未定 百万東大学教育学部付属高等学校。
百万市が誇る唯一の国立高校で、教育学部を志す者が集う学校。
これだけ聞くと、さぞや御大層で高尚な学校に見えるが、要するにハイスクールで、十代の思春期真っ只中な子どもたちが通う場所ということに変わりはない。
教師を志す、なんて言えば、意識が高く真面目で勤勉で性根のいい子どもたちばかりのイメージかもしれない。清く正しく人を思いやる心を持ち、支え合い助け合いながら過ごしているのだと。
そんなわけがないのだ。だって、自分を含めた生徒たちは、まだまだ未熟な子どもたちなのだから。
だから。
「……」
水浸しの床を見つめて、その水源らしき一番奥の個室に視線を移す。ぴちゃ、ぴちゃ、と、まだ小さな水音が聞こえてくるのを見るに、彼はまだそこにいるらしい。
どうしようかな~、とは心の声。足音を忍ばせてきたから、きっとまだ気づかれてはいない。このまま立ち去るのも一つの手で、その方がこの先穏便に過ごせることもわかっている。処世術としてはそれが正しいし、今までの自分はそうやって生きてきた。そうやって生きる術しか知らない。
他人事。面倒事。厄介事。
そういったことからうまく逃げて、すり抜けて、見て見ぬふりをして。
だって、自分には目的があるのだ。安定した職について、父に楽をさせてあげること。そのために、この学校を選んだ。
見なかったことにすればいい。臭い物には蓋をして、見えないものはないものに。
入学したばかりの四月の初旬から、トラブルに関わるなんてもってのほかだ。それも、これはかなりのビッグトラブル。絶対に避けなくちゃいけないことだ。
それなのに、ビリーの足は、濡れて汚い床の上を滑るように動いて、そのドアに近づいている。
汚いのは嫌いだ。首の後ろがもぞもぞする。名門学校らしく手入れも掃除も行き届いているけれど、この中はきっとひどいことになっている。見るのも嫌だし、触るのも絶対に嫌だ。
それなのに、どうして。
手袋に包まれた手を伸ばして、ドアを勢いよく開く。
ああ、やっちゃった。もう引き返せない。
「あ……」
あえかな声は、ずぶ濡れのまま便器に座り込んでいる、同い年の少年から発せられた。
グレイ・リヴァース。
ビリーと同じ一年A組の生徒で、クラスの支配者から疎まれ、虐げられている少年。クラスに一人はいるいじめられっ子。スクールカースト最下位の存在。誰もが無視をして、それを許されている子。
いつも視線は床に向いていて、すらりと長い体躯を小さく丸めて存在感を消している、地味で暗い生徒だ。
まともに話したことはない。ビリーはさっさと安全圏のグループと仲良くなっていて、最上位のグループとも最下位のグループとも関わりはないように過ごしていたから。それが処世術だ。これから先の学校生活を穏便に過ごすための。
話しかけるつもりだってなかった。明らかにいじめられっ子のオーラをまとって、常に小突かれていじめられているクラスメートになんて。
関わったら終わりだ。こんなことをして、彼に目をつけられたらどうする。平和な学園生活はご破算。メリットなんて一つもない。
わかっているのに。わかっていたのに。
突然入ってきたビリーを、グレイは驚いた顔で見上げている。いつもは伏せがちな瞳は大きく見開かれて、寒さで色がなくなっている唇もぽかんと薄く開いたまま。
濡れた髪が貼りついた頬や額は心配になるくらいに青白い。自分を守るように抱き締めている手も、制服に包まれた体も震えていて、それは寒さだけでなく恐怖によるものだと、すぐにわかった。
ゴーグル越しに視線が合うと、彼はぱっと顔を伏せて、さらに体を縮こまらせた。ぎゅっと膝が合わさって、上履きの爪先が落ち着きなく動く。
怯えられている。ビリーはまだ、何もしていないのに。
いや、何もしていないから、怖いのだ。手を下してはいないけれど、助けてくれもしない、その他大勢のクラスメートと同じだから。
気づかれないようにそっと息を吸って、細く吐き出す。
「HAHAHA~! 今日は綺麗なサニーデイズなのに、ここだけ大雨注意報が出てたのかナ~? 驚きだネ!」
