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    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

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    斑猫ゆき

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    精神科の患者タンジロと医者タミオチャンの炭魘⑤です。今回長いので1章を半分に分けています。相変わらずなんでも許せる人向け。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    ジョハリの箱庭・Ⅴ『盲点』(1/2)

    『たみおくん』

     誰かが呼んでいる。

    『民尾くん』

     懐かしい声。

    『ねえ、また聞かせてよ。列車の話』

     柔らかい笑顔が、民尾の隣に咲いた。
     気づけば、また民尾は夢の中にいる。あの、幼い頃の記憶を継ぎ接いだ世界に。
     普段はそれを認識した途端に意識が現実を指向し始めるのだけれど、今日は勝手が違った。隣にいる幼い友人が呼んでいるから。その声が、微笑みが、民尾のたましいを優しく掴んで、留め置いてくれている。あどけない面立ちの後ろで、鉄道模型が無限の轍を巡り続け、車体がレールを引っ掻く軽い音だけが、子供部屋には満ちていた。
    『しょうがないなぁ』
     勿体ぶってみるけれど、緩む口元は抑えられない。
     本当は、こうやって友人と時間を共有できることが、嬉しくてたまらないのだから。背伸びをして、わざと冷淡に振る舞ってみせても、彼はそれを嫌味と取ることもない。いつでも心から驚嘆し、素直な歓声を上げてくれる。それを確かめたいからこそ、民尾はいつも無理に彼へすげない態度を取っていた。
    『すごいや、民尾くん! いろんなこと知ってるんだなぁ』
     本で読んだ情報、両親に連れられて行った駅や博物館での出来事。それらを拙いながらも熱意を込めて伝えれば、いつだって彼は純真な笑顔とともに惜しみない賞賛をくれた。他の子供達からは陰気なひとり遊びとしか見られない模型遊びにも、彼は嬉々として加わってくれる。それゆえ民尾も、彼にだけは唯一心を許していた。稚気に溢れたプライドが邪魔をして、素直にそう伝えることは出来ないけれど。
     だから、感謝を伝える代わり、秘密の共有者に彼を選んだ。
    『……ね、今から話すこと、絶対にほかの人に言わないでね』
     民尾は夢と現の境界が至極曖昧な子供だった。物心ついて間もなくは、現実と夢とを奇妙に混ぜ合わせたような出来事を報告しては、両親を困惑させていた。無邪気にも他の子供に話したこともあったが、夢の文脈を理解しない他人が民尾の世界になど興味を示す筈もない。嘘つき呼ばわりされるばかりで、民尾は次第に同世代の子供達からは孤立していった。
     そうして成長するにつれ、夢の世界に浸るのは世間一般では異常と受け取られることを学習した民尾は、自制を覚えた。夢の価値を分からない人間になんて、話してやる道理もない。夢の世界は自分だけの箱庭として在れば、それでいいのだと。
     けれど。
     けれど、ひとりだけでは世界を作れない。
     それもまた事実で。
     赤ん坊は父と母がいて生まれて来るものだし、絵本に出てきた国生みの神様だって、ふたりいなければ世界をかたちにできなかった。おぼろげながら、幼い民尾もそれは理解していた。
     現実があるから、夢がある。
     ずっと、探していた。自分の夢の話を聞いてくれるともだちを。
