知己の縁談、即破談知己の縁談即破談
あを。
高く聳える山々にも青葉が繁る頃になると、涼冷な雲深不知処といえど、薫風に呷られ陽炎が揺れる。
馴染みの雪景色が消え、鮮やかな緑衣に様変わりしようと魏無羨からすれば、西瓜が美味い季節になったな、の一言で片付けられた。
共に食べようとこの暑い中、丸々とした西瓜を抱え、ようやく見つけた彼は弟子達に囲まれ涼しい顔で戦術を語っていた。
「ちぇ」と長い髪を項から掻き上げ顔を上げると、強い日光が容赦なく刺さり、魏無羨は目を細める。
(相談したいことがあったんだけどな)
仕方なく、静室に戻り一人で赤い果実に齧り付きながら、魏無羨は手元の書簡を流し見た。
幾重にもまとめられた文紙には、其々に女の名前や家柄が記載されている。
ー縁談相手
つい先日、含光君の縁談を機に、自分の恋心に気付いた魏無羨は、積年の想いを彼に告げ、二人はようやく知己から一歩進んだ関係になったばかりだった。
縁談は藍湛によって破談にされたと聞き、この問題は解決したと思っていたのに
(今度は俺に縁談話が来るとはな)
含光君が駄目ならば、魏無羨に、とは近年の子女は逞し過ぎやしないだろうか。
(いや、もしかしたら、含光君から俺を離したい世家の連中の画策かもしれないな)
雲深不知処に住み着き、あまつさえ仙督の含光君と寝食を共にする魏無羨は目について疎ましい存在であろう。まして年月が経てど夷陵老師の悪名は、今も方々に根強く残っている。
(俺が消えれば……か)
そう願って止まない人間が多くいることを肌身に感じている。それは、邪悪な存在から姑蘇藍氏の畏敬を守ることでもあるのだ。
だからこそ、魏無羨は縁談の釣り鐘を無下にする訳にもいかなかった。
(俺の心はもう決まっているけれど)
知己を越えることを恐れ、必死の覚悟で想いを告げた魏無羨に、藍湛も同じ気持ちで答えてくれた。
あの抱き締められた胸の熱さと心地良さを知ってしまえばもう離れて生きてはいけないと思う。
けれども、それはあくまで二人の間の話であり、この関係を公然と公言出来るはずもない。
結果、二人は人目を忍んでは指を触れ合わせたり、目配せをする程度、たまに静室でそっと抱き合ったり、口吸いをするのが精一杯で、それも藍忘機が就寝するごく僅かの時間だけだった。
欲求不満といえばその通りだ。どんなに盛り上がってしまっても、亥の刻になると藍忘機は寝てしまうばかりなので、息も耐え耐えな魏無羨は火照る身体とその深い熱を持て余してしまう。よほど襲ってやろうかとも思ったが、含光君に拒絶されては身も蓋もない。
そんな時、魏無羨の胸に微かな不安が過る。
例え想いが通じていても、元は「知己」の関係だ。精神的な愛を重視し肉体の繫がりは求めない、そういった関係もあると聞く。
相手が自制と自己修養の塊の含光君であっては、その淡々とした表情や態度から、彼の内に潜む欲望は読み取れなかった。
一方で魏無羨の方は時が経つにつれ、どんどんと欲深く辛抱難くなっていった。足りなくなる。
含光君の全てを己の物にしたくなる。
こんな浅ましい想いを抱えているのは自分だけだろうか。
(我慢できないが、我慢すべきか)
西瓜を片手に考え込んでいると、ふと目の前に影ができた
見上げると渦中の人物が自分を見つめている。
「お子ちゃまたちの面倒は見終わったのか」
深刻な顔を誤魔化すように、軽口を叩くと、白い衣をはためかせて含光君は魏無羨の隣に腰かけた。
「うん」
優雅で見惚れてしまうような所作で、西瓜を受けとると、藍忘機は小さく口を開き、それを啄むように上品に食べ始める。
整った綺麗な唇に、赤く熟れた西瓜が吸い込まれていく。しゃくしゃくと一定に刻まれる咀嚼音すら戯曲を奏でるように美しかった。
舌がちろりと出て、唇に残るベトついた汁を舐めるとる。その艶めかしさに欲情してしまい、思わずごくりと喉が鳴った。
「魏嬰?」
何か、と顔を覗き込まれ、少し赤くなった顔で魏無羨は視線を逸らす。
「あ、その、俺お前に相談があったんだ」
早口にそう告げると釣り鐘を見せた。
「これは……」
「その、俺にも来たんだ……縁談」
ぴくりと、含光君の指が止まる。
そのまま何も言わずにじいっと見つめられ、居心地が悪くなった。
「……あ、安心しろ。ちゃんと断るから」
咎めるような視線に耐えられずにそう云うと、ようやく藍忘機はその固い表情を和らげる。
「藍湛……」
いつものように、そっと抱き締められて、その白檀の香りに包まれながら、
「縁談なんてするはずないだろ、だって俺は
お前の……」
言葉につまる魏無羨に、気づかずに、含光君はその
身を愛おしそうに抱き締める。幸せだと思った。
幸せなはずなのに、鼓動が騒めいて止まなかった。
(なあ、俺ってお前の何なんだ?)
