未定 濡れた足音が二人分、他に誰もいない廊下に響く。
「着替えは持ってる? ジャージとか」
ようやく隣に並んでくれたグレイの顔をちらりと見ながら問うと、おずおずと視線を上げたグレイは湿った髪をふるふると揺らした。
今日は体育がないからないのか、それとも、捨てられてしまったのか。
後者かな、と思いながら、そっか、と敢えて明るい声を返す。
「じゃあ保健室行こっか。保健室なら着替えくらいありそうだよネ」
「……そこまで、しなくても」
笑いかけても返ってくるのは不安げな顔ばかりで、ぼそぼそと聞き取りづらい声はひたすら暗い。おどおどと周囲を見る目は、きっと、他に生徒が通りがからないか怯えているのだろう。誰かと遭遇したら脱兎のごとく逃げ出してしまいそうで、掴んだ手を離せずにいる。
安心させたくて、ぎゅ、と指に力を込める。びく、と震える感覚がして、でも、振りほどかれないのをいいことにぷらぷらと子どものように揺らした。
「そのまま帰ったら風邪引いちゃうってば~。タオルだけでも借りないと」
ネ、と言うと、迷い迷い視線を泳がせてから、彼はようやくこくりと頷いた。
幸い、放課後の校舎は閑散としていて、誰とも会わずに保健室までたどり着いた。
「失礼しマース!」
ドアを開けて大声で呼びかける。が、中には誰もいないようだ。落胆半分、安心半分。誰かしらに探りを入れたい気持ちはあるけれど、グレイの様子を見るに、教師陣もさほど頼りにならなさそうだから、警戒を解くにはいない方がいいだろう。
保健室に行くことを渋っていたのは、養護教諭に知られたくないか、知られても意味がないと思っているかのどちらかだ。まあそれはそうだろう。なにせ、相手が相手だ。理事長だって頼りにならないかもしれない。
なにせ、入学して半月も経っていないのに、グレイがあのアッシュ・オルブライトに虐げられていることは、もう全校生徒が知っているのだ。グレイを含む大半の生徒が中等部からの持ち上がりなのを差し引いても、あからさますぎる。
軽く探ってみたところによると、中等部三年のほとんどをいじめられて過ごしていたらしい。なぜ外部の学校を選ばなかったのかが不思議なくらいだ。ビリーだったらさっさと見切りをつけている。いや、そもそもそんな状況には陥らないだろうけれど。もう少しうまくやれるはずだ。
三年間ずっといじめられていたということは、誰も助けてくれなかったということだ。生徒も、教師も。見て見ぬふりの傍観者ばかりだった。ついさっきまでのビリーと同じ。
これからどうするか。こうして自分から関わってしまった以上、もう無視はできない。するつもりもない。したくない、と思ってしまった。自分らしくもない。
まあ先のことはあとだ。とりあえず、今日この場をどうするか。
とりあえず、躊躇して立ち尽くすグレイの手を引いて中に入る。鍵が開いていてよかった。
適当な椅子にグレイを座らせて、中を物色する。見た感じ、怪我はなさそうだから、目的はタオルと着替えだ。
カーテンで区切られたベッドには誰もいない。教師を目指す校風もあって、部活動もそう盛んではないから、放課後まで残る生徒の方が少ないのだ。
壁際に並ぶ棚にきちんと折りたたまれたタオルを見つけた。お借りしまーす、と意味のない断りを入れてから数枚取り出して、所在なさげに足をそろえて座るグレイのもとに戻る。
「とりあえずこれで体拭いて~」
「で、でも……勝手に使ったら……」
「洗って返せば怒られないヨ。着替えはないのかな? もう少し探してみるから、待っててネ」
まだ躊躇しているグレイにタオルを押し付ける。ひゃっ、と小さく悲鳴を上げて、でも、押し返すことはできない弱さが色々な枷になっているのだろうな、と思った。
おずおずと髪を拭い始めたグレイを残して、着替え探しを再開する。ついでに、何かいい情報がないかなー、と寄り道しつつ。残念ながら、いたって普通の保健室だったので、救急箱と、保健室の利用記録の名簿くらいしかなかったが。着替えもなかった。
「んー、着替えは置いてないみたいだネ」
