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    巨大な石の顔

    2022.6.1 Pixivから移転しました。魔道祖師の同人作品をあげていきます。

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    巨大な石の顔

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    サンサーラシリーズ第一章。閉関していた兄上が絵師に身をやつして金麟台へ行きます。

    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation
    #藍曦臣
    lanXichen
    #江澄
    lakeshore
    #金凌

    天人五衰(一) 天人五衰とは、仏教用語で、六道最高位の天界にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる五つの兆しのこと。
     大般涅槃経においては、以下のものが「天人五衰」とされる、大の五衰と呼ばれるもの。

    一.衣裳垢膩(えしょうこうじ):衣服(羽衣)が埃と垢で汚れて油染みる
    二.頭上華萎(ずじょうかい):頭上の華鬘が萎える
    三.身体臭穢(しんたいしゅうわい):身体が汚れて臭い出す
    四.腋下汗出(えきげかんしゅつ):腋の下から汗が流れ出る
    五.不楽本座(ふらくほんざ):自分の席に戻るのを嫌がり楽しみが味わえなくなる

    出典元Wikipedia


     幼い頃藍曦臣は母のことを、羽衣を奪われた天女のようだと思っていた。
     天帝から受けた命を果たしに地上へ降り立ったところ羽衣を父に奪われてしまって、二度と生まれ育った天へ還れない。好きでもない男に閉じ込められその子どもを生まされた気の毒な美しい女性。そう信じていた。

    「阿渙、私のことを絵巻に出てくるようなかわいそうな公主とでも思っているでしょう」
     ああこれはまたあの夢だ。母の顔がすっかりぼやけてしまっているから。
     母の顔をもう思い出せなくなっている。そこで姿絵も一枚も残っていないことを思い出す。
     母が亡くなったとき藍家の祠堂に位牌を置くことさえ禁じられ、彼女の物はすべて残らなかった。
     たしかそれからだ、子供だった自分は絵筆をとって何かと描くようになったのは。
    「あなたはそんな薄っぺらい思い違いをするところまで、ほんとうにお父様にそっくりね」
     膝の上で眠りこける弟の頭を撫でながら、墨が水でにじんだかのような横顔は大きなため息を吐く。
     母を大いに失望させてしまったようで子供の藍曦臣はうろたえた。子供はだれしも大好きな母に嫌われたくないのだ。だが母親は藍曦臣を怒るわけではなかった。とても落ち着いた声で彼女の秘密を息子に打ち明けた。
    「あなたにだけは教えておいてあげる、阿渙。ここの大人たちはみんなお父様が私を閉じ込めたと信じているようだけど、私がお父様をあそこへ閉じ込めたのよ」
     母こそが天女だと藍曦臣は思っていたが、母は父から羽衣を奪ってやったのだと言う。
    「あまりにもあのとり透ました態度が気に食わなかったから思い知らせてあげたのよ。あなたは人を憎みも愛しもする愚かな人間なんだってね」
     縁側から寒室の方へにじんでぼやけた顔を向けながら、ふっと静かに笑う気配があった。愉快なようでそれでいて少し寂しげだった。
     年齢よりも聡かった少年は、母の言葉を負け惜しみや憎まれ口の類だと受け取った。実の子たちにそう嘘をふきこむことで彼女を幽閉して逃がさない父にせめてもの腹いせをしているのだと。
     やはり気の毒な人だと思ってしまった。
    「またかわいそうな人だと思っているわね。まったく、先が思いやられるわ」
     母はまた呆れたように言った。それから母は何か思いついたかのように、おもむろに長男へ片腕を伸ばした。
    「阿渙、私のそばへいらっしゃい」
     呼びかけられておずおずとそばにいくと、抹額で縛っている頭を柔らかな胸に抱き寄せられた。
    物心ついてから母の腕におさまるのはこれが初めてだったような気がする。
     母の胸は暖かく母のまとった香の匂いがいっそう強く感じられて、幼い藍曦臣は首から耳まで赤くなった。
    「いいこと? あなたも弟もお父様も人間なのよ。羽衣をまとって花びらにたまった朝露を飲んで生きる天人ではないのよ。金丹を練って病にかからず数百年生きようが人間よ。怪我をすれば痛いし、叶わぬ恋をして涙も流す、怒れば修羅にも夜叉にもなる。私たち只人と何も変わらないのよ。それなのに藍家の人たちは、いいえ仙門百家の人たちはみーんなそのことをすっかり忘れてしまっている。あなたと忘機があの人たちみたいにならないか心配でならないわ」
     金丹のない只人の母は、婚家だけでなく修真界そのものを快く思っていないようだ。血をわけた我が子たちがこれからそこで生きていくことを憂えている。もしかしたらこれが、母が父の恩師を手にかけた理由なのかもしれない。
     藍曦臣はすでにこのとき周囲の大人から、父と結婚する前にこの美しい母がかつて何をしたのか聞かされていた。母は天女だからきっと天帝に命じられたのだ、幼い少年はそう思い込んでまだこの世の複雑さに耐えられない小さな心を守った。
    「かわいい阿渙。私の胸の音をよくお聞きなさい。あなたは私と同じ人間よ。あなたのそばにいる人たちもみなあなたと同じ人間よ。みな同じように心の臓は動いて、喜び驚けば跳ねて、悲しいときは張り裂けてしまうのよ」
     とくとくと規則正しい鼓動が五感を通して伝わってくる。この世に生まれる前にも聞いたことがあった。それは自身のものとも重なって藍曦臣を深い眠りへ誘おうとした。
     母の腹に戻ったかのような心地よさにうっとり瞳を閉じていると、脈と脈の間隔が急に伸びた。そしてすぐに音そのものが聞こえなくなってしまった。
     驚いて見上げた母の顔はいつのまにか金光瑶へと変わっていた。
     阿瑶は寄る辺のない子供のように今にも泣きだしそうな顔で、藍曦臣を後ろへ突き飛ばした。
     背後にあったのは底なしの闇だった。藍曦臣はどこまでも落ちていった。

