永遠に続けば 今日は何の日か知ってるか?
目が合った途端、二言目にはこの質問をされた。ただし、質問をしたのは恋人ではなくただの同僚。答え甲斐など何もない。
「…知ってる。けど言いたくない」
力の無い答えになんだよそれ、と同僚が笑う。もし目の前にいるのがマーヴだったなら、これ以上ないほどの甘い声できちんと一言答えられるのに。今日はバレンタインだね、と。
どれだけ瞬きしようが目を擦ろうが目の前の同僚がマーヴに変わることはないし、残業のためPCや書類と向き合った時間を後から取り戻せたりもしない。
俺はバレンタインに、残業に勤しみ恋人を一人で待たせているのだ。そうか、こんなバレンタインの過ごし方もあったわけか。…当然これは嫌味だが、勤務態度の良い俺は決して口には出さなかった。その分一刻も早く仕事を終わらせ、残業仲間の同僚と別れ駐車場へと向かった。
今朝からずっとマーヴには"今日は絶対早く帰るから!"と繰り返していた。マーヴは俺のその迫力に困ったように笑い、無理しなくていいからと答えるだけだった。しかし一方の俺は、いってきますのキスでも、玄関ドアが閉まる瞬間にさえも"早く帰る!約束ね!"と念押しして叫んでいたのだった。
そんな約束をしてしまったためか、俺は今も基地にいて、早く仕事を終わらせたマーヴには先に帰ってもらわなければならなかった。バレンタインの神は、意気込む俺に意地悪をしたくなったのかもしれない。
やり慣れたはずの事務作業はいつもより困難なものに感じた。時間の進みだけが妙に速く、己の手は動いてほしい時に動かないものだ。目の前のPCがマーヴに変身し、広がる書類がお気に入りのテイクアウト料理になればいいのに、などと起こるはずもない奇跡を願いながら報告書を書いていたのだった。
しかし俺は神の意地悪に打ち勝った。仕事を終えたのだ。愛は強い。特に俺のマーヴへの愛は、必ず勝つ。
駐車場までの道中でかけられるすべての飲みの誘いや立ち話を断り、ようやく愛車に乗り込みエンジンをかけた。ああでもその前にマーヴに連絡を、とスマホを取り出すと見計ったように手の中でスマホが震えた。会いたくてたまらない恋人からの着信。逸る気持ちを抑え一呼吸置いたにも関わらず、俺の声はほんの少し冷静さに欠けていた。
「マーヴ?」
『ブラッドリー、そっちは終わった?』
俺とは違う、ゆったりとした声。今朝も聞いたはずのマーヴの声。仕事の後に聞く彼の声は疲れた身体に…、いや待てよ、仕事の疲れ?そんなのあったっけ?マーヴの声を聞いたら疲れなどどこかへ消えてしまった。
「今終わったとこ」
スピーカーをオンにして、運転しながら話すことにした。
『お疲れ様。夕飯はどうする?』
「ん〜、買って帰ろっか?」
俺とマーヴは電話越しに同じ道を思い浮かべた。通勤路に並ぶ店はどこを選んでも美味しくてハズレがない。それぞれの店舗に2人のお気に入りのメニューがあり、それぞれに些細だけど大切な思い出もある。
『いいの?今からでも何か作ろうか?』
「いいのいいの、マーヴはお酒用意して待ってて」
夕食が何であろうと、初めから寄り道をする予定はあった。マーヴは食に関しては俺を信頼してしてくれているので、何か思いつくものを見繕うのは簡単だ。
「前何食べたっけ」
『ん〜…たしか…イタリアン?』
「ああ〜そうそう、ピザね」
食べる直前に箱ごと落としたピザを拾って食べる2人の成人男性を思い出した。あの時は俺もマーヴも焦ってしゃがみ込み、無事な切れ端を拾っていた。
「じゃあ今回はイタリアン以外にするね」
『ありがとう、楽しみにしてるよ』
テイクアウトをする時は、"連続で同じものを買わない"というルールを2人で決めて実行している。だから今日はピザやパスタは食べない。いくつか思い浮かぶ店の中からメキシコ料理店を目指した。
「何でもいいんだよね?」
『何でもいいよ。君に任せる』
そう言うと思った。まあ、外に出ているのは俺だから、実物を見て決められるのも俺だけだ。
「食の趣味がいい恋人を持つっていうのも一つの幸せだよね。ね、マーヴ?」
電話の向こうでふんっと笑う声が聞こえた。
「今笑った?」
『だって、感謝してほしいのかなと思って』
