太陽より早くテレビに映る美しい夕景。小さな島の一日の終わり。それを見て感激の言葉を呟くマーヴは、画面で輝く夕日に照らされている。
「この島では毎日こんな日の入りが見られるのか……羨ましいね」
太陽が沈む映像で紀行番組が終わった。太平洋に浮かぶ島国を巡る旅は、俺とマーヴを数年前の特別な景色へと誘う。
「俺たちが行った島は日の出が綺麗だったよね」
「ブラッドリー、あれは夕日だったよ」
二人はハネムーンを過ごした島を思い出していた。遮る物のない大海原。水平線へ沈む太陽が静かな夜を連れて来る。……いや、何か違う気がする。
「待って、あれは夕日じゃなくて朝日でしょ? 俺たちが見たのは日の出だよ」
夜の間に冷えた砂浜を踏みしめ、誰もいないビーチを二人で歩いた。ブランチの時間まで寝るつもりだった俺の肩を揺するマーヴの手の温度まで覚えている。
「そうだっけ?」
マーヴは首を傾げた。
「覚えてないの? 写真も撮ったよ」
テレビの近くに飾られている写真はまさにその時のものだ。カメラを振り返るマーヴではなく、その後ろで顔を出す暖かな太陽にピントが合っている。マーヴはもっといい一枚があるよと言ったが、俺はこの写真を取り下げることには絶対に反対だった。
「結婚前から二人で旅行は行っていたし、どの景色がどこのものだったか混乱するんだよ」
「そう? 俺はちゃんと覚えてるよ」
逆光でも美しいマーヴの写真を取り、自虐的に笑う彼に手渡した。
「たしかに旅行は色々行ったけど、これは新婚旅行だよ? 一番の思い出でしょ?」
しかもそれは数年前だ。世間的には俺たちはまだ新婚だよ。それを忘れたなんて嘘だよね?
「……マーヴ、まさか本当に嘘ついてる?」
「さあ、どうかなあ」
写真に視線を落とし、マーヴは曖昧に答えた。
ああ、わかった。
「嘘ついてるでしょ」
マーヴの顔を覗き込むと、今度は頬を赤くするだけで何も答えなかった。
「マーヴ、このビーチでプロポーズしてくれたもんね? 日の出の時間に」
夕日も眩しくて綺麗だったと思うけど、俺は写真に写った日の出の方がよく覚えてるよ。マーヴだって忘れるはずがないよね。
「マーヴは俺を部屋から連れ出して、"ここで一緒に朝日を見よう"って言ったんだよ」
その時の会話はとてもぎこちなかった。まるで大して仲良くない知り合いに会ったみたいに。何年も前からお互いを知っていて、つまらない会話で間を埋めることだって簡単な相手のはずなのに。
「明るくなると急にマーヴが真面目な顔になって。日が出てきたよって俺が言っても聞いてないの」
「ブラッドリー、」
「それからマーヴはスピーチするみたいに改まって話し始めて。いつもみたいに目を逸らしたりしないから、俺も真剣に聞かなきゃって思ったんだよ」
あの時のことを一つ一つ思い出す。砂浜に爪先を埋めながら、マーヴの途切れがちな声を聞いていた。まだ柔らかな太陽の光に照らされたマーヴはとても綺麗で、だけどそんなことを言えるような余裕は俺にもマーヴにもなかった。
「そしたらマーヴが"結婚してください"なんて言ったんだよね。新婚旅行中なのに」
するとマーヴはいつもよりほんの少し音量を上げ、俺の話を遮った。
「わかったブラッドリー、降参だ。全部ちゃんと覚えてるよ」
ようやく認めたマーヴの指は、フォトフレームのガラスを撫でたり台紙の金具を外したりして忙しなく動き始めた。
「新婚旅行でプロポーズするのがおかしいことだとはわかっていたよ。それにもっと上手くやれたはずだし、できることなら今でもやり直したいと思ってる」