     閉関してしばらくたったあるときから、藍曦臣はこの夢を繰り返し見るようになった。
    『あなたは人間よ。あなたの周りにいる人たちもみな同じ人間よ』
     母が亡くなる直前ぐらいだろうか、忘機が眠っているときになぜか耳に胼胝ができるほど繰り返した。
     そのときはなぜそんな当たり前のことをこの人は繰り返すのだろうと不思議に思っていたが、今思えばあれは警告だったのだろう。
     自由を奪われてもなお芯を失っていなかった母親は、修身界の閉塞的なありさまから将来わが子の身に起きる悲劇を見越していたのかもしれない。
     だがその愚息は母の生前の警告を、こうして夢に見るまで薄情なまでに記憶からごっそり抜け落ちていた。
     心から信じて可愛がっていた義弟の裏に隠された悪事を長年見抜けなかったのは、ひとえに彼が真綿のように白い雲の上でふわふわと暮らしていたからだろう。母が生前心配していた通りに。
     金麟台で蓮池を眺めた初夏のあの日。病み上がりの金光瑶は十代の少女のような恥じらいを含んだ笑みを隣でたたえていた。いつもと様子が違うなと思いながらも愛しく感じて、目の前の情景も相まって極楽浄土にいるかのような心地だった。
     屏風絵に閉じ込めたいぐらい美しいひとときは季節の巡りとともに何度も繰り返されると何の疑いもなく思っていた。
     すべてはうつろいゆくのに、金丹を得て不老になってからそんな世の理もおめでたく忘れ去っていた。
     自分の目を都合よく曇らせていたせいで、たくさんの人々の命が奪われてしまった。
     私がしっかりしていれば、阿瑶の魔の手に義兄はかからずにすんだかもしれない。阿瑶の凶行も未然に防げたかもしれない、彼の命を救えたかもしれない。金子軒や江厭離、温情、暁星塵、宋子深、かの夷陵老祖さえも。
     私さえしっかりしていれば、弟も愛する人を失って長年苦しまなかったかもしれない。
     みんなみんな私さえしっかりしていれば……。
     朝目覚めては自己嫌悪の泥に沈む毎日であったが、その日はいつもとほんの少しばかり様子がちがった。
     長く湯あみしていないせいで体からたちのぼる悪臭が室内にこもってしまい、藍曦臣は昨日から窓枠に透かし彫りがほどこされた窓を少し開けていた。その隙間から、懐かしい白木蓮の匂いがうっすら漂ってきたのだ。
     鼻先をくすぐるような甘い芳香は藍曦臣の五感を久しぶりに研ぎ澄ませた。その香りは夢の中で母がまとっていた香によく似ていたからなのかもしれない。
     窓辺に立ち上がって中庭をみやる。外の景色に視線を送るのは彼が閉関してから初めてのことであった。
     藍曦臣が生まれる前からある白木蓮の木は、今にもはじけそうなぐらい膨らんだつぼみを枝にいくつもつけ、一輪だけ花を大きく咲かせていた。
     かつて温氏の焼き討ちに遭った際この白木蓮の枝は半分以上燃えてしまった。枯れてしまうかと思われたが、翌年生き残った枝はむしろ生命力を増したかのようにいくつも花を咲かせた。
     焼け焦げながらも残った枝で満開に咲く木蓮を、半ば呆けたようにここへ初めて来た孟瑶が見上げていた。それがあまりにかわいらしくて藍曦臣は昨日起きたことのように鮮明に覚えている。
     今は焼かれた枝は斬り落とされ、切り口の脇から新しい枝が何本もでてふたたび糸紬の先に似た白い蕾をつけている。あの日からずいぶんと時は流れた。
     観音廟事件からそう間を置かず、四大世家は藍曦臣の義兄弟二人の遺体が入った棺を地中深く埋め彼らが外へ出てこないように何重にも封印を施した。そのとき魂だけはいつでも抜けだせるように霊力のほとんどと引き換えに藍曦臣はひそかにその抜け道を作った。
