Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 75

    斑猫ゆき

    ☆quiet follow

    精神科の患者タンジロと医者タミオチャンの炭魘のシーズン2です。退院したタンジロ視点の後日談。何でも許せる人向けかつ今までのを読んでないと意味が分からないので注意。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    Luciola cruciataの生涯 目の前を、ちいさな光が通り過ぎる。
     ゆるやかに明滅するそれは浮き上がって暗闇の一点へと止まり、黒に沈んでいた木立の輪郭をわずかに削り出す。そんなささやかな明かりがいくつも飛び回り、川面をちらちらと星の代わりに照らしていた。ねっとりとした夏の空気が肌に絡みついて汗を呼びつけるけれど、水の上を渡ってくる涼やかな風のおかげで、不快感はほとんどなかった。音のない夜が、俺たちを包み込んでいる。
    「わぁ……」
     飛び回る蛍の群れに、俺は感嘆の息を漏らす。突き出した背の高い草に足が触れて、掻き分けられた地面から蒼い匂いが立ちのぼる。水面を踏まないぎりぎりのところまで身を乗り出して、俺は両手を掲げた。
    「見えますか、民尾先生? 綺麗ですねぇ」
     俺は手の中に抱えたそれに、小声で話しかける。掌で包み込んでしまえる程の、小さな部屋を模したおもちゃ。その中には平面で構成された家具と、ふたりの人形が鎮座している。そのうちの、白衣を着た黒髪の人形を見下ろして、俺は漂うひかりを指さす。ほどなくして、ひとつの響きが、声となって直接頭の中に広がっていく。
    「うん、見えるよ」
     それはやさしい、声だった。
     空間を震わせる、ほんとうの音ではないけれど、俺にはそのゆったりとした淡い響きが、確かに受け止められていた。よかった、と笑い、俺は頷く。他ならぬ、掌に載せた箱庭に向けて。
     この河原に、ひとは居ない。俺と、それから、少し離れたところでバーベキューの準備をしている妹たちのほかには。
     けれど、俺は思い描く。民尾先生の姿を。
     その勿忘草のように淡い青色の瞳を。白衣の肩にかかった濡羽色の髪の先を。しなやかでありつつもしっかりと芯を持った大人の指を。心の中に響く声と、記憶にある残影とを結びつけて。民尾先生は俺の隣に、この現実を共に生きていると、信じて。

     民尾先生は、俺の夢の中にいた人だ。
     正確には、夢の中からこちら側へ連れてきた、大事なひと。
     
     ずうっと、俺は彼のことを探していた。
     生まれたときから……いや。もしかしたら生まれる前から、ずっと。
     それが何故なのかは、未だに判然としない。ただ、彼を救いたい。そんな、天啓めいた予感だけが、俺を突き動かしていたばかりで。それが果たされた今だって、根源にあったものを振り返ろうとしても、一向に及びはつかなかった。
     何度も、なんども、俺は彼を夢に見てきていた。
     あるときは敵同士、あるときは電車の中ですれ違う程度の仲。そのまたあるときは別の立場と、流転する眠りに、俺たちはいくつもの役割を辿って巡り会う。だけれど、いつだって俺と彼との間には透明な壁があって、お互いがどのような存在なのかは理解できるのに、どうしたって受け入れることができない。それが、どうしようもなく悲しかった。
     それでも、幾星霜繰り返した眠りの果てに、俺はやっと民尾先生と巡り会ったのだ。夢に落ちたばかりの錯乱から我に返ったあと、漸くそれを認識することが出来た。非礼を詫びた俺に微笑みかける、やわらかな視線。俺の主治医という肩書き。薄日の差し込む午後の硝子みたいなそれらに、俺はただ暖かさだけを感じていた。そうして、誓ったのだ。いちどは手を離してしまったけれど、今度こそは絶対に、彼を一人になんてしない、と。
     ……けれど、所詮夢は夢でしかない。
     俺の肉体はいま生きている現実に厳然としてあって、いつ引き戻されるかも分からない。それどころか、うっかりまた死んでしまったとしたら、この夢の世界からもすぐに目を覚ましてしまう。不安定な邂逅。それが、俺には耐え切れなかった。今度こそ、彼を救うはずだったのに。
     だから、俺は一計を案じた。
