Well then, Pete 静かな廊下で鼻歌を歌えば、その音は自分が思うより鮮明に響き渡る。歌が上手くなった気分を味わいながら、数メートル先の曲がり角を見つめてその時を待つ。そろそろかな。
その人は重い靴音を鳴らして角を曲がり、目の前に現れた。
「ハイ、マーヴ」
人型の影に覆われたその人は読んでいた資料から顔を上げた。
「わっ、ブラッ…ルースターか」
はあ、と息を吐いて胸を押さえると、彼は眉を下げて笑いかけた。
マーヴェリック。いつか必ず俺の恋人になる人。
「読みながら歩くなんて危ないよ」
「ああ……そうだね、君は真似しちゃダメだよ」
「はいはい……」
資料を閉じて片手を空けたマーヴは坊やに優しく忠告した。そして彼はふと何かに思い至り首を傾げた。
「君はここで何してるんだ?」
「何してると思う?」
「さあ……?」
小さく呟くと彼は微かに眉を寄せた。その顔、何も考えてないでしょ?
「当てたら良いことあるよ」
「良いことって?」
「まあ先に当ててみてよ」
健気な男は食い下がる。
「あ、中将に用事? なら今がちょうどいいよ、珍しく機嫌が良いから」
そう言ってマーヴは自分の背後を指で示した。本人はいたって真面目だ。
「ん〜違う」
「違うの? そう……何かわからないけど、頑張って」
彼は柔らかい微笑みで脇をすり抜けようと一歩踏み出した。いや、ダメダメ、話は終わってない。本題にすら入ってない。
「待った、」
マーヴの前に立ち塞がると、マーヴはこちらを見上げた。危うく両手で彼の肩を掴みそうになったが、目の前に居るのは上官であって、"俺のマーヴ"じゃない。職場で上司に触れるなんてもっての外だ。
「マーヴに当ててくれなきゃ困るんだ」
「こんな所で道草食ってて大丈夫なのか?」
「これは道草じゃないから大丈夫」
「道草じゃないなら何を…、まさか今この時間が君がここに居る理由か?」
「マーヴ正解、大正解」
正解を導き出したマーヴに大声で応えたい衝動を抑えながらなんとか言葉を絞り出すと、彼は落ち着いた様子で廊下の壁に寄りかかった。
「それで?僕に用?」
小さく息をついたマーヴは資料を胸の前で抱え込み尋ねた。これだけ緩い会話を交わしても大佐の威厳は保ちたいようで、彼の両目は精一杯"上官らしさ"を演出しているが、そのシャープな視線に紛れる彼の朗らかさは隠しきれていない。
「そう、ここからが本題なんだけど」
壁に体重を預けるマーヴの右側で、同じく俺はマーヴに身体を向けて壁に寄りかかった。彼の右肩まであと数センチ。その隙間から、びりびりと電気が走るような高揚感を覚える。
「俺の目的を当ててくれたら良いことがあるって言ったよね」
「言ったね」
「マーヴ、この後暇?」
「……なるほどそれが"良いこと"か」
「そうだよ」
「ブラッドショー大尉、君は今誰を誘っているかわかっているのか?」
マーヴは間近で見なければ気づかないほど小さく首を振った。
「ミッチェル大佐です、sir」
「それは誘う相手を間違えているよ」
彼は目を伏せ、こめかみの辺りをぎこちなく掻いた。わかってるよ、自分が上官を、しかも仕事中に誘っていることくらい。やっちゃいけないことだって言いたいんだろ?
