ふたりの朝「──ソン、カーソン」
この声、誰の声だっけ……。
「ショウ、カーソン・ショウ!」
「わあ!? なに!?」
跳び起きると、目の前にいたのはグレタだった。
「おはよう、監督。よく眠れたみたいね」
グレタはベッドの端に腰かけて、くすっと小さく笑った。花柄の赤いワンピースに身を包み、すでにヘアメイクはばっちりと決まっている。
「今何時?」
「何時でもいいじゃない、今日はオフなんだから」
ああ、そうだっけ……。大きくため息をつくと、グレタは何か企むように片眉を上げた。
「でもこれは言っておいた方がいいかもね。今この家には私たちしかいないって」
言われてみれば、いつもは内緒話をするのも難しい寮の中が静まり返っている。みんなどこに行ったんだろう。
「映画を観に行ったり、男子チームの試合を観戦したりして、みんな出払ってるのよ」
「そうなんだ……」
「あなたもどこか行きたかった?」
「いや……どうだろ、とにかく疲れてるからわからない」
するとグレタは私の手を取りベッドから立ち上がらせると、そのまま洗面台の前まで私を連れて行った。
「早く顔を洗って、シャキッとしてよ」
鏡に映る自分の寝起きの顔は最悪だった。グレタは私の肩に手を置きにっこりと微笑んだ。
「あなたの寝起きの顔って本当に……」
「何? ひどいってこと?」
「いいえ、なんていうか……愛らしい」
目は開いていないし、頬には皺になったピローカバーの跡がついていて、髪はぼさぼさ。なのに彼女はそんなもの見えていないみたいに私を見つめる。
「竜巻から出てきたみたいなその髪、私がセットしてもいい?」
「見えてたの?」
「何を?」
「私のひどい姿」
グレタは数回瞬きした。
「当たり前でしょう? 目の前にいるのは寝起きのカーソン・ショウよ、マリリン・モンローじゃない」そうでしょ、と彼女は肩をすくめた。「それにあなたのひどい姿ならもっと他にも見てる。練習試合の後のあなたってどうして一人であんなに泥だらけなの? 水溜りで泳いだみたいよね」
そんなの私だってわからない。グレタは今の私を見ながら、グラウンドから帰る時の私を思い浮かべて笑った。彼女の前で良い姿でいようなんて不可能だったみたいだ。
顔を洗って歯を磨くと、グレタは洗面台に置かれたヘアブラシを手にとり、待ってましたとばかりに私の寝起きの髪を梳かし始めた。
グレタは私のヘアブラシから絡まった髪を摘み出した。それから私の頭に手を添え、「じっとしてて」と囁いた。誰かに髪をブラッシングされるなんて久しぶりだ。彼女の手つきは優しくて繊細で、時々毛先を手のひらで持ち上げるようにしてカールを整えた。
「カーソン、目と口を閉じて」
グレタがヘアスプレーを右手で振りながら言った。目と口をぎゅっと閉じると、噴射音がして頭にスプレーが降りかかった。
「よし、これでオッケー。カーソン、目を開けて」
言われるまま目を開くと、鏡越しに彼女と目が合った。
「うん、良い感じ。メイクは? 私の貸してあげようか」
言いながらグレタは洗面台の前に身体を捩じ込ませ、私の顔を覗いた。その瞬間、ローズの香りが鼻を掠めた。彼女の香水の匂い。
「カーソン? 聞いてる?」
「え? ああ……大丈夫、眉毛を整えるくらいで」
「マスカラもね」
グレタのメイクはいつも完璧だ。赤いリップ、赤いウェーブヘア、はっきりとしたアイメイク。ここでは"女性らしさ"が鎧になる。同性愛者にとっては特に、男性を惹きつける魅力で自分を守っている。彼女が男性と目を合わせて手を振る時、誰も彼女のセクシャリティーには気がつかない。
結局メイクもグレタにやってもらった。彼女とおそろいの真っ赤に染まった唇が、鏡の中でぎこちなく動く。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
グレタはいつものように微笑んだ。それから私に向かって手を伸ばす。
「ほら、立って」
彼女の手を掴むと、ぐいと強い力で引っ張り上げられた。
「次は着替えね。私が選んでもいい?」
グレタは私が返事をする前に小さなクローゼットを漁っていた。彼女の手が止まり、ブルーのペイズリー柄のシャツと白いスカートを取り出した。この前のオフの日に買った、彼女と色違いのシャツだ。
彼女の目の前で着替えを済ませて最後にシャツをタックインすると、彼女は「待って」と首を横に振りながら私のシャツの裾を出した。
「結ぶと可愛いのよ」
そう言ってグレタはシャツのボタンをいくつか外して裾を結んだ。
「これじゃお腹が見えるよ」
「こんなのほんの少しじゃない。せっかく可愛いのに」
私の心配を打ち消すように、グレタの目はじっと私の目を見据えていた。だけど彼女の口元は優しく綻んでいた。
「カーソン、あなたも少しくらい冒険しなきゃ」
たしかに、私には冒険心が足りないのかも。そう思うと反論なんてできない。
「……そうだよね、どうせここにはあなたしかいないし」
グレタに可愛いと思ってもらえるのならそれでいい。小さく頷く私を見て、彼女も同じように一回頷いた。
グレタは私の手を引き、キッチンへ向かった。寮の中には本当に私たちしかいないらしい。がらんとして静かな共用スペースは、なんだか知らない家みたいに見える。彼女は周囲をきょろつく私をこの寮には小さすぎる六人掛けのダイニングテーブルに掛けさせた。
「カーソン、朝食だけど」
「へ、なに」
間抜けな声が出た。グレタは呆れたように笑って、私の前にコーヒーと砂糖を差し出した。
「卵はどうやって食べる?」
「えっと……スクランブルが食べたいかな」
「オッケー、スクランブルエッグね」
それからグレタは卵を料理し、トマトとベーコンを焼いてすべてを皿に盛り付けた。出来上がった朝食をテーブルに置き、私の向かいに座った。
「ありがとう、すごく美味しそう」
「そう? 簡単な物だけどね」
そう言ってグレタは自分の分のコーヒーを一口飲んだ。
「あなたはもう食べたの?」
「ええ、今朝はシャーリーが当番だった」
「彼女の料理、美味しいよね」
「それ、私の料理を食べながら言うこと?」
グレタは語気を強めて言った。だけど頬杖をついた彼女の顔は怒っていない。
「ごめん、あなたの料理も最高」
「まあ、ただのスクランブルエッグだけどね」
たしかにその通りだけど、グレタの手料理だと思うとますます美味しく感じる。私はそれほどまでに単純な人間らしい。
ーーー書けたのはここまでです…!ーーー