水底の明晰夢、を今俺は見ている。
どうしてだかわからないけれど、これは今自分が見ている夢なのだとはっきり自覚できていた。
前後の脈絡が無かったからというのも、あるかもしれない。
俺の目の前には水たまりがある。
場所はどこか、学校の野球部が使うような砂のグラウンドだ。
砂の上に、夕立でも振ったのか水たまりが出来ている。
何故か底が見えないくらい濁った水たまりは、雲間から差し込む光を反射して表面だけはクリスタルのようにキラキラと光っていた。
綺麗だとは、あまり思えない。
何かが、中に居るような気配がすると感じ、水たまりの淵に膝をついて、そっと中に手を差し込んでみた。
思ったより深い。
手首から、肘の手前くらいまでが水の中に入っていく。
ふいに何かが手に触れた気がして、ゆっくり水たまりから手を引き上げる。
そう言えば、今俺は寝る時と同じTシャツ姿だ。
濁った水面から逃げるように引き上げた手首を、青黒い色をした誰かの手が掴んでいるのが見えた。
イッテツが熱を出した。
前日、急遽駆り出された任務の帰り道、4人そろって夕立に降られたから、そのせいかもしれない。
「エアコン、寒くないか?」
空調の向きを調整してやりながらリトが尋ねると、かすれた声でだいじょうぶだと返ってきた。
額に冷却シートを貼った顔は色が白い分、熱による赤みが分かりやすく、見ていて何処か痛々しい。
「医務班の担当に来てもらうように頼んでるから、一応色々検査してもらえよ」
「うん……」
普段は拠点に常駐していない医療班に往診を依頼したことを告げて、最後にもう一声何か言おうかとベッドのそばにかがむと、リトの服の裾を力なくイッテツが掴む。
視線を泳がせて、軽く開いた口が何か言おうと開閉する。
「…あの、さ」
かすれた声で、彼は馬鹿にしないで聞いて欲しいと懇願してきた。
そんなことしないと頷いて先を促すと、イッテツはゆっくりと話し始める。
「夢、で。水たまりの中の手に、手をつかまれた」
「水たまりの中の、手?」
「すごく、いやな……かんじだった」
離しながら、熱のせいだけでない声の震えに、泣いているのかと顔を覗き込むが、視線が合わない。
「テツ?」
「…………」
イッテツは何かに怯えている。
その手首には、いつの間にかうっすら赤く、痣のような痕が付き始めていた。
また夢を見ている。
俺は今、どこまでも続く水たまりの上を走っていた。
早くここから離れたくて、必死で走っていた。
景色はどこかで見たような、何かの映画で見ただけで実際は覚えがないような夕焼けでオレンジがかった川土手で、遠くに見慣れた仲間の背中が自分と同じくらいのスピードで走っている。
皆に追いつきたい。
追いつかなければ。
必死に走っているはずなのに、足にはそれなりに自信が有るはずなのに、どうしてか近付く事が出来ない。
「!」
そのうち、何かに足を取られて俺は転んでしまった。
水たまりの表面に顔がぶつかり、口の中に泥水が入り込む。
気持ちが悪い。
体を起こそうとして、足元に違和感がある事に気付く。
凄く嫌な予感がして、でも見届けなければいけないような気がして、自分の足を確認する。
水たまりの中から、青黒い手が自分の足首をつかんでいるのが見えた。
「------っ!」
「おい、大丈夫か?」
目を開けた瞬間、頭を殴られたような衝撃が走り、イッテツは声にならない悲鳴を上げる。
しゃくりあげるような呼吸と共に頭を抱える彼に、リトは目を開けるまで彼がずっとうなされていた事を告げるか否か迷う。
「い、痛い……っ」
見るからに苦しそうな背中に触れると、シャツ越しでもわかるほど熱が高い。
病状は少しずつ悪化しているように見えた。
手首には、先ほどよりもはっきりと誰かが力を入れて掴んでいたような、手形にしか見えない鬱血痕が浮き上がってきている。
検査と採血に来ていた医務班の人間は、誰でも良いから常に一人、イッテツの傍についているようにと話していた。
一人にしてはいけない。
原因がそれと同じだと決まったわけでは無いが、過去似たような事例で一人部屋で寝込んでいたヒーローが行方不明になった記録が有ったそうだ。
そのヒーローは最後、水たまりを残して何処かに消え、今も見つかっていない。
「何が原因なんだ…?」
ヒーローの行方不明事件が過去に有ったと聞かされて、リトも手元の端末で軽く調べてみたが、モバイルで調べられる程度の範囲ではヒーロー協会の恐らく機密事項に当たる話は何も出てこなかった。
「…心当たりが聞ける状況でも、無いよなぁ…」
傍らのベッドで苦しそうに呼吸しているイッテツの口に、少し水を含ませる。
「うぅ…」
口の中の不快感をわずかでも軽減してやりたかったが、今の状態ではそもそも水で口をすすぐのも困難らしい。