    『夢の中でね、俺、海の中を走る電車に乗ったんだ。砂浜からレールが続いていてね、ガタンガタンってゆっくり水に入っていくから、だんだん窓が下の方から青くなっていって、そこを、きれいな魚がいっぱい泳いでて』
     話したいことが、堰を切って溢れ出す。子供の小さな喉にはつっかえてしまうくらいたくさんのすてきな夢が、民尾の唇を借りて現の世界に生まれ落ちる。しまいには言葉では足りず、手足を広げて全身でそれらを表現しなければ足りなくなってくるくらいに。
     彼ははじめはポカンとした表情をしていたが、次第にその赤い瞳を輝かせ始めた。深い赫光は、星が生まれるときの力強い瞬きにも似て。唇を滑るのは感嘆の息。
    『すごい……』
     ふと、彼が呟く。
    『民尾くん! 俺も、その夢見たい!』
     飛び跳ねるように、彼は民尾の肩を掴んだ。その勢いがあまりにも強すぎて、腰掛けていたベッドに押し倒される形になり、民尾ははたと瞬きを返す。
    『あっ、ごめん……痛かった?』
    『ふふ、いいよ』
     慌てふためいて謝りだした少年の額に、そっと触れる。引き攣れた痣を労るように撫でると、心地よさげに目を細めた。
    『一緒に寝れば、見られるかなぁ? 民尾くんと同じ夢』
    『どうだろ……どうかなぁ?』
     ベッドに、手を繋いで転がる。子供用の枕を半分ずつ分け合うから、肩が触れるくらいに身体が近い。重ねた掌から、洋服越しの肌から、ゆるやかに伝わる熱。それがなんだかもどかしくて、瞼を閉じられない。ちらと隣を見やれば、彼も同じような心持ちらしい。ひらいたままの目で視線を重ねて、くすくすと笑い合う。
    『だめだよ、これじゃ寝られないよ。くすぐったくて』
     そのまま、彼の門限が来るまで、ずっと身を寄せ合っていた。眠れはしなかったけれど、どこか充足した気持ちが、民尾を包んでくれていた。夢の話を、民尾の見ている世界の話を、彼はありのままに受け止めてくれたから。
     そんな、既に失われてしまった日々の欠片を、民尾は夢の中で拾い集めていた。
     唐突に、場面が変わる。
     何枚もの引き裂いた写真を無造作に貼り合わせたような、強引な暗転。けれどそこに違和感はない。夢の中では、無意識がその継ぎ目を癒合して、夢の中だけの論理を形作るから。そこにある展開がどれだけ無秩序で理不尽だとしても、現実と違わぬ強度を持って、夢は世界を作る。
     舞台は相変わらず、民尾に宛がわれたあの子供部屋だった。隣にはあの少年がいて、ふたり並んで、巡る汽車の模型を眺めている。
    『いつも走ってるこの汽車、かっこいいね』
    『でしょう? 俺も、すごく気に入ってるんだ』
     得意げな笑顔を返せば、少年は瞳を輝かせて頷いた。それからしばらく、ふたりは無言で列車を見ていた。山間部を模したジオラマをひたすらに駆け抜ける黒い車体。端に設置されたトンネルに入って一瞬姿を隠すと、ほんの少しだけ部屋が静かになる。ジィイと単調な駆動音がくぐもって、ふたりの間を裂く。けれど出口から機関部が頭を出すと、また民尾と少年は歓喜の声を上げて、目配せをし合う。それを、何度でも繰り返して。
     車両が何周した頃だろうか、少年がふと民尾の名前を呼んだ。そうして、緩く首を傾けて、申し訳なさそうに告げる。
    『……さわってみてもいい?』
     ほんの少しだけ、返事に迷う。
     両親にねだってやっと誕生日に買って貰った、大事な大事な模型なのに。もし、傷がついたら、もし、壊されたら。そう思うと、なかなか首を縦には振れなかった。
     だけど、彼になら。
     口を開こうとした瞬間、そこに現が滑り込む。

