Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 73

    斑猫ゆき

    ☆quiet follow

    精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。『ジョハリの箱庭』本編の裏で起こっていたことをタンジロとむざさま+上弦が解説してくれる話。長いので複数回に分けての投稿です

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    Lycoris radiataの生活環・Ⅰ「こんな山奥に、よく来たなぁ。疲れたろう?」
     先導する男が笑う。
     童磨と名乗った医師の、白橡の髪を視線でなぞりながら、炭治郎は白い廊下を進んでいた。リノリウムの床に、歩幅のまるで違うふたつの足音が輪唱する。
     今いるこの四階に、自分の病室があるのだという。
     先程上がってきたエレベーターの中で説明された筈の情報ではあるが、どうにも実感が湧かなかった。それどころか、今日からこの診療所に転院してきた自分を、童磨が施設の入り口で出迎えてくれたときの情報も、もう既に酷く遠い。記憶は確かなのに、まるで、ほんの少しだけ過去の自分と現在の自分が、透明な壁で隔てられてしまっているかのように。
     視界は明るく、そして白い。右手にある窓の外には先程車を走らせてきた樹海が犇めいている筈なのだが、壁側に寄っているせいか、炭治郎の位置からは雲の張り詰めた空だけが見える。白と黒と、その濃淡だけで構成される景色。ときたま視界を掠める色は、雲間から零れる日射しの白から分けられたものでしかなかった。
     それ以外には、ただ一つ。
     童磨の胸で、柄にモルダウ石を嵌め込んだネクタイピンが、古寂びたみどりの光を蓄えている。それが、視界にある内で唯一来し方のはっきりとした色彩だった。ハイネックのセーターを着た彼が、白衣の襟へ宝物のようにそれを差している理由については、とんと及びもつかない。
     そこまで考えて、炭治郎はまだ童磨の言葉に返事をしていないことに気づく。慌てて首を振って、言葉をなんとか引きずり出す。
    「いえ、俺は車に乗っているだけでしたから……それより、運転手さんの方が疲れてると思います。あとで、また御礼を言わないと」
    「はは、君は優しい子だなあ」
     からと笑った声が、天井に反響して消える。
    「まあ君の他にはひとりしかこの病棟の患者はいない訳だが……」
     童磨の世間話をぼんやりと聞きながら、炭治郎は相槌を打つ。背後の窓硝子に、童磨と自分とが映り込んでいた。色彩の薄い、のっぺりとした像が、光の加減によって濃度を変えながら、ふたりについてくる。
     それを背景にして、炭治郎は改めて童磨の容貌を観察した。光の角度が変わるごとに色を変える虹色の瞳と、白橡の髪。そのひとつひとつに極小の自分が映り込んでいるような気がして、炭治郎は気の遠くなるような落ち着かなさを覚えた。
     この人は、鏡なんだ。
     どことなく、そう思う。
     鏡という比喩で物足りなければ、カットされた宝石でもいい。相対する者の心持ちや社会的な立ち位置によって、いくらでも姿を変える輝き。その源にあるものは、単一のものでしかないというのに、ひとは勝手に彼の輝きを恣意的に受け取っていく。そんな、印象を覚えた。あらゆる色彩を弾いて纏う男。その胸元に光る深緑の古硝子だけが、ただひとつの色を持って佇むばかりで。
     不意に、背後から足音が聞こえた。
     振り返れば、突き当たりの角を曲がってひとりの医師がこちらへと歩いてくるところだった。肩の上で切り揃えた髪。そこから覗く細面は、遠目では一見して男女の別すらおぼつかない。周囲のドアや窓枠からの比率で割り出そうにも、女性にしては背が高すぎるし、成人男性としてはやや小柄という絶妙な身長が予測を困難にさせる。じっと見つめている内に詳細になるディテールから、やっと男性だろうと当たりが付けられたくらいで。
     彼が近づいてくるにつれ、炭治郎の中にどことない違和感が芽生えていく。白衣を着ているから医師だと思ったが、なんだか所作にきびきびとしたものがなかった。まるで、夢の中を歩いているように。
     そして、それ以上に胸の内側へと沸き出してくるものがあった。名状しがたいそれに名前を付ける間もなく、彼はこちらへと近づいてくる。
    「あれ、魘夢くん」
     童磨が、ひらひらと手を振って彼を招いた。魘夢と呼ばれた彼は一瞬顔をしかめて、それから何事もなかったかのように涼しい表情に戻る。変化ののちに、ほんの少しだけ、足取りが確かになったようにも思えた。
     茫洋とした瞳が勿忘草色を湛えているのがわかるくらいに近づいてきたところで、炭治郎の喉を熱っぽい息が滑った。額に浮き上がった血管が、どうにも抑えきれない熱を放散するように震えている。
    「ああ、紹介するよ。彼が……」
     振り返った童磨の言葉が止まる。
    「……炭治郎くん?」
     怪訝そうな声は、既に炭治郎の耳には入っていなかった。
     ふつふつと、胸の中が際限なく温度を上げていく。
     その根源にあるものを、炭治郎は知らない。けれど、それが自分の魂に刻まれた誓いのようなものだということは、本能的に理解できていた。夢とうつつが、眠りから覚めたばかりのように分かち難く混じり合う。
     目の前にいる彼が、幾度自決してでも頸を切り落としたい怨敵なのか、それとも何度自分の頸を断ち切ることになろうと救うべき相手なのか。そのふたつが、少年の小さな身体には収まりきらない歴史となって、渦巻いている。無数の夢を渡ってきた彼の中で、今度は夢が逆流して。
    「お前……」
     喉を震わせた声は、怒りに満ちていた。混乱のままに選び取った記憶が、呪詛のように彼を蝕んでいく。
    「お前は!」
     叫んで、炭治郎は床を蹴った。
     勢いのままに、魘夢と呼ばれた彼の懐へと飛び込む。押し倒された彼の白衣が舞い上がり、床に影を落とす。それが萎んでいくよりも早く、炭治郎は自分の頭を思いっきり彼の額めがけて打ち付けた。鈍い音が響き、白い空間に放散していく。
     くらくらと明滅する意識の中で、彼が一瞬白目を剥いて、それから目をゆっくりと閉じていくのが見えた。どうやら頭突きのショックで気を失ったらしい。
     スローモーションで繰り広げられる光景の中で、炭治郎は彼と初めて目を合わせた。それは時間にすればほんの一秒にも満たない瞬間だったのかもしれない。
     けれど、その須臾の間に、炭治郎は確かにつかみ取っていた。水の色をした深い瞳。その揺らめく光の底にあるものを。
    「あ……民尾、くん……?」
     その色は、確かにあの夢に、見た。
     現実感の遊離と、頭に響く振動が重なる。眩んだ意識が、声を震わせる。涙さえ滲ませながら。怒りに巻かれて取捨したはずのいとおしさが、今度は炭治郎の手をしっかと握り返していた。
     けれどその頭上から、嗤うような声が降る。
     同時に、首筋に鋭い痛みが走った。
    「おっと、危ないぜ」
     よろけた炭治郎の身体を、童磨が支える。
     白く輝く鏡が、こちらを見ている。
     モルダウ石の鈍い光だけが、その中でみどりに潤んで。
     そして、手の先に光るものは。