     夢の中では、どんな不道徳なことも許容されてしまう。往々にして理不尽で、脈絡のないそれは、浮世離れしているようでいて、その実分かち難く現実と結びついている。現実というものは一枚岩の倫理で、対する夢は眠りの数だけ違った視点を持つのだと。
     だから、夢を語れと。
     理不尽で脈絡のないインモラルな夢を語り尽くして、夢とはそういう枠組みに嵌まるものなのだという認識を民尾先生に植え付ける。その上で、今度はこの世界で不道徳を犯して、逆説的にここは夢だということにしてしまう。消去法で、俺の元いた世界が現実として残れば、民尾先生もそちらに吸い寄せられるだろう。そうして現実と夢を反転すれば、民尾先生を俺の現実へと連れてこられるかも知れない。
     ……そう、俺に教えてくれた人がいたのだ。
     だから、俺はそれを実行に移した。俺が今まで渡ってきた夢をいくつも、いくつも民尾先生に話して聞かせた。殺人、人肉嗜食、異種婚姻。ひとがヒトではない生き物になること。そんな、この世では目を背けられ排斥されるべきタブーを犯す夢をいくつも辿ってきたことを伝え、それを夢のことわりだと説く。民尾先生は、笑ってそれを聞いてくれていた。或いは深井だったのかも知れないけれど、いずれにしろ、俺の夢は民尾先生に食べられて、確実にその無意識の領域へと積もっていったのだ。
     無数の夢に夢を積み重ね、最後の仕上げに、俺と民尾先生は境界を踏み越えた。夢とうつつ、或いは、倫理と逸脱の境界を。俺と民尾先生の場合は、医者と患者との恋愛関係……或いはこどもと大人の肉体での情愛として成就した、のだと思う。それがタブーとされるのかは時代や場所に依るのかもしれないけれど、少なくともふたりの暗黙の了解として、それは厳然たる壁としてあった。
     そうして俺の……俺たちの目論見は、大枠としては上手くいったのかもしれない。
     民尾先生を連れて、俺は現実へと立ち返ることができた。目を覚ました病室は、夢に見ていたのとは違う薄いピンクを基調にしたもので、病棟に四階は存在せず三階建て。そんな差異を目の当たりにしながらも、隣には確かに民尾先生がいた。けれど。
    けれど、民尾先生は、俺が生きる現実においての肉体を持たなかった。
     かろうじて持ち出せたのは、彼から贈られたおもちゃの箱庭だけ。それを通してのみ、民尾先生は俺と時間と空間を共有することが出来る。現実において俺と民尾さんを繋ぐ唯一のよすがとなった小さな庭を、俺は退院してから片時も離さず側に置いていた。
    「みんなには悪いですけど……でも、民尾先生とこうやってお話ししながら一緒に見られるのは嬉しいです」
     ここは、鱗滝さんの知り合いが所有する保養施設だった。俺の快気祝いにと、みんながバーベキューパーティーを企画してくれたのだ。この河原から少し歩いたところに広場があって、鱗滝さんたちや禰豆子がいまこの瞬間も俺を迎え入れようと準備をしてくれているはずだった。俺も手伝うと言ったけれど、主賓に用意をさせてはパーティーの意味がないと、半ば追い出されるようにして河原へとやってきている。
     扁平な葉をした水草に、蛍がかわるがわる止まっては飛び立つ。岩を撫でる水の流れは穏やかで、絶え間なく爽やかな匂いを振りまいていく。暗がりでもなお鮮やかな五感の昂ぶりを余すことなく伝えようと、俺は顔のすぐ隣まで人形の家を持ち上げる。
     民尾先生の箱庭については既に皆の知るところになってはいるが、真剣に話し込んでいる様を見せたらまた心配させてしまうかも知れない。だから、丁度良かったのだろう。そんな身勝手な思惑が浮かんでしまったことに、わずかばかりの罪悪感を覚えて、俺は部屋の壁を撫でた。
    「ふふ、感謝しなきゃね。君の家族に」
     軽やかな笑い声に、一抹の焦燥が胸にわだかまる。肉体のない民尾先生の精神の働きを解釈するのは、もう俺しかいない。彼が生きていた夢という名の現実を捨てさせて、連れ出してしまったから。
     顔を上げて、空間に目を向ける。ゆったりと飛び回る光の群れは、決して焦点を結ばせない。まるでその群れがひとつの景色としてあるように。
    「ルキオラ・クルキアタ」
    「え?」
     唐突に民尾さんが零した文字列を、慌てて受け止める。子音の移り替わりが激しい、どこか角張った響きのそれを反芻している内に、次の言葉が投げかけられた。
    「ゲンジボタルの学名なんだって。知ってる?」