「あ……あの、大丈夫、だから。帰り道で乾くと思うし……」
「というか、上着は? シャツ一枚で来たわけじゃないデショ?」
「……」
小首を傾げて尋ねると、グレイはふいと視線を落とした。
「……外に、あると思う」
「外? なんで……あー」
聞き返してから、ナルホド、と勝手に納得する。剥ぎ取られて、放り捨てられてしまったのだろう。いじめの定番だ。
毎日洗濯するの大変そう、なんてのんきなことを思いながら、すっかりしょげて俯いているグレイに明るく笑いかける。
「じゃあ、それ取ってくるネ。どこにあるの?」
「えっ? そ、そんなことまで、させられないよ。自分で行くから……」
あわあわと立ち上がろうとするグレイの肩に手を置いて、もう一度座らせる。意外と頑固だ。それとも、人に頼るのがとてつもなく下手なだけだろうか。
あいにく、ビリーも頑固さでは負けていない。悪友かつベスティいわく、蛇のようなしつこさだよね、だそうだけれど、それも自分のチャームポイントだと主張しておこう。まあ、認めてはくれないだろうが。
戸惑いの眼差しで見上げてくるグレイに、も~、と子どもっぽく唇を尖らせてやる。
「そのまま外出たら風邪引いちゃうってば~。どこ? トイレの窓から投げられちゃった?」
「……」
沈黙が答えらしい。嘘の吐けない人だ。ぐ、と色のない唇を噛みしめて黙り込むグレイのつむじを見つめて、思わずそこに手を伸ばしそうになってからはっとなって動きを止める。今、自分は何をしようとしたのだろう。
ぱっと手を引いて、後ろに隠す。明るい笑顔を取り繕って、くるりと踵を返した。
「ここで待っててネ。すぐ戻ってくるから!」
「あっ……!」
追い縋る声には気づかないふり。
軽快な足取りで保健室を出て、乾きかけの濡れた足跡を避けながら渡り廊下に向かう。そのまま外に出て、ぐるりと回って校舎の裏へ。
人が滅多に通りがからない草の生い茂ったそこに、目当ての物はあった。
「あったあった~、っと……ワオ、すごい状態だネ」
紺色のカーディガンと指定のブレザーはいかにも剥ぎ取られたと主張するみたいによれよれで、土で汚れてしまっている。ショルダーバッグは敢えてジッパーを開いた状態で投げられたようで、筆箱も教科書も、スマートフォンやゲーム機まで無残に散らばっていた。
「中身ばらばら~……まあ、全部水浸しよりはマシかな?」
五十歩百歩な気もするが。ビリーだったら、自分のものをこんな状態に汚されたら、壊れていなくても絶対に仕返しをする。それができないから、ずっといじめられているのだろうけれど。
正直、触るのも躊躇われる状態だが、自分から買って出た以上は仕方ない。そっと持ち上げて、ぱっぱと土埃を払ってから服を軽く畳む。鞄の中身も全部同じようにして、中に全部収めてから肩にかけてその場を後にした。
「ただいま~! おかえり~!」
逃げてないよネ、とちょっと心配しつつ、敢えて勢いよく扉を開けて声を張る。
「あ……」
グレイはワイシャツとインナーを脱いで、タオルで上半身を覆っていた。大声に驚いたのか、びくびくと首を竦めてこちらを見たグレイの顔が安堵で僅かに緩むのが見えて、なぜか、むずむずとくすぐったい気持ちになる。
「お、かえりなさい……」
「! えへへ、ただいま~」
控えめにかけられた言葉で、そのむずがゆい感覚が嬉しさなのだと気づいた。いや、何がそんなに嬉しいのか。こんな些細なことで喜ぶのはおかしい気がする。
いやいや、人見知りする犬猫に懐かれたみたいなものだ。そんなにおかしくない。たぶん。きっと。やけにうるさい心臓の音だって、らしくないことをしているからだ。そうに決まっている。
妙にざわざわ落ち着かない気持ちは見ないふりをして、たたっと駆け寄る。
「先生は戻ってこなかった?」
「う、うん……もう、帰っちゃったのかも」
「そっか~。じゃあ仕方ないネ」
いない方がむしろ都合がいい、とは言わないでおく。せっかく警戒心が解けつつあるから、他人に横やりを入れられたくはない。情報収集はしたいけれど、それは本人がいない時にしよう。