薄暗く湿っぽいトイレの中で、場違いなほどに明るく大きい声を出す。表情もがらりと変えて笑ってみせると、びくついて顔を上げたグレイは、またぽかんと呆けた顔をした。
「あ、え……?」
「まだまだ寒いのにそーんなずぶ濡れじゃ風邪引いちゃうヨ! とりあえず、拭いて着替えなきゃネ~」
何が何だかわからないという顔をしているグレイに手を伸ばす。すると、グレイはまた一つ大きく体を震わせて、ヒッ、と小さな悲鳴を上げた。
「あ……あ、の……」
「いいからいいから。とにかく立って~」
身を守るように胸の前に上げられた手を掴む。すっかり濡れて冷えきっていた。
がたがた震えているけれど、振り払うだけの力はない。掴んだままぐいぐい引くと、戸惑いながらも立ち上がってくれる。
瞳にはまだ困惑の色が浮かんでいて、薄い唇が、なんで、と音にならない疑問を零す。
それに気づかないふりをして、狭い個室から彼を連れ出す。そのまま出口に向かおうとしたところで、ようやく抵抗が返ってきた。
「あ、あのっ……! ま、まって、だめ……!」
「なにが~?」
振り返らずに掴んだままの手を引く。抗う力は意外と強くて、でも、濡れた足元では踏ん張りはきかない。
散歩を嫌がる犬を引っ張ってる気分、と呑気なことを考えていると、だめ、とまた弱々しい声が聞こえた。
「……おねがい、だめ。はなして、ください」
今にも泣き出しそうな声に、ふう、とため息を吐いて振り向くと、案の定、彼の黄金目には涙の膜が張っていた。顔面蒼白でがたがた震えるグレイは見るからに怯えていて、ちょっと強引すぎたかな、と反省する。思ったよりも警戒心が強い。
それとも、ビリーをいじめっ子たちと同じだと思っているのだろうか。これからまた虐げられるとでも。
少々心外だけれど、今まで一度も助けに入ったこともないのだから仕方がない。とにかく害意はないと示す方が先決だろう。
そう思って、丸め込む言葉を探していたビリーよりも先に、グレイが口を開いた。
「……僕のこと、た、助けたら、だめ」
予想外の言葉に、今度はビリーが驚いて目を丸くする番だった。
動きを止めたビリーの手に、細い指先が触れる。触らないで、と言わんばかりに、でも、壊れ物を触るような繊細なタッチで。
濡れた髪の間から、諦めきった目が見える。
「君まで、まきこまれちゃう、から……」
僕には話しかけないで、と、か細い声。猫背のせいで、ビリーよりもずっと長身なのに覗き込むような上目遣いで、薄い唇をぎゅっと噛み締めて。
濡れて貼りついた制服が、彼の細さを物語っている。白いワイシャツが透けて、体や腕に残る傷痕が見えた。
痛々しくて、弱々しい。今にも壊れてしまいそうなのに、こんなに震えているのに。
こんな時まで、君は、他者の心配をするのか。
ああもう、こんなの、ずるい。
「ごめんネ、よく聞こえなかったや!」
きょとり、とあざとく首を傾げる。必死の懇願をさらりと流されたグレイは、本日何度目かのぽかん顔を披露した。
「へ……?」
「とにかく、ここ寒いから早く行こうヨ~! ほらほら、こっちこっち~!」
からりと笑ってみせて、呆気に取られているグレイの腕をぐいぐい引く。ビリーの指を引き剥がそうとしていた手はあっさり離れて、つんのめるようにして足が動いた。
「あ、まって……!」
だめ、おねがい、と追い縋るような声に、ビリーはちらりと振り返って、混乱しきっているグレイに向かって、にっこり微笑んだ。
「大丈夫だヨ」
「え?」
不揃いな水を含んだ足音。濡れた感触は気持ちが悪いはずなのに、まったく気にならない。
未だ困惑しているグレイに、ビリーは自信たっぷりに言い放つ。
「大丈夫だから。心配しないで、ネ?」
助けてほしいのに、助けて、の一言が言えない、臆病な君。
あんなに震えて、あんなに怯えて、あんなに泣いていたのに、拒むことで守ろうとする君。
虚勢は聞いてあげない。だって、グレイはそれより先に、ビリーに助けを求めたのだから。
扉を開けた時の君の顔は、確かに、助けて、と言っていたのだ。