そう言えば、とリトはほんの数週間前の出来事を思い返す。
イッテツが単独で任されたが、蓋を開けてみると意味の分からない話だった事案が有った。
存在しない依頼主に、存在しない調査先。
単独任務だからと出かけて、いつの間にか拠点の入り口で倒れていたイッテツは、それから数日酷い有様だった。
食事をとろうにも、口から汚泥のような物を吐き出し続けて、一時は脱水防止の為の点滴を受けていた記憶がある。
本人こそ、普段そんな食べないし煙草さえ吸えれば良いと話していたが、周囲は皆そろって心配していた。
根拠は無いが、なんだか今の状況が其処から地続きのような気がする。
「まだ解決して無かったって事か……?」
答えの返ってこない問いを投げ、見守る視線の先、ベッドの上のイッテツは、足首にも赤く手形が浮き上がりつつあった。
さっきまで、リトくんが背中をさすってくれていた感触を自覚できていたのに、また俺は夢の中に居る。
辺りはもう夕暮れが迫っていて、追いかけていたはずの仲間の背中も、もうどこにも見えない。
俺は腰から下が水たまりの中に沈んでいて、何かが下から身体を掴んでいる気配がした。
何かが、何なのか見てしまうのが怖い。
見てしまったらもうそれが現実であるかのように知覚して、抗えなくなりそうな気がする。
いやだ。
腕の力で水たまりの淵にしがみつく。
足に何かが沢山絡みついている感触に吐き気がする。
引きずり込まれている。
いやだ、だれか
「助けて―――」
とっさに伸ばした手を、誰かが掴んだところで意識が飛んだ。
「たすけ、て」
いよいよ呼吸も荒くなってきたイッテツが不意に手を伸ばしたのを見て、思わずその手を取っていた。
熱は高い筈なのに、掴んだ手が驚くほど冷たい。
「…りと、くん?」
熱から来る涙でにじんだ瞳がこちらを見返してくる。
シーツの端からはみ出た両足のいたるところに手形が浮き出てきているのが見えた。
異常事態が起きているのは明白で、もがくような手の動きに、思わずベッドに横たわっていた身体を抱え起こす。
そうしなければこのまま彼は溺れてしまうような気がした。
水の中に居るわけでも無いのにどうして直感的にそう思えたのかは分からない。
「大丈夫だ、まだ大丈夫だ」
安心させたくて励ましの言葉をかけながら、多量の汗でまるで水から上がったばかりのような背中を軽く叩く。
熱でうなされているイッテツが、腕の中でうわごとを繰り返す。
「ひきずりこまれるんだ」
「みずのなかに」
「いやだ」
「おれまだ、みんなとヒーローやりたい」
「いやだ」
この時まで、異常事態が起きているにしろ、イッテツ自身は高熱のせいで弱気になっている面が大きいのだろうと思っていたリトは、彼の背中に触れていた自分の手のひらを見て、もう一度励まそうとしていた言葉を喉の奥で押しとどめる。
汗だとばかり思っていた水気は、手のひらについた水滴すらわずかに濁り、指先に水草が絡みついていた。
本当にイッテツは水の中に引きずり込まれそうになっているのだと理解する。
ただ、どうすればこの状況を打開できるのかまでは考えが至らない。
一刻も早く、目には見えない水の中に落ちて行く友を救わなければいけない。けれどもその方法が分からなかった。
「おい。テツ、寝るな、寝るなよ!」
夢さえ見なければ良いのではと思い声をかけるが、抱え込んだ腕の中でイッテツの瞼がまた閉じようとしている。
「テツ!起きろ!」
このまま眠らせてしまったら、もう二度と目覚めないような気がしてならず、必死に呼びかけた。
力が抜け、傾いたイッテツの口から、ゴボリと汚水があふれる。
「やめろ、連れて行くな、たのむ、やめてくれ」
何処から溢れてくるのか、イッテツが着ているシャツを灰色に汚していく水を手で払いながら懇願した。
「俺だってまだ、お前と、皆とヒーローやってたいんだよ、頼む、たのむから」
何に懇願しているのか自分でもわからないまま、リトは無意識のうちに、胸元で不安そうにしている相棒に触れる。
小さな相棒を頼ろうなどとは考えていなかった。
けれどもその刹那、胸元の相棒、キリンちゃんとリトが普段呼んでいるその存在が青白い光に包まれる。
次の瞬間には、宇佐美リトの視界と感覚は一変していた。
足元が抜けるような感覚と、全身が軽く圧迫される、水に潜った時のあの感覚。
拠点の、イッテツが使っている部屋に居たはずなのに、そこはもう水底の世界だった。
視界は濁って薄暗く、細かな塵が漂う汚水の中なのが察せられたが、不思議と目に痛みは無い。
腕の中に抱え込んでいたはずの友は少し離れた場所で少しずつ深みに沈もうとしている。
その身体は、全身に、青黒い肌の、長い腕だけの何かが絡みついていて、何本もの腕が下へ下へと彼を導いているように見えた。