     慌て気味に受け止めたことばを検分する内にふと、記憶が意識を掠める。俺は食い気味にそれを拾って、投げ返す。
    「ああ……あ、はい。中等部の頃、理科の伊黒先生から聞きました」
    「ふう、ん……」
     響いたのは複雑な音色だった。引き裂いた色紙をめちゃくちゃに配置して、秩序のない色をとりどり揃えたような、声。
     それを感心によるものなのだと、俺は無邪気にも受け取ってしまった。だから、続いて引っ張り出されてきた知識を、何気なく口にする。
    「民尾先生、知ってますか? クルキアタっていうのは、十字軍のことなんですって」
     俺の知っている事を、民尾さんにも知って欲しい。そんな稚気に溢れた欲で、俺は言葉を続けた。
    「ゲンジボタルって日本にしかいないから、源氏って名前を他の国の人にも伝わるようにってしたときに、連想されたのがそれだったらしいんです。どちらも、大切なものを取り返すために、命を賭けた人達の名前。だけど、変わった話ですよね」
     昆虫のいち種族を表すものでしかないことばなのに、俺はその響きからどことない暖かさを感じ取っていた。大切なものを守りたい、側に置きたい。そんな想いはいつ、どこに於いても不変のものなのだと。そう、言外に保証してくれている気がして。
     だけど、ひといきに話し終わったとき、ふと民尾先生が口ごもる気配があった。
    「それ、は……」
     口ごもる。
     俺の頭の中の民尾先生には口がないのにこの表現は変かも知れないけれど、それ以上に的確な表現を、俺は知らない。あのふっくらとした唇を噛む仕草すら、夜のスクリーンに浮かんできそうな程の、真に迫った感情。
    「知らない……」
     吐き出された言葉は、千々に乱れて、震えていた。
     あまりの落差に、俺はしばし困惑する。
    「え……?」
     滑る吐息が、夜に消えていく。蛍たちの輝きに埋もれて、見えなくなっていってしまう。視線で追いかけようとしても、それはもう透明になって、痕跡すら掴むことは出来なかった。箱庭に触れた手が、暑さとは別のもので汗ばんでいく。
    「……やっぱり、そっか証明なんてできないんだ」
    「民尾……先生?」
     民尾先生の中でだけ完結した言葉。
     完全な球体のように、手を掛けるべき隙間のないその言葉を扱いかねて、俺がただ彼の名前を呼ぶ。ずっと追い求めていたはずの、その名前を。
     答えはすぐにはなかった。蛍のあかりが瞬く間に、何度夢が見られただろうか。そんな益体のない想像だけが、夜を濁していく。
     目の前を光が何度か行きすぎたころに、漸く民尾先生が言葉を差し出してくれた。今度は、まごうことなく俺に向けて。
    「ちょっとね、試したかったのさ。俺は、ほんとうに君の妄想なんかじゃなくって、魘夢民尾っていう別個の人間なんだって、証明したかった」
     低い忍び笑いが、頭の中に響く。
    「君の知らないこと、それも俺たちの認識なんかじゃ動かせない事実を俺が知っていれば、肉体のない俺だって、君には依らずに存在しているって、証明できる気がしたから」
     今度は、俺が言葉を失う番だった。
     肉体を失った民尾先生を、俺は生涯をかけて慈しんでいこうと覚悟していた。だけれど、それは単なる俺自身の決意にしか過ぎない。民尾先生にそれを何度伝えたとしても、民尾先生の痛みや後悔は、誰にも分からないのだろう。たとえ今この瞬間俺の中に民尾先生が存在するのだとしても、彼の思考や感情を完璧に演算し切ることなんて、できやしないのだから。
     あの飄々とした、本音を決して見せない民尾先生の薄い微笑みが、瞼の裏に蘇る。それから、ベッドの上で見せた艶やかな表情。意地が悪くて、捨て鉢で、だからこそ手を伸ばしたくなる。天頂に輝く三日月のような、顔。
     あの夢で出会って、そして、失ってしまったあらゆる彼の表情が、速回しの映画のように脳裏に浮かんでは消えていく。夜は広大にすぎる劇場のように、俺たちの周りを厳然と囲っているようにも思えた。
     やっぱり、俺のしたことは自己満足にしか過ぎなかったのだろう。民尾先生が、今まで表立ってそう突きつけてくることがなかっただけだ。俺だって、きっと彼を今まで傷つけてきたひとたちと変わらなかった。現実を尊び、夢をただの脳のひとつの機能として捨て置いていくだけの。噛み締めた唇が、ぎち、と破れそうな音を立てる。