はい、と、座ったままのグレイに荷物を差し出す。
「上着と鞄、取ってきたヨ~」
「あ、ありがとう……」
「シャツは乾きそう?」
脱いだシャツは申し訳程度に椅子にかけられていて、晴れているとはいえまだ肌寒いこの季節では完璧に乾くまでに時間がかかりそうだ。
ただでさえ白い肌はさらに色が薄れていて、手のひらで腕をさする姿は痛ましい。
ちらりと室内を見渡して、隅に追いやられている石油ストーブに目が留まる。
「ストーブつけちゃう?」
指さして首を傾げると、グレイは迷うように視線を揺らした。
「それは、流石に……」
「非常事態だし、怒られることはないと思うけどな~」
「でも……」
「グレイは気遣い屋さんだネ~」
「え?」
きょとん、とグレイが瞬く。
「遠慮しいっていうか……ん? そんなに驚くこと?」
「い、いや……その……」
ただ思ったままに感想を言っただけなのに、グレイはぽかんと信じられないような顔をしていた。口ごもる様を急かさずに待っていると、なぜかほんのり頬を染めたグレイが、おずおずと見上げてくる。
「……僕の名前、知ってたの?」
「へ?」
もじもじと指先をこすり合わせるグレイに、今度はビリーがきょとんとする番だった。
「そりゃ知ってるデショ。クラスメートだもん」
半分本当で半分嘘。クラスメート、いや、同学年だけでなく全校生徒のプロフィールは頭に入れているのだ。それでなくても、あんなにあからさまにいじめられているクラスメートのことを知らずにはいられないだろうけれど。グレイの方がビリーよりもずっと有名人のはずだ。言ったら気にするだろうから言わないけれど。
「えっ、もしかして、グレイはオイラのこと知らない!?」
本当に今までずっとぼっちだったんだな、なんて失礼な感想はおくびにも出さず、ビリーは敢えて大仰に驚いてみせる。口を押さえて、オーマイガッ、と悲鳴を上げると、グレイは大慌てでぶんぶん首を振った。
「し、知ってる……! ビリー・ワイズくん、だよね……?」
「よかった~! もしかして認識されてないのかと思ったヨ!」
これは本当。ひょっとしたら、クラスメートの大半を覚えていないのではないかと思い始めていたから。
また一歩距離が縮まったことに満足して、ビリーはにっこり笑う。
「とりあえず着替えたら?」
「あ、うん……」
言って、グレイはビリーが回収してきたカーディガンではなく、まだ湿っているワイシャツに手を伸ばした。
「え、それ着るの? まだ濡れてない?」
「あ……えっと、上着を着こんじゃえば、たぶん大丈夫だと思う……」
「え~? 気持ち悪くない?」
「……へいき」
ちっとも平気じゃなさそうな顔だ。諦め混じりなところを見るに、普段からこうして我慢しているのだろう。今日のようないじめは初めてではない、ということだ。
本人が平気と言い張る以上、止めることもできない。ビリーもジャージは持っていないし、他に着替えがないのだから。
もそもそと濡れて汚れた制服を着直すグレイを、手持無沙汰に待つ。ちらりと見えた背中や首筋の根性焼きらしい傷痕は、見ないふり、気づかないふり。本人のためにも、未だどこまで踏み込むべきが決めかねている自分のためにも。
ちくりと傷んだ心にも、気づかないふりをした。
着替え終えたグレイが、あの、と小さく言う。くるりと振り返って、強張った顔をまっすぐ見返す。
「ビ、ビリーくん……」
「ん~? なぁに?」
「……今日は、本当にありがとう」
こてんとあざとく首を傾げて敢えて軽く返したのに、グレイの顔も声も真剣そのものだ。どういたしまして~、と笑いかけても、笑顔はおろか瞬きすらもない。さっきまでろくに目を合わせられなかったのに。
ぎゅ、と右手でシャツの胸元を握り締めたグレイが、ゆっくり口を開いた。
「でも……僕とはもう関わったらだめ」
確かな決意を湛えた顔に、自分の顔から笑みが溶けるように消えたのがわかる。
「……なんで?」
零れた声は、自分でも驚くくらいに狼狽えていた。
