パンドラのノートプロローグ
――きみは意外と口が悪いよねと呆れたように笑われるのが好きだった。
今となってはもう十年も前の話だ。
それでも時々ふとした瞬間に浮かび上がって来る。
声はもう思い出せないが、つくりものめいた笑顔と好奇心を宿すあの青い瞳は、蔵内の脳裏にいっそ焼印かと思うぐらい鮮やかに焼き付いていた。
十年。
ボーダーは大きくなり設備が充実して同盟国も増えた。
蔵内和紀はそのうち開発室にスライド就職し、今はチーフエンジニアとして一つのチームを纏めるに至っていた。
東春秋と同じく大学院へ進学するのだと目されていたのに、三年次の冬にぱたりと院試の勉強を辞め、以降開発室に入り浸る形でそのままボーダー職員となった。
とは言え開発室は半ば研究機関に近い。
大学院の研究室を経ることなく直接研究開発の職に就ける時点でその頭脳や推して測るべしというものだ。
蔵内が開発室でめきめきと力をつけて、その研究成果としていくつかの論文を出すうち、次第に蔵内の名は研究者として有名になっていった。
同時に、友好国として同盟の結ばれた近界各国で開かれる学会に出るようにもなり、近界の中でも「カズキ・クラウチ」の顔と名は知れ渡っていった。
トリオン体は便利だが文字情報としての互換性は無い。
交流の生まれた近界の論文を読むには近界の言葉を知らなければならず、蔵内は自然の流れでエンジニアとなった後多国語を片言に読めるようになっていったのだった。
トリオン器官が衰えてしまった今、近界民と蔵内とが互いに常時換装して話すのは無理がある。
だが、論文や日常会話ならチャットであれば不自由ない程度に話せる。
気付けば職場に増えた近界民の同僚とのコミュニケーションは蔵内が一手に引き受けるようになって、自然とまた、人々の中心にいるようになっていた。
当時のボーダー隊員たちはそのまま本部に就職した者も一定数おり、鍔迫り合った面々、気心知れた会話が取り巻く仕事環境はまるで高校時代に戻ったような錯覚を引き起こしたが、そう思うたび、蔵内は心の中の大きな欠落を意識せざるを得ない。
王子一彰。
王子、などという名を表すような容姿。
明るくてエキセントリックで目の離せない男。
幹部候補とまで言われていた、蔵内の隣に以前いた隊長の姿は、今やボーダーのどこを探してもなかった。
――きみはこれから色んなことを開発していくだろう。新しいトリガーも戦術も、きっと。
――ぼくはもう全て忘れちゃうだろうけど、これ、使ってよ。上層部には写しを提出してあるからね。
――これからはきみが一人でこのノートの続きを埋めていくんだ、クラウチ。
十年前、そう言って渡された王子の作戦ノートは今でも蔵内の宿舎の一室、片付けられたデスクの上に鎮座している。
蔵内がそのノートを渡されたのは、王子がまさに今、記憶封印の処置室に向かうというその廊下だった。
まるで忘れてた、みたいなあんまりにも普通の調子で渡すので、一瞬何を言われているのか分からなかったぐらいだ。
だが、その無機質なノートの感覚は今でもいやにはっきりと覚えている。
高校時代は確かに普通のただのキャンパスノートだったが、いつしか硬い布張りの表紙の立派なものに代わったのだ。
ネイビーのヘリンボーン柄。
それは王子の手に、ボーダーのファイルと一緒にあることがほとんどだった、のに。
これは王子のものだと全身が拒む。
なのに、その持ち主だけが居ない。
ボーダーは民間の軍事組織である、という在り様は十年経った今もあまり変わっていない。
即ち、退役して記憶処理された王子に、その記憶のトリガーとなりうる蔵内が接触することは出来ないということを意味する。
蔵内は今でも楽しく仕事をしている。
周りにも相変わらず恵まれている。
それでも蔵内は、王子無しに、間違いなく王子隊で使っていたこのノートの続きを綴れずにいるのだ。
その十年分の欠落を、蔵内は未だどのように埋めたら良いのか分からずにいた。
ゲリラ豪雨びしょ濡れのままコンビニに入った。
突然の雨に駆け込んで来たのは蔵内と王子の二人だけで、他に客らしい客はいない。
蔵内は傘とタオルを買い、そこに王子はチョコモナカジャンボも買って、外に出る。
コンビニの建物の軒先から滝のように雨が流れ落ちていた。
「ゲリラ豪雨だね。食べながら、やむまで待とう」
「…なんだって?」
「雨が! 止むまで! 待ってから帰ろう」
「蔵内了解!」
タオルで水気を拭いたついで、蔵内は王子の頭や濡れた肩を拭いてやった。
ビニール袋をがさがさ言わせながら、王子が袋を開けてアイスを取り出す。
「きみも食べる?」
「それを分けるのか?」
「割ってあげるよ」
バキッと音を立てて男らしく割る。
綺麗に割れなかった、と言いつつ王子が小さい方を蔵内に差し出す。
二人で齧りつく間にも、コンビニに新たな客は訪れない。
ざあざあ、ごろごろ、と、梅雨から脱皮しまさに夏にならんとする音が、する。
辺りは真っ暗になっていて、コンビニの白い明るさがぼんやりと浮かぶ。