     なんとか犬歯を唇から離して、クルキアタ、という異国の響きを、口の中で唱えてみる。俺の内側だけで完結した言葉は、依るに溶けることすらなく消えていく。
     口じゅうに苦いものが染みる。
     十字軍の遠征は失敗したし、源氏の治世だって永遠じゃなかった。夢をうつつに変えたとしても、そこから押し寄せる現実を受け止めきれるかは、また別の話なのだ。
    「……じゃあ、もっと聞かせてくれませんか。民尾先生の知っていること。知識を。そうすれば、分かるかも」
    「嫌だよ。気が変わった」
     すげない返事。それは触れれば壊れてしまう薄氷のような響きなのに、壊して向こう側にいくことを躊躇わせてしまう程、つめたかった。
    「君は、ずっと悩んで、苦しんで。何度夢の中で自分を殺しても辿り着きたかった魘夢民尾に、本当に巡り会えたのか、って。そう、拠り所も作れずに、ずっと心細くあってよ。俺は、ずっと側でそれを見ていてやるから」
     ふと、手元が明るくなる。
     見れば、箱庭の壁に一匹の蛍が止まっていた。緑と黄色のあわいにあるゆるやかな光が、人形の俺たちを照らしている。紙粘土で作られた不器用な凹凸が、色づき露わになって。
     なんとなく、あの夢を思い出す。みどりの病室。穏やかな日々。民尾先生が隣にいて、笑ってくれていた。俺とは全く違う、ひとりの人間として在ったはずの、民尾先生。ああ、どうしてだろう。夢が覚めればやって来るのは現実だと、分かっていたのに。それでも、押し寄せる後悔は止まらない。
     ずっとあの中にいても、民尾先生は……俺は、幸せだったはずなのだ、と。

    「それが、ずっと眠っていても構わなかった俺を、夢の中から連れ出した責任ってものさ」

     蛍のあかりが瞬く。
     たまらず、俺は顔を上げた。
     けれど、駄目だ。見える限りの葉陰や水草の隙間で、蛍たちは嗤うようにそのひかりを瞬かせている。目を閉じたって、残像がちかちかと瞼の裏で踊って、決して逃がしてはくれない。
     なんとなく、その全てが民尾先生の魂のように思えた。けれど、どれだけ手を伸ばしても、ただ空を切るだけ。足下がお留守になっている内に、真っ黒い川の流れに身体を取られて沈んでしまいそうな、危うい輝き。誰よりもずっと近くに居るはずの民尾先生が、今はひどく遠く感じた。
     だけど。
    「わかりました」
     だけど、いまの彼を繋ぎ止めて、言葉を交わすことが出来るのは、俺だけだから。
    「俺は、俺だけは、貴方を絶対に離したりしません。貴方の現実を、俺が引き受けます。だから、一緒に生きましょう。今度は、今度こそは」
     縋るように、俺は手の中の箱庭に、民尾先生に話しかける。
     音のない夜に、ただ俺の声だけが吸い取られていく。だけど、関係ない。民尾先生は、俺の頭の中にいる。なら、俺が真摯に向き合えば、必ずそれは届いてくれる筈だと、信じて。
     そうしているうちに民尾先生が笑った、気がした。
     ほんとうのところは分からない。けれど、少なくとも俺が民尾先生に笑って欲しいと思ったのは確かだった。
     応える声はない。けれど、そこに民尾先生はいる。俺が、それを証明する。
     そう、誓って。
    「お兄ちゃん、そろそろ準備できたよ!」
     不意に、背中に声がかかった。
     振り返れば、禰豆子が草むらを掻き分けて、こちらへ歩いてくるところだった。光量を絞った懐中電灯を地面に向けて、足下だけを照らしていたからすぐには気づかなかったのだろう。或いは、民尾さんとのやり取りに、入り込んでいたせいか。
    「蛍、綺麗だねぇ」
    「ああ…」
     薄く笑って空を見上げる禰豆子に、俺は曖昧な息を返す。懐中電灯の道筋から逃げ出した光が夜をほんのうすく裂いて、妹のすがたを黒く波打たせていた。蛍たちを驚かせないように明かりは下向きに、とここに来たときに釘を刺されていたのを、今さらながら思い出す。
    「あれ、またその箱庭、連れてきたんだ」
     俺の手の中にあるそれを見やって、禰豆子が首を傾けた。既に蛍は飛び立ってしまっていて、再び部屋の中はくらく沈んでいる。俺の姿をした人形も、民尾先生も、すべては闇に溶けて。
    「うん。大事な人に貰った、大切なものだから」
     微笑んで、俺は胸の前に箱庭を掲げた。
