エンドロール 1冷たい熱を奪う
「僕は蛍が好きだよ」
昼下がりに落とされた言葉に蛍はぴたりと動きを止めた。彼の部屋で食事をしようと招かれて、テーブルの向かいに座り合いゆっくりお昼ご飯を食べて少し休憩していた矢先、彼はふと思い出したように口にした。
人とは違う黒く大きな耳。ワルカシュナという元は砂漠の民であった一族は森林に住むようになってから黒から緑の毛色に変わったとされている。彼の大きな耳と尻尾は黒を基調としているが時折緑色が混ざっていることから先祖の血が濃いのかもしれない。その大きな耳が時折ぴくぴくと動いている。頬杖をつきながら彼は何てことないというように穏やかな表情で蛍を見ている。
「……え」
彼の様子から、先ほどの言葉が間違いでも冗談でも何でもなく本気で告げられていることがわかって蛍は息を呑む。
嬉しい感情と絶望と。その両者が混ざり合って感情のコントロールができない。
「……ティナリ」
「僕は本気だよ、蛍」
名前を呼べば、ティナリは穏やかに言葉を紡ぐ。表情は変わらず穏やかに微笑んでいて蛍の答えを待っている。そんな彼に蛍は返事をしなければならない。胸がズキっと痛んだ。
「……ごめん」
「それは何に対して?」
「私は、ティナリの想いは受け取れない」
蛍の答えを聞いてもティナリは表情を崩さない。その様子に蛍は更に困惑する。何故彼はこんなにも表情を崩さずにいられるのか。蛍は彼の想いを今断ったのだというのに。
「ふふ、どうして落ち着いてるのか気になってる?」
笑みを崩さず、蛍の内心がわかっているかのような彼の様子に蛍は言葉を発することができずにじっと彼を見た。
「君が、僕の想いに応えられないのはどうして?」
質問に質問を重ねられる。口を詰むんでいても彼はじっと蛍の返事を待つだけで逃してはくれない。震えそうになる声かけてを抑えるためにゆっくりと息を吐き出すと蛍は口を開いた。
「私は、いずれテイワットを離れるから」
蛍の旅の目的は空を、兄を見つけることだ。その目的が果たされれば蛍はテイワットを兄と離れることになる。別れがくるとわかっていて、誰か特別な人を求めるのは酷なことだろう。
それでも蛍はティナリを好きになった。真意に森林とスメールを守ろうとする姿に、植物が好きなところに、少しだけ毒舌なところに、彼を形作る全てのものが愛おしく感じるようになった。だから、その想いを見ないように蓋をしていたのに。
気持ちが溢れないように、なるべく淡々とした声で答えるがティナリはそれでも態度を変えなかった。変わらず、世間話をしているかのように頬杖をついて、蛍に微笑んでいる。その表情が愛おしさを隠そうとしていなくて蛍は思わず身白いでしまうが。
「……うん。予想通りの答えだよ。でも、それが何だっていうんだい?」
あっけらかんというティナリに蛍は言葉を失う。動けずに蛍を見ながら、ティナリはゆっくりと立ち上がって蛍に近づいた。
「僕が嫌いとか、そう言われたなら流石に諦めるけど、いつかくるかもしれない別れの未来に怯えて今を諦めるなんて僕にはできないよ。僕を嫌いじゃないなら、僕は諦めない」
呆然とする蛍の頬に触れられる。ゆっくりと視線を向ければ彼は変わらず不敵に微笑んでいる。
「ティナ……」
「君が僕を嫌いになるか、受け入れるか。それまで諦めないから、蛍。覚悟して」
唇に柔らかいものが触れる。間近に見えるグラデーションのかかった翡翠の瞳が細められている。じっと見られているそれがティナリの瞳だと気づいて、蛍は慌てて彼を突き放す。ティナリは簡単に蛍を解放したが唇に触れていたものの正体に気づいて蛍は顔を真っ赤に染めた。
キスをされた。それも、蛍にとって、初めてのキスを。
現状と感情が入り乱れて正確な思考ができないまま蛍はティナリの部屋を飛び出した。慌ててガンダルヴァー村を蛍は飛び出したがティナリが追いかけてくることはなかった。
それから数日、蛍はガンダルヴァー村へ行かないように動いていた。ティナリがよく行くパルディスディアイにも。賢く、弁もたつ彼に鉢合わせて数日前のように迫られれば蛍はどうしていいのかわからなくなる。
