夏の味 二人の生活を始めて最初の夏。玄関先で漂う水蒸気の熱さに、ブラッドリーは水を撒いたことを後悔していた。暑さに堪える気配すらない青々とした雑草は、しなやかな葉で僕の握力に抵抗した。二人の額や背を伝う水滴ははたして汗なのか、ブラッドリーが撒いた時に浴びたぬるい水なのか、もはや何もわからなかった。
「ブラッドリー、これ以上は無理だ、中へ入ろう」
「うん、俺ももう限界…」
力を振り絞りドアを開けた。リビングからの涼やかな空気が玄関にまで流れていて、二人とも思わず大きく息を吐き出した。とにかくまずは濡れた身体を拭きたい。残った気力でタオルを取り戻って来ると、髪までくったりと濡れたブラッドリーはいまだ玄関で立ち尽くしている。
「大丈夫?一旦中で座ろう」
「…マーヴ、この写真前からあった?」
彼は片手でタオルを受け取り、もう片方の手は木製のコンソールに飾られた数枚の写真の一つを指差した。
「ああ、それか」
ブラッドリーが指差す写真には、ダイニングで並んで座る小さな彼と若い僕が写っている。坊やはチョコレートのコーンアイスを持ち、口の周りにべったりとアイスをつけながら隣の僕を見ている。しっかりとワッフルコーンを握る小さな手には、溶け始めたチョコアイスが垂れている。一方僕はカメラ目線で、ブラッドリーの隣から彼のアイスに今にも食らいつきそうに口を開けている。テーブルにはアップルジュースが並んでいて、夏のおやつタイムを切り取った一枚。
「最近出してみたんだ、夏らしいだろう?」
「うん、これ結構好きかも。二人ともいい顔してる」
6フィート1インチのブラッドリーはタオルを頭から被り、写真を見つめて微笑んだ。
「さあさあ、早く涼もう」
軽く手を添えた彼の背中は卵でも焼けそうなほど熱い。
「シャワーの前に何か水分を摂らないと」
「ん〜、わかった」
ブラッドリーをキッチンへと促すと、彼は最後にもう一度アイスクリームの写真に視線を向けた。
「ねえ、あのアイス屋ってどこかにまだあるの」
「アイス屋?」
「ほらさっきの写真の」
キッチンで念願の水分補給を済ませたブラッドリーは、玄関がある方向を指差した。
「ああ、あれか。あれはアイス屋じゃなくてスーパーに売ってるアイスだよ」
「そうなんだ」
彼はふぅん、と軽く相槌を打ち、炭酸水の入ったグラスをカウンターに置いた。一瞬の沈黙の中、パチパチと小さな音が耳を弾く。
「でもあの写真のしばらく後から、あまり店で見かけなくなったんだよなぁ…」
するとブラッドリーは今朝レシピを検索したまま放置していたラップトップを開き、画面を僕に向けた。
「あのアイス、何て名前なの?まだあるか調べてみようよ」
うろ覚えの商品名を検索窓に打ち込むと、すぐに懐かしい小ぶりのコーンアイスが画面に現れた。
「これだ、どれどれ…"九十年代前半頃、新商品の発売と共に店頭から姿を消し…"」
「まじか…」
「"…しかしこの2023年夏、ファンからの熱烈な要望に応え…あの味が復刻"、だって」
「まじか、これって運命!?」
画面から顔を上げると、ブラッドリーは口を開けたまま期待に満ちた目で僕を見ていた。そして彼はうやうやしく咳払いし尋ねた。
「…マーヴ」
「なんだい?」
「今日、暑いよね」
「暑いね」
「こんな日は何がしたい?」
「うーん…冷たいものが食べたいかな」
用意していた僕の答えを聞いて、彼は眉を上げて何度か小さく頷いた。
「じゃあさ、一緒に食べない?あのチョコアイス」
そしてカウンターに乗り出し、僕に尋ねる。僕はこの質問にもやはり答えを用意していた。
「よし、探しに行こうか!」
そうと決まれば行動は早い方がいい。二人は手短にシャワーを済ませ──まだ家を出る前だ、とキスを仕掛ける彼を嗜める必要があったが──冷房が十分に作動する二台目の自家用車に乗り込んだ。
「俺あの写真初めて見たかも」
ブラッドリーは何の気なしに呟いた。なんとなく気になり運転席の彼を見ると、その口元は少し綻んでいて、ハンドルを握る手は自然に力が抜けている。
「…あれは僕のお気に入りなんだ」
「可愛い俺とハンサムなマーヴだもんね」
「はは、その通りだね」
半端に口を開けて僕を見上げる君の可愛さといったら。
