アプローチをかけないで ――抜いた!
相手チームのDFをドリブルでかわし、一気に視界が開けた。ここからであれば確実にゴールを狙える。そう思って鯉登が蹴り上げようとした瞬間、目の前に現れた選手が足を差し込んできた。
誰だ、コイツは。咄嗟に身を翻して避けたものの、バランスが崩れて放たれたボールはクロスバーに直撃した。
チッと舌打ちをして振り返ると、目に入ったのは背番号4番のビブス。鯉登よりも背が低かったが、傍から見ても分かる筋肉量でガッチリとした体型の選手だった。
夏の全国大会、決勝戦。結果は2対1でこちらが勝利した。この2得点はいずれも自分が決めたものだったが、鯉登は腑に落ちなかった。ユースチームでも部活でも、中学生になってからシュートを阻止されたことは一度もない。単純に悔しかった。
試合終了のホイッスルが響き渡り、相手チームと握手する。鯉登は辺りを見回して、ベンチへ戻ろうとする背番号4番の肩を掴んだ。
「おい」
「はい?」
「貴様、名を何という」
「月島です」
「下の名前は?」
「……基。月島基です」
つきしまはじめ。頭の中で何度か反芻してみたけれど、聞いたことが無い。昨年の新人戦にもいなかったはずだ。ということは、今回の大会からレギュラー入りしたのか。
それにしてもいかつい様相とは異なり、敬語で返されて鯉登はいささか面食らった。
「もういいですか?」
鯉登が固まったまま動かないので、覗き込むように声をかけてきた。鯉登の不遜な態度にも苛立つ様子はなく、月島は不思議そうな顔をしていた。
聞きたいことが山ほどあるのに言葉が出てこない。どうして自分のシュートを止められたのか。いつからサッカーをやっているのか。なんで――
「では、」
会釈してその場から離れようとする月島の一声で、頭の中を駆け巡った疑問は弾け飛んだ。
「……からな」
「え?」
「次会ったときは、負けないからな」
無意識に月島のビブスを引っ張り、口をついて出たのはそれだった。チームとしては勝ったはずなのに、どうにも負けた気分でやるせない。
目を見開いたあとに「はい」と答えた月島は、鯉登に背を向ける寸前、少しだけ笑っているように見えた。
*
あの試合以降、自分のシュートを止めた月島のことが気になってしまい、相手チームを調べてみたがたいした情報は無かった。個人の戦績もさほど良くなく、こうなるとまぐれだったのかと思えてくる。
いや、そんなことはない。かぶりを振ってベッドに突っ伏す。月島が飛び出してきて視線がかち合った刹那、ぎらりと獰猛な瞳を向けられた。あれは確実に“狩る”つもりだったはずだ。今思い出しても背筋がゾクゾクする。
鯉登は一方的に月島をライバル視し、次に相まみえた時は必ず振り切ってゴールを決めてやる、と静かに闘志を燃やした。
そして何故だか分からないけれど、心のどこかできっとすぐに会えるだろうと思っていた。だが現実はそう甘くない。
中学3年生は夏の大会を最後に引退して、高校受験に専念する者も多かった。鯉登の進学先は大湊第七高等学校でほぼ決まりだ。6月にセレクションと呼ばれる選考会へ参加し、既に合格をもらっていた。これは強豪校で行われているスポーツ推薦のようなもので、中学の内申点と合わせて評価される。それなりのサッカー名門校であれば倍率は高く、落ちる人も多い。
星の数ほど高校があるというのは分かっていながらも、セレクションでそれとなく月島の姿が無いか探してしまった。当然見つけることはできず、そもそも何日にも分けて行われるため、参加していたとしても同じ日という可能性はかなり低かった。
また鯉登はユースチームでスペインの短期留学に参加することになり、中学卒業まで国内の試合へ出場する機会がめっきり減ってしまった。
そうしてバタバタと過ごしているうちに、気が付けば高校の入学式があと数日に迫っていた。自分の部屋にかけてある学ランを触る。これを着て、あの憧れの高校でサッカーができるのかと思うと、自然と頬が緩んだ。大湊第七高等学校は、大好きな兄・平之丞の母校でもある。
毎日チェックしていた天気予報の通り、入学式当日は雲ひとつない快晴だった。暖かい春の日差しを受けて、咲き誇る桜の下で写真を撮った。兄さあが仕事の都合で来られなかったのだけが残念だ。