雷が光った。
裂けるような音がして、地鳴りの低い音が続く。
王子がしゃがみ込んで、モナカに噛みついていた。
蔵内も同じく齧り、バキ、とチョコを割る。
モナカのちいさな屑がコンクリートに落ちる。
あっさりしたバニラと板チョコの、馴染んだようなその味が、どうしようもなく安堵を運んだ。
王子が落ち込んでいることに、蔵内は少し前から気がついていた。
だがどう切り出していいのか、分からなかったのだ。
普段、勝気で冷静な王子だ。
ごく些細な甘えを感じることならあるが、ここまで弱弱しく揺らいでいる姿を晒しているのは初めて見た。
今日それを自分に見せてくれた、ということが、蔵内にとっては不謹慎にも嬉しかった。
俺を頼ってくれている。
俺が頼られている。
それだけ王子にとって大事なポジションになったのだと思えば、誇らしかった。
「近界にも、梅雨ってあるのかな」
ぽつり、と王子が呟く。
「トリオンによって動く星が多いらしいからな。…四季は無いんじゃないか?」
「この雨は、星を合理的に動かすためには、別に必要がないものな訳だ」
「日本以外に雨季がある国も多いがな。
四季、という点では必要が無いのかもしれない」
とりとめのない疑問に答える。
王子の中でどのように回路が繋がって、その質問や回答になるのか。
蔵内にとっては唐突に思えるそれらだが、その思考の分からなさと裏腹の、表層化して言葉になったときの明快さが好ましい。
脈絡のない言動をしているように見えるが、よく観察していれば、きちんと筋道だっていることも分かる。
王子の中で埋伏したように思考が熟成されて、それが熟しきると表面に浮かび上がってくるんだろう。
王子の中で、第三次大規模侵攻についての思考が熟しきったのが、きっと今だったのだ。
唐突な言葉が続く。
「クラウチやぼくのトリオン量では、とてもブラックトリガーにはなれないね」
「馬鹿。…縁起でもないことを言うのはやめろ」
「考えたことないとは言わせないよ」
烟るような豪雨の中、雨音に負けないように声を張り上げる話題ではなかった。
蔵内はそれ以上答えるつもりはない、というように黙り込んだ。
コンビニの平たい軒先から、雨水がカーテンのように流れている。
梅雨の終わり、遠くの雷鳴を伴いながら降る雨の匂いは、暑く湿って生々しい。
もの悲しい冬の雨とは異なり、全てのものを生育させるだけの生命力に溢れて、そして少しだけ色々なものがカオスに混じり合った、良い匂いと言うには違うが、いろいろなものを生かしている雨だ、と分かる。
世界に二人きりみたいだった。
雨音が下界の音をシャットアウトしている。
コンビニの外の喫煙場所にも、自動扉を隔て買い物をする客も、いない。
奇妙に明るいくせに濃い灰色の雲は、低く遠い雷鳴を伴いながら相変わらず雨を降らせ続けていた。
話題が途切れれば、話すものはない。
ただ、ざあざあと音だけが取り囲んでいた。
新婚のような、熟年夫婦のような勝手知ったる他人の家で手洗いを済ませて顔を出すと、無駄に広いキッチンで王子が湯を沸かしていた。
まな板と包丁が出ている。
「…何してるんだ?」
「朝ご飯作ろうと思って」
「お前…料理できたのか?」
「遠征選抜試験では一度もやらなかったね。でも、最近はちょっとだけやるんだよ?」
冷蔵庫からキャベツをまるまるひと玉出した王子が、左手に包丁を握る。
まるでサロメだな、と思いながら蔵内が言った。
「おい、…いい子だからそいつを置いてくれ。それはお前が持っていいものじゃない」
「大丈夫だよ、ひと思いにやってあげる」
「なあ、言い出したのは俺だが、お前が言うと冗談に聞こえないからやめてくれ」
蔵内がそう言って笑いながら袖を捲り、王子の隣に立った。
「手伝うぞ」
「ありがとう」
「ところで何を作る気なんだ?」
「うーん、実は作ろうって思ったけどあまり考えてなくて」
「ご飯は? あるか?」
「カトウのごはんがあるよ」
蔵内が冷蔵庫を開けて覗き込む。
辛うじて豆腐がある。
冷蔵庫には冷凍の魚があった。
「……お前、なんでキャベツだけ買ったんだ…しかもひと玉…」
「包丁の練習にいいかなって。大きいし。弧月の感覚なら切れそうだし」
「弧月」
奥の方からほとんど使った形跡の無い出汁入り味噌が出て来た。
大方ボーダーの誰かが来たときに置いていったんじゃなかろうかと想像がつく。
豆腐と味噌、冷凍の鯖の塩焼きを出して蔵内は冷蔵庫を閉めた。
「じゃあ、おまえはカトウのご飯と魚の準備を頼む。
…包丁を置いてくれないか?」
「練習の機会だったのに…」
「…分かった。そうしたら豆腐を切ってくれ、だいたいの大きさでいいから」
「王子了解」
蔵内が代わりにテーブルを拭いたり、ご飯を探してレンチンしたりする間に豆腐が切れた。
ぐらぐら煮え立つ湯に豆腐を落として、キャベツを数枚剥がして丸める。
太めのキャベツの千切りが出来上がる。
味噌を手早く溶いて、魚を温める。
あっという間に、簡単な和食が出来上がった。