数日前、キスされたことを不意に思い出してしまい顔に熱が集まりスメールシティの通路の真ん中で足が止まる。触れられたことが嫌だったわけではない。むしろ逆で、嬉しいからこそ蛍は困るのだ。感情にした蓋が開きそうになってしまうから。
くんっ、と突然腕を引かれて何かに身体がぶつかる。通路の端に寄せられたことに気づいて蛍は礼を言おうとして、黒を基調としたパーカーにふさふさとした黒く大きい尻尾が視界に映って言葉を失った。
「考え事するのはいいけど、通路の真ん中は危ないよ。気をつけて」
聞き慣れた声と安心する森林の香り。これは彼の家で調合された彼が身につけるオイルの香りだ。その香りが安心して心地良いと感じるほどに自分が好意を抱いていることを自覚せざる得なかった。
「……ティナリ」
「こんにちは、蛍。何か悩み事?」
説教をしているような真剣な表情から一点して、少し心配そうな表情に蛍はうめき声を上げることしかできない。ティナリのことで悩んでるなんて、当然彼には言えない。
「べ、別に。何でもない」
「そう?今は言えなくても言いたくなってら教えてね。無理だけはしないで。落ち着くハーブティーを淹れてあげるよ」
心底蛍の身を案じているのがわかって、先日のことで怒りがあったはずなのに冷たい態度で接するのも、と蛍は彼に向き直って笑みを浮かべた。
「ありがとう、大丈夫だよ」
向き直った蛍の表情にティナリは一瞬虚を突かれたように瞳を丸くして、苦痛に表情が歪む。どうしたのだろうかと蛍が見つめているとまた先日のように壊れものに触れるように頬に手が添えられる。
「……少し顔色が悪いよ。ちゃんと食べてる?寝られてる?」
その言葉は少しだけ耳が痛い。蛍はこの数日冒険者協会の任務を積極的に受けて動き回っている。それも、通常の倍の量を。パイモンには何度かもう少し少なくて良いのではないかと言われているが、蛍は今なるべく動いていたい。
時間を持て余してしまうと、どうしてもティナリのことを考えてしまうから。
「……僕の想いは蛍を悩ませてる?」
その言葉は蛍の胸に棘のように刺さる。違うとは言えない。しかし、彼のせいにしたくもない。なら、この葛藤は何から来ているのだろう。
「……違うよ。それに、私はティナリの想いを受け取れないよ」
ひやりと身体から血の気が引くような感覚を覚える。彼を否定する言葉を紡ぐ度に蛍は痛みを覚える。だから、会いたくなかったのに。
「それは君の事情によるのが理由でしょ。蛍の気持ちはどうなの。僕はそれが聞きたいんだよ」
頬に触れていた手が蛍の手を取る。力強く掴まれているわけではないのに、身動きが取れないような錯覚を覚える。このままでは、蛍は感情を抑えられなくなる。そっと手を抜き取っても彼が無理やり腕を掴んでくることはなかった。簡単なに振り払えてしまったことに何故か蛍の心は悲鳴を上げている。自分は何に傷ついているのだろう。
蛍は既に彼との関係をどうしたら良いか分からずにいた。ただ、友人として側にいられればよかったのに。
「……ごめん」
一言だけ絞り出された声は苦しげでティナリもそれ以上何も言えず、立ち去る蛍を見送ることしかできなかった。
「ほたるぅ〜大丈夫か?してほしいことはあるか?」
パイモンの今にも泣きそうな声が聞こえる。朦朧とした思考のまま蛍は声がした方へ視線を向けると彼女は今にも泣きそうなほど瞳に涙を溜めて蛍を見ている。
スメールシティでティナリと会ってから、蛍は更に多く冒険者協会の依頼を受けた。毎日毎日余裕なんてないほど走り回って、一週間が経った頃突然ベッドから起き上がれなくなった。まだここが塵歌壺の邸宅でよかったと蛍はぼんやり思う。野宿でこの状態になればどうしようもない。
無理をしすぎて身体が悲鳴を上げている。それだけは何となくわかった。
大丈夫、水がほしいの。
そう言葉にしようとしても声は出ず、白々と口を動かすのみ。蛍の様子を見てパイモンは更に泣きそうに表情を歪めている。違う、彼女を悲しませたいわけじゃないのに。
「うぅっ、オイラ!人を呼んでくるから待ってろ!」
颯爽と家を出て行ってしまったパイモンを呆然と見送り、蛍はゆっくりと視線を天井へ移した。身体は気怠く、ほとんど動かす気にならない。熱が上がっているのぶるぶると身体の震えが止まらない。身体は暑いのに手先からは熱が引いて冷たく感じる。