「あの写真はグースが撮ったんだ。キャロルが家にいない間に、僕が内緒であのアイスを買って君の家に行ってね。その日からアイスは、僕が君の家を訪ねる時のお決まりのおやつになったんだ」
信号でブレーキを踏んだブラッドリーは、彼の予想通り思い出話を始めた僕を横目に軽く笑った。
「でもマーヴ、家によく来てたでしょ。そのお決まりは覚えてないけど、それならいっぱいアイスを食べられたんじゃない?」
「そう、だから君は会うといつも嬉しそうだったよ、早く一緒におやつを食べようって」
「嬉しいのはアイスクリームのためだけじゃないだろうけど…」
「どうかなぁ、"マーヴの日はアイスの日!"って唱えながら冷凍庫が開くのを待ってたから、目的は僕じゃなかったのかも」
本当に?とブラッドリーは眉を上げ、幼い自分に呆れて首を振った。
「どんな人間も、甘くて美味しいものには勝てないってことだよ」
チョコレートの味をしたライバルは、ブラッドリーの夏の思い出を簡単に掻っ攫ってしまう。彼は記憶にないみたいだが、僕はその甘さと冷たさをよく覚えている。グースを失ってからは特に、可能な限りたくさん彼らの家を訪ねていたから。頬を火照らせたブラッドリーの愛らしい言葉と、キャロルが仕方なく許可する甘い甘いアイスクリームこそが、僕が夏を生きる意味だった。
「たしかに強敵だな…俺負けちゃうかも」
「ふふ、いつもの自信はどこにいった?」
信号が青に変わり、景色が再び窓の外を流れ始める。
「…あの写真はずっと僕が持っていたんだ。どうしても気に入って」
「だから俺は見たことなかったのか」
「大好きなものを前にした君の目はきらきらしていてね、その輝きをそばに持っていたかったんだよ」
夏の日差しは外を歩く人の肩を焼き、冷房の効いた車内にも降り注ぐ。
「ほら、僕は世界中の色々な場所に飛ばされていただろう?その土地が暑くなると、あの写真を思い出して飾るのが習慣になったりして」
「冬にクリスマスツリー飾るみたいな?」
「はは、たしかにそんな感じかな。君に連絡出来ない時は、君が別の美味しいアイスを見つけて食べているか心配してたんだよ」
ブラッドリーの夏はどんな味に変わったのか、僕はずっと考えていた。彼の暑い日々が、新しい甘い香りに満たされているよう願っていた。
「アハハ、大丈夫だよ。ちゃんと違うアイスを食べてたから」
ブラッドリーはいくつかアイスクリームの名前を挙げた。そのうち一つは今、僕たちの家の冷凍庫に眠っている。
それからいくつかの信号を越え、スーパーマーケットに到着した。ブラッドリーが入り口近くに駐車しエンジンを切ると、間もなく車内に熱がこもり始める。しかしブラッドリーはシートベルトを外さず、僕に身体を向けている。
「…ねえ、マーヴはいつか俺があの写真を見る日を待ってた?」
「もちろん、いつか見せたかったよ」
彼の目は真剣で、だけど高鳴る胸を抑える時の、彼の高揚した色も見えてくる。
「今年は俺と暮らし始めて最初の夏だよね」
「そうだね」
「来年からは、俺があの写真を飾ってもいい?」
「聞くまでもないよ」
「来年も再来年も、ずっと先もだよ?」
「来年も再来年も、ずっと先も、さらにその先だって構わないよ」
ブラッドリーは満足げに微笑み、僕にキスをした。エアコンの冷たい風はもうとっくにどこかへ消えている。
「さあブラッドリー、早くあのアイスを探しに行こう」
今度は僕から彼に唇を重ね、彼のシートベルトを外した。僕たちは同時にドアを開け、外に出た途端身体に絡みつく暑さに呻いた。振り向くと、ブラッドリーは眉間に皺を寄せた険しい表情とは裏腹に、穏やかな声で僕に尋ねた。
「マーヴにとっても、俺はアイスクリームには勝てない?甘くて美味しいものには?」
「そんなこと聞いてどうするんだ」
「いいじゃん、答えてよ」
「…わかったよ、君はアイスクリームより甘くて美味しい。君に勝てるものはこの世に一つもないよ」
周囲の客が僕たちを見ている気がするが、それより心配すべきはあのチョコレートのコーンアイスだ。この暑さで売り切れていないといいのだけど。僕が今望むことはただ一つ、口髭に懐かしい味のアイスクリームをつけたブラッドリーだ。それは僕が大好きな、あるべき夏の姿。