     そうして民尾は、精神科医の魘夢民尾は、目を覚ました。

         *

     滲んだ涙が瞼を接着している。やっとのことでこじ開けた先には、薄ぼけた天井が見えた。電気を落とされて、窓から入る光だけが、部屋を窓枠の周りだけ仄白く照らしている。左手を伸ばして、電灯のスイッチを探る。その間に右手の甲で目脂を擦り落として。
     漸く探り当てたスイッチをONに切り替えると、何度か明滅した後、電灯が点った。唐突に増した光量に眉間にシワが寄る。瞬きを繰り返して頭を振るけれど、明瞭な意識を取り戻すにはほど遠くて。
     ふと、傍らで動く気配がする。そちらに目を遣ると、炭治郎が上体を起こしたところだった。どうやら、民尾が起き出すのを待っていたらしい。
    「おはようございます、民尾先生」
    「……おはよう」
     こいつはいつも、こうだ。
     日中唐突に眠ってしまうくせに、朝はいつも民尾より早く起きて、寝顔を見ている。それも気にくわなくて、必然的に挨拶も無愛想になる。もう既に両手の指で数えても余る程に交わした、ベッドの上での朝の挨拶。それを繰り返す度に、民尾は実感する。ああ、今日も退屈な日々が始まるのだと。
     身支度を調えてしばらくすると、朝食が運ばれてきた。とはいえ受け渡しは淡泊なもので、チャイムに返事をして外に出れば車輪のついた配膳台が止まっているから、そこからふたりぶんのトレイを持ち出せば終わり。食後は台の上に食器を戻しておけば、いつの間にか清掃スタッフが回収しているから、顔を合わせることもない。他人との必要以上の接触がないのは民尾にとっては有り難い話だけれど。
     今日のメニューはトーストに、ハムエッグとトマトサラダ。民尾は皿を見渡して、まずトマトにフォークの先を定めた。赤い実にかじりつくと、しゃっきりとした歯ごたえとみずみずしい味が口に広がってくる。山奥といえど、生鮮食品の質は悪くない。ビタミン類の摂取には野菜が不可欠ということで、何種かは併設の菜園で作っているという。ここに入る際に見学をさせて貰ったが、最近はとんとご無沙汰だから、献立のうちどれがこの療養所産のものかはわからないけれど。
     腹が半分ほど満たされてきたところで、民尾は炭治郎の方を上目遣いに見やった。向かいでハムをパンの上に載せて囓っている彼の耳元で、揺れる日輪を象ったピアス。それを眺めている内に、ふと民尾の記憶を夢の名残が掠めた。幼い頃に友達だった、あの少年。耳飾り以外は、炭治郎によく似た彼のことが。
    「炭治郎くん、そういえばそのピアスって、変わってるよねぇ。素敵だけど」
    「あ、これですか?」
     炭治郎が耳に手を遣ると、ちり、と固い音が鳴った。
    「うん、一緒に寝起きするようになってから、今さらながら気になって」
     口の中のものを咀嚼しきってから指をさす。この療養所ではアクセサリーの持ち込みについて禁止規定はあるものの、患者がそれに執着する場合は取り上げずにおく場合もある。彼もそんな事例の一つなのかとは思うが、勘ぐりは言外に追い遣って感じ取らせないよう厳重に封をする。
     炭治郎はそれを聞いて困ったように視線を左右に泳がせていた。数拍の間。それから、意を決したように口を開く。
    「これ、父の形見なんです」
     穏やかな、けれど、どこか悲しげな声色。
     それを受けて民尾は一瞬、言葉に迷う。剥き出しの傷に触れたような気後れを躱しつつ、いかにも申し訳ないといった態度を作って、下を向く。
    「ふうん……悪いこと聞いちゃったかなぁ」
     当たり障りのない返答をして、民尾は顎に手を遣った。
     炭治郎の父親が亡くなったのは確か例の事故の数年前だから、計算上は彼が小学校中学年くらいの話だろう。対してあの夢の中の彼は未就学児か、行っても小学校一年生くらいだから、夢の中の彼がピアスをしていなくても、辻褄は合う。ただし、民尾がその年代だった頃には炭治郎は生まれてもいないという齟齬を無視すれば、の話だが。
    「あ、そんな」
     沈思する民尾を、不躾な質問をしたことに気後れしていると受け取ったのだろう。炭治郎は慌てて両手を振った。
    「いいんです、別に。確かに今でも悲しいとは思ってますけど、それで父が戻る訳でもありませんから」
     それより、と炭治郎はくちびるを綻ばせる。
    「……民尾先生、初めてじゃないですか? 病気や入院に関係あること以外で、俺に何か聞いてくれたの」
     唐突な言葉。
     民尾は何度か目を瞬かせる。あまりに予想外の話題に面食らって、ほんのすこし首を傾けて。視線を一瞬外して、戻す。それでも相変わらず炭治郎は満面の笑みで。