     それが注射器であると気づく前に、もう既に炭治郎の意識は白に落ちていた。

         *

     ソファに座って両膝に手を乗せ、炭治郎は所在なげに俯いていた。革張りのそれは手触りもよく、座っているだけで高価なものだと理解させられてしまう。先程目を覚ましたのも、このソファの上だった。何故自分がこんな所に連れて来られたのだろう。そんな風に辺りを見回す目を、テーブルを挟んで座るふたりの視線が牽制していた。それを敏感に感じ取って、炭治郎は慌てて彼らに向き直った。
     炭治郎と相対するのは童磨と、まだ年若い男がひとり。童磨と違って男は白衣を着込んでおらず、これまた仕立ての良いスリーピースで揃えている。無表情と言うにはあまりにも酷薄に過ぎる整った顔立ちが、静かに炭治郎を見据えていた。その深紅の瞳を見るなり湧き上がった真っ黒い何かを必死で押さえ付けながら、炭治郎は唇を噛む。
    「こちらが所長の鬼舞辻無惨様。俺は……あ、さっき名乗ったか」
     童磨は後ろ頭を掻いて、笑う。おどけた表情ではあったが、抜き差しならない雰囲気だった。光を弾いて振りまく宝石のような輝きは、目を眩ませてその結晶の奥を決して見通させはしない。紹介される間、鬼舞辻と呼ばれた男は身じろぎ一つしなかった。
    「あ、竈門炭治郎……です」
     おずおずと名乗りを上げると、ほんの少しだけふたりの雰囲気が緩んだ。炭治郎は所在なげに部屋の四隅を見回す。
     目を覚ましたのは応接室のような場所らしく、四方を囲んだ本棚の間にちらほらと調度品が見える。開いた窓からは金木犀の香りが床を這うように流れ込んできていた。甘く馥郁とした香りは、けれども消毒薬で清められた所内の空気においては場違いな異物という印象がある。本棚に居並ぶ背表紙は大体が精神医学の本らしかったが、奥まった場所にある棚の一つだけ、いやに黄ばんだ年代物ばかりが鎮座している。『ネクロノミコン』、『妖蛆の秘密』、『春秋分点』、『無名祭祀書』、『アブラ=メリン』……
     目を通すだけで怖気が沸き立つような題字から慌てて視線を逸らして、炭治郎は不自然でない程度にかぶりを振った。転院するなり職員に暴力を振るったというかどで詰問されるのかと思ったが、どうやら違うらしい。それなら、何故自分がこのようなところで所長という肩書きの人物と向き合っているのか。
     そんな炭治郎の困惑を意に介した様子もなく、無惨はおもむろに口を開いた。低い響きが、空気を震わせて突きつけられる。
    「単刀直入に聞く。お前は、先程頭突きした患者を知っているな」
     その言葉に、炭治郎は思わず立ち上がって、テーブルに身を乗り出す。
    「患者……? ちょっと待ってください。あのひと、患者さんなんですか? 白衣を着ていたから、お医者さんのように見えましたけど……」
    「質問に質問で返すな」
    「あ、あ……すみません」
     少しむっとしたものの、彼の言葉ももっともだと思い直して、すぐに頭を下げる。
    足を組んで座った無惨は、それを何の感慨もなく見つめていた。傲岸な態度は、自信の現れなのだろう。自分は何事にも揺らぐことはない。そんな確信めいた自尊を湛えて、泰然と座っている。ひび割れた紅榴石のような瞳も、一刻たりとも渡らせる光を濁らせたりはしなかった。
    「……まあ、お前の疑問も尤もか。なら、先に解消しておくのが筋だろうな」
     ふる、とかぶりを振り、無惨は足を組み直す。
    「お前の言うとおり、あいつは患者だが、数ヶ月前までは此処の研究員だった男だ。魘夢民尾という」
    「民尾……やっぱり、民尾くんだったんだ……」
     炭治郎は深く頷く。まるで、自分の意志を補強するように。
     夢の中のともだち。あのとき、手を取ることなく離れてしまった彼。ずっと、追いかけていた人。
     なんども深く頷く炭治郎に、無惨は改めて問いかけた。