また笑いを堪えるような、変な声が聞こえた。
「別に?そういうんじゃないけど」
『けど?』
今度はいたずらっぽい声。その意地悪な響きに思わず口元を緩ませ小躍りしながら信号待ちしていると、歩道で同じく信号待ちしている通行人と目があった。もはやこんなことで恥ずかしがる俺ではない。家にマーヴがいればみんなこうなるはずだ。
「とにかく、マーヴが俺を信頼してくれて光栄だなってことだよ」
『微妙に話が変わってないか?』
「え、変わった?」
『とぼけるなよ、確信犯め』
「あ、もう店着くからあとでね」
店に着きそうなのは本当だ。話を終わらせようとしたわけではない、と言っておきたい。マーヴは小さく息を吐いて、困りながらも優しく言い聞かせるように言った。
『もう、君って奴は…早く帰っておいで』
「うん、すぐ帰る」
ショットグラス片手に盛り上がるグループや静かに言葉を交わす2人組を横目に、夕食を調達し店を出た。寄り道はここからが本番だ。料理が冷める前に用事を済ませるため、店の前に停めた車までのわずかな距離も小走りで移動した。
車に乗り込み走り出した目的地は花屋だ。恋人と過ごすバレンタインに花は必須だろう。
店に入った途端こちらの目当てを察した店員が申し訳なさそうに話しかけてきた。
「すみません、今日はもうお花は売り切れなんです」
「えっ?ないんですか?」
「はい…バレンタインの日は毎年この時間にはなくなっちゃうんです」
確かに、店内を見渡しても花がない。花を買い逃した俺のような人がいたのか、観葉植物もせめてもの贈り物としていくつか売れているみたいだ。
「そう…ですよね〜…」
そんなにみんな花を買っているのか。バラでなくても何か綺麗な花があれば、と考えていたが、その考えも甘かった。世間はみんな案外ロマンチストなんだな…。
なら何か他のものでも、と思い小さな観葉植物を買うことにした。一目惚れした卓上サイズのサンスベリアに、デコレーションの無いリビングテーブルにささやかな彩りを加えてくれるよう期待を込めて。
最後の寄り道を終え、やはり小走りで車へ戻りすぐにマーヴへメッセージを送った。想定より少し時間がかかってしまったかもしれない。
『マーヴ、待たせてごめん、今から帰る』
スマホを手放す間もなく返信がきた。スマホを持って待っていてくれたのかな。それともたまたま弄ってただけ?
『了解、気をつけてね』
シンプルな言葉。だけどこの言葉が俺の気を引き締める。安全運転でマーヴの元へ帰る、それこそが一日の最後の任務。
速く、それでいて安全に車を走らせ帰宅した。綺麗に駐車する時間ももったいなかった。そっとテイクアウトとサンスベリアを抱え、玄関ベルを鳴らした。マーヴ、怒ってないかな。待たせるのは初めてではないけれど、こちらが彼を待たせるのはいつまで経っても嫌なものだ。
玄関ドアが開き、マーヴが顔を出した。昼間の休憩中に夢の中で見た彼よりも、今目の前でこちらを見つめる彼の方がよほど幻のように美しい。マーヴはホッとした様子で微笑み出迎えた。
「おかえり、ブラッドリー」
「ただいま、遅くなってごめん。約束したのに」
「ほんとに、約束を破るなんてひどいぞ、ブラッドリー・ブラッドショー」
そんなことを言いながらも、マーヴの声に責めるような感情は一切こもっていない。むしろ言いながら自分で笑っている。マーヴはそれ持つよ、と片手に抱えたテイクアウトの袋に手を伸ばした。俺がおとなしく袋を渡すと、マーヴは一瞬こちらをじっと見つめた後少し背伸びをしてこちらに顔を近づけた。反射的に身を屈め彼の顔に近づくと、マーヴは空いた片手で俺の首筋に手を添え、頬にキスをした。
「忘れてるよ」
「ごめん…焦ってて」
俺は一瞬呆けた後、ただいまのキスを返した。挨拶のキスを忘れるなんて、俺らしくない。マーヴを見る度キスしたくなるくせに、今日に限って…。なにやってんだ、ブラッドリー・ブラッドショー。俺の内心を察したのか、マーヴは小さく笑い俺の手を引いて家の中へ歩き始めた。
「で、何を買ってきたくれたんだ?」
「えっと、今夜はメキシカンだよ」
「さすが、僕の恋人は食の趣味がいいみたいだ。ね、ブラッドリー?」
