拝啓、泥濘の淵より簡素な鍵だった。
手描きの住所が記された楕円形のプレートが、細い針金で括りつけられた、ごくごく普通のサムターン錠。
きっと普段は、不動産屋の事務所の一角に、同じような鍵と一緒に並べられて壁につるされているか、引き出しに詰められているのだろう。
何となくそんな光景を思い浮かべてしまう程、ありふれた鍵だった。
指先でつまんだその鍵で、目の前の扉を開けて、強化ガラスの嵌め込まれた格子戸をスライドさせる。
空気が動いて、湿っぽさと埃っぽさとカビ臭さが混ざったような匂いが鼻をつく。
玄関を開けた先は昼間にもかかわらず薄暗い。
まず第一に、窓を解放して、空気を入れ替えたいなと思った。
「えー……」
用意していた撮影用のデジカメの電源を入れる。
屋内を確認せずに引き返して、手抜きをすることが無いようにとヒーロー協会から押し付けられた物品だ。
「あーテステス、マイクテストマイクテスト。現在緊急で動画を回していまーす」
お決まりの台詞を取り敢えず吹き込んでおく。
「えーどうも、にじさんじ所属健康優良不良男児絶対的ヒーローの佐伯イッテツでーす今日はヒーロー協会の依頼でこちらの中古物件の調査に来ていまーす」
挨拶口上を並べてはみたがほぼほぼ棒読みになってしまった。
もう少し感情を込めた方が、もしくは明るい挨拶をした方が協会の覚えも良かったかもしれない。
録画をいったん消去してやりなおす事も一瞬考えたが、面倒くささが上回る。
別に、普段やっている配信業の時のように、大勢のリスナーに聞かせるために吹き込んだわけでは無いので、取り繕わなくても大丈夫だと、自分に言い聞かせた。
まずは屋内に足を踏み入れ、窓を開け、空気を入れ替えたい。
掃除は依頼に含まれてはいなかったが、思わずそう考えるほど、中の空気は異様に澱んでいた。
訳あり物件の屋内調査がヒーロー協会に依頼されるのは、実のところそこまで珍しい事ではない。
周辺住民から幽霊屋敷だと思われていたが、蓋を開けてみると秘密結社などのいわゆるヴィランが根城にしていた事例が近年増加傾向にあるからだ。
空き家や、いわゆる事故物件といった、一般市民が近寄りがたい家屋は、人目を避けて悪だくみをしたい連中にとって便利な場所で、多少物音がしたところで、やれ野良猫だろうとか、あの家は幽霊が出るらしいとか、人目をそらす噂が勝手に生えてきてくれる。
そこで、噂の可能性を排除し、ヴィランを捕獲するために、ヒーローが駆り出されるのだ。
変な噂の立つ物件を、まずヒーローが調査する。
調査した結果、居たのがヴィランなら現行犯で捕獲もしくは討伐、害獣なら保健所、保護できそうな子犬子猫なら保護シェルター、ホームレスなら役所にそれぞれ通報が定石なのだが、もしも、そのどれでもなかったら?
その時の対処法は、佐伯イッテツが事前に読んだマニュアルには記載されていなかった。
もしかすると昔は書いていたのかもしれないが、科学技術の発展と共に廃れていった可能性も有る。
「くそがよ」
電気が通っていない関係で薄暗いままの廊下に一歩足を踏み入れ、老朽化した床板がきしむ音を聞きながら、イッテツは地を這うような声色で悪態をついた。
「あれだなー……まず雨戸開けて空気の入れ替えして室内の写真撮影して人の出入りの痕跡確認して懐に忍ばせたファブ一発噴霧してそれでもだめならユートピア戦法でどうしても無理なら最終手段ウェンくんお手製岩塩の大吟醸漬けシャワーで……」
一歩一歩、ゆっくりと進みながらあらかじめ想定していた手段を口に出して並べていく。
依頼書には、あらかじめ不動産屋がリビングの真ん中に日本酒とそれを注ぐ用の椀を用意していると有った。
怪奇現象に対応したマニュアルはないわりに、現場職員はしっかり用意してくれているのはどういうことだろう。
有難い事には違いないけれど。
「おじゃましまーす!」
デジカメの録画ボタンは押したまま、目的のリビングに到着する。
そこに至るまでの、恐らくトイレと風呂場と思われる部屋はいったんスルーした。
生き物の気配は感じなかったし特に物音もしなかったし、何よりもまずはリビングの窓を解放したかったのが大きい。
リビングは雨戸で閉め切られていたため暗かったが、辛うじて部屋の中央にローテーブルが置かれていることが視認できた。
玄関先よりもカビ臭さが強い。
「窓、開けますよー!」