     二人のすさまじい怨念や憎しみ、怒りはその地に残ってしまっていても彼らの魂はすでに涅槃へ渡って輪廻の輪に入っているはずだ。彼らも暗く狭い所に長く留まりたくないだろう。それが義兄弟二人へのせめてもの餞だと思って誰にも気づかれないように藍曦臣はそれを施した。
     そしてもう二度と己のような救いようのない愚かな人間は人と関わってはならぬと思い、藍曦臣は閉関した。人と交わらず接さず、飲まず食わず生きながら干からびることを彼は選んだ。
     それでも阿瑶を未だに夢に見るのは彼がまだ涅槃に踏みとどまって藍曦臣のことを呼んでいるからなのかもしれない。あちらで藍曦臣のことを恨んで憎んでいるのかもしれない。もし再会したらなぜあのとき私を信じてくれなかったのか、と詰め寄られるか、夢の中のように奈落の底へ突き落としてくるかもしれない。
     けれど藍曦臣の中で、いいやお前こそなぜ義兄を殺すために私を道具のように利用したのか、私もあれほどお前を大切にしていたのに、と全ては己の愚かさが原因で招いたことであっても深い悲しみから生まれた金光瑶への怒りもまた消えずにくすぶっている。
     季節の到来が遅い雲深不知処で白木蓮が咲くなら、金麟台では金星雪狼がそろそろ丸い蕾をつけ始める時期だった。
     藍曦臣はふとあの蓮池はどうなっているだろうと思った。金光瑶が疫病から回復したときともに眺めた蓮池だ。金凌の両親の形見でもあるはずなのできっとなくなってはいないだろう。
     景儀が朝餉を持ってきたとき、彼に声をかけて部屋へ招き入れた。
     藍曦臣が閉関してから食事に全く手を付けず毎食膳は外に置かせては下げさせていたので、景儀は動揺を隠せずに膳を落っことしそうになった。藍曦臣はそれを両手でうまいこと拾い上げたので惨事はまぬがれた。
     景儀がその場で平謝りする。雅正を旨とする藍家の中ではやや落ち着きの足りない彼の様子がひどく懐かしく感じられた。
     顔をあげなさいと藍家の宗主はすっかり恐縮しきっている若い子弟に距離を取りながら言った。長く湯あみもせず衣も変えていない彼はおそらくひどく臭うだろうから。
    「景儀、お前に一つ尋ねたいことがあるのだけれど、金宗主、金凌は座学で元気にやっているかな?」
     今座学に来ているとうっすら聞いた覚えがある。はて誰が教えてくれたのだろう。
     宗主の問いかけに若い子弟は困惑したように眉を下げた。
    「あの沢蕪君、彼は数か月ほど前に金麟台へ帰りました」
     一瞬切れ長の瞳を丸くしてから、やってしまったと藍曦臣は額に手を当てた。
     すっかり時の流れから取り残されているようだった。景儀もみれば若木のようだった体は校服越しにもたくましくなっている。叔父に引きずり出されて家宴にでたのもいつだったろうか。
    「すっかり三年寝太郎だな、いや浦島太郎か」
     どちらもはるか東の海に浮かぶ島国の物語だ。弟が生まれてすぐの頃、そこから来た絵巻物を母に読んでもらっていたが、それを温氏の焼き討ちで紛失してしまった話をすると、金光瑶がわざわざ取り寄せてくれていつかの誕生日に贈ってくれたのだ。
     あのときの笑顔も演技だったのだろうか。黙ってうつむくとなぜか景儀は慌てた。
    「あの沢蕪君、もし金のおじょ……金宗主に御用がおありなら手紙を書かれてはどうでしょうか」
    「ああそれもそうだね」
     それから景儀に湯あみしたいから湯と着替えとそして公式書簡用の紙を持ってくるように藍曦臣は頼んだ。
     久しぶりに硯をすろう。それからどこかへしまいこんでしまった絵筆も探そうか。
     その日の朝膳が下げられたとき、膳の中の食事がほんの少しばかり減っていた。
     その事実は、家規に『むやみに噂すべからず』とあるのに尾ひれ背びれをつけてまたたく間に雲深不知処を駆け巡ったという。