盛り付ける間、王子がさらっとまな板や調理器具を洗っている。
ローテーブルに並べ、二人で並んで座った。
湯気がやわらかく立ち上っている。
「いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせて、食事を取る。
テレビもついていない部屋だが、不思議と気詰まりでないのは、長く同じ隊で過ごしているせいだろうか。
味噌汁を飲みほっと息をつく。
まるで新婚のようでもあり、熟年夫婦のようでもある。
蔵内はなんとなくおかしくて、小さく笑った。
「どうかしたかい?」
「いや。…彼女がいたらこんな感じか?と思ってな」
「あれ、きみいなかったっけ」
「いつの話だ? もうとっくにフラれてるぞ」
「そうなんだ」
(彼女、か)
蔵内にも一応、これまでに彼女がいたことはある。
が、大変失礼ながら今、その顔を思い出そうとしても、どうにもおぼろげだった。
何となく一緒にどんなことをした。
というのだけは思い出せるものの、そんなこともあったな、という程度で印象が薄い。
目の前でもぐもぐと上品に食事をとる王子を見る。
彼女とのことよりも、余程この男との思い出の方が、濃くて鮮やかだ。
王子が視線をあげ、ん? と笑いながら蔵内を見つめる。
蔵内は首を左右に振った。
改めて顔のいいやつだなあ、としみじみ思う。
同時に、自分の中の王子の存在が、思ったよりもずっと強いんだなぁ、と蔵内は自覚した。
とはいえ、王子は王子だし、蔵内は蔵内だ。
「なあ王子」
ソワソワしながら蔵内が切り出すのは、甘い言葉でも何でもない。
「……雪マップと現実の雪の違いを検証したい。
ちょっと、外に行かないか?」
そこに、もちろんいいよ、と返すのが王子である。
二人らしかった。
東北の海
「いい海だ。…色が濃いね。
この向こうに太平洋があって、ぼくたちの住む街よりよほど多くの人が海の向こうに生きている。
そして、この星と同じように知的生命体が存在しているなんて不思議な感じだ」
王子は近界のことを言っているのだろう。
ゲートは多く三門市に開くとはいえ、この地にも開かない訳ではないようだった。
リアス式の複雑な入り江を望む岬に、碑石が立っている。
イレギュラーゲートによる被害を示すもので、王子が丁寧に黙祷を捧げるのと同じように、蔵内も祈った。
戦争である。
中学、高校の頃は単純にボーダーの中で切磋琢磨し、時折、防衛任務で敵であるネイバーを倒すだけであった。
だが、大学生になり、大規模遠征に仲間を送り出し、帰って来ない者こそ居ないにしろ、後遺症の残る負傷から引退する者、それらを目にしてようやく、城戸指令が指揮しているボーダーが何なのかを骨の髄から理解したのだと言える。
王子も蔵内も、遠征には参加しなかった。
代わりに第三次大規模侵攻を主力部隊として凌いだのだ。
チェスは盤面だけだ。
だが、戦力を分けさせ、地球と近界という、それぞれの戦局での勝利を求められること。
…これは、既に国と国の戦いであることを、身に沁みて知った。
湿った海風が頬を撫でる。
王子の髪を巻き上げて、笑みの無い静謐な横顔が、陽が沈むには早い昼下がりに煌めく水面を反射する光で照らされている。
南国の海の色をまとう虹彩を斜め後ろから盗み見て、蔵内は泣きたくなった。
あまりにきれいだったのだ。
王子は案外人と話すのが嫌いではない。
きちんと友人関係も築くことができるだけの配慮も頭の回転もある。
…そう、知っているが、蔵内は時々、王子がずっと破天荒で他人に理解されない存在であって欲しいと願うことがある。
王子という男を理解できるのは、俺だけであったらいい。
唐突に海に連れてこられ、今こうして、王子の横に立っているのが自分だけであることに、蔵内は甘い高揚を覚える。
王子が海を見て何を考えているのかは、今でもやはりよく分からない。
だが、その隣に並び立てるのが自分であることに対しての自信と自負。
そうしてしばらく、無言で海を眺めていた。
磯の香りが体に纏わり付く。
「満足したよ。…クラウチ」
「ん。帰るか? 宿も取ったんだろう」
「うん。安いところだけどね」
宿は民宿だった。
普段は漁師なのだという人の良さそうな夫妻が食べきれない程の夕食を並べてくれて、二人して満腹で腹一杯になり、少しだけ日本酒を舐め、ほぼ家の風呂のような風呂に交代で入った。
秋の虫が窓の外で鳴いている。
潮騒が、穏やかに聞こえている。
少し離して敷かれた布団に、寝転がった。
温暖な三門市からすると既に冬の気配すら感じるが、寝間着を着て掛け布団もしっかり被ると、ちょうど良く感じる。
心地よい疲労が蔵内を取り巻いていた。
自然と沈黙が落ちる。
当たり前のように二人きりで旅行に来たが、思えば不思議な感じだった。
蔵内としては王子とはいつも一緒にいるような気がしていたのだが、思い返せば周りには樫尾なり同年代の同級生なり、誰かしらが蔵内達を取り巻いていて、王子とこうして二人で特に用事も無くどこかに出掛ける、というのはごく最近のことだった気がする。