    「だから、一緒に見たいって思うんだ。俺の目にする綺麗な景色や、素敵なことを、たくさん」
     民尾先生が聞いているかはわからないけれども、少なくとも自分を奮い立たせるためにと、俺は心のままに言葉を吐き出す。
     禰豆子はしばらくきょとんとした顔で俺と箱庭とを見比べていたが、やがてふっと和らいだ笑顔を浮かべる。
    「……よかった、お兄ちゃん」
    「え?」
    「ううん、なんでもないの。ただ、ね」
     こつんと、指先で額をつつかれる。
     何でもお見通しだとでも言われているかのような、その優しくも鋭い手つきに、俺は一瞬たじろいでしまう。
    「お兄ちゃん、絶対にこれからも自分を曲げずに、真っ直ぐでいてね。もしも、その進んだ道が間違ってるって思ったら、私や、みんなが止めるから」
     禰豆子の声はその響きこそ静かだったけれど、溶けるような暖かさがそこにはあった。柔らかな、お日様みたいな匂い。家族の匂い。締め付けられた胸から、涙が立ちのぼってくるのを必死で堪える。きっと、禰豆子だって泣きたいのをたくさん堪えてきたのに、俺だけ情けない顔なんて見せられないから。
    「だから、お兄ちゃんは自分の信じる道を……まっすぐに、進んで」
     俺は息を呑む。箱庭を支える両手に力が籠もり、ほんの少しだけ壁が内側に反った。慌てて力を緩めて頭を振ると、改めて禰豆子へと向き直る。
     俺の腕を捕らえかけていた後悔が、瞬く間に崩れて落ちていく。確かに、俺のしてきたことは、どうしようもなく傲慢なものだったかもしれない。だけど、そんな道のりを、禰豆子は真っ直ぐだと言ってくれた。だとしたら、これから行き先を正せば良い。俺と民尾さんが共にあることの出来るうつつを、手にできるように。
    「禰豆子……」
     思わず潤んだ瞳を擦って、俺は大きく頷いた。
    「……ああ、約束する」
     その言葉に、また禰豆子は朗らかに笑って、首を縦に振ってくれた。ゆるくはためいた黒髪が懐中電灯の照り返しを受けて、眩しい程にきらめいている。一瞬だけそれに目を灼かれて、俺はきゅっと目を閉じる。
     そうして、俺たちは川面に背を向けた。皆の待つ場所へと、戻っていくために。
     群れから外れた蛍の一匹が、俺たちの目の前へと踊り出た。蛍はふらふらとゆるやかなカーブを描きながら、天頂めがけて高く舞い上がっていく。それを目で追って、漸く俺は気づく。山の端近くにかかった下弦の月が、薄い光をそれでも確かに渡らせていたことを。
     意地悪な横顔を見せて笑う半分の月を、つかみ取るように俺はそっと手を伸ばした。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    👏👏👏😭🌜💯💯💯💯💯👏👏👏👏👏👏💯💯😭💗💗💗
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    斑猫ゆき

    MAIKING精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。『ジョハリの箱庭』本編の裏で起こっていたことをタンジロとむざさま+上弦が解説してくれる話。長いので複数回に分けての投稿です
    Lycoris radiataの生活環・Ⅰ「こんな山奥に、よく来たなぁ。疲れたろう?」
     先導する男が笑う。
     童磨と名乗った医師の、白橡の髪を視線でなぞりながら、炭治郎は白い廊下を進んでいた。リノリウムの床に、歩幅のまるで違うふたつの足音が輪唱する。
     今いるこの四階に、自分の病室があるのだという。
     先程上がってきたエレベーターの中で説明された筈の情報ではあるが、どうにも実感が湧かなかった。それどころか、今日からこの診療所に転院してきた自分を、童磨が施設の入り口で出迎えてくれたときの情報も、もう既に酷く遠い。記憶は確かなのに、まるで、ほんの少しだけ過去の自分と現在の自分が、透明な壁で隔てられてしまっているかのように。
     視界は明るく、そして白い。右手にある窓の外には先程車を走らせてきた樹海が犇めいている筈なのだが、壁側に寄っているせいか、炭治郎の位置からは雲の張り詰めた空だけが見える。白と黒と、その濃淡だけで構成される景色。ときたま視界を掠める色は、雲間から零れる日射しの白から分けられたものでしかなかった。
    8685