This Scent この世で一つだけ、忘れられない香りがある。重く絡みつく、最も嫌いな香り。あれから二十年経ってもいまだ憎しみのような落胆のような、言葉にもできない苦しみを思い出す。知らない間に俺の夢をうんと遠くへと捨て去り、そのことに言い訳もしなかったあの人の香り。
アナポリスへ提出した書類の不備があの人の仕業だとわかった後、俺は震える声で彼を呼び出した。家まで来させて一体何を言ってほしかったのか、今の俺にもわからない。だけどその時の俺は人生で一番の怒りと絶望を抱えていて、なのにそれを吐き出す相手は俺をそんな暗闇に突き落とした張本人だった。眩いほど白いTシャツ。青いジーンズ。その裾に隠れた派手なカウボーイブーツ。伏せた目から消えた光はどこへいったのか。
彼は一言謝る以外には同じ言葉を繰り返すだけだった。君はまだ準備できていない。意味がわからなかった。それまで一度も俺の夢を、アビエイターになる夢を否定したことがなかった彼が、突然そんなことを言ったから。ああ、今考えればわかる、彼は否定をしない代わりに肯定もしなかった。君は大きな夢を持っているね。ただそれだけ。グースの二の舞にはさせたくない……なんて、あの人に言えるはずがなかったのだ。
その時、彼からはある香水の香りがした。女性ものだった。当時はわからなかったけれど、後から同じ香りをした人と付き合って香水の名前を教えてもらった。彼がうちに来る前は、彼の顔を見たら何も言えなくなるのではないかと思っていた。なのにドアを開けてその香りが鼻を掠めた途端、無性に腹が立って言葉が溢れた。彼が急いで駆けつけたことは彼のTシャツが裏返っていたことからもよくわかったが、彼がそれまで誰かと親密にしていたことを身をもって感じさせられて、それがどうしても気に食わなかった。イランイラン、ローズ、ジャスミン。甘くて重い、裏切りの香り。裏切られたのは俺の夢? それとも俺の感情? この人は俺が泣くこともできなかった時、どこで誰と何をしていた?
「もう顔も見たくない」
そう言ってドアを閉めた後、確かにその人は二度と俺の前に姿を現さなかった。こちらから望む必要もないほど頻繁に俺に会いに来ていたのに。心の底では、本当に一度も顔を見せなかったことに驚いていた。本気だったんだ、あの人は。本気で俺を空から遠ざけたかったんだ。そのためなら願書だって抜き取ってしまう。謝罪の言葉だってたった一言、しかも一度きりだった。あの人は自分の選択を正しいと信じているから。謝るくらいなら願書を返して──そう言われるのが苦しかったから。大学へ進学した後も、彼が今どこで何をしているのかは知らないようにしていた。自分でも酷いとは思うけれど、彼の身体や服に別の香りが移るより、彼がどこか危険な場所で機密任務に参加している方がよほどましに思えた。
四年遅れでアビエイターになった後も、時々街でその香りを纏う人とすれ違った。その香り自体は珍しくもなんともない。有名なブランドの代表的な香水だから。だけど俺が思い出すのは、その香りと同じくらい甘美な記憶なんかではない。正反対の、真っ暗でじめじめとした苦い記憶。広告を見るだけでも胸がむかむかした。何が『大好き』だ、よりによってそんな名前のついた香水だなんて。言われなくてもわかってる。嫌いなのはあの香りで、彼自身のことを嫌いになんてなれないってことは。
