全部お前のせいだ。
買い物の受け渡し以外でこの家を訪れる人間はそう多くなかった。
まず社交的ではないサスケより、誰とでも会話できるナルトが来客の相手をすることが多い。ナルトが手を離せないときは、仕方なしに出るが気は進まなかった。あからさまに腰の重いサスケを見てナルトは「子どもじゃないんだからよ」と呆れていた。そうは言うものの、サスケとしてはキバのときのような居た堪れなさを味わいたくない。「お前は誰とでも仲良くできるからいいよな」と言ってやりたくなるところをぐっと堪えている。
今日もサスケが洗い物をしている間に玄関から「ごめんください」と声がした。ナルトがすぐにすっ飛んでいく。サスケは食器の泡を水ですすいで、布巾で丁寧に拭いた。なるべく時間をかけて拭く。以前、来客中に家事が済んでくつろいでいるところをナルトに見咎められ「顔くらい出せよ」と言われた。サスケが顔を見せたところで場は盛り上がらない。むしろ気を遣わせて盛り下がるだろう。この男はとんと理解していない。
しかし、サスケとしてもこんなくだらないことで口論したいわけではなかった。だからなるべく来客中は手が空いてない素ぶりをしている。おそらくナルトにはばれていることだろう。
「サスケー! ちょっと来いよ!」
よく通るナルトの声が台所まで響く。サスケはほんの少し逡巡したが、布巾を置いて廊下へと足を向けた。ナルトがサスケをわざわざ呼ぶときは大体決まっている。一人じゃ運びづらい荷物があるか親しい仲の相手が訪れてきているかだ。どうやら今日は後者だったらしい。三和土にいたのは淡い桜色の髪を上で結わえたサクラだった。
「サスケくん、元気? 腕のほうは痛んだりしてない?」
頬を上気させてはにかむその仕草が、下忍の頃となにひとつ変わっていない。背も伸びて顔立ちも少し大人びたのは知っている。里に戻るまでに幾度か邂逅した。それでもあの頃とは違っている。柔らかく笑むサクラを無性に眩しく感じた。
「特に問題はない」
言葉少なにサスケが返すと、サクラは満足そうに頷いて、ナルトに持っていた袋を手渡した。
「あ、これ。数日分の食材。ちゃあんと、ナルトのリクエストに応えてあげたわよ」
「やりぃ! サンキュー、サクラちゃん!」
ナルトは渡された買い物袋を覗いて手を上げて喜んだ。
「サスケくんもなにか食べたいものがあったら教えてね。買ってくるから」
「ああ、すまない。……ありがとう」
「い、いいのよ! 気にしなくて! ナルトなんていっつも注文多いから、サスケくんも遠慮しないで! ね!」
サクラは赤く染まった頬から熱を逃がすように、忙しなく手で顔を扇いだ。引き合いに出されたナルトが「ええ……?」と困惑している。それにしてもナルトが色々注文をしているとは寝耳に水だった。ラーメン以外にも食べたいものがあったのか。もしかして、たまに食卓に出てくる果物や菓子はナルトが頼んで買ってきてもらったものだったのか。
「そういえばサクラちゃん、今日はサイは一緒じゃないのか?」
「あー、なんか任務がちょうど重なっちゃったのよね。アンタに会えなくて残念がってたわ」
ナルトが「そっか」と少し寂しそうにする。サイ。サスケが抜けてしばらくした後に新しく七班に配属された男だ。かつて大蛇丸の元にいた頃、また戦場でも顔を合わせたことがある。言葉を交わしたのもそのときくらいなので、サスケにとってはいまだよく知らない男だ。興味も薄い。だが、向こうにとってはそうではないらしい。
あの男がナルトとサクラを大切にしているのは見ていればわかる。こうしてサクラが買ったものを届ける際は、ほぼ必ずと言っていいほどついてきていた。そしてナルトと楽しそうに会話を交わす。瞳からはわかりやすく思慕が見てとれた。こいつにとっても七班は特別な存在なんだろう。不思議な縁だなとサスケは柱に背を預けて、その様子を眺めていた。
はたと顔を上げたサイと目があう。それまで愛しさが滲んでいた瞳が一瞬で色を変えた。嫌悪と疑念がこもった瞳がサスケを射抜く。なるほどなとサスケは合点した。