    「そうだったかなぁ」
     眠って、起きて。
     その繰り返しの中で、彼と交わした大半の言葉は忘れてしまっていた。
     報告に必要なことはカルテに記してからメールに打って、そうして用済みになればとっとと記憶の外に追い出してしまう。医師としての線引きという建前ではあるが、本当はただ、不安だっただけだ。この少年の狂気に、いつしか自分が巻き込まれつつあるのではないかと。
     相容れないはずの彼と溶け合って、いつか、この白い建物の中で区別がつかなくなるほどに混ざって、ひとつになる。
     そんな予感が、民尾に恐怖にも似た忌避感を植え付けていた。
     恐怖とは、無知と無理解からくる不安である。そう、今まで民尾は考えていた。それを打ち消すものこそ、理性なのだと。ひとめでは理解しがたい事象を、知識と経験とで紐解くことで解明し、既知のものへと変える。それこそが、未知という恐怖を祓う唯一の手段だと。そう、思っていたのに。
     けれどここにきて、そんな信条は何の役にも立たなくなってしまった。彼の夢を拾い上げて、彼の言葉を聞くうちに。
     竈門炭治郎という少年を理解するにつれて、自分が消えていくような気すらした。明るすぎる光は、周囲を照らすどころか視界を奪うものでしかない。暖かで、ひたむきに、狂ったベクトル。魘夢民尾という人間とは真逆の、彼。
     わからないことは、怖い。
     わかってしまうことも、怖い。
     であるなら、忘れるしかない。
     寝ても覚めても、全てがこの少年に浸食されていく。言葉も、感触も、体温も、感情も、過去も、現在も、すべて。彼を知っていく分だけ、自分が欠けてしまう。何もかもが不安定な部屋の中で、忘却だけが柔らかく民尾を抱き留める蓐だった。
    「そうですよ」
     だから、微笑んで念を押す炭治郎の言葉にも、曖昧に頷くことしか出来なかった。
     食事を終えて、重ねたふたりぶんの食器をトレイに乗せて部屋の外の配膳台に返す。ついでにシーツと枕カバーも、外に出しておいた。枕は炭治郎がこの部屋に居候することになってから支給の枕がひとつ増えたけれど、そのくらいは手間でも何でも無い。そうして配膳台の脇から、ビニール袋に入ってぶら下げてある新しい寝具を回収する。
     扉を閉める直前ふと、白い廊下を振り返る。民尾の部屋はコの字型になった建物の短辺に位置しているから、病室やエレベーターの並ぶ長辺側を見通すことは出来ない。それを確認すると、どことない安堵が胸の内に降りてくる。その正体を認識してしまう前に、民尾は扉の内側へと戻った。
     寝具の交換が終われば、その後は夕方の問診まですることはない。唯一の患者を自室で監置することになった今、殆ど外に出る用が無くなったというのが寧ろ正しいが。
     空いた時間を使って、民尾は今まで積んでいた文献を読み漁るかコレクションの整理に時間を費やしている。有益ではあるが、味気はない流れ。炭治郎が来て間もなくは棚をみっしりと覆った鉄道模型に彼が手を出さないかと始終神経を張り詰めていたが、それもやがて落ち着いていった。
     彼は民尾の趣味に一定の敬意を払っているようで、コレクションケースに多分な興味を示しながらも、眺め回すばかりで自分から手を出そうとはしない。ナルコレプシーの発作が起きたときのために殆どベッドからは降りないものの、それでも折に触れて遠目から民尾のコレクションを眺め渡しているようだった。ひとつひとつを、星の輝きでも確かめるように、眩しそうに目を細めて。
     そんな彼の横顔を見る度に、民尾は苦々しい思いに駆られていた。炭治郎の暴力衝動がなりを潜め、おそらく生来のものであろう穏やかな気質がそれを覆い隠しつつある。それを承知してしまうくらいの時間を、共に過ごしつつあると言うことなのだから。順化していく感情を必死で煽り立てようとしても、ただ自分の卑屈さが露わになっていくばかりで。
     鬱屈した時間を過ごす内に、いつの間にか時計の針は夕日に伴って落ちかけていた。民尾の気も知らず、炭治郎は短い時間の内にもまた夢とうつつを行き来して過ごしている。壁際のベッドに目を遣ると、目は覚めているようだったが、起こした上体はこちらに背中を見せている。壁に向かい合って俯き加減で、何か手の中のものを見つめるような案配の姿勢。訝しみながらも、民尾は遠慮無く声をかける。
    「炭治郎くん、問診の時間だよ」
    「あ、は、はいっ!」
     びくりと震える背中。あからさまに慌てた様子で、炭治郎は手の中のものをシーツの下にさっと隠した。
    「何見てるの?」
    「あ!」