取り戻さねばと腕を伸ばし、まとわりつくような水の抵抗を受けながら下へ向かい泳ぎ追いすがる。
返せと一声叫ぼうとしたが、水の中に気泡が膨らむだけで声にならない。
仕方なく泳ぎに集中し、必死に手を伸ばす。
沈み行くイッテツの目は閉ざされて、青黒い腕の群れに対しての抵抗ももう諦めている様子に見えた。
諦めないでくれと願い、水に漂う自分よりも細い手に指を絡める。
力任せに手を取って自分の方に引き寄せると、思ったよりも簡単に腕の群れからイッテツの身体が離れた。
意識が無いのか抵抗も無く腕の中に納まる胴体をしっかりと片腕で固定してから、リトは青黒い腕の群れの中央辺りを見る。
汚水の中、こちらに伸びてくる腕のその付け根のあたりに、肩口から何本もの腕が生えている、恐らくは男だろうと思われる何かが居た。
それは、イッテツを取り上げられてなのか、怒っているように見える。
その怒りの表情が、リトにとって非常に気に食わないものだった。
怒るな。
何故怒る。
お前に怒る権利が有ると思っているのか。
これは、この男は、俺の、俺たちの、だいじな、かけがえのない仲間だ。
返してもらう。
二度と奪おうなどと考えるな。
「どこへなりとも消え失せろ」
心の中で強く念じていたはずが、最後の一言は水の中だというのに不思議と言葉となって口から発せられる。
最後に、リトの目に映ったのは、自分の胸元辺りを中心に広がった青白い稲光が、水の中で槍のように収束し、一直線に青黒い腕を生やした男を貫く場面だった。
瞬間的に強く、何か冷たいものが全身にぶつかる衝撃でリトは目を覚ました。
子供の頃、夏休みに親に連れられて行ったプールで、ウォータースライダーを滑り降りた時のような水しぶきが顔を叩く感触を思い出す。
「へ?」
いつの間に眠っていたのか、胸元で小さな相棒が心配そうにこちらを見つめている。
慌てて体を起こすと、そこは拠点の部屋の中で、自分の身体も含めて辺り一面水びたしになっていた。
リトの傍らでは、背中を丸めてせき込んでいるイッテツが居て、こちらも同じように全身水浸しになっている。
イッテツの部屋の中は、天井から床までありとあらゆるものが水にぬれている様子で、しかもその水はどうやら水道水では無さそうで、視界の隅で水草が流れていたり、小さな魚が跳ねているのが見えた。
「おい、テツ、生きてるか?」
まだ背中を丸めうずくまっている体に手で触れて揺さぶる。
先ほどまでの熱はもう感じられない。
顔を上げたイッテツは、周囲の様子を見て目を丸くしていた。
「えぇ……なんで…?」
その横顔からも、すっかり熱の赤みが引いており、どうやら危機的状況は去ったらしいと、リトは内心密かに安堵する。
「とりあえず、部屋はこれ業者呼ばないとだなぁ」
水がしたたり落ちる天井を見上げながら、これは経費で落ちるだろうかとのんきなことを考えた。
佐伯イッテツの体調の異変は、その日を境に消失、回復した。
宇佐美リトは、戦闘要請の無い場面、並びにヴィランの活動が認められない場面でデバイスを私的に使用した事で厳重注意を受けた。
天井から床まで水浸しになったイッテツの部屋のクリーニング代は奇跡的に経費で落とせた。
後日、顔見知りの若い呪術師と、この手の魔物関連に詳しい男に調べてもらったが、少なくとも二人の周りに、もうあの青黒い肌の男の気配は無くなっていたらしい。
専門家を一切介さずに魔に該当する存在を退けた件については、二度とやるなと叱られてしまった。
「今回はたまたま上手く行っただけだからな?もしも次この手のトラブルに巻き込まれたら真っ先に専門家を頼れ、良いな?」
ヒーローと言えども、専門外は有るのだから、餅は餅屋で詳しいやつを頼れと、そう言う事らしい。
「次が有ってたまるかって話だけどな」
拠点の屋上で煙草を吸いながらイッテツがため息をつく。
今回の一件は流石に命の危機を感じた。
無限大の寿命を課せられていても、外的要因は話が別なのである。
「それにしても…」
助けを求めて手を伸ばしたあと、ほとんどうっすらとしか覚えていないが、夢の中に変身した友人が助けに来てくれたのは驚いた。
キリンちゃんのおかげだと、リトは話していたが、どういう仕組みなのだろうか。
あの様子では本人達もよくわかっていなかったようだが。
「…まだ、みんなで、ヒーローやってたい、か」
夢うつつの中で聞いたように思う言葉を口の中で繰り返す。
俺もだよと、心の中で返して、にんまりと笑う。
危機的状況だったとはいえ、中々に照れくさいやり取りをしてしまった。
いつかくだらない喧嘩でもした時に、手札として取っておこう。
そんなことを考えながら、晴れた空を見上げる。
うだるような暑さの日々は、まだ少し続きそうだと、熱を逃すついでに紫煙を吐き出した。
終