忘羨ワンドロワンライ【本の虫】「魏兄はまだお仕置き中?」
講義が終わった後、慌ただしく蘭室から出た江晩吟を追いかけてきて、聶懐桑が周囲を憚るようにそっと訊ねる。
「夜は帰ってくるぞ、さすがに。朝、遅れると罰が追加されるからって、ブツブツ文句を言いながら姉上に急かされて出かけて行って、食事は全部向こうで摂らされるらしく、帰ってくるのは寝る直前だな。おかげで静かでいい」
「え。食事もあっちなの?」
「なんでも、蔵書閣の傍に食事や仮眠がとれる小部屋があるんだと。もちろん仕置きのためにあるわけじゃなく、本来は夜通し書物を調べたりする時のためにある――らしいがな」
「へえ。じゃあ、藍二公子と本当にずっと一緒なんだ。魏兄、可哀想に」
眉をハの字に下げた聶懐桑に、江晩吟は首を傾げる。
「まあな。でも、あいつ、あんな風でもそれなりに本の虫だから意外と楽しんでるかもしれないけどな」
「はあ? 本の虫? 魏兄が? まさか、春宮図の? ――な訳ないか」
ギロリと睨まれて聶懐桑は首を竦める。
「藍先生との問答を聞いてたんなら分かるだろ? あいつ、ああ見えて一三になる頃には江氏の蔵書のほとんどを読破してたんだ。父上が聶宗主からも書を借りてきて、それを読んでたりもしてた。天文についてまとめたやつとか」
「ああ、知り合いに贈るためだって言って兄上が天球図の写しを作らせてたのって、もしかして江氏へのものだったのかな」
「たぶん、うちだな」
へえ――と聶懐桑は感心したようにため息を吐いた。
「魏兄ってすごいんだねぇ。全然そんな風に見えないのに」
江晩吟はため息を吐いて小さく首を振った。
師兄である魏無羨は六芸に秀でており、若くして大師兄に昇り詰めた雲夢の誇りであるはずなのだが、何故かそう思われることが少ないという稀有な人物だ。法術の初歩を学んですぐに自力で呪符を開発した天才と言えば聞こえはいいが、それが『おねしょを乾かす符』だったため、公に吹聴するには憚られる。師兄は一事が万事そんな風なのだ。
雲夢の悪戯小僧の悪名は天下に轟いているが、その悪戯小僧が雲夢に鉄壁の防御陣を敷いた大師兄と同一人物だとは、全く気が付いていない者も多いだろう。
江晩吟が一二の誕生日を過ぎてすぐの頃だ。夏の間は『蓮の新芽に悪さをする亀を捕まえよう』だの『水鬼狩り競争』だのと江晩吟と一緒に一日中大騒ぎしていた魏無羨は、秋の気配が漂い始めた頃に虞紫鳶が新しい陣術の本を買い求めてくると、途端にそれに夢中になった。
虞紫鳶はそれを予想していたようで、蔵書室にはたっぷりの紙と硯が用意されただけでなく、片隅に布団も用意された。書を汚さぬよう片手で掴んで食べられる万頭だけが部屋に運び込まれ、魏無羨は日に一度は無理やり部屋から引っ張り出されてきて、江厭離に肉やら野菜やらを口に詰め込まれている。そんな間も魏無羨は心ここに在らずという具合で、モグモグと咀嚼しながらも、なにやらぶつぶつと呟いてばかりだ。
蔵書室はもともと江晩吟の好きな場所だ。風の通りがいいし、書を読むことは嫌いではなかった。魏無羨と並んで手習や礼儀作法、仙師の心得を学んだ思い出もある。二人が成長し童向けの書を必要としなくなったせいもあるが、いまでは蔵書の半分以上が魏無羨のために求めてきた本に置き換わった。江晩吟が宗主である江楓眠から宗主の心得を口伝で伝えられるようになったこともあり、蔵書室に足繁く通うのは魏無羨ひとりになっている。特に、新たな書を虞紫鳶が求めてきて、魏無羨がそれを習得するために閉じこもるようになると、そこには誰も近付けなくなる。
数日ひとりで放っておかれた江晩吟は、たまらず魏無羨に文句を言おうと口を開きかけた。なにしろ本に夢中になってからというもの、日課のはずの剣術の稽古にも出てこないのだ。
だが、開きかけた口は江厭離の掌で塞がれ、小さく首を横に振られる。理由はすぐ分かった。魏無羨の食事の時間に合わせて虞紫鳶がやってきたからだ。
「魏嬰、しっかり噛んで食べなさい」