     座学中もお目にかかれなかった藍宗主から、突然香のたきしめた手紙を送りつけられた金宗主が泣きついた先は当然外叔父にあたる江宗主だった。
     藍宗主曰く、蓮池を写生するためにしばらく金麟台へ通わせてほしいとのことだった。宿は蘭陵の町中にとるから金家の世話は無用という。
     巻雲紋の文様が入った紙にしたためられた流麗な文字をみて江澄も眉を寄せる。この内容を読めば、閉関してとうとう気でも触れたか?と誰しもが思うだろう。
    「大世家の当主をいくら本人の希望だからと言って蘭陵の町の宿へ滞在させるなんて、そんな無礼なことさせられるわけないじゃん! でももしこれを断ったらなんか俺、沢蕪君は世を儚んで今度こそ死んじゃう気がするんだよ! どうしよう叔父上!? 俺どうしたらいい??」
     座学のときに沢蕪君の世話係である景儀から聞いたが、彼は閉関してからずっと飲まず食わずだそうだ。
     座学が終わって雲深不知処を出てから、何度か姑蘇藍氏と合同で夜狩りしたときにも小双璧はその様子に変わりはないと言っていた。
     金丹のある仙師は飲まず食わずでもすぐ死ぬことはないが確実に衰弱はしてしまう。
     生きながら死を待っているかのような沢蕪君がようやく外の世界へ関心を向けてくれたのはとても喜ばしいことだった。金凌も彼の復帰の第一歩になる機会をつぶしたくはない。
     けれど金家としての面子もある。年若い宗主は藍宗主の突飛な申し出にほとほと困っていた。
     あんなにわがままだった金凌が今や親ほど年の離れた男のことを心配している。
     そこに彼の成長と誰よりも芯が強く優しかった姉の面影を見出して江澄がほんの少しばかりうるっときたのは内緒だ。
    「あーあ、光瑶叔父上がいたときは沢蕪君も金麟台へ泊まってくれていたのになあ!」
     だが感心した次の瞬間、甥はあまりに無神経なことをぼやいたので、江澄の涙はすっとひっこんで彼をぎろりとにらみつけた。金凌はうっかりしたとばかりにあわてて口を両手でふさいだ。
     江宗主は足元にいた金凌の飼い犬の頭から手を離すと、両足を行儀悪く執務机に乗せて組み、皮肉げに唇の端をあげた。何かいい案が浮かんだようだ。
     どうして我が叔父は人助けするときいつもこんなに悪ぶるんだろうと金凌は心なしか残念に思った。
     だから見合いをいつも断られてしまうんだ。もしずっと独り身でも老後は俺が面倒を見るつもりだけどさ。外叔父上には幸せになってほしいんだよ。
     心優しい甥は叔父の行く末もこっそり心配していた。江宗主は観音廟事件からではなくむしろ封印の儀式から以前にもまして眉を寄せることが多くなった。
    「大世家の宗主ならまずいが、単なる一人の絵描きが滞在するならばどうだ? 藍宗主の目的は金麟台の蓮池を写生することなんだろう?」
    「なるほど、別人に身をやつしてきてもらえばいいのか」