昇降口で両親と別れて、案内に従って講堂へ向かう。するとカシャン、と音がして足元を見ると何かが落ちていた。屈んで拾い上げたのは、サッカーボールにイニシャルのHが付いたキーホルダー。前方にはそれを落としたと思しき坊主頭の学生がいた。自分と同じ新入生だろう。それに、もしかしたらサッカー部に入部するやつかもしれない。
「これ、落としたぞ」
「ありがとうございま――」
「ん……?」
「あれ、」
「つきしまはじめ!!」
自分でも引くほどの大声を出してしまった。慌てて手で口を押さえる。幸い周りの人は少なかった。入学初日で変人扱いは勘弁だ。鯉登が再び口を開こうとするよりも早く、月島が話し始めた。
「すみません、急いでて。また後で」
「キエ!? あっちょっと……!」
月島は鯉登の手から奪うようにキーホルダーを掴むと、小走りでその場から立ち去ってしまった。
一人残された鯉登はしばらく呆然としていたが、「新入生の皆さん、入学式の10分前です。そろそろ講堂へ――」と教員に促されハッとする。
講堂の入口で配られた紙にはクラス分けが書かれていた。自分は……1-Aか。そのまま目線を下げていく。斎藤……鈴木……立花……月島。同じクラスだ! また大きな声が出そうになって言葉を飲み込む。
講堂に入ると上級生に誘導され、席についた。まだ名前も知らない両隣にとりあえず「よろしく」と挨拶する。
月島の席は2列ぐらい後ろな気がして見てみたが、おそらくここだろうという所だけぽっかりと空いていた。もう時間になるというのにトイレだろうか。結局そこに人が戻ってくる気配は無いまま、入学式が始まってしまった。
国歌斉唱、校長先生の式辞……式は粛々と行われた。来賓からの祝辞が終わり、次は新入生誓いの言葉。いわゆるスピーチで、成績優秀な生徒や特待生が任されることが多い。中学の成績も常にトップだった鯉登からすれば、加えてスポーツ推薦で入学した自分に声がかからなかったのはやや不服であった。
さて、どんな奴が話すのか。壇上へ上がる階段に顔を向ければ、目に飛び込んできたのは探していた月島の姿だった。
「月島!?」
思わず立ち上がり、折り畳み式の座席がバンとむなしく鳴る。……ああ、やってしまった。壇上へ向いていた視線が一斉に自分へ集まる。担任と思しき先生に注意され、大人しく座り直した鯉登は肩をすくめた。
月島はというと、赤っ恥をかいた鯉登のことなど気にも留めず、淡々と誓いの言葉を読み上げ始めた。まだ笑ってくれたほうが恥ずかしさも紛れたというのに。
残りの時間は何も頭に入ってこなかった。閉式の言葉が終わって皆が立ち上がるのを見て、教室に移動する流れになったことに気づく。歩きながら同じクラスの奴らに「月島と友達なの?」と聞かれたりして、「まあそんなところだな」と答える。正確にはこれからなるんだが。
黒板に掲示されている出席番号順に座れば、さ行の生徒が少なかったおかげで奇跡的に月島が隣になった。ここまでくればもはや運命ではないか。
少し遅れて教室に入ってきた月島が席を確認しようとしていたので、「こっちだ!」と声をかけて手を振る。先程のすました顔とは打って変わって、気恥ずかしそうに鯉登の席に駆け寄ってきた。
「貴方ねえ……そんな大きな声出して恥ずかしくないんですか」
「だって月島と早く話したくて。ダメだったか?」
「いやダメじゃないですけど……」
なんか調子狂うな、と月島が呟く。ああ、昨年から探していた男が目の前にいる。何から聞けばいいものか。生い立ち、サッカーを始めた理由、何故この高校に決めたのか。ただ、今一番気になることはこれだった。
「なあ、月島もサッカー部に入るだろう。やはりポジションはDFか? おいとお前が組めば無敵だと思うんだが――」
「ああ……今のところ入部するつもりは無いです」
「ないごて!?」
「だから声が大きいですって!」
月島に口を塞がれるもお構いなしにむぐむぐと動かした。そんな馬鹿な。このサッカー強豪校に入学しておいて、それは無い。しかもサッカーをやっていた者が。手をどかし鯉登が詰め寄ろうとして、「ホームルーム始めるぞ」という担任の声で会話は中断された。邪魔しおって、と心の中で悪態をつきつつ号令に従う。