サイが大切にしている人間を傷つけたのは他ならぬサスケだ。おまけにナルトの片腕を奪ったのもサスケだ。感情にそこまで疎くもない。あの男が自分のことを嫌っているのはすぐわかった。けれども、ナルトとサクラは大切で幸せを願っている。だから、こうして毎度のごとくついてくるのだろう。なんだかひどく不器用な男だなとサスケは自分のことを棚に上げてそう思った覚えがある。
つい考え耽っているうちに、いつの間にか世間話も終わったようだった。帰り支度をしたサクラが「また近々顔を出すわ」と玄関から出て行くところだった。ナルトと並んでそれを見送る。ナルトは先ほど渡された袋を嬉しそうにまた覗いている。
「なに買ってきてもらったんだ」
「ハウスみかん! サクラちゃん、前食べたいって言ってたの覚えてくれてたんだ」
「ただのみかんがなんでそんな嬉しいんだ」
「はあ!? ただのみかんじゃねえってばよ! ハウスみかんは高えんだぞ!」
「……そうなのか」
サスケにとっては冬に食べるみかんとどう違いがあるのかわからない。これ以上はきっと平行線だ。そう判断してさっさっと居間に戻ろうと踵を返した。後ろからナルトが買い物袋を提げて「待てよ、サスケェ」と追いかけてくる。
「今日の夕飯、サスケの作る唐揚げ食いてえなあ。アレ美味いんだよなあ。噛むと肉汁が出てさ……」
「ウスラトンカチ、忘れてるようだが今日はお前が食事当番だ」
「ゲェッ!? そうだっけ!?」
食後、ナルトは早速サクラに買ってきてもらったみかんをパックから出している。下手くそな鼻歌交じりに二、三個座卓の上に置いて皮を剥き始める。
「おい、塵紙敷けよ。汁が溢れるだろうが」
「サスケ、細かいこと気にするよなあ」
ナルトはサスケから渡された塵紙を雑に敷いて、その上にみかんを置いた。皮に爪を立てて剥くと一瞬で辺りに柑橘の濃厚な香りが漂う。
「なんでみかんなんて食べたかったんだ」
「んー?」
ナルトは一房実を千切って口に頬張る。
「別に理由なんかねえよ。なんとなく」
なんとなくと言う割には、ナルトの横顔には寂しさが滲んでいる。サスケは「ナルト」と名を呼んだ。
「言えよ」
「……あと何回サスケと一緒にご飯食えるかなあとか、寝坊して怒られたり、掃除しながら口喧嘩すんのかなって。そういうの考えたらさ、できるだけ思い出つくっておきてぇなって思って。あのとき一緒にみかん食べたなーと振り返る日がくるかもしんねえじゃん」
「……くだらねえ。別に生きてりゃ何度だってできんだろそんなん」
「わかんねえだろ、先のことなんて誰にもさ」
「なんだ、ゆく先が不安か。お前らしくもない」
「そりゃあ、不安が全くないって言ったら嘘になるけど。とにかくオレは、先の未来でもお前と一緒にいてぇんだ」
「……またオレが裏切るかもって疑ってんのか」
「そうじゃねえよ!」
ナルトが大声で否定する。眉間に皺を寄せてサスケを睨んだ。
「違う、そういうんじゃねえ。サスケのことは疑ってねえ。そうじゃなくて今がすごく楽しいからさ、この生活が終わるのが怖いんだ」
永遠はない。どれほど悲しいことにも、楽しいことにも終わりはくる。生きていくとはそういうことだ。不変なものがないからこそ打ちのめされるときもある。それでもお前が教えてくれたのだ。変わっていくのは決して悪いことではないのだと。
「確かにこの生活はいつか終わる。次に待ち構えているものも、選択肢もまだ見えない。でもそこに不安や恐れはない」
「なんでだよ?」
「お前がいるからだ」
ナルトが大きな目を一段と見開いた。瞳が波紋を描くように揺れる。ナルトはサスケから顔を隠すように俯いて手元のみかんを一房口に放りこんだ。
「あー、これハズレだってばよ。すっぺえ」
そう言って今度は卓に顔ごと突っ伏す。ズズッと洟をすする音が漏れ聞こえてきて、サスケは困惑した。
「なに泣いてんだよ」
「泣いてねえよ!」