次の日の朝早く、魏無羨は藍啓仁の居室を訪ねた。一応ちゃんと身綺麗にして真新しい服に身を包む。
少しでもちゃんと見えるように
(まだ藍湛とのことは考えなくちゃいけないことも
あるが、縁談については断ろう。)
扉の前に跪き、一声かけようとする魏無羨に会話が聞こえてくる。
「あれは縁談を受けるだろうか」
「魏公子のことですか?」
突如聞こえてきた自分の名に、魏無羨の視線は宙で
止まった。
「叔父上が彼に縁談を勧めるとは思いもしませんでした」
「忌々しいことだが仕方ない。最近のあの者達は目に余る。こうでもせねば周囲に悪い影響を与えるばかりだ」
ため息交じりの藍啓仁の声に、心臓が煩い位に高鳴る。
(俺たちのことを、話しているのか?)
二人の関係を面立って打ち明けたことはなかったが、彼らにはもう察しがついているようだった。
「今は二人ともそれで良いかもしれませんが、きっと悔やむ日が来るでしょう。魏公子はもう気づき始めているかもしれません」
「忘機はまだ周りが見えておらぬからな」
沢蕪君の言葉に藍啓仁は、はあと深いため息をつく。
「あのままでは誰も幸せになれんというのに」
(……なんだ、俺の予想は当たっていたじゃないか)
宙に浮いたままだった掌を、そっと床につき、魏無羨は音を立てないよう立ち上がった。
やはりこの釣り鐘は、世家の者が用意したものだった。
それがまさか藍啓仁先生と沢蕪君の差し金とは思わなかったが、熟慮高い彼らが導き出した「正しい方向」がこれなのだろう。彼らが、藍湛のことを一番に思い、出した答えだとは理解していた。
(俺がいると藍湛は幸せになれない)
分かっていたはずだった。
突然突き付けられなくとも、
それはずっと魏無羨の奥底にあった。
(俺とお前の関係はなんだ?)
答えられるはずもない。
そっとその場を立ち去る魏無羨の耳に最後の台詞が残った
「今は辛いかもしれないが、何が最良か後から分かる時が来るだろう」
静室には火が灯されていなかったから、藍忘機は最初、誰もいないと思っていた。
だから、部屋の隅で小さく蹲っている魏無羨を見つけた時には焦ったものだ。
「魏嬰?」
(具合でも悪いのだろうか)
思い返せば昨夜話をした後も、魏無羨はぎこちない表情を見せるばかりで、口が上手くないと自負する忘機は何と声をかけて良いか分からぬままだった。
忘機の声にようやく顔をあげた魏無羨は口早に告げた。
「藍湛、俺縁談を受けることにした」
藍忘機の目が大きく見開かれる。魏無羨が何を云っているか分からず、口は微かに動いたままだった。
ようやく「…、昨夜断ると云った」そんな陳腐な言葉が出てきたかと思えば、それは直ぐに魏無羨の笑みに掻き消された。
「昨日は昨日だ。今日考え直して、やっぱりすることに決めたんだ」
もう文の返事も出してきた、と答えれば、含光君の琥珀の瞳には憤りで濃い赤みが差した。身を震わせる含光君を見て、魏無羨の心にも激しい後悔が生まれる。
(ごめんな、俺はお前を傷つけたい訳じゃないんだ)
逆の立場であれば、魏無羨の方が耐え難い衝撃を受けていることだろう。
だが
(今は辛いだろうが、あとから何が最良だったか気付く、か)
流石は啓仁先生だ、賢く強かで、いや年の功かもしれない。
勿論それを素直に聞く程魏無羨は聞き分けの良い生徒ではなかったが、藍湛のことと、思えばそれはすんなりと心に落ちた。
(好きなだけじゃ駄目なんだ)
「なあ、藍湛、俺はお前のなんだ?」
顔を上げる藍湛の表情を愛おしいと思った。
好きだと思った。
でもそこに答えがないことを知っている。
「お前も答えられないだろう、そういうことだ」
その瞬間、力いっぱい肩を抱かれ、魏無羨の体は激しく床に叩きつけられた。
床が悲鳴を上げて軋み「っ」と小さな悲鳴が漏れる。