時間割が配布され、明日からの流れについて説明が始まった。半分聞き流していたが、隣を見ると月島は真面目にメモを取っていた。今後分からないことがあれば、聞いたときに全て答えてくれるだろう。……おまけに小言がついてきそうだが。
あとは自己紹介をしたら各々解散。適当に済ませて早く月島と話の続きがしたい、とそればかり考えていた。
「鯉登音之進だ。出身は鹿児島県で、中学から東京に住んでいる。部活はサッカー部に入部予定。よろしく」
他には趣味や特技、抱負など長々と話している奴もいたが、正直間延びしてだるいし、どうでもよかった。月島の自己紹介を聞ければそれでいい。
「月島基です。よろしくお願いします」
……それだけ? 何一つお前のことが分からないじゃないか。後ろの奴も自分の番が回ってくるのが早すぎて驚いているぞ。鯉登は席を立ち、座ろうとする月島を指した。
「たぶんコイツもサッカー部に入る」
「は!? 何を勝手に……! 違います!」
「違わん!」
漫才のようなやり取りに皆が笑う中、キッと月島に睨まれた。あとで怒られそうだけど仕方がない。「おーい、もういいか? じゃあ次」と呆れ顔の担任が進めてくれたのでその場は収まった。
数十分後にホームルームが終わり、やっと話しかけられると思ったら月島は鞄を持ってそそくさと帰ろうとしていた。「待て、」と腕を掴んでもこちらを向こうとはしなかった。
「まだ時間あるか?」
「……」
「さっきのこと、怒ってるのか。なら申し訳なかった」
「……案外素直なんですね」
ため息をついて月島は机に腰かけた。一応聞こうとする態度を見せてくれたので、話を続ける。
「しつこいようだが、本当にサッカー部には入部しないのか?」
「……迷っている、というのが本音です。続けたい気持ちはありますけど、高校はバイトに専念しようかと」
バイトを優先するということは金銭的な面が関わっているようだ。あまり他人が口を挟んでいい問題ではないことは鯉登にも分かった。でも月島とサッカーがしたい。まだ迷っている段階なら背中を押せばチャンスがあるかもしれない。
「月島。サッカーで勝負して、おいが勝ったら入部しろ」
「……何でそんなこと、鯉登さんに決められなきゃいけないんですかね」
「去年の夏、お前にシュートを阻止された。覚えてるだろう?」
「それは……でも貴方のチームが勝ったじゃないですか」
「初めてだったんだ、止められたの。今でもあの光景が目に焼き付いて離れない。宣言した通り、もう一度月島と勝負したくてずっと探していたんだ」
「そこまで、ですか」
月島は黙り込んで思案しているようだった。ここで断られたらおしまいだが、少しでもサッカーをやりたいと思っているなら、乗ってくるだろうと鯉登は踏んでいた。
「……分かりました。いいでしょう。その代わり、俺が勝ったら文句言わないでくださいね」
「ふふ、もちろんだ。男に二言はない!」
約束を取り付けることに成功し、内心ほっとした。向こうの気が変わる前に、と明日の放課後勝負することに決めた。月島と別れたあと、まずグラウンドを使用できるのかサッカー部の顧問に確認しようと職員室へ向かう。本来であれば最初に許可を取るべき事項なのだが。
どうとでも理由をつけることはできたけれど、鯉登は嘘がつけない性質なので月島とのことを馬鹿正直に伝えた。顧問は渋い顔をしながらも、「随分急だな。まあお前の実力をはかる良い機会か」とあっさり承諾してくれた。
グラウンドとは別にミニゲーム用のコートが2面あるから、そちらであれば部活が始まるまでの時間は使って構わないとのことだった。
「その月島ってのは、そんなに上手いのか? 俺もよく知らないんだが……」
「私のシュートを止めた男です。ぜひ一度ご覧になってください」
この対決には鯉登の思惑があった。自分たちが派手に戦えば、ギャラリーは増え人目に留まるのは必定だ。敗北はあり得ないが万が一鯉登が負けたとしても、月島のような逸材を顧問やコーチはそう易々と逃さないだろう。どちらに転んでも月島は入部することになる。妙案だと頷きながら職員室を後にして、鼻歌交じりに靴を履き替えた。
勝負のことで頭がいっぱいで、興奮していたのか昨日はなかなか寝つけなかった。授業中も隣ばかり見ていたら「視線がうるさい」と月島に怒られた。