     歩み寄って、シーツを剥がす。危険物を隠していないか確認しないとならないという医師としての建前もあるし、そもそもここは民尾の部屋だ。客人のプライバシーが保障されると思う時点でどうかしている。そんな言い訳を瞬時に編み出しつつ、民尾は炭治郎の手元を覗き込んだ。
     白い掛布が舞う中に、柔らかい色彩の箱が見える。薄いブルーを基調とした側面に、鉄道模型を描いた絵が張り付いた床。いつだったかに民尾がやった、あの小さなドールハウス。
     瞬時に、記憶が蘇る。それを大事そうに両手で包んではにかむ、炭治郎の姿が。ただ、床面にはふたつばかり、覚えがないものが張り付いている。確か、人形を差し込む穴が空いていた辺りに。
     それは紙粘土で形作られた、指先ほどのいびつな人形だった。頭と胴体だけに省略され、極端にデフォルメされた外見ではあったが、マーカーで塗り分けられているおかげでふたつの区別は容易だった。一体は茶色の髪に、緑と黒の市松模様で飾られた胴体を持ち、もうひとつは黒髪と、素材のままの白地の胴体。市松模様の方には、耳のあたりに小さな出っ張りがあり、その中心には真っ赤な点が穿たれていた。不格好ではあるが、おそらく彼の付けているピアスを模しているのだろう。とすると、これらのモデルは。
    「ふうん……」
     まじまじと見つめて思案げな息をつけば、声にならない呻きが炭治郎の喉から絞り出された。大仰な身振り手振りに、耳元のピアスが派手に揺れる。
    「い、いえ! あの、人形が多分ここにつくんだろうなって思ったら、なんだか寂しいような気がして……でも俺、あんまり図工とか得意じゃないから、モデルがなきゃ作れなくて……すみません……」
     顔を両手で覆って、炭治郎は語尾を消え入らせる。指の間から覗く頬は、掌がつくる影でも隠しきれないほどに真っ赤で。
    「それで、俺と君?」
    「はい……勝手にこんなことして、申し訳ないですが……」
     嘘は、言っていないのだろう。全ての真実を話しているとは限らないが。
     これは、危ないかな。
     心の中で、民尾はひとりごちる。精神科に限らず、医者に依存しきった患者が擬似的な恋愛感情を抱くことは大して珍しいことではない。ましてや今のこの状況だ。いまの炭治郎は一年以上およそ民尾以外の人間と接触していないのだから。妹や後見人である鱗滝家の人間と手紙のやり取りはしているが、施設の立地や規則上、面会の許可は殆ど下りていない。そういった心細さも、民尾への感情を助長しているのだろう。そう、自分を納得させて、民尾は柔らかく微笑んだ。
    「いいよ、別に」
     そう言われた途端、炭治郎は安堵したように息をついた。手の中の箱庭を労るように撫で、微笑みを零す。まるで、それが自分の精神の中核を成すものであるとでもいうように、柔らかく、慈しんで。
    「捨てたりしないから、安心して」
     わざと鷹揚な態度を取ることで、壁があることを暗に示す。
     過剰に否定しても、肯定しすぎてもいけない。一歩引いた態度を続ければ、いつかは離れていくだろう。何度も深く頷きながら、民尾はそう自分に言い聞かせる。
     よしんば民尾への依存傾向が消えずとも、ナルコレプシーの治療とはなんの関係もない。そちらが寛解すれば、少年は退院することになるのだから。散々懐かせてから退院の時に落ち込んでいる顔を見てやるのも一興かも知れない。
     忍び笑いを零しながら、民尾は炭治郎をソファへと促す。時刻は既に三時四十五分を迎えようとしていた。
     語られる少年の夢は、相も変わらぬ様子だった。民尾に似た鬼や、人間が、様々な立場の炭治郎と出会い、そこに例外はない。結末が曖昧なままに目を覚ますか、破滅的な終わりを迎えるか、その程度の違いで。
    「夢に出てくるのは、民尾先生ばっかり……」
     そう呟いた少年の顔に落ちた陰りは、しかしどことない悦楽の響きを含んでいた。
     先程の一幕で吹っ切れたのか、民尾への思慕の念をもはや隠すつもりもないらしい。思わず、口の中でしか聞こえないほどの強さで舌を打つ。尖った嫌悪が民尾を突き刺した拍子に、脈絡のない記憶が転がり落ちる。いつかに読んだ、本の中の一幕。ほとんど反射のように、民尾はそれを言葉にしていた。
    「まるで阿波環状線の夢みたいだねぇ」
    「あわ……?」
     炭治郎の顔が、訝しげに曇る。
    「まあ、ある作家が見た夢の話なんだけどねぇ」
     頬に落ちた髪を掻き上げて、民尾はええと、と口に出して記憶を引きずり出す。数年前に読んだきりだから、詳細なディテールは忘れてしまったけれど。
    「阿波環状線という鉄道路線の沿線にはあるしきたりが存在している。そういう情報だけで、絡んでくる映像やストーリーは全くなかった、っていうのさ」