だから日の出の思い出は僕には少し恥ずかしい。そう呟いたマーヴの頬はさっき確認した時より赤くなっていた。やっぱり、あの時見た日の出をマーヴが忘れるはずはなかった。
「だけどあのハネムーンに至るまで、すべてにおいて君に先を越されただろう? いつ何時も、いつも君が先だった。プロポーズも、実際に結婚するための書類を用意するのも、結婚式の準備も、ハネムーンの計画も。せめて一つくらい、僕も君に何かしたかったんだ」
それならプロポーズは口約束だから、一度しかできないなんてルールはないはず。マーヴはそんなことを考えながら、あの日カリブ海へ向かう飛行機に乗っていたという。プロポーズを口約束だなんて、もっとロマンチックな表現にしてほしいよ。
「全部、君が先立って行動してくれた。昔の君はもっとのんびり屋だったのに。知らない間に僕の先を越せるようになったんだね」
「昔って、いつの話をしてるの?」
マーヴに笑いかけると、彼もつられて笑った。
「君の行動力に驚いてるんだよ。なにせ僕は、ブラッドリーのこととなるといつも周回遅れだから」
マーヴが話す間、手元の写真に落ちていた彼の視線はしばらく宙を彷徨い、隣でくつろぐ俺に留まった。
「周回遅れでも、マーヴは必ず追いついてくれるでしょ。それが俺にはすごく嬉しいよ。プロポーズだって、遅いと思っててもしてくれて」
「まあ、ね」
マーヴは照れくさそうに目を細めた。周回遅れで空いた距離を縮めることもまた、二人だけの楽しみになるんだよ。
テレビではまた同じ紀行番組が始まっていた。今度の行き先はどこだろう。波の音が海の美しさを際立たせる。
「それにさっき聞こえちゃった、"今でもやり直したいと思ってる"って」
言い終わる寸前、マーヴの眉がぴくりと動いた。聞き逃していたと思った? 残念、俺はマーヴの言葉はどんな時も一字一句逃せないんだ。
「やり直したいなら、俺はいつでも待ってるからね」
「あー……うん……」
せっかく交わっていた視線が、マーヴの声が消え入るのと同時に外された。
「もっと上手くやれるはずなんでしょ? 楽しみだよ」
「あれはその、なんというか」
言葉を濁す反応なんて俺にはお見通しだ。マーヴはいつもそうやって距離をとる。しかしその距離に遠さは感じない。人にはそれぞれのタイミングがあるだけのこと。マーヴがいつか必ずプロポーズをやり直してくれると俺は知っている。
「そんなに楽しみなら、また日の出の時間に起きてくれるか?」
「起こしてくれるならいいけど……どうしてまたそんな早い時間なの?」
するとマーヴは朝焼けを見るようにして目を細め、前方のテレビ画面を見つめる。
「起きる時間だけは、僕がブラッドリーの先を越せるからだよ」
テレビの中では、太陽が水平線から顔を出し始めた。この景色には見覚えがある。マーヴが持っていた写真を掲げると、テレビ画面とぴたりと重なる。
「これは? マーヴの言う"日の出の時間"にはならない?」
「はは、ならないよ」
テレビの方を指差すと、マーヴは写真を持つ手を下げて笑った。
「やるならちゃんとやり直さないと。僕は隣で眠る君を起こしたいんだ。眠そうに目を擦る君にキスをして、太陽が昇る前のまだ薄暗い空の下で君を迎えたい。そうしていつか君に尋ねたいんだ、これからも僕の夫でいてくれるかって」
なら俺はぐっすり眠らなきゃ。そう言うとマーヴは頷き、写真を傍に置いた。
「その通り。だからそれまでは、毎日夜が明けるのを楽しみに眠るんだよ」
眠ることは得意だ、それは任せてほしい。なにせ朝はいつもマーヴに先を越される。マーヴが起こしてくれなきゃ、日の出なんて見られないよ。