「ねえマーヴ、この後食事でもどう? 予定は空いてる?」
「いやあ」
「俺さ、一日中あなたのこと考えてんだよ」
マーヴはこちらを向かない。数メートル先の床を見つめたまま。
「マーヴをデートに誘おうって決めた時から、俺がどんな気持ちだったかわかる? 」
「ブラッド、ショー、」
マーヴはようやく顔を上げた。
「2人きりなんだから、ブラッドリーって呼んでよ」
顎でしゃくって促すと、マーヴは口をつぐんだ。頑固な人だなぁ、なんて考えながら彼の次の言葉を待つ。こんな時に、俺はなんて気長な人間だろうと実感する。彼の目の色が変わりつつあることにも気づかずに。
「誘う相手を間違えていると言ったろ?」
「間違えてないよ」
「間違えてるさ」
「いや、間違えてないね」
「ならどうして僕をピートと呼ばないんだ?」
その瞬間、マーヴから上官の顔は消えていた。なに、どうしてかって? そんなの、そんなの……。俺のことは大尉やブラッドショーと呼んだくせに、そんなことを言うなんて。なんと今度は意地悪な人になったらしい。
「だから誘う相手が違うんだ、ブラッドショー。"大佐"と呼ぶ相手を誘っちゃいけない」
彼が身体ごとこちらを向いた時、彼の左目がきらりと光った。穏やかな表情と諭すような声音で俺に話しかけるが、俺にはその心中は量りかねていた。
「つまりはね、」
「なに?」
食らいつくような返事にマーヴは一瞬目を伏せたが、戻ってきた視線はいたずらっぽくも温かかった。
「そんなに僕を誘いたいのなら、僕をピートと呼んで」
推し量るも不明だった彼の心が、一つの表情となって現れ始めた。曇りのない彼の目は俺に留まり柔らかく細められる。限界まで近づいた物理的距離は、二人の心理的な距離をも表しているようだった。
「部下からの誘いを簡単に受けるわけにはいかないんだ、まして基地の中ではね」
もはや相槌すら忘れてマーヴの言葉を聞いている。二人だけの空間とはいえ、彼の声しか聞こえないのはおかしいだろうか。外ではまだ飛行訓練が続いているはずなのに。
「……だけど、君が一言"ピート"と呼んでくれれば、僕は正直に今夜は暇だと答えられる」
そう囁くと、マーヴは首を傾げて俺の反応を待った。
ああ、やられた。誘いを受けるための理屈を並べて、あなたこそ公私混同も甚だしい。マーヴお得意の抜け道は俺の前に拓かれた。ようやくマーヴともう一度言葉を交わせるようになった俺が、どれだけその道を探したと思う? 正攻法じゃ効かないなんてわかっていたけど、マーヴの理屈だって軟すぎる。上手い方法を欲する俺に差し出すものとしては、あまりに易しくはないか? だって、彼の本当の名前を呼べばいいだけだ。
「本当にそれだけであなたを連れ出せるの? 名前を呼ぶだけで?」
「ああ、そうさ」
目の前の男は口角をきゅっと上げ、眉を下げた。そうやって色んな人を勘違いさせてきた?
「じゃあ……ピート、仕事が終わったら俺と食事に行こう。とびきり美味しいものを食べて、あなたとたくさん話したい」
なら俺も喜んで勘違いしてやるさ。俺はピートしか欲しくない。ピートしか愛してない。
「どこか思い当たる店はあるの? ブラッドリー?」
彼は名前を呼んで微笑んだ。悠々とした表情を作りながらも右手はなんとなく落ち着かない様子で、資料に挿した安物のボールペンを抜き出し数回クリックした。
「あらゆるシチュエーションに合わせた店をリサーチ済みだから、心配いらないよ」
「はは、そうか、ならここで待ってて。これを片づけたらすぐ戻るから、上官と打ち解けるのにぴったりの店を考えておいて」
ほんの数分で戻るよ、と彼は持っていたボールペンで俺の胸を一度軽く叩いた。今度こそ脇をすり抜けた彼は、すれ違いざまに小さく息を漏らして笑っていた。遠ざかる彼の後頭部に愛らしさを覚え、靴音は鼓動のように廊下を響き渡る。やがて彼は並んだドアの一つを開き部屋に入った。
「ピー、ト……」
力が抜け回らなくなった舌は彼の名前を呼ぶのが精一杯で、容易いはずのその発音は時間をかけて俺の胸を掻き乱していた。"努めてクールに、さりげなく。" そんな心持ちなど溶け落ちるほどの熱が、しゃがみ込んだ己の背中を這う。必死なのはバレている。それでも、冷めることを知らぬこの熱は彼を求め続ける。
ピート・ミッチェル。もうすぐ俺の恋人になる人。