「あ、ンの……クソ、野郎……」
たまたま夜中に目が覚めてちょっと喉が渇いたなあ、なんて思わなければ、こんな茨には出会さなかっただろう。秘密主義と言えばいいのか、強がりと言えばいいのか、はたまた臆病とでも言うのか。そういうところが彼にはあった。
「ちょっ、大丈夫っすかっ」
共有キッチンの冷蔵庫に水を取りに来たら、シンクに腕だけ残してしゃがみ込んでいる茨を見つけた。蛇口は開きっぱなしで、おそらく水を飲もうとしたのだろうコップが用途をはたさず転がっている。ざぶざぶ水が出ていて、立派なスーツの袖口が変色していたがとても今の彼にそれを気にする余裕はないだろう。オレにもなかった。慌てて駆け寄ってぐったりとした体を抱き起こす。
「……ジュン?」
「そーっすよ、どうしたんですか? 気分悪い?」
背中に腕を回して、つらいだろうからと体重をオレに預けるように体勢を整える。顔を見やるが、青い顔の茨は目を閉じたままだ。
「水飲みたかったんすか? 風邪?」
そっと額に手をやると茨の体がびくりと跳ねた。しかし抵抗する気力もないのか跳ねただけで口出しもされなければ手を振り払われることもなく、余計に心配になる。こんなに弱っている茨を見るのは初めてだ。せめて軽口の一つでもあれば良かったのだが、話もできないほど状況が良くないと言うことだろう。普段弱みを見せない奴が露骨に弱っているものだから若干パニックになりかけているが、もちろん調子の悪い茨を放置もできず、焦って心拍数ばかり上がる体でなんとかすべきことを捻り出す。
茨の肌からはほんのり熱っぽさを感じた。呼吸もいつもより浅い。けれど、こんなにぐったり脱力している割には高熱というほどではない。風邪ではない?
「ジュン……みず」
原因究明に努めていた耳に小さな掠れるような声が届き、慌てて手を伸ばして転がっていたコップに水を汲んだ。しかし、茨の手が異常に震えていてとてもコップを掴める状況じゃない。オレは茨の体の位置を少しずらしてやって咽せないように細心の注意を払いながら彼の口元にコップを持っていく。
「ほら、飲めますか?」
息継ぎをしながらゆっくりと、しかし着実に喉を鳴らす茨は、半分ほど飲み終わった頃、相変わらずかたがた震える手でオレの太ももを叩いた。もういいということだろう。コップを下げた手で茨の表情を隠す髪を優しく払い除けた。うっすらと目を開いている茨の視線は定まらずぼんやりとしている。明らかに異常事態だ。
「大丈夫っすか? 病院行きます?」
「びょ、ういんは、だめ」
「じゃあ部屋運びましょうか」
「……だめ……ッ」
力なく頭をふりかけて、痛いのか気持ち悪いのかわからないけれど芳しくない刺激が起こったらしい茨はぎゅっと強く目を瞑って耐えるようにオレの体に頭を押し付けた。痛みか気持ち悪さを逃すように大きく荒い呼吸を繰り返して、耐えきれなかった分小さな呻き声をあげる。オレの太ももに置きっぱなしになっていた手ががりっとパジャマ代わりのスウェットに爪を立てた。
「やっぱ病院行きましょ、絶対大丈夫じゃないですってそれ」
怖くないよとでも言うように優しく背中を摩ってやる。彼はまたひとつぴくりと背を震わせたが、やはりそれ以上はなんのアクションも取れないようで、黙って摩られているだけだった。
「……ゆづる」
「ん?」
「ゆづる、よんで」
「は? 伏見さん?」
頭を押し付けられているので顔は見えないが、こくんとほんのかすかに上下した頭に聞き間違いではないことは分かった。けれど、なぜ今。それに今この状態の茨をこんな誰も来ないような深夜のキッチンに一人置いて行くのも気が引けた。なんだかこのままちょっとでも目を離してしまったら死んでしまいそうな気がするのだ。想像しただけで背筋を悪寒が走る。
「ジュン、おねがい、っます」
ガリッと、再び太ももを爪が掠めた。
※
「ヘマをしましたね」
結局茨の希望をきくことにしたオレは、ひとまず共用スペースのソファに彼を寝かせてからみんなを起こさないよう静かに、けれど全速力で伏見さんの部屋に駆けつけて彼を連れて戻ってきた。のだが、彼の第一声はそれだった。そうして、声の冷たさの割に表情はどこか悔しそうと言うか、なにか苦いものを噛みしめたようなそんな顔をしていた。
「ゆ、づる?」
「……吐きだしたんですか」
「……きづいて、すぐ……」
「結構」
くるりとこちらに向き直った伏見さんはもういつものあの穏やかな顔をしていた。
「漣さま、失礼ですがこれの明日の予定などはご存知でいらっしゃいますか?」
「え、あー、確か明日はおひいさんだけ仕事だったはずなんで、多分、オフ。学校はまあ連絡入れればいいし……あ、でも会社の方はわかんねえっす」
「承知いたしました。ちょうどようございました。では一日これはお預かりさせていただきますね」
「え」
そう告げた彼はソファに転がる茨をまるで荷物か何かのように肩に担いで立ち上がる。
「おえっ……はきそ」
「汚したら承知しませんよ」
「いや、伏見さん?」
普段の関係はアレとしても病人なんだからもっと優しく扱ってくれてもいいではないか、と何故だかちょっとムッとしてしまう。それに何か分からないまま本人たちだけでわかり合って連れていかれるのも納得がいかない。だって茨はオレたちの仲間なのに。
そう言う気持ちが膨れ上がって、でもうまく言えなくて、ちょっと非難めいた口調で名前を呼ぶしかできなかったけれど察したらしい伏見さんは幼い子どもを見るような、どことなく慈しみをもった目でオレを見つめてそれから茨を横抱きに抱えなおした。
「アイドルの方の仕事がないのであればなんとかなるでしょう。そのあたりはわたくしが適宜処理しておきます。漣さまもこのような時間ですしどうぞお部屋へお戻りくださいまし。茨がご迷惑をおかけいたしました」
「いや、どこ行くんすか?」
「どこ、と申されましても、まあこれが望んでいる場所ですかね」
「病院とかじゃなく?」
「病院でも治るかもしれませんが、望んでいないかと」
「大丈夫なんすか、それ」
さっきより幾分声が低くなる。けれど伏見さんは全然怯んでくれなくて相変わらず穏やかに優しい笑みを浮かべていた。
「ふふ、そう警戒しないでくださいまし。坊っちゃまに誓って悪いようには致しません。以前もこのようなことがあったのでわたくしには対処法が分かっていると言うただそれだけです。決して漣さまが悪いわけでも無能なわけでもございませんよ」
「そんなつもりじゃ」
「良い友人を持ちましたね、茨。後でちゃんとお礼を言うのですよ」
子どもを叱る母親のような口調で胸元の茨にそう声をかけるが当の本人はもう意識があるのかないのか、聞いてるのかいないのか分からない。顔色は最悪だし眉間に皺を寄せて唇を引き結んでいるし手はカタカタと震えている。でも、そんな茨にオレは何にもしてやれない。歯痒い。
「それでは、おやすみなさいませ」なんて優雅に頭を下げて、伏見さんは玄関の方へ向かった。