放課後、ヘアバンドで前髪を押さえながらグラウンドに出ると、約束通りきちんとユニフォームに着替えた月島がコートに立っていた。
「1対1のゲームで、私が打てるシュートは5本まで。これを全て止められたら月島の勝ちだ。いいな?」
「分かりました」
「では、始めるぞ」
開始の合図と同時にボールを蹴り飛ばし、一気にゴールへ近づく。先手必勝だ。足の速さにも自信がある。ついてこれる者は少ないが――やはり月島はついてきた。鯉登の前でピタリと止まり、かわしにくい間合いに詰められる。ドリブルで突破しようとすれば、タイミングを合わせて容赦なくぶつかってきた。肩で競り合うショルダーチャージ。小岩のようだと思っていたが、まともに受ければふっ飛ばされそうだ。同世代の中でもここまでフィジカルの強い選手は見たことがない。
それにコイツ、シュートを阻止するだけでいいのにボールを奪おうとしてくる。でも好戦的なのは嫌いじゃない。そうこなくては。このままでは押し負けるので一旦距離を取り、左右に揺さぶってゴールへのコースを空けた。シュートモーションに入ると、すぐさま月島は反応して同時に足を出してくる。
あのときと同じ、鯉登を射貫くような鋭い眼差し。身体が痺れるような感覚に襲われた。そしてその隙を見逃さなかった月島に再び阻止される。
「クソッ」
蹴った瞬間に分かった。あれは外れる。案の定ボールは放物線を描いてラインを越えていった。月島が取りに行こうとすると、隣のグラウンドに来ていたサッカー部の先輩たちが「頑張れよ!」とボールを戻してくれた。今度は鯉登が奪う番になる。
こうして一進一退の攻防を繰り返した。現時点でシュートは3本止められていたが、鯉登は次第に勝負のことなど忘れ始めていた。ただただ、楽しい。サッカーをしていてこんな気持ちになったのは久しぶりだ。それは月島も同じだったようで、息を切らしているのにどこか楽しそうに見えた。
この時間がずっと続けばいい。だがここらで決めないともう後がない。4本目。反応が遅れた月島の虚を突いて渾身のボレーシュートを放つ。直線的に飛んだボールは、突き破るようにゴールネットを揺らした。
「や……やった!!」
「うわっ」
振り返って、ゴール前で立ちすくむ月島に勢いよく抱きついた。不意打ちで重心を崩した月島はぐらりと傾き、そのまま2人して頭から倒れ込んだ。
汗だくで、髪はぐしゃぐしゃで。なんだかおかしくなってきて、顔を見合わせて笑った。
「俺の負けですね、」
鯉登の頬に流れた汗を拭ってくれた、月島の表情は穏やかだった。まるでこうなってほしかったかのような。お互いの腕を引っ張って起き上がると、周囲から拍手が沸いた。夢中になっていて気づかなかったが、鯉登が想像していたよりも多くのギャラリーが集まっていた。スター気取りで鯉登が手を振れば、わっと歓声が上がる。顧問とコーチの姿も確認できた。こちらに向かって歩いてきたので、おそらく月島に入部の打診をするだろう。全て鯉登の筋書き通りだ。
その後、月島は入部テストにも無事合格し、正式にサッカー部への入部が決まった。
*
「うまい! これが100円しないのか……」
「ここの肉屋の牛肉コロッケ、お気に入りなんです。ちょっと遠回りになっちゃいましたけど」
はぐ、と揚げたてを頬張る月島は白い息を吐いた。買い食いをしたことがないという鯉登に驚いて、じゃあせっかくだから俺のおすすめ食いに行きませんか、と誘ってくれた。
「なあ、月島のそれ、一口くれ」
「……この前そう言って、半分持っていきましたよね」
先程まであったコロッケはたちまち胃袋に消え、月島の手には新たなハムカツが。いい匂いがしてじわりと涎が出てきた。眉をひそめた月島が、渋々といった具合に鯉登の口元へ袋を寄せる。
「んまい!」
「やっぱり一口じゃない……まあ、いいですけど」
鯉登が感じていた通り、月島との相性は抜群だった。
我が強く他の人には譲らない精神力を持つ鯉登にとって、FWはうってつけのポジションである。だがその性質上、周りが見えなくなることも多い。一方月島は冷静さを保ちつつ、チーム全体の動きを見る視野の広さを持つため、鯉登がワンマンプレーになりそうなときはさり気なく注意していた。
