窓際の彼 木曜三限。
退屈な第二外国語の授業で、彼はきまって窓際の、光が当たる暖かくて気持ちよさそうな位置に座っている。
俺の席は、彼からだいたい三、四列ぐらい後方だ。彼の左斜め後ろに座っているから、いつも彼の憂いを帯びた左半分の顔だけが、見えている。
友達はいたりいなかったりするようだ。ときどき、食堂で彼が誰かとランチしている姿を目にする。でもこのフランス語の授業を彼の友人は誰も取っていないのか、ただいつも、ぽつん、とつまらなさそうに座っているばかりなのが印象的だった。
明るい色の髪に、角度によって少し色を変える、ターコイズブルーの瞳。それが、俺が知る彼の全てだ。ああ、でも、誓って言う。俺は特にゲイじゃない。それに、彼は綺麗な顔立ちに反して意外と背が高い。授業終わり、プリントを出しに行くために立った彼の、予想以上のガタイの良さにちょっとびびったのも正直ある。夏だからか、剥き出しになった腕は割とかなりマッチョで、俺はちょっとぎょっとした。それで、めちゃくちゃ男だな、と思ったし、なんかこんな綺麗な顔してこんなに体格いいのかよ、と舌打ちしたくなるような気分にもなった。
名前も実は知らない。名字も分からない。皆学生証をリーダーにかざして出席をつけるから、高校とかと違って名前を知る機会もない。
ただ、左利きのようだった。思い出したようにプリントに記入するのも、アプリを触るのも、全部俺から見えている側の手でしている――つまり左手で操作している。だから、そうと知れた。彼が笑うところを見たことはあるが、ごく遠く、食堂の向こうの方で数人と盛り上がって談笑していたときぐらいか。それ以外は、アルカイックスマイルのお手本みたいな、綺麗に口元を持ち上げる笑い方ぐらいしか、見たことはない。
こんなに綺麗な顔なんだ。彼女の一人や二人ぐらいいるのかな。
幸か不幸か、誰かが発言するような授業ではない。ただ淡々と、大講義室の前の方で、教授が喋り続けて、俺達はそれをノートに取ったり取らなかったりする。持ち込みOKの授業だからか、楽単の授業だと皆知っているのかは分からないが、常に眠たげな空気だけが漂っている。
彼が話す声すらマトモに知らない。どんな声なのか。でも、すみません、とかありがとう、とすれ違いざまに言う声は、何だか独特の涼やかな響きを伴って、一瞬聞き惚れてしまうそれだったように感じる。
話しかけようか、迷う。でも、理由がない。どっかサークルでも入ってるんだろうか。っていうか、男が男に用もないのに話しかけるって、やっぱ変だよな。相変わらず見えるのは左側だけで、ペンを持つ左手には特に指輪はない。うーん。彼女、いないのかなやっぱ。だって彼女いたら指輪とか、してないか?
大学受験でちょっと高めを狙いすぎた俺は、見事志望校に落ち、滑り止めでこの三門市立大学に来た。元より行く気もなかったから、俺はこの大学を、ただちょうどいい偏差値の大学としか見ていなかったのは事実だ。いざ入学してみればコイツ絶対もうちょっと上の大学に行けただろ、ってヤツがゴロゴロ居るわ、時々謎のサイレンが鳴ってネイバーなる謎のUMAみたいなヤツの侵略があるらしいわ、俺は早くも三門市に来たことを後悔し始めていた。
とはいえ、勧誘されたテニスサークルは程よいゆるさで、大学からの友人なるものもさっそく数人できていて、この間もアウトレットまで皆で遊びに行った。総合的に言ったら満足してるといえばいるんだが、なんだかぬるりとした奇妙な気持ち悪さを覚える。
変な街だな、というか。
だがそんな中、この週に一度、穏やかな窓際に座る綺麗な男を眺めるのが、俺の密かな癒しになっていた。女の子じゃないって辺りが何とも言えないんだけど、それはそれ。まあいいじゃないか、誰が何を癒やしにしたって。
その日も、なんてことない、ただの平和なフランス語Iの授業のはずだった。それは唐突に訪れた。彼を照らす窓の外がふと陰り、けたたましくサイレンが鳴る。
《ゲート発生、ゲート発生。付近の皆様は、直ちに避難してください》
「イレギュラーゲートだ‼」
「キャー‼」
「何でこんなところに! 早く逃げろ‼」
誰からともなくそんな声が漏れ、悲鳴と共に教室内が騒然となった。皆、一斉に立ち上がる。
なんだ? 何が起こった? イレギュラーゲートって、何だよ!
