英駐在の王と独駐在の蔵が仏でデートする話「週末の予定は?」
「空いているよ」
古くは国際電話だったんだろう。時代というのは便利なものだ。
ぼくたちはAirpeという通話アプリを通じてほとんど毎日のようにビデオ通話をしていた。これではまるでオンライン同棲だ。でもオンラインじゃ実体に触れられない。そこにクラウチの気配を感じているのに、触れられない、のはどうにももどかしさばかりを齎していた。
ロンドンの夏から秋にかけては、唯一爽やかな晴れ間が覗く季節である。王子はBBCプロムスをほぼ毎日のように立ち見で観るんだ、と意気込んでいたにも関わらず、プロムスの公演時間に間に合ったのはごく僅かだ。仕事というのは大概、無情なものだ。ぶつくさと文句をぶつける王子に、そこにWeTubeがあるから聴けるだろう、と何気なく言ったせいで、蔵内はカンカンのお冠になった王子を宥めるのにずいぶん苦労した。
「じゃあきみはこの画面越しにパンを見せられて満足するのかい?」
「どうでもいいがせっかくのパンが冷めるぞ」
「うぐ…」
ただしょうもないことを口実に甘えたいのだ。その幼さが寂しさ故のものだと、蔵内はよく知っている。なぜなら蔵内もまた、ずっと寂しいからである。
「どこか、出かけるか?」
だから、蔵内の口からするりとそんな言葉が漏れたのも、まあ仕方のないことだった。
なにせ寂しいのだ。王子の身体が、気配がそこにあるのに触れられないのは。
「うん?どこに?」
「いや、だから。お互いに休暇を数日取って、どこか…羽を伸ばしに」
「へえ、つまりぼくにWeTubeでレクイエムを聴けっていうぐらいだ、このまま通話しながらデートでもしたらいい?」
「全く」
「それで?そっちに行く?それともこっちに来るつもりかい?」
「いや。……そうだな、せっかくだ。間を取ってベルギーか…フランスにでも行かないか?美味しいパンオショコラでも食べて、ゆっくり観光しよう」
液晶の画面越しにも王子の両目が見開かれ、きらきらと輝くのが見えた。この瞳に、やっぱり蔵内は弱い。
「いいね。…何日?」
「4日が限界だな」
「きみにしてはずいぶんと頑張った」
「…まあ、それぐらい楽しみだってことだよ、王子。フィルは何度でも見られるが、そのときどきの王子は今だけしか味わえない。抱き締められないのは残念だと思ってる」
「フィルの演奏もその場限りのものだよ」
「おまえはいつチェロを抱いて寝るようになったんだ?」
「チェロよりは、クラウチを抱いて寝たいよ」
ごく自然に零れる甘い言葉に、蔵内は笑った。
「じゃあ、また明日、日程を連絡する」
◇
駐在の身というものは自由なようで不自由だ。まあまあの肩身の狭さを感じるのは、ひとえにハイコンテクスト文化で育った日本人――つまり空気を読む民族だからだろうか。
SHACHIIKUを体現しているような独身の蔵内が、何もなさそうなウィークデイに二日も休暇を取りたいと言い出すので、メンバーはひどく驚いた。
ステディがいるのか、と揶揄ったマネージャーにフロア全員(誇張ではない)が聞き耳をそばだてる。随分と流暢なドイツ語で「それは(公然の)秘密だよ、」と甘く返したので口笛が飛び交った。何名かは流れ弾で失恋した。しばらく蔵内のいるチーム内では「公然の秘密だよ」という切り返しが流行った。
ドイツからフランスはEU圏内ということで、フライトの数も多い。やはりフランス観光といえばパリだろうか?そう思って王子に尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「ルーアンに行きたいな」
「ルーアン?…ノートルダム大聖堂か?」
「ヴュー マルシェ広場に行ってみたい」
「ジャンヌ・ダルクか」
「モネの家は混んでるだろうね」
「睡蓮の数と人の数が同じぐらいいそうだな」
蔵内は、ルーアン、と手元の手帳にメモをする。
「他には?」
「うーん、これといって。きみと居られれば、どこでもかまわない」
「お前にしては珍しい」
「きみはどう?」
これはそうとうキてるな。蔵内はそう思いながら、ネットのフランス観光のページをスクロールして眺める。
「やっぱりヴェルサイユか?」
「ぼくは王子だけど、王子ではないよ」
「ばか」
日本人だが、王子はきっと宮殿に映えるだろう。写真を撮りたい、と蔵内は思った。
「いいよ。じゃあ、そこもだね」
本当はのびのびとしたボルドーでワインを楽しむのも、プロヴァンスで大自然に触れながらゆったりとヴァカンスを楽しむのも、してみたい。だが悲しいかなヴァカンスはとびとびにお互い予定が入り、どうにもならず数日、イギリスとドイツで会ったきりだ。短い期間とはいえ、二人で水入らずの旅行となればどうにも気合ばかりが先行する。いい宿でも取るか、と思って背伸びすれば手が届きそうな値段なのも良くない。無論スイートみたいな富豪の選択は出来ないが。
「クラウチ、ホテルはきちんとぼくにも選ばせて」
「えっ。……あ、ああ」
と思っていたらまるで思考を読んだかのように王子が言う。なにせ蔵内は前科一般である。ドイツに行った折、王子がちょっと引くぐらいのいいランクのホテルを取り(自分の駐在しているアパートにはなぜかゲスト用のベッドルームもあるのに!)、意気揚々と王子をそこに押し込めて懇ろに過ごしたからである。
「いいね?」
「………仕方ないな」
釘を刺されてしまってはしょうがない。諦めていくつかを見繕ってから王子にまとめて送信し、蔵内は端末をシャットダウンした。
「王子」
「ん、ありがとう。今リストが届いたよ」
「…王子」
蔵内が王子を呼ぶ。その、拗ねたような、甘ったれた少し強引な響きに王子は笑う。さみしいのだ。王子も、それから蔵内も。
ベッドルームにスマホを移動させて、王子も蔵内も布団に入る。明かりを絞ると、王子の顔はあまり見えなくなった。
「一か月後か。遠いようで、意外と先じゃない」
「この夜が30日も続くと思うと、…35日後にまたこの日常に戻ると思うと、気が滅入る」
「クラウチは甘えん坊さんだ」
「何とでも言え」
「愛してるよ、クラウチ」
お互いにまだ時差の少ないエリアへの赴任で良かった、と思いたい。それでも蔵内が起きる時間には、多くまだ王子は寝ている。
その寝顔を見ても、頭を撫でることも、キスで起こすことも出来ないのは、なんとも切なかった。
「今日はこのまま?」
「うん」
王子が笑って、窓際の、いつものスタンドにスマホをセットをした。
眠る王子の上半身が、電子の海を漂い、蔵内のスマホの液晶へと王子の姿を映し出す。それはまるで、何か別の物質に――例えば仮初にトリオン体などという夢の物質があったとして――お互いの身体が構成され直す機構とよく似ていた。
蔵内が欠伸を嚙み殺す。彼の寝室にも同じように、蔵内の眠る姿が映し出せる位置にスマホが置けるようなスタンドがあった。
「おやすみ、クラウチ」
「おやすみ、王子」
静かな夜だ。アパートの前を通過する車が鳴らしたクラクションは、さてイギリスのものだったか、ドイツのものだったか。画面の中ですやすやと心地よさそうに眠る二人には、ついぞ分からなかった。
蔵内が赴任しているケルンという都市部からルーアンまでは500km程だ。日本で言うところの東京から大阪、よりも少し遠いぐらいか。