その割には決して顔を上げようとしない。サスケは「こいつはこんなに涙腺が弱かっただろうか」と過去の記憶をたぐり寄せた。どちらかと言えば、人前で泣くことを毛嫌いしていた気がする。ナルトのことはよく知っているつもりでいた。互いに腹の中を見せ合ったのだ。隠し事もそうできない。なのに、二人でいると知らない面がひょっこり顔を出すもんだから驚く。サスケは塵紙の上に広がるみかんを一房取って、口に入れた。口の中に優しい甘みが広がって、瑞々しい果肉の味がする。
「たしかに、ちょっと酸っぱいかもな」
サスケの言葉にナルトが洟をすすって頷いた。その顔は見えないが、鼻水まみれになってそうだ。泣いてしまうほど酸っぱいのだから仕方ない。サスケはもう一房口に入れた。とても優しい穏やかな味がした。
[閑話休題]
「お前、この家でサスケと普段なにしてんの?」
キバからしたら何気ない問いかけだった。ちょうど用事がてらにナルトの顔を見にうちは邸に寄った。二人が住まう家は見違えるように綺麗になり、草が生い茂っていた庭もあちこちが壊れた家の中もすっかり修繕されている。軽く冷やかしにきただけなのだが、ナルトが「あんみつもらったから上がってけよ」と目を輝かせて言うものだから、その言葉に甘えることにした。
以前ナルトが一人で住んでいた部屋は、小汚くてそこらじゅうにゴミや脱ぎっぱなしの服が散乱していた。流しにもラーメンの汁がそのままだったり、いつのかわからない牛乳が机の上に置いてあったりした。しかしながらこの家はきちんと片付けられている。物があるべき場所に収まっているし、床に衣服やゴミが散らかっていることもない。サスケのおかげだろうか。
そう、だから不思議に思ったのだ。几帳面で繊細そうなサスケと豪放なナルト。切っても切れぬ仲なのは知っているが、普段どのように生活しているのだろうと。なんとなく興味が湧いた。するとナルトがぱちくりと目を瞬かせる。
「なにってフツーだけど」
「だからそのフツーを教えろっての」
「一緒に飯食ったり、風呂入ったり……あー、でもゲームは付き合い悪ぃなあいつ」
指折り数えながら「負けんの嫌だからかな」と一人納得しているが、どうにも聞き捨てならなかった。
「いや待て待て待て! サスケと風呂一緒に入ってんのか?」
「だって湯がもったいねえだろ」
ナルトは当然といった顔をする。これまでの一人暮らしでのやりくりの賜物だろう。立派なことだとは思う。実家暮らしのキバにはちょっとわからないが。いや、だとしても思春期の男二人で風呂はきつくないか。これが銭湯ならわかる。だが、ごく普通の一般家庭の家にある風呂だ。そう広くないだろう。ナルトは元々距離感が近いほうだが、サスケはそうではない。全くもって気難しい男がよくもまあ、共に湯船に浸かるものだ。
「まさか一緒に寝たりはしてないよな」
おぞましい想像をしてしまった。いくらサスケとナルトが特別な縁の友だとしても、ちょっと考えたくなかった。
「はあー? 寝るわけねーじゃん」
ナルトは心外そうに顔を顰めた。キバはこっそり胸を撫で下ろす。
「ていうかよお! 布団だいぶ離してるのにあいつ、やれ鼾がうるせえだの足癖が悪いだの朝からずーっと文句言ってくるんだぜ。そんであからさまに不機嫌なの! 舅かよ!」
「……一緒に寝てるじゃねーか」
「いや一緒には寝てねえだろ」
厳密にはそうかもしれないが、事実として同じ部屋で布団並べて寝てるだろ。キバは声を荒げたくなるのを堪えた。
「そんで? その小うるせえ舅はどこ行ったんだよ」
「お前のせいでろくに眠れなかったから寝るって部屋で寝てる。起こすなよ」
「お前じゃあるまいし、するかよ」
サスケとキバはそもそも気安い仲でもない。わざわざ話すこともないし、仲間でなかったら付き合いなんてないタイプだ。ナルトはあんみつをもう食べ終えたらしい。空になった容器を流しで濯いで、ゴミ箱へ入れた。
「今日の夕飯、オレが当番なんだよなあ……。なににすっかなあ」
冷蔵庫を開けて、中の食材を睨んでいる。その様子がすっかり所帯染みていて、ここは二人の家なのだなと理解するには十分だった。鬼の居ぬ間になんとやらだ。サスケが起きてくる前にサッサッとあんみつを食べて帰ろう。キバは急いで残りを口の中に放りこんだのだった。