光源確保最優先とばかりに、ローテーブルを避けて壁伝いに部屋を移動し、窓を開けその外側に有る雨戸のロックを解除する。
風雨で少し錆びているのか、重い手ごたえと共に砂が擦れるような音を立てて二枚の雨戸の間にわずかな隙間が出来た。
「おぉっし……!」
戸袋に押し込むように雨戸を引くと、じゃりじゃりと音を立てながらも押した分だけ雨戸が動き、光が室内に入り込んでくる。
恐らく彼の膝くらいまでは有りそうな雑草に覆われた庭が現れ、室内のカビ臭さが吹き飛びそうな青空が目に入って、イッテツはほんの少し安堵を覚えて肺に溜め込んでいた息を吐き出した。
「あー……明るいと安心するわ、うん」
庭に面したガラス窓から外を見ると、そこには平和な住宅地の風景が広がっている。
雑草の向こうにブロック塀が有り、更にその向こうを路線バスが走っていく。
何処か少し離れた区画で井戸端会議でもしているのだろうか、女性らしい複数の声が話しているのが聞こえた。
「庭先、異常なし。ブロック塀、内側からの破損目視出来ず。それじゃあ次は室内を」
確認しましょうかね、と言いながら背後を振り向いたところで、イッテツは絶句する。
目が合った。
何と、
雨戸をあける前から部屋に有るのが確認できていたローテーブルのちょうど真上、本来なら部屋の照明器具を設置するであろう配線が飛び出ているはずの位置から、上半身だけ露出させてさかさまに垂れ下がる青白い顔の、恐らく人間と、目が合った。
「…………」
人間、理解できない状況に行き当たると言葉が全く出てこないというのは本当の事なんだなと、頭の片隅で考える。
垂れ下がっている顔は、目を見開き口を半開きにしていた。
いや、おかしいだろう。
明らかに、雨戸をあける前はそこに何も居ないように見えた。
というか下半身はどうした。
天井に大穴でも空いているのか。
「……え、と」
何から言えば良いのか、イッテツが言葉を探している間、さかさまに垂れ下がった、その恐らくは男性と思われる顔はそこにあった。
よく見ると、白目と黒目が反転している、ホラー映画でよく見かけるあの目をしている。
「え、これ警察?警察呼べばいいのか?てかこれ死体、生きてる?あの、もしも」
なので本当にどうすれば良いのかわからず、取り敢えず触れるかもしれないので手を伸ばしたところ、
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ」
濁った音と共にさかさまの顔の、その半開きの口から、何かが吐き出される。
「!?」
とっさに半歩後ろに下がったイッテツの足元にまき散らされたそれは、汚泥のように床の上で崩れ、強烈な臭気を放つ。
「くっせぇ!!!」
顔の下半分を袖で隠して更に後ろへ下がると、垂れ下がった顔はニタニタと笑っていた。
「で、気付いたら拠点の入り口前で倒れとったって、やばない?」
「…うん…」
イッテツは掃除用バケツを両手で抱え込んだ状態で緋八マナの声を聞いている。
あのあと、垂れ下がったさかさまの顔が笑っていると認識した後からの記憶がはっきりとしない。
気付くとそこはヒーロー活動用の拠点前で、仲間達が自分を呼ぶ声でようやく、気を失っていたことに気付いた。
目を開けて、体を起こした瞬間から吐き気が止まらず、まず拠点に入る前に一回、拠点内の自室に移動する間に一回嘔吐して、そのどちらも吐き出された物はどす黒い色の汚泥のような何かだったため、緊急措置として赤城ウェンが拠点に備蓄していた日本酒を飲ませ、無理やり吐かせ、ついでに頭からも日本酒を被せられてしまい、現在イッテツは全身アルコールまみれである。
恐らく何か、科学や法律の範囲では説明しきれない何かだったのだろうということで、現在拠点内で仲間たちの監視の元、西側のヒーロー達に救援を求め、ついでに不思議と持ち帰っていた撮影用のデジカメの解析結果を待っているのだが、正直な所何が映っていても嬉しくないのが本音だった。
本当に何も覚えていないのである。
覚えているのは、あのさかさまの、真っ黒な目が三日月のように歪んだ不気味な笑顔だけで。
考え込む様子のイッテツに、マナが「実はな」と前置きして、
「今回の物件調査を依頼してきた不動産屋なんやけど、協会本部の方で確認取ってくれたらしいんやけどな、そんな不動産屋は、無かったらしい」
と、告げてきた。