偶然そうなる、ということは無論あるが、こうして二人だけで何かしらの時間を長時間、贅沢にゆっくり過ごすというのは、夏に行った花火大会以来だ。
誰かがいて、そこに王子がいることも無論楽しい。
だが、王子とこうしてたった二人で、誰にも邪魔をされることなくゆっくりと過ごすのは、かけがえのない時間のように蔵内には思えた。
王子がごそごそと寝返りをうって、蔵内の方を向く。
「ぼくがどうしてきみを連れてきたか、って思ってるかい?」
「? …ああ、いや。別のことを考えていた。
こうして旅行に来るのもいいものだな、と思って」
「そっか。なら、良かったよ。今度はみんなとも一緒に行きたい?」
「いいな。犬飼や荒船を呼んで、大人数で…となると、やはり夏か?」
「南に行きたいね。宮崎か、沖縄…沖縄かな」
笑み交じりに王子が言う。
ボーダーに在籍している限り、A級隊員も多い同級生とみんなで一緒に旅行に、というのは、未来永劫叶うことのない夢だ。
気が早いが、卒業旅行も少人数ずつ、日程をずらして行くことになるだろう。
そう分かっていて、みんなで旅をする未来があればいい、と蔵内は思った。
王子が蔵内の答えを受け、仰向けに向き直る。
沖縄、という響きはいい。
王子の瞳の色の、紺碧の海がきっとどこまでも綺麗に広がっているに違いない。
「電気消すよ」
「もう眠いのか?」
「うん…ちょっと」
起き上がった王子が、レトロな電気の紐を引いて、夜の帳が落ちた。
布団に入り直す音がする。
蔵内は目を閉じる。
目蓋の裏に、次に王子と旅行する光景を描く。
海外、ヨーロッパも良いだろう。思い切ってアメリカという選択肢もありかもしれない。
どこへ行っても、きっと王子は楽しく世界を渡り歩く。
その楽しそうな王子と一緒に歩き回るのは、とてもいいと思った。
そんなことを考えているうち、王子よりも先に、蔵内が寝てしまった。
静かな寝息が辺りに響き始める。
王子はそれが聞こえるようになってようやく、肺にある全ての空気を吐き出すように、深く、細く、長いため息をついた。
閉じた目の眉間に僅か皺が寄って、布団の上で祈るように両手が組まれていた。
海の音が、波が優しく繰り返し岸に打ち寄せる音が続いていた。
王子との別離ののちそうして、王子はボーダーを去った。
呆気ないもので、三年になってしまえば、理系の蔵内と文系の王子では授業の一つ重なっていない。
学内で会ったらどう接しようかとずっと考えていたのに、一度も王子と会うことはなく、学食の遠くの方から見かけたのみだった。
人生のターニングポイントを過ぎたのだと、蔵内にはよく解った。
王子の連絡先は元々プライベートのメッセージアプリに入っていたが、開発室からの通達により自ら消して、王子の端末からも同じように蔵内他、特に親しかった者の連絡先が消されていた。
SNSのアカウントだってあるのかもしれないが、探す気には到底なれなかった。
無論隊員規程で定められていたからできないが、それ以上にそんな気持ちになれなかったのである。
まるで失恋だった。
でも別に告白をした訳でも、ましてや付き合っていた訳でもない。
ただ漠然と、この先もずっと一番となりにいると思い込んでいただけだ。
人生なのだから、どのような選択をするかなんて、本人の自由だ。
王子がそう決めたならきっと、王子にとっては一番いい選択なのだ。
王子がどのような人生を過ごすか、どこで生きていくか決める権利があるのはただ、王子その人一人だ。
なのに蔵内は全く何にも身が入らずに、気が付けば毎日淡々と進んでいた大学院の院試のテキストは一ページも進まなくなり、次第に大学院への進学意欲を失って、その辺りで家族と話しそのままボーダー就職をすることに決めた。
過去、「お前の興味のあることをやればいい」と両親は進学を後押ししたが、今や蔵内は王子とともに何に対しても興味を失ってしまった。
ように見えた。少なくとも周りからは。
両親も王子のことはよく知っている。
ボーダーの詳しい事情は知らないにせよ、蔵内がぽつりと「王子はボーダーを去ることにしたようだ、今後は交流も無くなる」と告げたものから色々と感じ取ったものがあったのだろう。
大学を休学してもいい、どこか知らない地方の大学院へ進学してもいい、そう両親からも優しく言われたが、蔵内はただぼんやりとして、ボーダーの本部登用試験を受けるよ、と告げた。
ボーダーを離れてしまえば、蔵内も、王子のことを忘れることになる。
(王子は俺を忘れた。
――なら、俺が王子を忘れたら、俺と王子の間にある記憶は、誰も、覚えていないことになる)
蔵内の頭の中には、それがこびりついたようにこだましていた。
王子が忘れるなら、せめて――せめて、俺は王子隊であった王子を、俺の隣にいた王子を。
ずっと一緒に過ごした王子を、俺だけは憶えておこう。
蔵内はそう、心に誓った。
そして開く、十年越しのパントラのノート
そうだ。
もう、良いんじゃないか。