おかしい。自分はもっとうまく演じられるはずなのに。これでは、本心からグレイの拒絶に傷ついているみたいじゃないか。
いや、大丈夫。ゴーグルをしているから多少は取り繕えているはず。
そう言い聞かせながら、グレイの言葉を待った。
少し間を置いてから、わずかに目を伏せたグレイが弱弱しく首を振る。
「……ビリーくんまで、いじめられちゃうから」
トイレから連れ出そうとした時と同じ声だった。
今にも泣き出しそうで、ちっとも大丈夫じゃなさそうなのに、ビリーのことを思いやって突き放す、かわいそうな声。
本当は助けてほしいのに、助けないで、と言うことしかできない、かわいそうな人。
「やだ」
「え?」
考えるよりも先に、言葉が飛び出した。
ああ、やっちゃった。本日二度目の後悔。
関わるにしたって、もう少し上手なやり方があったはずなのに。どうしてこうなってしまうのか。
本心を笑顔で隠して、自分は踏み込むけれど相手には踏み込ませない。それが自分の生き方だったはずなのに。
でも、吐き出した言葉はもう元には戻らない。毒を食らわば皿まで、だ。
呆気に取られているグレイに向かって、ぷう、と頬を膨らませる。
「だってボクちん、グレイのこと気に入っちゃったもん。友だちがいじめられてるのを見て見ぬふりなんてできないヨ」
「と、友だち……?」
「友だちデショ?」
どの口が、と自分でも思う。今までずっと、見て見ぬふりをしてきたくせに。今だって、純粋な気持ちじゃないくせに。
友だち、という言葉に一瞬目をきらめかせたグレイは、しかし、すぐにぶんぶんと首を横に振った。
「そ、それなら、なおさらだめっ……! こんな僕なんかに優しくしてくれるビリーくんを、巻き込みたくないよ」
「オイラだって、グレイがいじめられてるの嫌だヨ~! 俺っちなら大丈夫! 世渡りは上手な方だからネ。気にしないで!」
「……だめ」
「も~! グレイってば頑固!」
「だ、だめ……!
頑なに頷かないグレイに、本当に焦れてきた。子どもみたいに唇を尖らせてみせると、困ったように眉を下げるくせに、うんとは言ってくれない。確か、年の離れた弟妹のいる長男だったはずなので、おねだりに弱い反面、こうと決めたことに関しては窘める意味合いも含めて譲らない強さがあるのだろう。
むむむ、と唸って、頭をフル回転させる。このまま関係を断ちたくはない。どうすれば納得するのだろうか。
考えて、考えて、辿り着いたのは、最初から見据えていた選択だった。
「じゃあ妥協案! みんながいないところで今日みたいに助ける、っていうのはどう?」
「え?」
「それならオイラは巻き込まれないデショ? 放課後にこんな感じでおしゃべりするとか、そのくらいなら平気だよネ」
卑怯者。
心の奥で、なけなしの良心がなじる声が聞こえた。
本音を隠さず言うならば、ビリーだって面倒事には巻き込まれたくない。ビリーには、達成しなくちゃいけない目標があるから。そのためなら、なんだってする。なんだってできる。悪いことも、卑怯なことも。
それでも、助けたいと思ったのは事実だ。もっとうまくやる方法があったのに、こんな形で関わりを持つことになったのは、見て見ぬふりに耐えられなくなったから。
打算の方が多い、偽物の親切。
それなのに。
「僕なんかのために、そこまでしてくれるの……?」
グレイは、本当に感動したように目を潤ませた。
少し考えれば、ビリーの提案が本当の助けにはならないとわかるはずだ。グレイの成績は悪くないどころかトップクラスで、この過酷な環境の中でもほとんど順位を落としていない。
そんなことに気づけないくらいに、人の優しさと助けに飢えている少年を、馬鹿だなぁと思うのと同じくらいに、愛おしく思ってしまった。
ぽろり、と涙が一筋頬に落ちる。ぽろぽろと零れ続ける涙を慌てて袖で拭って、グレイは照れくさそうにはにかんだ。
「……ありがとう。ほんとうに、うれしい……」
初めて見た君の笑顔は、まぶしくて、きれいで、とてもじゃないけれど笑い返すことができなかった。