「……は?無かったって」
「依頼書に書いてあった住所は、もう十年も前に廃ビルになってて、何のテナントも入って無かった。なんなら調査部が行った時にちょうど解体業者の人と鉢合わせたらしてな」
不動産屋の住所になっていたビルは、明日から取り壊し工事が始まるのだという。
確かにイッテツも、依頼元の不動産屋に直接足を運んだわけでは無かった。
依頼書が届いて、依頼書が入っていた封筒に調査予定の物件の鍵が同封されていたのを覚えている。
「マナくん、俺すっごい嫌な予感がするんだけどさ」
「おん」
「もしかして俺が調査に行った物件も実は行ってみたら更地でした。なーんてことは」
「勘のええガキは嫌いや無いで」
恐る恐る確認してみた事柄について、せめてもの慰めか有名なミームを絡めて返してくれるマナに、イッテツはほんの少し感謝したが、それでもその事実は知りたくなかった。
彼が調査したはずの物件は更地。
なんならあの視認したはずの雑草まみれの庭も、その向こうのブロック塀も、何なら周辺の住宅地も無かったらしい。
「随分前に土砂災害で辺り一面流されて、今は再開発予定地になっとるって」
「……てことは俺が窓開けた時に聞いた奥様方の井戸端会議すら存在して無いのかよマジか」
「まあ、バスの路線はまだ生きてるらしいからバスは実際走っとったかもしれんな?」
一体、あの見聞きした光景はなんだったのか。
実際に重い手ごたえを感じながら開けた雨戸も、あの閉め切った家屋特有の埃とカビの匂いが混じる空気も、何もかも存在していないとは。
頭からかぶった酒のせいでまだ濡れている頭をバケツに突っ込んで、イッテツはまた少し汚泥を吐き出した。
後日、解析から戻ってきたデジカメは西のヒーロー達によって厳重に何かよくわからない札でぐるぐる巻きにされていた。
「リトくん、中のデータは?」
「あー……それなんだけどな」
結局数日経過観察して汚泥も吐かなくなり、体調も元に戻ったイッテツに、長い付き合いになる友人兼ヒーロー仲間は言葉を濁す。
「聞かねぇ方が良いって、俺も聞かせてもらえなかった」
「えぇー……それマジでやばいやつですやん」
図書館で記録を調べてみたが、イッテツが調査に向かった地域で15年ほど前に大規模な土砂災害は事実起きていたらしい。
ただ、その土砂災害では家屋被害やけが人こそ出ていたが、死者行方不明者はいないことになっていた。
彼が調査したあの家屋はなんだったのだろうか。
どうしてデジカメは封印されてしまったのだろうか。
あの、口から汚泥をまき散らすさかさまに垂れ下がった人物はなんだったのか。
色々と不可解な一件だったが、ヒーロー達はそれ以上、無理に関わろうとはしないと心に決めた。
【以下は或る記録媒体から抽出したデータである】
(玄関が開く音)
はーい
お母さん、誰か来たよ
こんにちはー
あら珍しいわねえ、お客さんかしら
「えー……」
いらっしゃいお兄さん
何処から来たのかしらね
人が来るなんて久しぶりねぇ
「あーテステス、マイクテストマイクテスト。現在緊急で動画を回していまーす」
お母さん、この人動画撮るんだって
あらテレビの人かしら
おじいさん、テレビの人ですよ
おい
「えーどうも、にじさんじ所属健康優良不良男児絶対的ヒーローの佐伯イッテツでーす今日はヒーロー協会の依頼でこちらの中古物件の調査に来ていまーす」
ヒーローだって
にじさんじってなに?
調査ってなにするのかな?
またあの不動産屋が人を寄越したのか
不動産屋さんもこりないわねえ。私たちは引っ越すつもりなんて無いのに
おい
おまえ
「くそがよ」
この人、ヒーローなのに口悪いね
今時の若いもんはちょっと文句が有るとすぐ悪態をついて、辛抱が足らんなあ
「あれだなー……まず雨戸開けて空気の入れ替えして室内の写真撮影して人の出入りの痕跡確認して懐に忍ばせたファブ一発噴霧してそれでもだめならユートピア戦法でどうしても無理なら最終手段ウェンくんお手製岩塩の大吟醸漬けシャワーで……」
怖がってるみたいだよ
今時のヒーローさんは怖がりでもなれちゃうもんなのね
まあ、放っておけば帰ってくれるだろう
おい
おぉい
きこえてるんだろう
おまえきこえてるんだろう
なぁ
おい
「おじゃましまーす!」
ああ
そうだな
こいつでいいや
こいつにしよう
こいつをつれていこう
【音声はここまでで途切れている】