十分に弔った。
王子との未来はもう永劫に来ない。
何度も接触することなら試みた。
でも出来なかった。
自分がボーダーをやめて王子を追い掛ける選択肢も無かった。
雁字搦めのまま、ここまで来てしまったと思う。
このまま独身でいるにしろ、誰かと恋に落ちるにしろ、最早自らの手で葬らなければならないものが、この王子とのノートだろう。
デバイスを開き、スケジュールを開く。
この日、翌日から珍しく三連休を取っていた。
これも何かの思し召しか。
もう二度と思い出せないように、三門市と。
王子と巡った場所を一つ一つ辿って、一つずつ記憶に蓋をしていこう、そう蔵内は思った。
旅に、出るのだ。
レンタカーの手配をして、飛行機のチケットを取り、宿泊の手配をして。
迷った挙句ノートを鞄に入れて、蔵内は家を出た。
ほとんど着の身着のままに近しい状態で旅支度を済ませて、飛行機で東北に飛ぶ。
学生時代は新幹線だったが、時間をお金で買えるだけ大人になった。
東北の海を見る。
岬に立つ碑石を訪い、いつかそうしたように、イレギュラーゲート発生で亡くなった方々に黙とうを捧げ、そうして三門市に戻ってくる。
水族館。
もう無くなってしまったカフェ。
三門市立大学。
六頴館高校。
三門第一高校。
ボーダーの、今は他の隊が入っている、王子隊の作戦室であった場所。
中庭。
仮眠室。
屋上。
二月だ。
陽が落ちるのはあっという間である。
山ぎわに夕日がかかり、細く雲が伸びている。
淡く、夜の帳が甘く下りてくる。
冷えた指先は、昔王子に贈られた手袋に守られていた。
気温が下がり、鼻の頭が赤くなり吐き出す息が濁る。
雪は、ない。
雪を楽しそうに踏んでいた王子の姿を、閉じた目蓋の裏側に思い浮かべる。
この街で、王子と過ごした。
たった五年と少しだ。
その後蔵内ひとりでボーダーで過ごした年数の方が、とうに長くなってしまった。
なのに、蔵内の人生に深く深く、もう抜けないほど楔打たれた五年、だ。
王子と過ごし、王子と何度も何度も議論を重ね、何十回も夜を過ごし守った、街の光景が眼下一杯に広がっていた。
たなびく雲を染める赤がゆっくりと夜色に変わっていって、街に明かりが灯る。
帰るか、とごく自然に思って、蔵内は屋上を立ち去った。
そうして、最後、自宅に戻って来た。
開発室や仮眠室で過ごすことも多く、何となく自宅に帰るのが普段おっくうに感じるせいか、無駄に広めの部屋を契約したにも関わらず未だにあまり自分の家の実感が無い家だった。
流石に強行軍すぎる旅程に疲れ果てて、だがシャワーだけ浴びて寝室に戻ると、草臥れたボストンバッグからたまたま、ノートが転がり落ちていた。
王子のノートだ。
ずっと見られなかった、でもずっと蔵内と共にあったそれ。
もう、見るか。
もう良いだろう。
これを見て、それでどうしても駄目ならば。
職権乱用と言われそうだが、記憶封印装置を借りて俺の脳内の王子を消してしまおう。
物騒なことを考えてしまうぐらい、疲れていたのだ。
ベッドに腰かけて、蔵内は床からノートを拾い上げた。
2/12左手中指8時間6分
2/13左手中指第一関節8時間6分
2/14左手中指第二関節8時間7分
2/18左手薬指8時間6分
2/19左手薬指第一関節8時間7分
2/22左手薬指第二関節8時間7分
初めにそのページを開いた時は、一体何が書いてあるか分からなかった。
ひたすら、日付と身体の部位と時間が羅列されている。
ノートはかなりのページ数があった。
最初から読んでいくと、途中まではランク戦の為の各隊の考察、戦術、MAPの研究が王子の癖のある右上がりの字で綴られていたが、途中からトリオンについての考察、ダメージ割合とベイルアウトの関係性の実験記録、部位別のトリオン漏出量、痛覚含むトリオン体での感覚と生身との差異など、およそ自分の体を犠牲にしたとしか思えない記載が細かく続いていた。
その後に、選抜試験の概要と所感、運営上の問題点が事細かに記されているのが何とも王子らしい。
件のページは、どうやら内容的に、欠損した部位とトリオン切れに伴うベイルアウトまでの時間が並んでいることがわかる。
作戦室併設の訓練室か、或いは個人戦ブースに籠ったか。
ある時から作戦室に残ることが多くなったから恐らく前者だろう。
ということは大概夕方に作戦室で解散してからの八時間、ほぼ夜通しを訓練室で過ごしていたのだと思われる。
王子は何を思って、細々とトリオンが切れるまでの八時間強を過ごしていたのだろうか。
空色の瞳になにを映していたんだろうか。
そして、こんなにも熱心に実験していたくせに、どうしてボーダーを辞めていったんだろうか。
更にノートの続きを読んでいくと、蔵内が一緒になって相当練った、ボーダーの防衛シフトや任務そのものの検討、哨戒ルートの試行錯誤の内容が並ぶ。
懐かしい、と蔵内は思う。
見慣れた内容はそのまま本部が上手く取り入れて、現在の任務や、或いは荒船が担当している街の防衛機構へと引き継がれていったのだろう。