声をかけられ、夢から醒めたような顔をして虞紫鳶を見た魏無羨は、慌てて何か喋り出そうとして途端に肉を喉に詰まらせて咳き込んだ。
「ほら、言うそばから」
虞紫鳶は杯に水を注いで手に握らせてやる。
虞紫鳶が魏無羨の世話をすることは滅多にない。だが、虞紫鳶が魏無羨を疎んじているかというと、それも違う。魏無羨が雲夢江氏のために研鑽を積んでいる時、虞紫鳶は的確に魏無羨を補助してやり、虞紫鳶が公的な仕事をする時、魏無羨は見事にその補佐をする。幼い魏無羨に法術と陣術を教え始めたのは虞紫鳶であり、そのために必要な本があれば虞紫鳶は遠くまで人をやって買い求めてきた。法術や陣術にさほど特別な才能がない江晩吟にとって、それは開いても全く意味が分からない難しい本だ。その本を間に置いて、虞紫鳶と魏無羨が長く何かを真剣に話していることもある。実の息子である江晩吟ですら入り込めない師母と弟子としての関係がそこにあり、江晩吟は悔しくなる。そして魏無羨に当たり散らして大喧嘩になり、虞紫鳶に二人して叱られ、江厭離が汁物を作って慰めてくれるのだ。
「虞夫人、俺、やってみたいことがある」
水を飲んでなんとか人心地ついた魏無羨は、勢い込んで虞紫鳶に話しかける。
「どんなこと?」
「飛んでくる矢は跳ね返すけど、こちら側からは好きに矢を飛ばせる盾を陣で作りたい」
「できそうなの?」
「うん、たぶん明日くらいには」
「では、できたら言いなさい。紫電で強度の確認をするから」
まただ――と江晩吟は口を尖らせた。
母親である虞紫鳶は、女仙師ながら紫蜘蛛という号を持ち、雲夢江氏の宗主に次ぐ女主人として一目置かれる存在だ。仙門百家の中で夫の背を守って剣を振るうことができる数少ない女主人の一人でもある。そしてその女主人は、雲夢江氏の守備に関して弟子である魏無羨の能力を絶対的に信頼していて、そのための時間を占有する。魏無羨も義兄弟同然の江晩吟と遊ぶことより、虞紫鳶が買い求めた本を習得する方を優先させる。何もない時は朝から晩まで好き勝手に江晩吟を引っ張り回すくせに――だ。
「俺も観たい」
咄嗟に口から出た言葉に、ちらりと投げられた母の視線にヒヤリとする。
「そう。まあ、そろそろお前も知っておいても良いでしょう。同席しなさい」
虞紫鳶は魏無羨にしっかり食べさせるようにと娘に念を押して去っていった。
翌日の昼下がり、魏無羨が陣の上に立って両手をかざして作った光の盾目掛けて、虞紫鳶は思いっきり紫電を振り下ろした。火花のような激しい電撃の飛沫が舞い、周囲の空気がビリビリと震える。
「強度は良い。これならどんな強弓にも耐えられる。それで、そっちから矢は通るの?」
魏無羨は片手を背後に回して矢を一本取り出すと、ゆっくりと内側から盾を貫く。僅かに紙を破る程度の抵抗のあと、矢はプスリと盾から飛び出す。盾そのものには飛び出した矢以外の瑕疵は見当たらない。
「最初は矢自体にこの盾を通り抜けられる術を施そうと思ったんだ。でもそれじゃ、飛んでいったこの矢を相手に使われたら意味がなくなる。だから、盾の表と裏に違う符号を描いておいて、矢の符号と同じなら通るけど違うと通らないようにしてみた。これなら符号が敵にバレた時にも、盾の符号を描き換えてやれば維持できる」
虞紫鳶はしげしげと光の盾を眺める。
「六角陣で作っているということは、繋いで大きく展開させたいのね?」
「うん。最終的には蓮花塢全体を覆う結界陣にしたい」
虞紫鳶は魏無羨の顔を眺め、小さく頷く。
「良いでしょう。繋いで展開させる部分は今ある陣を流用できる。ただ、霊力の消費が激しいから節約できるように改良しなければダメね。ここまでのところをまとめて、理論と陣とを書き出しなさい。これほどになると私ひとりでは無理だから、藍先生に瑕疵がないか見ていただく必要がある」
魏無羨は素早く礼の形を作る。
「はい。虞夫人」