そういった凸凹が上手くハマって絶妙なコンビネーションが生まれている、とコーチからも言われた。それもあって年末の冬の選手権では、両者ともに1年生ながらスタメン入りを果たし、特にMVPを獲得した鯉登はテレビや雑誌の取材が押し寄せるほど。
今は年も明けた1月、新人戦の予選が始まるまでの小休止。と言っても相変わらず練習はハードだ。でもこうして練習帰りに月島と寄り道できる、鯉登にとって貴重かつ有意義な時間だった。
「そういえば、来週って数学の小テストあったよな」
「水曜日ですね。まあ授業聞いていれば問題ないレベルのでしょう」
「うっ……おいはあんまり得意じゃなか……」
「はは、鯉登さんこの前の期末テストは結構危なかったですもんね」
決して手を抜いたわけではない。他の教科より苦手なくせに、根詰めて勉強しなかったというだけの話だ。中学では何でも一番だったが、高校になると一気にレベルが上がる。過去の輝かしい栄光はとりあえず忘れることにした。
「月島は頭良いよなあ。特待生じゃろ」
「まあいろいろあって……スポーツ推薦で入れるほどの実力はありませんでしたし。とにかく勉強するしかなかったというか」
「いろいろ?」
そうですね、と言って月島はぽつりぽつりと話し始めた。幼い頃に事故で両親を亡くし、遠い親戚の家に引き取られたこと。そのご夫婦には子供がおらず、天涯孤独な自分をまるで本当の息子のように育ててくれたこと。中学まで学費を払ってくれた二人に、恩返しとして学費免除の特待生で高校に入学したかったこと。
家のことを話してくれるのは珍しい。最初は何を聞いてもはぐらかされ、家族構成まで秘密と言われた。もしかしたら、自分に心を開き始めているのかもしれない。
「なんか俺の話ばかりしてしまってすみません。面白くないですよね」
「よか、そげんこっなか! 月島のことが知れて嬉しか……っくしゅ!」
日が落ちるのは早く、あたりはもう真っ暗だった。月島と話しているといつもあっという間で、別れるのが名残惜しい。何かと理由をつけて、一緒にいる時間を延ばそうとしてしまう。
「冷え込んできたな……そろそろ帰りましょう」
「うん……」
歩きながら寒い寒い、とかじかんだ手を擦れば、マッサージしましょうかと言われて月島に握られた。骨ばって少しかさついた手にすっぽりと包み込まれる。
「あったかい!」
「心が冷たいのかもしれません」
「お前に限ってそんなわけないだろう」
中指を外側に反らされたり、指の付け根から指先にかけて念入りに押されたりした。触り方がやけに優しいせいか、普通のマッサージのはずなのに、なんだかむずがゆくてドキドキする。妙な気分だ。
ここツボなんですよ、と手のひらの真ん中を強めに刺激されて、つい声が出てしまった。
「ん……っ」
「あ、痛かったですか?」
「ううん、でも……もう、大丈夫だ。あったかくなったじゅうぶん……」
途端に恥ずかしくなってきた。月島の手をすり抜けて自分のポケットへ突っ込もうとすると、逃すまいと指を絡め取られた。ぎゅっと指同士を組まれて、手の甲を撫でられる。
なんだ、これ。月島が何を考えているのか分からなくて、ただその場に立ち尽くすしかなかった。ちらりと見れば、唇が震えて今にも吹き出しそうな様相だった。
「……ふ」
「? 月島?」
「あはは、鯉登さん可愛いですね。耳真っ赤」
「なっ……あ! お前、もしかしてわざと……!」
ぺろ、と舌を出した月島は手を解いて駆け出した。年の割には大人びている月島が、いたずらっ子のような表情を見せるのでどぎまぎしてしまい、置いていかれたことに気づくのが数秒遅れた。
「待て月島ぁ!!」
時折振り返る月島と目が合う度に、さっきまで繋いでいた手が、頬が、じわりと熱くなる。それを凛とした空気で紛らわせるかのように、全力で背中を追いかけた。
3年生が抜けた新人戦が2月から始まった。今のチームは鯉登と月島がトップと言っても過言ではない編成だ。大湊第七高校は着実に勝利を重ね、早々に本戦出場へ駒を進めた。決勝トーナメントも突破し、残る最終戦は今週末に予定されている。
対戦相手はあまり良い噂を聞かない高校だった。全体的に体格の良い選手が多くタフな印象が強い。だが実態は違反スレスレのチャージで狙った選手を潰しにかかるというスポーツマンシップの欠片もない集団……こんなチームが存在していいのか。