振り返るマーヴは先ほどの電話での会話を思い出しにやりと笑っている。彼はそのままリビングまで手を引いて案内し、袋をテーブルに置いた。
俺とマーヴはソファに身体を沈め、用意してくれていたビールで乾杯した。
「そうだマーヴ、ハッピーバレンタイン」
紙袋からサンスベリアを取り出すと、マーヴはその尖った葉先や葉の縞模様を指でなぞり、苦笑した。気に入らなかったかな。
「花が売り切れてて…観葉植物しかなくてさ、でもこれも小さくて可愛くない?」
少なくとも部屋のどこかには置いてくれるよう願いながら、今度は花屋で書いたメッセージカードを手渡した。バレンタイン恒例のサービスらしく、商品を買うと小さなメッセージカードが1枚貰えて、大抵は皆その場でメッセージを書いていく。俺が選んだカードの表面にはWith all my love.の文字。裏面は白紙になっていて、店頭でメッセージを書き込んだ。
「"2人一緒ならどんなドアも開けられる"……」
声に出して読み上げられるとさすがに恥ずかしいが、マーヴならこの言葉に覚えがあるはずだ。いつも一緒に聴いているから。
マーヴはふっと笑い、ボールペンのインクが染みた紙面を愛おしそうに撫でながらもう一度小さな声でメッセージを読み上げた。そしてまた、今度は少し調子外れな音階にのせて同じ言葉を歌い、合ってるかな?と眉を下げて俺に問いかけた。そう、その曲だよ。思い出してくれたんだね。
「…うん、気に入ったよ。ありがとう」
「よかった、花じゃなくてごめんね」
「いいんだ。でも…」
「どうしたの?もっと大きいのが好き?」
「はは、違う違う。君が花を買えなかったのは僕のせいかもしれなくて」
するとマーヴはキッチンへ行き、片手を背後に隠しながら戻ってきた。そして身体をこちらに向けてソファに座り直すと、隠していたものを目の前に差し出した。その手には真っ赤なバラが2本。
「あの店の最後の花は、僕が買い占めたんだ」
と言っても2本だけどね、と付け加えるマーヴの頬もまた、バラ色に染まっている。そっか、マーヴだったのか。ごめんね?と2本のバラ越しにこちらをそっと見上げる彼と目が合い、心がきゅっと締まる感覚がした。俺はなんて可愛い人を恋人と呼んでいるのだろう。
「…1本くらい残してくれればいいのにって思ってたんだよね」
普段のマーヴならそうするだろう。いつどこにいたって優しい人だから。
「今日は欲張ってしまったんだ。1本より2本の方がいいと思って」
マーヴは照れ臭そうに笑っている。欲張りと言うにはあまりに控えめだ。
「それって俺のため?」
「そうだよ、ブラッドリー」
「…ありがとマーヴ、最高だよ」
言いながら2本のバラを受け取った。優しくこちらを見つめるマーヴの頬に手を添えると、マーヴがその上に自らの手を重ね目を閉じた。彼の頬は柔らかくて温かい。バラより華やかな目が再び開かれ、こちらをじっと覗き込む。このままその目に飛び込んでしまおうかと、彼の顔にそっと唇を近づけた。すると突然彼は何かを思い出したように顔を逸らし、テーブルに手を伸ばした。
「そうだ、タコスが冷めるよ」
「…へ?」
「早く食べよう」
「…もう〜!今いいとこだったのに!」
マーヴの手は袋に触れてガサガサと音を鳴らし、俺の手は行き場をなくして脱力し太腿に落ちた。
「もう冷めてるね、温めてくるよ」
マーヴはけろっとした調子で立ち上がりキッチンへ消えた。この雰囲気で何も起きないことってある?
悔しいけど可愛い後ろ姿を見送りながらバラに結ばれたリボンを弄っていると、小さなメッセージカードの角に触れた。マーヴも花屋のカウンターに屈み込み、ボールペンを握ったのだろう。For my Valentine.と書かれたカードをめくると、俺が使ったのと同じボールペンのインクが、マーヴの筆跡で走っている。
『君と生きる未来が楽しみだ』
マーヴはこの言葉を書きながら、2人で迎える未来を想像したのだろうか。彼が楽しみにしている未来とはどんなものだろう。一足先に見てみたいけれど、2人で少しずつ進む今が愛おしくもある。
2本のバラの花言葉は「この世界には私たちだけ」。マーヴとの2人だけの生活は、この家で、この世界で、これからも続いていく。愛し合う2人のための日は、一年に一度だけじゃない。