     しかしあの美貌の仙師が絵師の衣に袖を通しても目立ってしょうがないのではないだろうか。金凌が疑問を口にする前に叔父は解決策を出してくれた。
    「そうだな、もし髭は伸びているなら剃らずに来い、ないならその派手な顔が目立たなるくらい長い付け髭を用意しろと返事に添えろ」
    「やっぱりそれぐらい変装してもらわないとまわりに沢蕪君だってすぐバレてしまうよね。叔父上、ありがとう! 助かったよ」
     金凌は飛び上がらんばかりに喜んだ。そして相棒の仙子とともに来たときのように執務室から慌ただしく駆け出して行った。
    「おい! 宗主らしくもう少し落ち着いたふるまいをしろ」
     怒鳴ったが廊下を走っている二つの足音がすぐ聞こえてきた。まったく、と叔父は近頃都合の悪いことには聞く耳を持たない甥に小さくため息を吐く。
     世捨て人など放っておけと江澄が藍宗主のことを切り捨てなかったのは、何も若くして宗主の座に着いた甥のためばかりではなかった。
     沢蕪君が封印の儀式から閉関して二年経つ。
     かつて江澄が彼の師兄を追いつめ死なせてしまったように、彼もまた信じ切れず義兄弟を刺し殺した。
     その心中をとくに親しい間柄ではない江澄に推し量ることはできないが、似た境遇に陥った者として江澄は彼のことを『少しばかり』気にかけていた。
     金凌が座学へ行ったとき、甥の様子見るついでに江澄は藍啓仁の許可を得て閉関している藍家宗主を見舞った。
     彼以外はこれまで腫れ物に触るようにだれも寒室へ彼を見舞っていないそうだ。下手に刺激して自害しないかみな恐れていた。
     ときおりせめてもの心のなぐさめにと、藍忘機と魏無羨が笛と琴を庭で奏でていると聞いた。
     寒室へ入るなり垢がたまった独特の匂いが鼻についた。香は焚かなくなったらしい。部屋の主はこのときすでに髭が伸びて苦行僧のようにやつれていた。衣も長く替えていないかのように黄ばんでところどころほころびがあった。
     客人が来ても茶を用意することもなく、藍曦臣は江澄が何を話しかけても、うんうんと微笑みをうかべるばかりですでに心ここにあらずだった。みるからに己の殻に閉じこもっていた。
     藍家の人たちにとっても手の施しようがないのも分かる気がしたが、目の前の男は宗主という立場も忘れてあまりに見苦しくて無性に腹立たしく思った。
    「この腑抜けが! 射日の英雄の一人沢蕪君はどこへ行った? お前はどこへ隠した?」と胸蔵を掴んで揺さぶりたくなったが、ぐっとこらえた。おそらく微笑しか返ってこないだろうから。それで寒室を後にした。
     彼と対面したのはそれっきりだ。
     金凌が意気揚々として金麟台へ帰った後、江澄は執務机の一番上の引き出しに手をかけた。ここには彼にとってもう一つの金丹ともいえるものが入っている。
     それを取り出して、江澄はしばらく眺めてまた引き出しへしまった。