コーチからもよく警戒するように、と部室でのミーティングが終わった後、月島に呼び止められた。
「冬の大会でもかなり目立っていたので、鯉登さんは執拗にマークされるはずです。向こうは容赦なく当たってくると思います」
「いつものことじゃろ。上手くかわす」
「またそうやって……貴方の実力は認めていますが、慢心するのはどうかと」
「ふん。月島は私の親か何かか?」
わざとらしくため息をつくと、気に障ったのか月島はバン!とやや乱暴にロッカーを閉めた。ちょっと驚いたけれど、最近は自分のプレーに対しての小言が多くて、鯉登も虫の居所が悪かった。
その日から必要最低限の会話はするが、基本的には口をきかないというピリピリした雰囲気で決勝を迎えた。
試合当日、会場ですれ違った相手選手から「調子乗んなよ。ボンボンが」と吐き捨てるように言われた。ああやって試合前からふっかけて、イラつかせるという手筈なのだろう。――あいにく、そういうのには慣れている。
キックオフから鯉登にマークが集中した。確かにしつこいが、想定内だ。前半10分で敵陣へ切り込み、仕掛けようとしたところで相手のDFに倒された。この程度ならたいして痛くない。ペナルティーエリア近くだったのでフリーキックのチャンスを得る。シュートはネットを揺らし、大湊は早くも先制点をあげた。
出だしは上々。ゴールキーパーからボールが戻される。この後も何点か追加し、前半戦もそろそろ終わりが見えてきた。
もう1点ぐらい追加しておきたいと思っていたところで、再び鯉登にパスが出されると、相手選手が真正面からスライディングで飛び込んできた。そんなお粗末なディフェンスがあるか、うちの月島を見習え――と思いながら跳び上がる。スパイクをかわして着地しようとした瞬間、後ろから走ってきたもう一人に思いっ切りぶつかられた。
「鯉登さん!!」
月島の声が聞こえて、まずいと思ったときにはもう遅かった。強い衝撃とともに、視界は反転し足に鈍い痛みが走る。
「う゛……ッ!」
早く起き上がらないといけないのに、手足に力が入らず、背を丸めて呻くことしかできなかった。生理現象で出た涙が景色を滲ませる。自分を囲むようにチームメイトや大会スタッフが集まってきたが、誰が誰だか分からない。
月島の親切心を無碍にしたバチが当たったんだろう。言うことを聞けばよかった、と子供みたいなことを思った。
意識が朦朧としてきて、気がつけば担架に乗せられていた。誰かに何度も名前を呼ばれていた気がするけれど、それを確かめる術もなく、完全に気を失った。
*
重い瞼を開けると無機質な天井が映った。消毒薬の独特の匂いが鼻をつく。……ここは病院か。倒れた際に打ったであろう側頭部が、まばたきする度にズキズキと痛んだ。
身体を起こそうとすると、やけに左側だけ重く感じて、ふとそちらを見やれば――月島がいた。ベッドの端に突っ伏して寝息を立てている。
「……月島ぁ」
お見舞いに来てくれたのだろうか。腕を伸ばして頬をつつけば、むにゃむにゃと口のあたりが動く。面白くてしばらくそうしていると、さすがにいじりすぎたようで飛び起きてきた。
「……ッ! す、すみません寝てしまって……」
「んにゃ、大丈夫だ。それより試合、どうなった?」
「もちろん勝ちましたよ。貴方がリードを広げてくれていたから助かりました」
鯉登が抜けたあと、危険なチャージを行ったとして相手選手はレッドカードで退場。ペナルティキックを与えられ1点追加となった。だが主戦力を失ったチームの士気はなかなか上がらず、1点差に迫られる場面もあったが、月島の的確な指示で持ち直したそうだ。これについては後々、「あの時の月島先輩はすごかった。心強かったけど鬼の形相で怖かった」と後輩たちから聞くことになる。
「鯉登さんこそ、怪我は大丈夫なんですか」
「頭は打っただけだと思うが、足は時間がかかるかもしれないな……」
とりあえずは医者の見解を聞いてからだ。でもこの感じからすると、しばらく練習には参加できないだろう。チームの足を引っ張ってしまうのが心苦しい。夏の大会までに何とか復帰したいが……。
