魏嬰が惚れた瞳「藍湛!それに触るな!」
愛しい彼の声が遠くで聞こえた。気づけばどこもかしこも真っ白だった。遠くに腕輪ほどの小さな円がある。その奥には腕を伸ばす魏無羨と、驚いた表情をしている叔父が見えた。
魏無羨の腕をつかみ返そうとした瞬間、景色が変わった。
「藍湛…?」
次に見えたのは山盛りの大根が入った木製のカゴを持った背丈の高い男性だ。
忘れもしない。20年以上恋焦がれた相手の顔なのだから。
雫が水面を叩く音がした。ここは洞窟の中のようだ。
「藍湛なのか?ちょっと会ってない間に随分大人びたな」
なぜこうなったのか、キャッキャと楽しそうに己の上半身に触れてくる魏無羨をひたすらに見つめながら、己の現状を顧みる。
****
―――少し前。
夕刻、家業を終えた藍忘機は静室へ戻った。夜中になる予定だったが、藍曦臣が手伝ってくれたおかげで早く終える事が出来たのである。少しでも早く魏無羨に会いたいと足早に部屋へと戻ったが、まだ彼は静室にはいなかった。弟子の指導の為数刻部屋を開けると魏無羨が言っていた事を思い出す。
「これは…」
見た事の無い石と随便が部屋の隅にあった。今朝まで無かった石だ。彼は帰ったあとまたどこかへ出かけたようだった。無造作に置かれている随便や魏無羨のその他の私物を片付けるのはもはや藍忘機の習慣となっている。当たり前のようにそれらを片付けようと石に触れる。
「藍湛!それに触るな!」
あの石が原因かと推測する。
―――過去にさかのぼる事が出来る石、もしくは己の夢の中、そんなところだろう。
冷静に現状を把握した。パンパンと背中や胸を叩いてくる魏無羨に意識を戻す。
「んん?お前、こんなに体が大きかったか?短期間でよくこんなに鍛えたな」
「うん」
魏無羨の口がパカリと開いた。そのまま停止している。
「どうした」
「そんな顔も出来たんだな。お前の顔はお面で出来てると思ってたからびっくりしたよ」
「そう」
自然に魏無羨の耳に手が伸びる。髪を耳の後ろにかけてやると、また魏無羨が固まった。
「ほんとに藍湛?」
「うん」
魏無羨にとっては信じられない行動でも、藍忘機にとっては日常的にしている動作である。
「変わったな。好きな女の子でも出来たか?」
「…」
「お!図星か!」
魏無羨は目をキラキラと輝かせる。
「よしよし、魏兄さんがしっかり相談に乗ってやるからな、ほらココ座れ、早く早く」
比較的他の岩よりも平らな岩石だった。昔、魏無羨が寝床として使っていると教えてくれた場所だ。
魏無羨から寝床と聞かされ、当時の自分が感じたなんとも言えない感情を思い出した。
藍忘機は一文字に口を引き結ぶ。いつまでたっても腰を下ろさない藍忘機の手を引っ張って無理やり隣に座らせる。
「で、どこの家の子だ?やっぱり姑蘇の?姑蘇藍氏って女の子っているのか?まぁいるよな。当たり前か。ハハッ、俺の知ってる人?」
頷く彼に、魏無羨はより楽しそうに話す。
「よし当ててやろう。でもちょっとくらいは情報をくれ。誰に似てる?」
問われ、藍忘機は素直に答えた。
「君」
「俺みたいな?嘘だろ!大変だ。藍先生がきっと許さないぞ。なんて面白いんだ。どこの出身のやつなんだ?」
金家と答えるべきか、江家と答えるべきか悩んだ。何も言わないのが藍忘機の答えだと思った魏無羨は勝手に結論付けた。
「わかった。ちょっと言えない家柄の子だな?まぁおいおい教えてくれればいいさ。ふぁー、眠い。お前夕飯食った?もう夜中だから、用意してやれるとしたら大根の塩ゆでぐらいだけど。小腹すいて食おうと思ったんだけど眠くてさ。食う?」
「腹はすいてない」
「そっか。もう夜中だし、泊ってくだろ?好きなところで寝ていいよ。火は消すなよ、つけといたままでいい」
「わかった」
寝ころんだ魏無羨と隙間なく寄り添うように藍忘機も横になった。
魏無羨は目を丸くして問う。
「まさかここで寝るのか?俺とくっついて?」