     若き金宗主が藍宗主へ返事を送った数日後。
     一人の絵師が不浄世から金星雪狼ではなく蓮池を描きに金麟台へやってきた。目の前に立った絵師をみて若い宗主は絶句した。
     玉のように滑らかで白かった肌は黄土色に変色し、眼窩はむくろのようにおちくぼみ、頬は削り落とされたようにこけ、口ひげももみあげから鎖骨に着くほど伸ばされている。あきらかに付け髭ではない。袍の上からも枯れ木のようにすっかりやせ細っているのが見てとれた。
     姑蘇藍氏を象徴する抹額はもちろん外しているが、長い黒髪はずっと手入れしていなかったのか、ちりぢりと火にあぶられたかのような癖がついている。
     沢蕪君とまるで別人どころか、地味だが仕立てのいい服をまとっていなければ浮浪者と間違われてもしょうがない。
     ある程度予想していたとはいえ、今の沢蕪君はまさに生きる屍だった。一歩歩くたびまぶしいぐらいの輝きを放っていた秀麗な公子はもはや見る影もなかった。
     今の沢蕪君は剣も笛も佩でいない。景儀と思追が今朝早くに彼を雲深不知処からこの蘭陵の町へこっそり送ってきた。絵師に扮するためとはいえ、おそらく彼自ら帯剣や御剣できなかったのではないか。
     それは天女のごとく麗しかったあの沢蕪君がこんな無残な姿になるだなんて。あまりの衝撃で金凌は開いた口がふさがらない。
     彼を道連れにせずこの世へ置いていった叔父はあまりに罪深いと思った。
    「お初にお目にかかります。絵師の白木蓮と申します。この度はご紹介をたまわり不浄世より参りました。以後お見知りおきのほどを」
     白木蓮は両手を前に組み深々と頭を下げる型通りの挨拶をする。
     すっかり様変わりしていたが、声は朗々として張りがあって拱手の所作も実に優美だ。そこに沢蕪君と呼ばれたかつての英雄の名残を聞き取って、金凌は少しばかり胸をなでおろした。
     白木蓮は清河聶氏から紹介の絵師ということになった。宗主からの正式な紹介状も昨日金凌のもとへ届いている。
     清河聶氏仙府の不浄世は当代宗主になってから風雅を極めていて、絵師のみならず歌人や書家が江湖中から集まっているので身元は何ら不自然ではなかった。
     それに表向きとぼけているようで、その実抜け目のない現宗主を最初から巻き込んでおけば、金麟台や雲深不知処へいらぬ探りをそうそういれても来ないだろう。
     やはり腐っても藍家宗主である。大胆で突拍子もないが漏れもない。
     沢蕪君の来訪を知っているのは、金家は金凌と主管、江家宗主に藍家は忘機とその道侶と小双璧のみだ。
     藍啓仁や長老方には今回の蘭陵滞在を伝えていないと沢蕪君を送り届けてきた思追たちが教えてくれた。
     閉関中の宗主が絵師に変装して他家に身を寄せるなど前代未聞だろう。藍啓仁先生はきっと血を吐いて床へ倒れるに違いないし、万一世間に露見すれば藍家の名誉が地に堕ちかねないとんでもない醜聞になる。
     もちろん今や世捨て人と化している人にとっては実家への世間の風当たりなどかまっていられる余裕はないだろう。けれど、大世家の一つである藍家の信用が失墜するとようやく落ち着きを取り戻したはずの修真界がまたしても混乱に陥る。
     それは金凌はじめ大世家の宗主たちにとっても困る話だった。だから、叔父が絵師に扮装する案をだし聶懐桑も絵師の後ろ盾役を了承したのだろう。
     藍宗主の異例の滞在が世間に漏れることなくつつがなく終わり、彼にはなるべく早く立ち直ってもらいたいと金凌は心から思った。

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