ノートには、樫尾と蔵内の戦闘上の細かな癖や特色、これまでの戦闘記録とアドバイスやコメントが載っている。
それまで淡々と、どちらかといえば素っ気なく感じられるほど客観的に書かれていたのに、このページだけはまるで普段の王子そのもののようなコメントが散見された。
『眉毛はやっぱり細くしない方がカシオだと僕は思う』
『羽矢さんは十二月は相変わらず忙しい』
――『蔵内は最近泣く以外の表情をたくさん覚えた』
今は涙もろくなくなったのに、このページを見た瞬間、蔵内の涙腺が一気に緩んだ。
実は当時も何度も、読もうとはしたのだ。
一度だけノートを読んでこのページに辿り着いた瞬間、号泣して思わず閉じて、そのままだ。
何度もやっぱり読まなければ、使わなければと思い、だがこのページに書かれた王子の言葉を見た瞬間の、どっと溢れかえる辛さを思い出してしまうと、ノートを開けなかった。
『楽しかった』
『蔵内を思い出せなくなるのは少し辛い』
『いつかボーダーが一般的な組織になると良いのにね』
ボーダーは民間の軍事組織である、という在りようは十年経った今もあまり変わっていない。
即ち、退役して記憶処理された王子に、その記憶のトリガーとなりうる蔵内が接触することは出来ないということを意味する。
当時そのノートを渡されたとき、王子は最後の挨拶を済ませてもう処置室に向かうという間際だった。
まるで忘れてた、みたいなあんまりにも普通の調子で渡すので、蔵内は一瞬何を言われているのか分からなかったぐらいだ。
「きみはこれから色んなことを開発していくだろう。新しいトリガーも戦術も、きっと。
…ぼくはもう全て忘れちゃうだろうけど、はい、これ。
使ってよ。上層部には写しを提出してあるからね。
これからはきみが一人でこのノートの続きを埋めていくんだ、クラウチ」
呆気にとられ、涙も引っ込んでぽかんとする蔵内に王子がおかしそうに笑う。
別れは一瞬で、「じゃあね」と手を振る王子に何も言えないまま、蔵内はその背中を見送った。
手の中にある無機質なノートの感覚は今でもいやにはっきりと覚えている。
王子が、ずっと使っていたノートだ。
努力と、苦労と、優しさと。
楽しみ、喜び、苦しみ。
その軌跡が滲んでいる。
ノートに王子が文字を残しているその時間、蔵内も多く同じ時間を、同じ場所で過ごしていた。
ノートに考えを纏め、書いていく王子の姿を横で見ていた。
ここに確かに、王子がいた軌跡が残っている。
本人はもうどこにいるかも知れず、そしてそのことを覚えてもいないけれど。
ページを捲る。
うって変わって、丁寧に書かれた文字が並ぶページが出て来た。
◇
――思えば弓場さんのところで蔵内と会って八年、長いようであっという間の日々だったね。
これを読む頃には僕は君のそばを離れている。
身勝手だけど、でも本当にこれまで有難う。
まるで遺書だ、と蔵内は思う。
その先を読んだ蔵内が泣きすぎて先に進めなくなることのないように、優しく、でも淡々と王子の字で感謝が綴られていた。
おそらく王子のいない王子隊全員で読むことでも想像したのだろう、蔵内のみならず樫尾、橘高宛の言葉も残されており、これを己の心の弱さが故に長らく開きすらしなかったことを二人には申し訳なく思う。
――まずは蔵内へ。
君には心からの感謝を。
あの弓場さんの下で切磋琢磨して、その後独立してからも、君には本当にお世話になった。
君がいなければ僕はずっとつまらないまま、優等生の人生を過ごすか、あるいはグレていたかもしれないと思うと、君と出会えてよかったよ。
一般人になった僕が、君の名前をいつか聞けるようになると嬉しいだろうね。
――樫尾へ。
蔵内の薫陶を受けて立派に生徒会長も努めたね。
粗削りだった入隊時と比べ、君の戦術の柔軟さや多彩さ、ランカーとしての後進育成には頭が下がるよ。
もう僕が言うことは何もない。
もっと早く独立させなかったことだけが、僕の唯一の後悔かな。
伸び伸びとやってくれ。
木虎ちゃんとも仲良くね。
――羽矢さん。
本当にお世話になりました。
あなたのような優秀なオペレーターがずっと僕の隊にいてくれて、本当に助かりました。
本当は昇進の話があったのに断ったのも聞いています。
羽矢さんの胸を借りられたのは大きかったな。
これを機により広い舞台で活躍されることを陰ながら応援しています。
羽矢さんは謙遜するだろうけど、それだけの力量がある、って僕の言葉を信じてください。
頑張って。
四人分に宛てたそれを読んでも、三十二歳の蔵内の涙腺は固く閉ざされたままだ。
大人になり、やがて蔵内は泣かなくなった。
きっと当時読んでいたらもはやこの時点で前が見えなくなるほど泣いていただろうに、今は奇妙な高揚に似た感傷と苦しさ、過ぎ去った年月が重く胸にのしかかるだけだ。
ノートの文字を撫でる。
王子を王子たらしむ良さとは、貪欲であること同じだけ何ものにも囚われず自由であることだ、と、蔵内は思う。
勝ちには拘るが負けたら切り替えてすぐ次の試合のことを考えている。
