ソルティドッグクラッシュアイスと、ウォッカ、グレープフルーツの果汁をまとめてシェイクして、グラスに注ぐ
おっと、塩が足りない
練習するとき、つい忘れてしまう
いつもいつも先生から、最初にグラスにレモン汁を塗って、塩をつけておきなさいと説明されるのに
「ん~?どしたの?」
ああお客さん、すみません
ちょっと練習してたんですよ
「ソルティドッグ?綺麗な色だよねぇ」
ついついグラスに塩をつけておくのを忘れちゃうんですよ
塩が無いと始まらないのに
「へ~。あ、良かったらこれ使って」
おや、お客さん珍しいもの持ってますね
法事の帰りかなんかでしたか?
「うん、ちょっとね」
じゃあ、お塩のお礼として、このソルティドッグはお客さんに
「えぇ、いいの?」
元々練習用ですから
「ありがと。それじゃ、乾杯」
電気が通らなくなって久しいバーカウンターに、それだけはまだ透明な美しさを保ったグラスを置く
もう30年ほど前、大きな地震で半壊したビルの中、この店のバーテンダーは発見された時、シェイカーを持ったままだったそうだ
最期の瞬間、彼はコンテストに出るために、カクテル作りの練習をしていたのかもしれない
清めの塩をグラスに添えて、赤城ウェンは誰に聞かせるでもないほどの小さな声で「乾杯」と呟く
ヒーローとしてというよりは、酒を愛する者として、年老いたある男からの依頼だった
弟子の命日に、グラスと塩を、と
あいつはいつも、ソルティドッグを作る時に塩をグラスに塗り忘れるから、届けてやってくれないか
そう言っていた彼は、昔この店で初代のバーテンダーとして働いていたそうだ
だから、いつものヒーロー活動時の服では無く、黒のジャケットにスラックスで、震災遺構として保存されたこの場所を訪れた
法事帰りのホストに見えると、仲間たちは笑っていたけれども
果たして、塩は無事届いただろうか
あの世なんて物が本当に有るのなら、いつか彼の師匠と一緒に、酒を作ってもらうとしよう
しばらく黙祷を捧げてから、傾いた入り口をくぐってその場を離れる
外へと足を踏み出す一瞬、背後でシェイカーを振るかすかな音が聞こえたような気がした
終