ずっと憧れて好きだった人との心地良い関係が、あの香りを嗅いですべて崩れ落ちた。香水の名前を教えてくれた一人以外では、同じ香水を愛用する人とは絶対に付き合わなかった。もし相手がデートでその香りを纏って現れたら、適当かつ無難にその日を過ごして終わりにした。耐えられる気がしなかったから。年を追うごとに彼のことを想う気持ちが重く強く俺を縛りつけていたのに、あの日を思い起こすものに触れたらきっとどうにかなってしまう。だから俺は、嫌いな香りともつれた記憶を昨日のことのように思い出しながらも、いつか彼自身のことも嫌いになれることを願って生き続けた。だけど毎年あの日を迎えるたび、自分が何も変わっていないことを実感させられた。まだ俺はあの人のことが好きなのか。あの人が何をしたかわかっているのか。肝心の彼自身は俺のこの苦しみを知らないというのに。
シーツの山がゆっくりと上下する。自分のものではない誰かの鼻息。長いまつ毛が小さく動き、やがてまぶたの奥の星が瞬く。
「おはよ、マーヴ」
マーヴは俺の腕の中であくびをして目を擦った。一晩中愛し合った後、シャワーを浴びたマーヴは穏やかに眠っていた。
昨夜、マーヴをベッドへと引き込む前、俺は一つ彼に重大な頼み事をした。
「マーヴにつけてほしい香水があるんだけど……」
マーヴはぽかんとして何も言わなかった。俺はそんなマーヴの前に、世界一嫌いな香水のボトルを置いた。曲線が美しい、オブジェみたいなボトル。マーヴがうちに来ると決まったその日に注文し、この日のために一度も開けずに置いていた。
「これつけたマーヴを抱きたい」
わかってる、俺はおかしい。マーヴに憎いはずのあの香りを纏わせようとして、さらにその香りがするマーヴを抱こうとしていた。マーヴは香水のことは覚えていなかった。これって女性向けじゃなかったか?と指摘するマーヴは、あの時より優しい顔をしていた。
結局マーヴは俺の頼みを困惑気味に承諾した。あの時と同じ香りを纏い、あの時と同じ服を着ていたマーヴは、あの時よりずいぶん大きくなった俺に身を委ねた。派手なカウボーイブーツは黒いレースアップのブーツに変わっていたけれど、靴紐をほどいてブーツを脱がせるのは特別楽しかった。本当にしてもいい? いいよ、君にすべてを任せる、なんて言葉を交わしながら。胸はむかつかなかった。俺はただ試したかった。どんな気分になるのか、どう思うのか。苦しいのか、悲しいのか、憎いのか。だけど実際は何も感じなかった。息をするたび目が眩むほどの劣情が全身で燃えていて、あの時と少しも変わらない(少し皺が増えただけの)マーヴが自分の下で顔も身体も赤くしていることに高揚した。のぼせきったマーヴが俺の名前を何度も呼んだ。ブラッドリー、ブラッド、ルースター。俺はそのたびに彼の縋るような声に応えるため繰り返しキスをした。たぶん俺も、堰を切ったようにマーヴを呼んでいたと思う。どうしてマーヴにあの香水をつけてほしかったのか、そんな難しいことを考える余裕さえなく、マーヴを傷つけるような言葉も思いつかなかった。
俺はまだ、マーヴのことを何を差し置いても愛している。マーヴ自身の裏切り行為ですら、彼を諦めるための理由にはならない。きっと俺はそんなことを実感したかったんだろう。だから香水をつけさせるなんて真似ができたんだ。
そしてマーヴは今、枕に顔の半分を埋めて目を閉じたり開いたりしている。瞬きしても景色が変わらないことを確かめるように。目の前から俺の姿が消えないことを喜ぶように。
「よく眠れた?」
「ああ」
マーヴは微笑み、仰向けに身体を動かした。その時彼からは俺のシャワージェルの匂いがした。鼻を抜けるユーカリとミント。香水は洗い流され、すっかり消えていた。自分の匂いに塗り替えられた気分は最高だった。今目の前にいるのは、全く新しい俺だけのマーヴ。
「マーヴ、愛してるよ」
俺には一つ、忘れられない香りがある。それはマーヴの香りだった。誰かに移されたものだけれど、たしかにマーヴの香りだった。毎年あの日が近づくと、俺はその香りが懐かしくなるだろう。でも恋しいとは思わない。ただ嫌いなだけ。
「僕も愛してるよ、ブラッドリー」
そしてもうその香りは必要ない。