訳も分からず俺も立ち上がって逃げようとしたとき、ふと――何故かは分からないが、いつもの斜め前の彼がどうしているのか気になって、俺はそちらを見た。彼も、このときばかりは慌てふためいて逃げ惑うんだろうか?
と。
――彼は、まるでそこだけが切り取られたいつもの空間みたいに、座ったまま退屈そうに、スマホを眺めていた。
頬杖をついて、物憂げに睫毛を伏せて。その左手の薬指に、この間までは無かった金色の指輪が嵌まっているのを、俺は確かに見た。
え、今。指輪……
出口へ向かう途中、足を止めて振り返った俺の横を、皆が押しのけるようにして我先に教室の出口へと急ぐ。全ての音が失われたかのように、彼だけに意識が集中する。
彼がゆっくりと立ち上がった。俺が凝視しているのに気づいているのだろう。ゆったりとした足取りでこちらに向かいながら、柔らかで他人行儀なアルカイックスマイルを浮かべ、俺を見た。
「きみも早く逃げた方がいいよ」
「で、でも…その、君は?」
「ぼくはね」
柔らかで少し高い、落ち着いた声だった。気づけば教室はもぬけの殻で、俺と彼だけが残っていた。窓の外に、悲鳴と怒号が飛び交っている。
そこに、一人ものすごい勢いで、誰かが駆け込んできた。
「王子! お前、」
突然の乱入者に俺がその男の方を向くと、やたらと端整な顔立ちの、彫像みたいな男が息を切らして立っていた。膝に手をついて、息を整えている。その、手、その左手に、さっき見たものに酷似した、金色の指輪が嵌まっている。
え。
それは、まさか。
それを確認しようと振り返った俺の前で、彼が――今度は悪戯めいた生き生きとした目で、俺の前にまるで指輪を見せつけるみたいにして、顔のすぐ横まで拳を持ち上げた。そこにはやっぱり金色の指輪が嵌まっていて、
「――ッ⁈」
きらきらした緑色の光が取り巻いた、かと思えばそれが一瞬にしてすう、と消えた。思わずもう一度男を振り返ると、さっきまであったはずの男の手にもやっぱり、金色の指輪は無かった。
どういうことだ⁈ 白昼夢、だったのか?
その答えを知るよりも早く、彼がさっきとは打って変わって凜とした声で、男を呼んだ。
「本部と連絡がついた。ぼくとクラウチで当たるよ。カシオは合流しない。行こう」
「蔵内了解」
男の名は蔵内、と言うらしかった。なんだか現実感のないやり取りにぽかん、としている俺の横を通り、彼は教室の窓をガラガラと大きく開けた。何を。いやなんで。何が。
その答えを得られぬまま、彼は三階の教室の窓枠に手をかけて、ふと俺を振り返った。
「このことは、誰にも言っちゃだめだよ。きみとぼくとの秘密だから、ね」
何を。
それを問うよりも早く、彼は三階の窓から下へと飛び降りていった。いや、いやいや、ここ三階なんだぞ⁈ 飛び降りてどうするんだよ!
慌てて追いかけようとした俺の肩がぐっと引き戻されて、俺は思わず尻餅をついた。さっきの男が、いかにも感情の無いロボットじみた顔つきで俺を見下ろしていた。その冷たさと背丈、整って冷たい双眸に俺の喉がヒュッと鳴る。
「悪い、急ぎでな。…ここは三階だろう、危ないから下がっていてくれ」
そう言い残した男はまさしくその三階の窓から、彼を追うように飛び降りていった。一瞬の出来事すぎて何も言えず、俺はただただ呆然として、その場でへたり込んだまま動けなかった。
三門市って、なんなんだよ。
何が起こってるんだよ?
何も分からない。ただ心臓が非日常にバクバク言っていることに、俺はようやく気がついた。
去り際の彼の蠱惑的な目差しが目蓋の裏には残っていたが、それも一瞬にしてもう一人の男の、まるで牽制するみたいな冷たい瞳に塗り潰された。
「っハァ~~~~………」
ぐしゃぐしゃ、と髪をかき乱したところで全てがどうでも良くなって、俺はそのまま講義室の床に大の字に寝転がった。もう、考えるだけ無駄な気がして。
やがて窓の外から爆発音が聞こえてきたが、何故だが俺は何となく大丈夫な気がして――というより多分何もかも投げやりで――そのまましばらく、講義室の床に寝たままでいた。
誰かが、窓の外で「ボーダーが来たぞ!」と叫ぶ。歓声が上がるのも他人事に、俺は古ぼけてくすんだ色の天井を眺めながら、このよく分からない気持ちをただ持て余しぼんやりと瞬きを繰り返していた。