    「夢って、見るものですよね。ふつう」
    「そう。それを作家は、文字を扱う仕事をしている自分のことだから、視覚ではなく言語を結ぶ脳の部分が刺激されてそんな夢を見たんだろうって結論づけていた、だったかなぁ。確か」
     うろ覚えの内容を吟味するように、民尾は天井に視線を走らせる。
    「人の認識は視覚からの映像情報が大半であるけれど、それ以外の情報を処理している頻度が高ければ、それだけ刺激されやすくなるんだろうねぇ」
     少年はしばらく小首を傾げていたが、ふと小さくあ、と声を上げた。
    「それと同じように、民尾先生が、俺の夢の引き金になってるってことですか?」
     民尾は軽く頷く。トン、と軽くカルテをペン先で叩いて、自ら合いの手を打って。
    「まあ、仕方ないかもね。ここ半年くらい、君がマトモに顔を合わせた人間って俺くらいだもの」
    「……すみません、本当に」
    「別に、君のせいじゃないさ。人間の心っていうのは、そういうふうに出来てるものだから」
     だから、君の気持ちも本物じゃない。
     一緒にいる時間が長いから、大事だと錯覚しているだけ。ただの、精神の作用でしかない。
     言外にそういった含みを持たせていることを、炭治郎は気づいているだろうか。上目遣いに彼の顔を見やる。窓から射す夕日に揺れる瞳が、赤色を澄み渡らせている。何を考えているのか、しきりに手の中の人形の家に視線を移して。
     やがて、炭治郎はゆっくりと顔を上げた。
    「あの、民尾先生」
    「なあに」
    「先生はどうして、お医者様になろうと思ったんですか」
     あまりにも、出し抜けな問い。
     一瞬面食らったが、民尾はすぐに体勢を立て直す。その問いを、なぜだか待っていたような気がした。そんな根拠のない予感が、民尾を饒舌にする。
    「決まってるじゃない」
     唇をつり上げて、民尾は笑った。
    「精神のエキスパートになれば、他人に頭がおかしいって決めつけられないでしょう?」
     精神科医の精神鑑定なんて、誰も出来ない。
     そう嘯いてみせて、民尾は笑う。
     夢と現実の境が曖昧だった幼い自分を嘘つきと罵った子供も、精神遅滞を疑った大人も、今では何も怖くなかった。学業に打ち込み、試験をくぐり抜け、国家資格にすら認められた自分の正気。もし民尾をマトモじゃないというものがいれば、そっちの方がよほどおかしいか、もしくは門外漢の当て推量だと相手にしなければ済む話だ。分は民尾の方にある。
     だから民尾は夢の話をしない。他人には理解できない来歴と文脈を持ったそれを寸分の狂いなく伝えることなど出来ないし、何より、夢と現とを隔てたくないから。
     夢を語れば、今居る此処が現実なのだと認めることになってしまう。未だ夢現を混ぜ合わせた中で生きる自分の正気が保障されるのであれば、子供時代の自分も逆説的におかしくなかったと認められるから。そうして、かつて誰にも顧みられなかった自分を守っている。
     民尾は目の前の少年を見た。相変わらず、彼は民尾の方を一心に見つめていた。結ばれる赤と青の瞳。その内側を覗き込もうとしても、茫洋とした煌めきに邪魔されるばかりで。
     視線を逸らして、民尾は何度か目を瞬かせる。まるで、眩しすぎるものを見てしまったあとのように。
     彼を頭のおかしい子供と馬鹿にするのも、そういった過去の傷跡が分かち難く結びついているのだろう。必要以上に揶揄し、彼と結びつこうとすることに嫌悪を覚えるのは、まるで過去の自分を見ているようだから。それでいて、人間としてはまるで似通ったところのないというのも、また民尾を苛立たせる要因なのだろう。そう、民尾は分析する。一抹の違和感と共に。何か重大なピースが欠けているのに、自分では妙だと思うばかりで、何なのかを言葉にすることが出来ない。そんな、不安にも似た歯痒さだけが募っていくばかりで。
     カーテンを透かした夕紗が、そんな民尾の視界をほの赤く染め上げていた。赤色、彼の瞳の色。目の前にいる少年の、そして、夢の中の。
    「安心しました」
     ゆっくりと、力強く、炭治郎は頷く。まるで民尾の心の内を見透かしたうえで、それをも受け入れるかのような慈愛に溢れた穏やかさで。
    「人助けがしたいとか言われたら、絶対嘘だと思っちゃいますから」
     このクソガキ。
     喉元まで出かかった罵声をやっとの事で押し込めながら、民尾はただ苦く笑う。先刻まで感じていた引っかかりは苛立ちに変わり、もう既に消えて無くなっていた。
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