このノートも同じだ。
別離を寂しく思うが、それを書いた時点でもはや王子の中での蔵内達は未来に進んでいる。
――ボーダーを抜ける隊員が記憶処理されることは、みんなもよく分かっていると思う。
加えて僕は色々なことを知りすぎてしまっている。
十中八九みんなの事はほぼ記憶に残らない。
僕としてはとても惜しいことだけれども、処理されただけでみんなとの記録、記憶がなくなるわけじゃない。
もしいつか、再会することがあったとしたら、その時は改めて新しい思い出をたくさん作ろうじゃないか。
だから、忘れてしまう蔵内たちとの記憶を惜しみながらも、なくなってしまったなら新しい記憶をそこから作ろうよと誘うのは、いかにも王子らしかった。
だがそれも。
再会したらの話だ。
ノートに残された文章を読めば読むほどに、どこかお行儀が良すぎるというか、王子にしては珍しく可もなく不可もないような口ぶりに違和感を抱く。
もしかして残された俺たちの印象に残らないようにかもしれない――と、思うのはさすがに自惚れが過ぎるだろうか。
少し癖のある、やや神経質そうな、でもどこか伸びやかな右上がりの字が愛おしい。
指でなぞる。
いつかまた会う日まで――
この十年もの間あんなにも読むのを拒んでいたくせに、読むのは一瞬で、最後まで辿り着けば別れの言葉が一言と、あとにはただ白紙の海原が広がっていた。
あっさりしたものだ。
当時どうして読めなかったのか、王子隊のメンバーにも存在すら告げられなかったのか、もう今となっては分からなかった。
ずっと苦しかったような気がする。
でも短くない年月を経て、やっとこの白紙のページに向き合う覚悟が出来た。
王子が、自分のいない時間を埋めるようにと残した空白。
パラリ、とその時間を思いながらまっさらなページを蔵内は捲っていく。
布綴じで大判。
いわゆるキャンパスノートとは異なり、王子が残した記録を書いてなおそこそこのページ数が残っている。
王子はここを俺が埋めるのを期待していたんだろうか? 本当に? と、蔵内はふと思う。
あんなに一緒にいて、お互い唯一無二に近しい理解者だった癖に、このノートを蔵内が本当に埋めていき、それを見もしないどころか存在すら忘れてもいいと、本気で思っていたんだろうか?
傲慢が過ぎるが、でも、それぐらいの仲であったはずなのだ。
そうとしか思えないし、そうじゃないとは思いたくもない。
何も書いていないページを一つ捲るたび、心の奥底に幾重にも重石をつけて沈めていた気持ちが浮かび上がってきてしまう。
王子は俺との未来を、そんなにも閉ざしたかったんだろうか?
俺との記憶を忘れてもいいと思うほど、王子にとっての七年間はどうでもいいものだったんだろうか?
俺と描く未来にもう価値は無くなったってことか?
お前を失った俺の痛みは、お前にとってどうでもいいことなのか?
お前が別離を辛く思っても、お前は記憶処理でどうせ忘れられるから、いいよな――
品行方正を貫いてきた蔵内が、そんなことを思ってはいけないと努めて考えないようにしていたどす黒い思いが、ページを捲るたびにどうしようもなく浮かび上がった。
結局のところ、蔵内は捨てられたのだ。
玩具に飽きて捨て置かれたのと同じく、蔵内ひとりがボーダーという玩具箱に残されたまま、王子は大人になったのだ。
もう蔵内と遊ぶのには飽きたよ。
と、もう声音すら朧げな、記憶の中の二十二歳の王子が残酷に美しく囁く。
本部からの帰り道、夏の強烈な日差しが照り付けるアスファルトで並んでアイスを食べた記憶。
王子隊を解散するしないで初めてぶつかった夜。
なぜか二人だけの花火大会。
当たり前のように六頴館に来ては、図書館で青チャートを開いた記憶。
トリオン研究の研究室で、何故か顔なじみになっていた王子。
コンビニの軒先で、ゲリラ豪雨が止むまでとりとめなく喋った日。
ボーダー本部の程近くで焼き芋をした秋。
王子の手袋をなぜか一緒に買いにいって、お世話になっているからとプレゼントされた手袋。
雪を踏む王子の足跡。
何もない東北の海にいきなり連れていかれて、煌めく海を背に微笑む顔。
次は二人きりでプラネタリウムに行こうと誘う、王子の秘密めいた柔らかな視線。
その、手放したはずの記憶たちが、蔵内の脳内で、鮮やかに浮かんでは消えてゆく。
蔵内の記憶の大部分には気付いたらずっと、ずっと、王子一彰の存在が当たり前のように存在していた。
そして大人になって、一気に色褪せたような、或いは現実に強制的に帰らされたような、灰色の淡々とした記憶がその後に続く。
この十年余のことだ。
王子と道を分かって以降、蔵内の中に何も感情の花は咲かなかったし、中には女性と付き合ったこともあったにも関わらず、綻ぶ兆しも無かった感情のつぼみ。
その蕾綻び花開く前に、水が断たれて、そうして枯れた何か。
ああ、ただただ、惨めだな。
白いページは、その数だけ、蔵内が綴ることの出来なかった、砂を噛むような味の無い白い記憶そのものだ。