月島が何となしに置いていた手のひらには、三日月状の赤い傷がいくつかついていた。内出血したような、血が滲んでいるところもある。
「お前、これ……」
「……あんなぶつかり方して、謝りもせずヘラヘラ笑って……許せなかったんですよ。他の奴らに止められましたけど」
その手をぐっと握ろうとすると、手のひらの傷と爪がぴったり合った。一体どれほどの力で握りしめたのか。
鯉登を怪我させた相手選手の態度が悪く、掴みかかろうとした月島はチームメイトに抑えられたものの、審判からイエローカードをくらったという。怒りは収まらなかったが、「お前まで抜けたらこの決勝はどうするつもりだ」と周りになだめられ引き下がったらしい。
「中学のときも似たようなことがあって……あの頃は自分のことしか考えられなかったので、レッドカードで退場になりました」
自分の知る月島はいつも優しいから、そこまで感情をあらわにするなんて、まるで別の人間の話を聞いているようだった。激昂する月島を想像して、似合わないなとつい笑ってしまった。
「なに笑ってるんです」
「なんでんなか。私のためにありがとな」
先程から俯いている月島の顔を覗こうとすると、「見るな」と突っぱねられた。目尻が光って、ぐしゅ、と鼻の啜る音がした。
「……月島?」
「……ただの怪我だって、分かってても……目を覚まさない貴方を見て、生きた心地がしませんでした。お願いですから、二度と無茶しないでください」
袖で乱暴に涙を拭うと、もう行きますね、と月島はエナメルバッグを肩にかけた。
「俺、コートで待ってますから」
「ああ! それまでチームのことは任せたぞ」
「鯉登さんの代わりなんて務まらないので、その……早く戻ってきてくださいね」
鯉登の頭を撫でようとして、宙をさまよった手は頬に伸びた。触れた指はわずかに震えていた。月島でも不安になることがあるのかと思いながら、その震えを止めるようにそっと手を重ねた。
足首捻挫による靭帯の損傷程度だと思っていたが、事態は予想以上に深刻だった。医者には腓骨骨折と靭帯断裂で全治3ヶ月と診断されて、耳を疑った。夏の大会の予選には到底間に合わない。順調に治ったとしても、本戦に出られるかどうか。それに復帰してすぐ本調子が出るとも思えない。
目の前が真っ暗になりかけたが、とにかく治すことに専念しなければ。足の腫れがある程度引いてから、サポーターを使いリハビリを行うことになった。
月島にも電話ですぐ報告した。数秒の空白があり、『一番辛いのは貴方でしょうから……』と絞り出したような声が聞こえた。電話口の向こうでどんな顔をしているのか想像に難くない。
「……すまん」
『謝らんでください。貴方は何も悪くないんですから。俺の方こそ不安にさせてすみません。信じて待っています』
月島は練習の合間を縫って何度もお見舞いに来てくれた。必ずガーベラを1輪持って。そういうところが律儀で奥ゆかしいと思う。月島に良い色のガーベラだな、と言ったら「これそんな名前の花なんですね」と感心していた。花はタンポポかバラぐらいしか分からないらしい。
クラスのことも部活のことも、鯉登が聞きたいことは事細かく教えてくれた。
「楽しそうでいいな」
「でも鯉登さんがいないとつまんないですよ」
「ほう? 私のありがたみにようやく気付いたか」
「いや、隣で騒いでるのがいないから静かで寂しいみたいな……」
「何だと!?」
それは鯉登も同じだった。いつもそばにいる月島がいないとつまらない。でもそれを言うのは何だか悔しいから、黙っておくことにした。
リハビリの甲斐もあって、予定よりも早く学校へ行けるようになった。学年も変わって2年生に進級したが、まだ松葉杖が必要で、相変わらず練習には出られない。できる範囲でマネージャーと同じようにサポートへ回ったり、春から入部した1年生たちにアドバイスしたりした。
――予選まであと2週間。とある放課後、クラスの女子たちが集まって何かを作っていた。
「何してるんだ」
「わっビックリした。ミサンガ作ってんの。バスケのインハイ予選始まるからさ」
他の女子たちが黄色い声を上げる中、毅然と答えたのはバスケ部女子マネの有澤だった。鯉登と話す際、気後れせずあっさりとした態度でいる女子は珍しいので覚えていた。