弾むように蔵書室へと駆け出した魏無羨の後ろ姿を、江晩吟は声もなく見送った。受けた衝撃をどう説明すれば良いのか分からない。ただ、奇妙なほど腹立たしく、同時に恥ずかしくてこの場から消え去りたかった。
「阿澄、お前が成人したら、あれをお前が使うの。使うに値する仙師になりなさい。いつまでも子供のように水鬼だなんだと遊んでいないのよ」
鞭打つような虞紫鳶の言葉に江晩吟は項垂れた。
蔵書室は江晩吟の好きな場所だった。魏無羨のために買い求められた書が蔵書の半分を超えてもなお、風がよく通る、江晩吟の好きな場所に変わりはなかった。
だが、その日から江晩吟は蔵書室に足を向けなくなった。蔵書室は次第に魏無羨の書斎のように、書と紙と硯が鎮座するようになった。
「わあ、こんなものまで取ってあるんだ」
罰である家訓の書き写しに飽き飽きし、魏無羨は伸びをしてたちあがり、白い袂をヒラヒラと風に舞わせながら蔵書閣の中をふらふらと歩き回っていた。藍忘機はというと、動き回る魏無羨には目もくれず、きちんと正座して静かに書に目を落としたままだ。
「藍湛、藍湛、見てくれ。俺が一二の時に考えた陣だ。凄い、藍先生添削までしてくれてたんだ」
奥まった棚から陣術の参考になる紙の束を見つけた魏無羨は、その中に自分の文字を認めて取り出した。そして紙をヒラヒラと振りながら藍忘機の隣に滑り込む。
「藍湛、ほら、藍先生『甲』って書いてくれてる。虞夫人から藍先生が褒めてたっては聞いたんだけど、本当に添削までしてくれてたなんて」
藍忘機がちらりと差し出された紙に目をやると、何やら難しげな記号や数術式がずらりと並んでいる。
「これは?」
「一二の時に考えた新しい盾の陣術だ。これを結界陣に発展させて、それで俺は雲夢江氏の大師兄になった。雲夢は年齢や剣術の腕だけでは大師兄を決めないんだ。正直、剣術では、体の大きい腕力のある師兄たちに持久戦に持ち込まれるとちょっと厳しい時もあるしな」
藍忘機は顔を上げて、嬉しそうに藍啓仁の注釈に目を落としたままの魏無羨見つめた。
「雲夢の大師兄は――」
「剣術も戦術ももちろん大事だぞ? 一番強い必要はないが、三番目くらいまでには居ないと無理だ。弓だって、学問だってできるに越したことない。でも、大師兄に求められるのは究極的にはたった一つ、『どれだけの命を護れるか、護る覚悟があるか』だ。蓮花塢は四方に開けていて、市との距離も近く、事が起きたら市井の民が逃げてくる可能性もある。だから、雲夢では上に立つ者の『護る力』が最も重要視される。どんな力を使ってでも必ず民を護り抜くのが雲夢の大師兄だ」
魏無羨の指が、嬉しそうにそっと何度も『甲』の文字を撫でる。思っていたよりずっと細くしなやかな指を見て、藍忘機は自らの掌に目を落とす。藍家の厳しい鍛錬を繰り返した指は、けして太くはないがそれでも強さと力を感じさせる藍家の男の手だ。もう一度、魏無羨の指先を見つめて、藍忘機はその指先が何度もなぞる叔父の字を眺めた。
藍忘機に比べれば小さく細いこの指で、民を護り抜くのだと魏無羨は豪語する。こんなに細い指で。
「虞夫人から聞いてたけど、やっぱり蔵書閣は凄いな。読んだことのない書がいっぱいある。藍湛はどれくらい読んだんだ?」
「おおよそ九割は」
「九割かあ」
顔を上げ、壁一面の本を楽しげに魏無羨が眺める。その拍子に肩からするりと髪が落ち、仰いた喉元が露わになった。着崩した襟の合わせの隙間から思った以上に肌が見える。藍忘機は思わずその鎖骨の窪みを食い入るように眺め、すぐに慌てて視線を逸らした。
「ざっと見たところ、俺は七割って感じだな。見たこともない書もある。さすがは姑蘇藍氏の蔵書閣だなあ。書き写しの罰なんてなければ、知らない書を見つける探検ができるのに」
藍忘機の様子になど気付きもせず、楽しげに本の話を始める魏無羨の歌うような声を聞きながら、藍忘機は、未だ名残惜しそうに『甲』の文字の上に置かれている細い指を見つめる。その文字が叔父のものであることに微かな不満を感じて、藍忘機はそんな自らの心持ちを深く恥じた。