前夜祭 欲しい物と訊かれて真っ先に思い浮かんだのは、洗濯用洗剤だった。3倍入りと書いてある詰め替え用を買っても、気付くと残り僅かになっている。一年くらいは買いに行かなくていい量の洗濯用洗剤が欲しい。だが、俺にだってそれを口に出さない程度のデリカシーはある。日用品など挙げようものなら、鯉登さんの目が吊り上がることはほぼ間違いないだろう。誕生日プレゼントとして洗濯用洗剤一年分。最悪の提案ではないと思う、が、「そういうことではない」と怒られが発生してしまう可能性は非常に高い。俺だって、誕生プレゼントに欲しいものを尋ねて、鯉登さんから平然と「洗剤一年分」と言われたら「日用品の消えものがいいんですね」と暗く低い声で言ってしまうかもしれない。
数秒考えた後、俺は考えるのを止めた。鯉登さんと付き合い出して一回目の誕生日を迎えた去年も、同じように欲しいものを尋ねられて答えるのに苦労した。今年はもう考えるまでもない。特段、欲しいものはないのだ。柄にもなく言ってしまえば、鯉登さんが俺を祝う気持ちでいてくれるなら(そしていつもより更に……いや、想像するのはやめておこう。考えるだけで鯉登さんにバレそうな気がする)、それで充分すぎる程嬉しい。鯉登さんが「誕生日おめでとう」と笑顔で言ってくれるのが一番嬉しい。なので、当たり障りなく、に加えて少しばかり甘えさせてもらうことにした。
「欲しい物というか、鯉登さんがよければですが、今年の4月1日の火曜日当日、うちに短時間でいいので会いに来てくれませんか」
鯉登さんが目を大きくしたかと思うと、それは瞬く間に顔全体に広がって、満面の笑みになった。
「いいのか?平日だから当日は電話でお祝い言って、週末に会ってたっぷり祝おうかと思っとった。行っていいのか」
付き合って二年近く。家はそこまで遠いわけではないが、同じ地下鉄の沿線ではないし、俺は社会人で鯉登さんは(人外というちょっと風変わりな要素はあるものの)大学生で、俺が弁えるべきラインがある。だから、週末や休日は頻繁に会っているし泊りも多いとしても、原則として休前日以外の平日は泊りはなしにしようと相談して決めていた。お願いはそれに逆らうもので、故に特別なお願いになり得る。
「例外は多用しません。しませんが、今回は例外にしてほしい。あなたも大学あるでしょうけど、夜更かししなければ大丈夫でしょう。朝、ちょっと大学まで遠くなるのが面倒でなければ、泊まってもらえたら嬉しいです」
「ふふ、泊まって夜更かしなしか。私は夜更かししても大丈夫だが、月島が仕事中に眠くなったらいけんもんな。夜更かしせんようにする」
「俺も頑張ります」
「何を頑張るんだ月島ぁん」
鯉登さんがニヤリとする。そういう不遜な表情もいい。
「な、泊まっていいなら、3月31日に泊まりたい。4月1日になった瞬間、横にいたい。お祝いしたら夜更かしせんですぐ寝るから」
「嬉しいです。年度末だからバタバタしてるってこともない筈なんで、31日はできるだけ残業しないように帰ります。うちにいて下さい」
「うん」
そう言った鯉登さんは、俺の目のフィルターの有無はさて置き、とても嬉しそうだった。
「プレゼントは私、などとベタなことは言わんから、楽しみに帰ってきてくれ」
俺としてはベタで全然構わないし、ちなみに洗剤一年分でもいいです、とは言わずにおいた。あんなに嬉しそうな鯉登さんに、わざわざへそを曲げさせるような下手な冗談は必要ない。
それが約一カ月前のことだ。今日、3月31日、寒の戻りもいい加減にしてほしい冷え込みに冷たい雨がぱらつく中、俺は残業を一時間半で切り上げた。速攻で職場を出て駅に向かいながら鯉登さんにメッセージを送る。
『今、会社出ました。40分はかかりません。何か買って帰るものありますか』
『なんもいらん。前夜祭とカウントダウンの準備は恙無く整った。早く帰ってこい』
地下鉄を待ちながら口元が緩むのを自覚する。完全に浮かれている。家へ向かう足取りは軽かった。
ビーッ
玄関のブザーを鳴らす必要はないが、敢えて押した。中からトタトタトタ、と急いで近づいてくる静かながら重い足音に、どうにも笑みが浮かんでしまう。覗き穴から一応確認したのか、少しの間が合ってチェーンが外される音がした。ドアが開く。