きっと、王子の手元にあるノートは色鮮やかに、色々な記憶が綴られているのだろう。
俺ひとりが白紙のまま、ノートを捲り続けて来た。
何も、新たにそこに綴ることなく。
今こうして何もない白紙のページを捲っているのと同じように、俺はこの十年を過ごして来たのだ。
どこにも進めずに。
そのどうしようもない事実を、蔵内がようやく受け止めて腹落ちさせた頃に、それは唐突にやって来た。
ページを透かし、裏側に文字が見える気がする。
まさか、と思いながら、蔵内は震える手つきでページの端を一枚だけ慎重に摘み、開いた。
――ようやくここまで読んだね。
あるいはやっとちゃんとこのノートを使ったかい?君は今もエンジニアをしているのかな。
さぞかし頼りにされているだろう。
こんなことを書くべきじゃないって思ってるけど、本当はすごく辛いよ、蔵内。
君と天秤に掛ける未来なんて無い。
でも僕は今のまま箱庭で大きくなったって意味はないんだ。
僕としても苦渋の決断だったと、君にとってははた迷惑な話だと分かってるけど、君にだけは理解されておきたい。
――それはそうと、さて、ここで一つ君に問おう。
六頴館の生徒会長まで勤め上げた君が、まさかただの一エンジニアで終わろうと言わないよね。
ボーダーが今の形である限り、君と再会する確率は限りなくゼロに近い。
なのに君はいつまでこのノートを抱えながら進めもせずダラダラと日々を過ごしているんだい? ここまで僕に言わせておいて、何もなかったら怒るからね。
とは言え僕、君のこと忘れてるうちは怒るも何もないんだけど。
そうあって欲しいという僕の願望を込めて、いつかの君に宛てる。
蔵内、王子である僕を、君が迎えに来るって中々面白くないかい?
王子隊隊長王子一彰――
それは、紛れもなく王子の字だった。
それまでのメモのようなものとは異なり、しっかり考えて、丁寧に書いたのだと分かる筆跡。
「…………、…………敵わないな、全く」
意を決して開いたノートの最終ページでもなく、本当に使っていないと辿り着かなさそうな、中途半端なページにメッセージを残すのが、いかにも、らしい。
らしいと言うには記憶が風化しているはずの年月なのに、こんな時を超えて踊らされるとは。
風化したインクが鮮やかに、何度でも、王子の手で書かれた王子一彰という名前を浮かび上がらせる。
ああ、なんて、なんてやつだ。
蔵内は次第におかしくなって、そうして感傷と喜びから泣き笑いのように顔を歪め、両目から涙を溢れさせ、肩を震わせ、やがてノートを閉じて子供のようにしゃがみ込んで顔を覆う。
嗚咽が漏れた。
寂しかったのだ。
王子の真横にずっと立ち続け、およそ一番で唯一の理解者であったはずなのに、王子にあっさり置いて行かれたことが。
確かなものだと思っていたものは蔵内の一方的な幻想で、呆気なく両手からすり抜けていく王子を一番の理解者の顔をして見送らなければならなかったことが、辛かったのだ。
ずっと、苦しかった。
王子との記憶を抱え続ける苦しさに苛まれ、なのに俺が忘れたら王子隊であった王子がこの世から消えてしまうと思うと忘れることもできず、冬、蔵内は自室のベッドでひとり目を閉じるたびに、しんと冷える夜、樫尾と羽矢さんと共に防衛任務についたときの冴え冴えとした星空を何度でも思い出した。
もう声も姿形も朧げなのに、峻烈でどこか優しい、その冷たい夜の匂いだけが纏わりついたように記憶から離れない。
別れの昼に泣いた時に渡された、折り目正しくアイロン掛けられたそっけない洗剤と洗濯糊の匂いが、蔵内の記憶の中には澱のようにずっと沈み続けていた。
もう忘れたい、と、そう思うことさえ許されないのに、もう赦されたい、赦してほしい、最近では身勝手にもずっとそう思っていた。
十年経って、やっと忘れることを自分で許したのに。
もういいのだと、最早忘れようと、そう決めた途端にこれだ。
おかしくてこみ上げる笑いにぐしゃぐしゃの顔を上げて、腹を抱えて誰もいない部屋でひとりで笑って、そうしてスッキリした。
迎えに行こう。
気持ちを決めたら早かった。
ノートを閉じて、自宅にある端末を起動して、電子化された書類を開く。
異動を受け入れる、という旨の承諾書だ。
随分と前から、蔵内はその近界要職達(主に開発者だがマザートリガーの起動者達とも縁がある)とのコネクションを買われ、本部開発室から外務への異動を打診されていた。
ゆくゆくは以前の玉狛支部と同じように、各国とも連携し大規模な政府間組織を立ち上げようという構想があり、蔵内は若手ながらボーダーの代表候補の一人として目されていた。
育成とコネクション作りを目的とした異動である。
そんな気になれなくてずっと保留にしていたそれを、今日、蔵内は晴れ晴れとした気持ちで生体認証システムを通じて署名し、本部長に送信した。
ふとカレンダーを見ると、既視感のある日付に瞠目する。
――二月二十四日。
十四年前、王子に誘われ弓場隊を抜けたのと、奇しくも同じ日であった。