どこもゴツゴツとした岩で、寝場所などない。そして今は夜中で、わざわざ温家の人を起こして藍忘機の寝床を用意させるのも気が引ける。逡巡し、魏無羨は続ける。
「いいよ。狭いからって文句言うなよ?潔癖なお前がなぁ。本当にいいのか?」
「問題ない」
そうして、藍忘機はいつもの姿勢で眠るため魏無羨を己の腹の上に乗せた。
「ら、藍湛!?」
力強い腕で持ち上げられ、突然体の上に乗せられて驚かないわけがない。
「就寝」
「いや、就寝するけど、この体勢はちょっと…むぐ」
彼の後頭部に手を添え、藍忘機は己の胸に引き寄せる。魏無羨はそのまま彼の胸に口をくっつける事になった。何か言おうとすると、何度も同じ事をされる。とうとう魏無羨はあきらめ、そのまま眠る事にした。
「男同士でこの態勢って、変なんだぞ?お前はお坊ちゃんだからよく知らないかもしれないけど、むぐ」
また頭を押さえられた。手つきは優しい。そのまま頭を撫でらる。心地良くて、
もうどうでよくなった。
「本当に俺の知ってる藍忘機なのか?ああわかったわかった、もう寝るよ」
藍忘機の手の平に力が入った。また胸に顔を押し付けられる前に口と目を閉じる。
「こうやって誰かと眠るのは初めてだ…気持ちいいな」
(なんか、幸せだ…この感覚、ずいぶん懐かしい。ずっとこうやって過ごせたら…)
すぅ、と魏無羨は久方ぶりにぐっすりと眠る事が出来た。翌日、洞窟には魏無羨以外誰もいなかった。外へ出て、藍忘機はどこにいるかと聞いたら皆に寝ぼけていると笑われてしまった。
「俺の夢、だったのか」
本当に夢だったのか信じられず、もう一度洞窟をくまなく見渡す。あの優しい目でもう一度見てほしかった。すでに見た場所を何度も何度も見渡す。
「藍湛‥‥」
また会いたい。藍忘機のあの胸で眠りにつきたかった。
もう一度横になればまたあの夢が見られるのだろうかと期待し、寝床で横になる。
もう一度、「藍湛」と呼んだが、返事は帰ってこなかった。
***
魏無羨の規則正しい吐息が聞こえ、目を閉じた瞬間、声がした。
「戻ってきた!藍湛!怪我は…無いな。半刻辰もいなくなって、俺をどうにかさせる気か?めちゃくちゃ焦ったぞ!この石は俺が生前に作った呪具の一つでさ。霊獣石が中に入ってて、遠距離で移動できる代物になるはずなんだけど素手で触ると勝手に発動して予期しない場所に勝手に移動しちゃう代物なんだ。まぁ簡単に言えば失敗作だ。何してた?どこに行ってたんだ?」
「君に会った。夷陵で温家の人間と暮らしていた過去の君に」
「過去?」
「うん」
布で覆った石をじっくりと魏無羨は見る。
「君を胸に抱いて寝た」
「俺を?浮気したのか。ヤったのか?」
異常な事態が起こっても、魏無羨にとって何よりも優先すべき事項は藍忘機をからかう事である。魏無羨はにんまりと笑って夫に顔を近づける。
「してない。君だから浮気にはならない。共寝しただけだ」
「本当に過去の俺と寝たんなら、俺が覚えてるはずだが…」
「君は忘れっぽい」
「うーん。否定できないな!」
忘れやすさについては自信があった魏無羨はハハ!と笑って石を外に投げる。空中で随便が舞い、石を粉砕した。
「大事なものではなかったのか?」
「いや、いいよ。生前の私物を見つけたから、珍しくてなんとなく持って帰ってきただけなんだ。でも、また誰かがさっきの藍湛みたいに消えたら恐ろしいだろ」
そう言い、藍忘機の胸へと飛び込む。
「はぁ。落ちつく。俺は藍湛がいなくちゃダメなんだ。もう二度と勝手に消えるなよ」
「うん」
魏無羨は藍忘機の目を見たくなった。
「藍湛、俺を見て」
「見ている」
「美人だな」
「君は…元気そうだ」
藍忘機は魏無羨の耳にかかった髪を手ですいた。
「俺、藍湛のその目が大好きだよ。ずっと俺を見てて」
「うん…」
大切な宝物を包むように、藍忘機は彼を抱きしめたのだった。
Fin.