「おかえり」
「ただいま」
「ふふ、寒かったな。早く入れ。鼻が赤い。月島、かわいいな」
鯉登さんは俺のことを割と頻繁に「かわいい」と言う。最初はかわいいと言われることに違和感もあったが、今ではすっかり慣れた、というか慣らされた。なんなら、かわいいのか、と頷きたいような気にもなるから慣れとは怖い。
玄関に入って靴を脱ぎ、上着を脱ぎながら廊下を進もうとすると、鯉登さんが前に立ちはだかった。
「なんです?」
「部屋に入るまで手を引っ張っていくから、目をつぶっててくれ」
そう言った鯉登さんは、わくわく顔をキラキラと輝かせて俺を見ている。そんな顔を見てしまったらもう、頷く以外の選択肢はない。俺は「はい」と答えて通勤バッグと上着を持っていない方の手、右手を鯉登さんの方に出し、目を瞑った。すぐに、温かく指の長い手が、俺の右手を一度ギュッと強く握った。そのまま鯉登さんに手を引かれ、ゆっくりと短い廊下を歩く。俺の口端は勝手に上がってしまう。慣れ親しんだ自分の家の匂いと何かスパイシーな料理の匂いが漂う、その中で、目を閉じてゆっくり歩く。それは胸が躍るような時間だった。鯉登さんのわくわくが伝染したのか、それとも俺自身がどうしようもなくわくわくしているのか。柄にもない。だが、どうしようもない楽しさは、勝手に腹の底から湧き上がってくる。
俺の右手を握ってくれている鯉登さんの手を強く握り返すと、鯉登さんが立ち止まった。逡巡するような一呼吸の間があって、大きな身体が俺の身体を頭から全部抱き締めた。すっぽりでもなく、同じ高さで合わさるでもなく、少しだけ高さと幅の違う身体の凹凸が丁度ぴったりと嵌るような、そんな抱擁だった。
「鯉登さん」
しぃ、と鯉登さんは囁いた。大きくて温かな身体はすぐに離れていって、俺は目を閉じたまま、どうしてか目全体が熱くなったような感覚に慄いた。
鯉登さんがまた俺の手を引く。カチャリ、キィ、と、すぐ近くにあったドアを開ける音がして、暖かな空気が頬を撫でると同時に美味しそうな食べ物の香りが鼻を強く擽った。
鯉登さんが耳元で囁く。笑いを含んだ声。
「月島、目を開けていいぞ」
俺は、できるだけ、ゆっくりと目を開けた。
「ぉうわっ……」
1Kの俺の部屋は、色とりどりの球に埋め尽くされていた。文字通り、足の踏み場もない。正確には、床が見える筈の全てのゾーンを埋めている。色とりどり、カラフルな。
「風船」
「そうだ風船だダイブしていいぞ月島ぁ」
鯉登さんが涙目で笑いながら俺を見る。俺はどうでもいい疑問で埋め尽くされながら鯉登さんを見返す。
こんな大量の風船、この人が膨らませたのか?何個あるんだ?動線はどこだ?今日は風船に囲まれて寝るのか?それとも全部空気を抜いて片づけてから寝るのか?上に乗ったら割れないか?割れたり空気を抜く時に大きい音がしたら近所から苦情がこないか?
口をぱかりと開けてそんな諸々を考えた挙句、最終的にどうでもよくなった。だって鯉登さんが笑っている。嬉しそうに、俺を見て。
「行くか?」
鯉登さんが訊いて、俺は頷いた。
「行きましょう」
「せーの」と言った鯉登さんに手を引かれ、上衣と鞄を投げ捨てて、俺は鯉登さんと一緒に勢いよく風船の海にダイブした。
鯉登さんは笑いながら高らかに宣言した。
「月島誕生日の前夜祭をここに開幕する」
俺は大笑いしながら、目の熱さに耐えた。
風船は100円ショップを回って買い集めたものを、鯉登さんと鯉登さんの使い狐がよってたかって膨らませたそうだ。そこは空気入れを買ってきたりはしないんだな、と鯉登さんの律義さが妙に嬉しかった。使い狐と鯉登さんでの風船準備の時の騒ぎを見たかったと零したら「式鬼たちにもふもふされたいんだな。分かった。希望を叶えよう。だが、今からあれらを出して共に過ごすなら、私としっぽりやらしいことをした後に誕生日の瞬間を迎えることはできなくなるな。どっちがいい?」と言われた。
「週末にもふられます」と厳粛に答えると、鯉登さんはニンマリして「よろしい」と言った。