ノンアルコール・モヒート!(4)「……魏嬰」
まるで魔法を唱えられたように、血の巡りが速くなるのを感じた。頬が熱くなり、何かを堪えるように歯を食いしばる。無意識に。
呼んだ本人は、真面目な顔で俺の反応を待っていた。これは、名で呼ぶべきなのか。
「…藍湛」
微かに掠れた声で名を呼ぶと、藍湛は満足そうに目を細めてグラスを持ち一口飲んだ。俺は酒に強い。だからこれは、アルコールが原因ではない。いや、原因は全てわかってる。それを、認めたくないだけ。
乾いた喉を潤すように、日本酒を呷る。ゆっくり飲み下すと、アルコールが喉を通って胃に落ちて行くのを感じた。
藍湛は、この空間を少しでも心地好いと感じてくれているのだろうか。藍湛の事が、知りたい。近付きたい。
「藍湛、初めて来店した時は同期の仲間と一緒だったんだろ?」
冷酒を注いで、ちびりと舐める。知りたいと思ったら、存外欲望に忠実な俺は問いかける。もう一口舐めた時点で酒の味もわからなくなっており、カウンターに両肘付いて腕を組み、そこに顎を載せる。
「………うん」
踏み込んではいけない。
バーテンダーとしての俺が警鐘を鳴らす。客として一定以上の距離を保とうとする自分と、知って近付きたいと思う自分が鬩ぎ合う。
「彼らは…同期の中でもエリートと呼ばれる者達だ」
そんな俺の葛藤を他所に、ぽつりと話し始めた。
「私の藍家次男としての肩書きに近付きたい者ばかり」
独白のように呟かれたそれを聞いて、彼を取り巻く環境が垣間見えた気がした。機械関係に強く医療機器や産業機器など大きいものから家電までを取り扱う大手企業姑蘇。その直系の次男ともなれば、周囲からの扱いは特殊なものとなるだろう。
名刺を見た時点で直系の次男とまでは気付かなかった。関係者だろうとは思ったが、まさかこんな大物だったとは思いもしなかった。
「でも、飲みに行くくらいは仲良いんだろ?」
感情の全く見えない瞳は、一瞬憂いるように揺らいだ。グラスの縁を撫でるのが癖なのか、綺麗な長い指は薄いガラスをゆっくり行き来する。
「叔父上や兄上に……人と関わるように、と…」
見ての通り、人付き合いは苦手なようだ。この前五人で来た時も、結局一人で烏龍茶飲んでたもんな…
「人って、会社の人とじゃなきゃ駄目なのか?」
藍湛は、憂いていた瞳に疑問符を浮かべながら此方を見る。カウンターに付いた両腕に、頬を付けて藍湛を見上げる。
「会社の人じゃなくてもいいならさ、俺と関わってみるってのはどう?」
気付いたら口から出てた。慌てて、他意はない事を説明しなくてはと、頭を持ち上げてへらりと笑う。
「変な意味じゃなくてさ、此処に飲みに来た時に話をしようってだけ。無理に合わせる必要も無いし、来たくない時は来なくたっていい。来たい時に来て、話をしてさ。なんていうのかなぁ……」
上手く言葉にならない。またカウンターに突っ伏して頭を抱える。ふと、ある言葉が閃いた。
「そう!友達!友達になろうよ。俺と藍湛でさ。こうしてまた飲みに来たいと思ってくれたんだし。いや俺目当てじゃなくて飲み物目当てだと思うんだけど、ついでっていうかさ……」
この歳になってこんな発言すると思わなかったと、羞恥を感じて誤魔化すように言い募る。しかし、言葉はそれ以上続かず、気まずくなって腕に顔を擦り付けるようにして視線を反対側に向ける。
「……………………………」
「……………………………」
沈黙が続く。断られる前に、何か言おうとカウンターに視線を落としたまま頭を持ち上げるた瞬間、藍湛は体ごとこちらに向けた。その気配に視線を向ける。
「……迷惑では」
この沈黙の間ずっとそれを考えてたのかよ!
思わず心の中でツッコミを入れてしまう。本当に人付き合いが苦手なんだろうな…何処かズレてる。
「迷惑だと思ってたらそもそも提案しないって」
断られなかった安心感から、肩の力を抜いて笑みを浮かべる。藍湛のいつも硬い表情が、緩んだ。柔らかな笑みに見惚れる。思わず息を呑んでしまった。
差し出された右手。それを見て握手だと、気付くまでに数秒かかった。
「よろしく、藍湛」
「……うん」
右手を握る。初めて触れた彼の手は、冷たいと思っていたのに意外にも温かかった。