「ふうん……で、ミサンガというのは何だ」
「え、知らないの? つけている糸が切れると願いが叶うってやつ。お守り的な?」
お守り。そう聞いて思い浮かんだのは月島だった。……作ってあげたら喜ぶだろうか。自分がチームに貢献できない中、皆をまとめ一生懸命やってくれている。何かお礼がしたいと考えていた。高価なものは受け取り拒否されそうだし、手作りなら大丈夫かもしれない。
「教えろ。作り方」
「えっ……え〜!? 鯉登くんそういうの興味あるんだ! 自分用? それとも誰か……好きな人にとか!?」
「やかましいな。何でもいいだろ」
ちぇ〜ってかそれが人に物を頼む態度!? とぶつくさ言いながら、目の前に何色もの刺繍糸を広げられた。
「好きな色、2色選んで。色にも意味があって……例えば赤は勝負、白は健康とか。チームカラーもアリかな」
勝負運で言えば赤を選ぶべきなのだろうが、月島がつけているイメージが無かった。持ち物は緑系統が多いような……スポーツタオルも確かそうだったはずだ。あとは白米が好きだから白にしよう。うん、しっくりくる。
「選んだぞ」
「ふんふん、緑と白ね。じゃあ初心者の鯉登くんにはねじり編みを教えます。慣れればすぐできるようになるから」
そうして週に何回か、女子に混ざってミサンガ作りを教えてもらうことになった。今まで誰かのために物を作るということはしたことがなかったから、なかなか新鮮で面白い。
予選が始まる前日、無事に完成させることができた。初めてにしては良くできたほうなのではないか。
「それだけだと味気ないから、チャームとか付ける?」
細かく区切られた箱には、ハート、星、花……と様々なモチーフのチャームが入っていた。目に入った小さな三日月のチャームをつまみ上げて、自分の編んだミサンガに付けてみる。月島にぴったりだ。
「その人、絶対喜んでくれるよ。間違いないね」
小声で言われて有澤の顔を見るとニヤついていた。おそらく鯉登が誰にあげるのか分かったのだろう。別に隠すつもりもないので構わないが。
教室を出ようとすると、応援してる、とラッピングの袋まで渡してくれた。……なかなか気が利くではないか。
「あいがと!」
松葉杖をついて部室へ向かう。時間的に練習が終わって片付けている頃だろう。すれ違う部員たちに挨拶しながら扉を開けると、もう月島しか残っていなかった。
「つ、き、し、ま!」
「鯉登さん? 片付けなら終わりましたよ」
「あっ……あ〜……えーと、お疲れ様……?」
「ははっ、なんですそれ。普段そんなこと言わないでしょう」
渡すだけ。渡すだけなのに。有澤に言われた「好きな人」という言葉だけが唐突に頭の中で反芻されて、しどろもどろになってしまった。
月島のことは、友達として好きだ。そもそも鯉登には恋愛的な“好き”がよく分からなかった。家族も好き、友達も好き。でも月島は特別だった。唯一無二の親友だからだと、そう思っている。
「これ、やる」
ずいっと紙袋を差し出す。何か渡されると思っていなかったようで、月島は目を丸くして受け取った。
「俺に? 何だろう」
「今開けたもんせ」
月島は不格好なラッピングを開けて取り出すと、光に透かすようにミサンガを掲げて、様々な角度からじっと見つめていた。
「どうだ? 悪くないと、思うんだが……」
「鯉登さんが作ったんですか」
「う、うん」
「……すげえ嬉しいです。ありがとうございます」
「そ、そうだろう、そうだろう! 色とかこだわって――」
「鯉登さんだと思って大事にしますね」
ちゅ、と月島の唇がミサンガに触れた。揺れるチャームが反射してきらめく。その光景があまりにも耽美で息を飲んだ。同時に体温が一気に上がり、胸は早鐘を打つ。このままでは、鯉登の中の何かが崩れてしまいそうだった。
「ばっ……ばか! いいから早くつけろッ」
「はあ? 何ですかもう……」
苦し紛れにつけてるところが見たいとせがめば、月島はベンチに座って右足首に結んでくれた。鯉登の思い描いていた通り、色白の肌に緑が映えてよく似合っている。
「大会、頑張れそうです」
「おいん分まできばってくれ、月島」
ぎゅっと抱き寄せられて言葉が出なかったが、これは友愛のハグなんだと、そう言い聞かせて自分も月島の背中に腕を回した。