泡にはならない 遠い国の童話では、人魚は泡となって消えるらしい。そうと知ったのは、まだ、俺に沢山の同胞も血のつながった家族もいた頃のことだ。別の国で『人魚』と呼ばれるモノたちが、俺たちと同じと類されるモノかどうかは知らないが、おとぎ話のようなことは俺たちにも彼らにも起こらないと、嘲るように笑った。
やがて時が過ぎて、同胞も家族も傍にはいなくなって随分が経ったある日。人魚姫の心境は理解できないが、誰かを愛したが故に己は泡となって消えてもいいと思える、そんなおとぎ話のような愛がどんなものか知りたいとは思う。謀らずも長い付き合いになった男に酒の上での与太話としてそう言った時、やつは興味なさげな声で「へえー、そう」とだけ相槌を打った。目は「房太郎、そんなもの、ないぜ」と言いたげだったが、口に出して言わなかったのは、俺を慮ってのことだったのか、興味がなさすぎてどうでもよかったのか、もっと別の何かだったのか、今も考えることがある。
鯉ちゃんとたまにご飯とか飲みにいくような知り合い(友人と言うのは微妙だ。主に鯉ちゃんの彼氏の目が険しくなることが理由で)になったのは、杉元を通じてだった。けど、その少し前に、俺は鯉ちゃんを街中で見かけたことがあった。
その日は蒸し暑くて、朝から小雨が途切れ途切れに降っていた。気温は梅雨の仮面をかぶった初夏のそれで、大人たちの多くはうんざり顔を傘の下に晒していた。俺は、種族特性上雨は好きだが、暑さはそうでもない。人の間で生活するようになって長く、冷暖房の恩恵に預かってすっかりそれに慣らされていれば、むわむわとした暑い日の雨を、心地良いとは思わなくなった。
そんなだから、その年も始まった蒸し暑い夏の気配とペタつく自分の髪を幾らか鬱陶しく思いながら、車を停めたパーキングへ向かって歩いていた。小雨が降り続いていたから、傘を差して。
対面方向から路地の向こう寄りを歩いてくるすらりと背の高い(とは言っても俺ほどの身長はない)、矢鱈と姿勢のよい、というか美しい姿勢の男が見えた。俺は不意に彼が傘を差してないことに気付いた。濡れても構わないくらいの雨かと問われれば、長く歩けば服がぐっしょりになる程度には降っている。だが、傘を差していない男、男というより少年を抜け出したばかりの青年、という表現が似合うような彼は、傘を差さず、そして少しも濡れていないように見えた。足を速める様子もなく、一定の速度で歩いてくる。
じろじろ見るのは控えつつも興味が沸いた。近づいてくるほどにハッキリと分かったからだ。
あの子、人間じゃないねえ。
雨は等しく彼にも降り注いでいる。しかし、彼の身体を包む本当に淡い淡い光の膜のようなものが、雨を弾いているようなのだ。大雨なら目立つだろう。今のこの小雨が不自然にならないギリギリのラインなのかもしれない。だが、気付く者が見続ければ、何故いつまでも濡れないのかと不思議に思うだろう。
あと10メートルですれ違う、というところで、彼がチラと俺を見たのが判った。だから俺も、わざと彼の顔をまともに見た。
彼は表情を載せない、整いすぎて少し冷ややかにも見える澄ました顔で俺と視線を合わせた。そのまま残り7メートル、俺たちは視線を外さないまますれ違った。
分かってるぞ。
分かってるよ。
人外同士の言外の遣り取り。この都会に人外は少なくないとはいえ、こんな無言のすれ違いはよくあることでもない。人外が人外を見分けられるとは限らないからだ。その眼がなくても、気配の濃さが違いすぎていても、殊更に隠そうとしていても見分けるのは難しくなる。だがこの時、彼は俺が人間でないことを判っていたし、俺も彼が人間ではないことに気付いた。
小雨に濡れたくはないが傘は差さない少し綺麗な形の人外とすれ違った。ただそれだけだった。直後に俺が振り返らなければ。
すれ違って数歩、背後から聞こえた、駆けだしたような軽い足音に、思わず振り返った。彼が走るとは思えなかったが、周囲には他に誰もいなかったから、彼なのかもしれないと思ったからだ。
振り返った先の光景は、ビニール傘越しでぼやけていた。それでも俺は振り返った姿勢のまま立ち止まった。
駆けだした彼の後ろ姿、走りすぎる空間に、きらきらと無数の光が舞う。狭いビルの谷間の路地で繰り広げられるには、華やかで幻想的な。
「月島っ」
走っていく彼が呼んだ。彼の向こう、路地に入って来たばかりのカッターシャツ坊主頭の男に向かってだろう。呼び名に合わせてまた、ぶわりと彼から輝きが放たれた。
俺は少し驚いて、人外故の、彼の振りまいたあけすけな喜色に呆れて、そしてどうしようもなく笑い出したくなった。
俺は身体を返してパーキングに向かって歩き出した。笑いながら。
坊主頭の男は人間に見えた。人外のあの子は、人間に恋をしているのかもしれなかった。そうでなければ、あのきらきらの説明がつかない。
到底恋のために泡になどならなそうな子ではあったが、俺はなんとなく、彼の恋よ実れと願った。そんな気持ちになるのも久しぶりだった。
車に戻ってすぐ、白石に『暇?いいもの見たから奢る』とメッセージを送った。
その後、あの時すれ違った雨に濡れない彼、鯉ちゃん(稲荷狐の眷属だった)のことを杉元から紹介されて、その恋人の人間、月島さんのことも紹介してもらって、そのうち鯉ちゃんがうちの店にバイトに入ってくれたりするようにもなって。鯉ちゃんが、月島さんのいないところでも、月島さんの話をするだけでいつでもほんのりきらきらしだすのを見せられ続け、いつしか思うようになった。
おとぎ話みたいな、どっちかの犠牲なんか、嫌だよね。
それを酒の上での与太話で白石に言うと、やつはやっぱり興味なさげな声で、でも割と優しめの声で「そうだよなあ」と答えるのだ。