「知己を越えることなど簡単にできる」
「藍湛……」
そういって、瞳に強い怒りと悲しみを宿した藍忘機は、稀に見る怖い表情をしていた。押し殺していた感情があふれ出したような、聞き分けのない子供のような、無遠慮さで、押し倒した魏無羨の服を強引に剥ぎ取る。
首筋を噛みつき、性急に腰布を奪った。
(あんなに望んでいたはずなのに、夢にまで見ていたのに、な)
そこには悲しみしかなかった。
世界が反転して、暗い闇に染められる。
「……やめてくれ」
そっと手を突き、その体を押しのけた。
弱い力なのに、見つめた魏無羨の目に迷いがないから、藍忘機はその凶悪な上半身をゆっくりと引き起こす。
「……すまない」
乱暴を働いたことを謝っているのだと分かった。
(謝らなくたっていい。本当は俺はお前になら何をされたっていい)
だが今は先に進まなくて良かった、と心から思えた
俺の欲でこいつを汚さなくて済む。
体を重ねてしまえば今よりもっと離れ難くなるだろう。
「魏嬰、明日、話がある」
「そうだな、今日は俺もお前も冷静じゃない。明日またゆっくり話そう」
そうやってようやく離れた体に、身がひき割かれそうに感じる自分を、魏無羨は自嘲気に笑った。
翌朝、朝早くに叩き起こされた魏無羨は寒室で座することとなる。目の前には、笑顔の藍曦臣が正対している。己の知己と瓜二つの美しい顔の眉間には密かに青筋が浮かんでいた。あの温和な沢蕪君がこれほど怒りを露にするとは珍しい。
そして、その横ではつーんと澄まし顔で座する含光君がいる。
てっきり二人で昨夜の話に蹴りつけると思っていたのに
(お兄ちゃんに言いつけるなんて卑怯だぞ!)
目線だけで非難すると無表情のままぷいっと藍湛が顔を背ける。
可愛いけど、腹が立つ。
思いもよらない藍湛の反撃に愚痴を言おうとする魏無羨を、沢蕪君が咳払いで遮った。
「それで魏公子、これは一体どういうことかな」
「どうもこうも、俺はただ、勧められた縁談を受けると藍湛に伝えただけです」
「それは昨日の私と叔父上の話を盗み聞いていたからだろうか」
間髪入れない問答に(やはりばれていたか)と思う。
「それもありますが、含光君は仙督です、藍氏や世家の将来を考えれば早々に嫁や世継ぎが望まれる立場だ、俺は離れた方がいいに決まっています」
「魏公子に藍氏の将来を語られるとは思わなかったよ」
日頃の奔放な行いが仇になったのだろうか、びしゃりと言い切る沢蕪君の言葉に、声が詰まる。
一つ確認するが、と前置きをして
「君と忘機は道侶も同然なのだろう」
真っすぐな沢蕪君の言葉に、魏無羨は目を見開いた。うすうす感づかれているとは思っていたが、こうも面と向かって告げられるとは思っていなかったからだ。
「なぜそれを」
「見ていればわかる。誤解があるようだから云っておこう。私も叔父上も君と忘機が離れるとは思って
いないよ」
「なら、なぜ縁談なんて」
憤る魏無羨に、沢蕪君がため息をつく。
「それは、お前達の行いが目に余るからだよ」
「はあ」
本当に周囲が見えていないのかと、顔を顰めた沢蕪君は眼を閉じ諭すように語り始める。
「お前達ときたら、互いを見かけたら、すぐに引っ付き、人目を忍び目で合図をしたり抱き合ったり。本当に誰からも見られていないと思ったのか?」
いかに二人が優れた修士であろうが四六時中弟子
の目を躱せるわけではない。忘機にいたっては、ばれても一向に構わぬと視線を避けることすらしないのだ。
音や声に敏感な優れた藍氏の門弟の中で、気まずい光景を目の当たりにした同志は数知れず。
更に言えば、二人は酷く初々しいのである。手が触れようものなら顔を夕日のように赤く染め、そっと抱き合ってはぎこちなく離れる。いい年した男二人の、もだもだした初心な恋模様を見せつけられては、こちらも気恥ずかしさが勝るというもの。