周りには誰もおらず、心細さを感じる。今まで体調を崩した時は側に兄がいたため蛍は寂しさを感じたことはなかった。一人は寂しい。誰かに側にいてほしい。でもそれは、誰でもいいわけではない。
空か、パイモンか、それとも。
「蛍っ!」
ばんっ、と勢いよく部屋の扉が開かれる。部屋に入ってきた大きな黒い耳を持つ彼の姿を見て、蛍はぽろりと涙を溢した。側にいてほしいと願った人が、今目の前にいる。
ティナリは横になる蛍の手を取って簡単な触診を始める。脈や体温を確認すると一旦ゆっくりと息を吐き出した。
「ただの夏風邪だ。よかった、変な病気とかじゃなくて」
「ティナリ、蛍は大丈夫か?」
「うん、おおよその状態はわかったよ。パイモン、悪いけど、コレイのところに行って夏風邪の薬草をコレイと一緒に持ってきてくれないかな。コレイに言ったらすぐにわかると思う」
「おう、わかった!行ってくる!」
パイモンはすぐに部屋を飛び出し、部屋には蛍のティナリだけが残る。脈を確認する際に腕を取られたまま、ティナリは蛍の腕を掴んでいる。
「はぁ、一週間前君を止められなかったのが今になって悔やまれるよ」
視線が合う。翡翠の瞳が悲しげに歪んでいる。
「無理はしないでって言ったよね?」
「ご、ごめんなさい……」
言葉を発しようとすると共に涙が溢れてくる。蛍の様子にティナリ少しだけ怖気づいたようで腕を掴んだ手はそのままに反対の手で彼女の頭をそっと撫でる。
「あ〜、違うんだ、ごめん。八つ当たりだよ。君を見ていたのに、君の無茶を止められなかったことが悔しいんだ」
頭を撫でて溢れる涙に唇を寄せる。またキスをされている、けれどそれを指摘する思考も気力も今の蛍にはない。あるのは、朦朧とした思考で感情のコントロールができずに、蓋が外れて溢れている想いだけ。
「ティナリ……」
「うん」
「ティナリっ」
「うん、いるよ」
大丈夫、と子どもをあやすように額にキスを落とされて。見ようとしていなかった気持ちが溢れ出して。蛍はもう口を紡ぐことができなかった。
「ごめん、ごめんねっ……。ティナリが好き」
泣きぐしゃりながらやっと言えた本音。同じ気持ちだと伝えたくて、同じ気持ちなのに彼を否定することしかできない自分が辛かった。
「やっと、蛍の気持ちが聞けた……。嬉しい」
浮かべる微笑みには愛しさが滲み出ていて、蛍は少しだけ胸の苦しみが減ったように感じた。
「でも、私は……いずれ……」
「いずれテイワットを離れるかもしれない。それを理由に想いを交わせないなんてそんな悲しいことを言わないで。未来の話はまだ変えられるんだ。例えば、君がテイワットに残る。もしくは君の旅に僕がついていく、っていう風にね」
ティナリが始めから言っていた、蛍の気持ちはどうなのだと。嘘をつくことも、彼を切り捨てることもできずにいた蛍はいずれ彼の腕の中に堕ちていく運命だったのだろう。しかし、蛍はそのことに今は微塵も後悔をしていなかった。
「なんだ……ちゃんと、言えばよかったんだ」
「そうだよ、だってこれは僕たち二人の問題だからね。一人で悩ませたりしない。一緒に考えるんだよ、その過程すら愛おしい時間になるから」
ぎゅっと頭を抱きしめられ、蛍はされるまま彼に身を委ねた。彼の温もりとオイルの香りはやはり蛍に安心感を与える。身体を襲っていた冷たい熱はすでになく、ぽかぽかと心が温かい。実際には、身体は熱を持っているため全身熱感があるのだが。
「さて、君を独り占めしたいけど今は体調を治すことが先かな。治ったら覚悟しておいてよ?」
きらりと一瞬瞳に背筋がぞわぞわするような光を感じたが蛍は分からないまま頷く。その様子にティナリは彼女がわかっていないことを理解したが、同意を得た。撤回はできない。
まずはコレイが持ってくる薬を飲ませて、十分に休ませて。
ふとあることを思い出してティナリはにぃっと悪巧みをするように笑って見せた。
「そういえば、風邪って誰かに移したら早く治るっていうよね。試してみる?」
え、と言葉にする前に蛍の唇は彼の唇に塞がれた。