「何でもいいから早く二人をくっつけて欲しい」と多くの苦情が寄せられ藍啓仁が何度血を吐いたことか。
「……だから俺に縁談を持ち掛けて、含光君から引き
離そうとしたのですか」
周囲にはばれていないと根拠のない自信を持っていたばかりに、魏無羨は、恥ずかしさのあまり消え入りそうな声で聴いた。
「我々は君が本当に縁談を受けるとは思ってもみないよ。波風でも立てれば、早く収まるところに納まると思っていたのでね」
逆効果とは考えなかった、と沢蕪君は額に手を当てる。
「叔父上など胃を痛めながら釣書を準備したと言うのに」
二人の仲を反対していた藍啓仁からすれば苦肉の策だったのだろう。
「だから二人は我々に遠慮なく、関係を進めて欲しい」
沢蕪君は話は終わりだ、と二人を追い出すように寒室を閉めた。
帰り際に、忘機、頑張るんだよと声をかけるからには弟贔屓が激しい。やはり兄弟は兄弟なのだ。
まあ、江澄が俺の味方をすることはないだろうが。
二人で静室に戻ると、何となく静けさがぎこちなかった。
まさか含光君も共犯だったのではと疑い、
「啓仁先生が仕組んだこと知っていたのか」
と聞くと
「存ぜぬ、だがお前は断ると云っていた」
涼しげな顔で応えられる。誰が差し金であっても問題なかったはずだ、と恨みがましい視線で見つめられれば魏無羨は、はははと乾いた笑みを浮かべるしかない。
「まあ結果的に縁談はなくなったわけだから、元に戻って良かったじゃないか」
「まだだ」
ゆっくりと寝台に押し倒されて、ぶわっと魏無羨の頬に赤みが差す。
緊張にごくりと喉が鳴った。
「するのか?」
「する」
「今まで手を出して来なかっただろう」
「お前がすぐ待てだの、嫌だというからだ」
そうだっただろうか、いややはり違う気がする。
「そこは、嫌よ嫌よも好きの内だろう」
「知らぬ」
啄むような甘い口づけを首筋に落としながら、ぎしりと含光君は魏無羨の身体に跨った。
いざ、体を繋げるとなると急に惜しくなって、まだしばらくこのままでいいような気がしたが、それは流石に卑怯か、と思い直した。
雄の顔を見せる、含光君の視線に身を振るわせ、魏無羨は覚悟を決めると背中にそっと腕を回す。
「魏嬰 」
「その……優しくしてくれ」
お前が、初めてなんだ
愛しい知己の、確かな許諾の表徴に耳を染めた藍忘機はその関係を深めるべく、そっと魏無羨の服に手をかけようとした、時だった。
静室の扉が、遠慮がちに叩かれる。
酷く嫌な顔をした含光君に、魏無羨も苦笑いをする。
何もここで止めるのが嫌なのは、藍忘機だけじゃないのだ。
「魏先輩、あの、啓仁先生がすぐ来るようにと、お呼びです」
中で何が行われているのか察し、申し訳なさそうな藍思追の声に、魏無羨は慌てて寝台から跳ね起きた。
啓仁先生の用件は家訓を三日三晩書き写すことだった。
どうやら縁談を受理したことを怒っているらしい啓仁先生は釣り鐘をその場で破り捨てた後も、まだ怒りが収まらないらしい。
「家訓なんて座学時代に覚えるほど書いたぞ」
頭を抱える魏無羨だが、家訓はあれから更に増え続けている。藍氏の嫁たるにはまだ勉学が足りない、ということなのだろう。
くそ、こんなに家訓を写していたら含光君と睦み合う暇がなくなる、と恥知らずに喚くとうっすら耳を赤く染めた含光君と目が合う。
「なあ、俺とお前の関係って何だと思う?」
にへらと笑って聞くと、すんと含光君は真顔になった。
「知己だ」
「知己はこんなことしないだろ?」
わざと顔を近づけると嫌がって顔を背けるかと思ったのに、ちゅっと魏無羨の鼻に唇の感触がする。
「……する知己もいるかもしれない」
お前と私のように
真顔で語る藍湛に「そうだな」と魏無羨も思わず笑ったのだった。
end