    「……まずは、話して貰おうか。お前が見た夢の話を」
     無惨に促されるまでもなく、炭治郎は口を開いた。自分一人では抱えきれない程の夢と現実が、堰を切って喉から溢れ出していく。
     生まれてこの方、ずっとひとりの人間を夢の中に追い求めてきたこと。
     なんども夢を見ては目覚めを繰り返してきたこと。
     ここも、自分の見ている夢の中であること。
     そんな胡乱な、けれども炭治郎の中では確かな光を湛えた、夢のような夢の話。脈絡がなくて、理不尽な、だからこそ一層輝きを増す、そんな物語。
     狂熱に浮かされたように一気に喋り通した後、炭治郎はがっくりと肩を落とした。からからと鳴る喉は長時間の発声で荒れている。中にあったものを全て吐き出してしまった革袋のようにくたびれた声。少年の耳元にある花札のような耳飾りが、それを労るようにから、と鳴った。
    「……でも、信じて貰えないでしょうね。こんな、突飛な話なんて」
     転院前の病院でも、家族を失ったショックでの譫妄と断言されたのだから。
     そんな諦念のままに俯く炭治郎を、無惨の声が遮った。
    「いいや、想定内だ。なによりその為に、お前を呼んだのだから」
    「え?」
     虚を突かれた顔で見つめる炭治郎をよそに、無惨はおもむろに言葉を紡ぎ始める。
    「夢とは一般的には脳の生理的作用により、デフラグされた記憶を再配置する際にできるイメージだと考えられている。だが、それだけでは説明のつかぬ部分も多い。アウグスト・ケクレは自分の尾を食む蛇を眠りのうちに幻視し、そこからベンゼン環の構造を得た。メアリー・シェリーは夢の中の怪物をその筆に写し取り、かの有名なフランケンシュタインの怪物を産んだ。ひとりの人間の内的世界に限定するには、夢は余りにも広大で、未知に溢れている」
     言葉の断片を拾い上げる端から、また別の欠片が地に落ちる。炭治郎はそれらの意味を
    「だからこそ、私は仮定する。夢とは脳の編み出す記憶のタペストリであると同時に、別の世界へと繋がる扉でもあるのだと」
    「別の、世界……」
     声を、繰り返す。
     別の世界。その言葉だけが、炭治郎の中へ鏡の破片のように深く刺さり込んでいた。
    「だが、その世界を探るには、個々人の資質が深く関わっている。認知総体と呼ばれる受容能の差異が、夢の中で受け取る刺激を一様にはしてくれない。だとすると……」
     もはや一介の学生には理解不能なまでに入り組んでいく言葉。それらは耳に入る端からばらけていってしまって、もう一度繋ぎ合わせようとしても上手くいかない。そのうえ、もう一度検分しているうちに新たな情報が生み出されてしまうのだから、もうどうしようもなかった。混迷していく意識。
     そのうちに、童磨が横から無惨の肩を叩いた。
    「無惨様、無惨様。炭治郎くん、限界みたいですよ」
     目を回した炭治郎を指さして、童磨が慌てたような声を上げた。その透明な声色は、嗤っているようにも、慮っているようにも聞こえる。眩む頭を振ってテーブルの向こうを見ると、童磨がこちらに向けて手を合わせてはにかんでいるところだった。
    「ごめんなぁ。うちの所長は研究にひたむきすぎて、専門用語をしっかり用いて定義しないと気が済まないタチなんだ」
    「は、はあ……」
     返事をしようにも、うわずった声しか出ない。三者三様に違った表情を浮かべた応接室に、暫し妙な空気が流れる。
     やがて、不機嫌そうに眉を寄せた無惨が、ゆるく首を振った。
    「ならテストしてやる。童磨、この餓鬼に分かるように話せ。お前がきっちりと理解できているなら、平易な表現を用いて説明できるはずだろう?」
    「ええ、わかりました」
     童磨は微笑んで、やや前屈みになってテーブル越しに炭治郎の顔を覗き込んだ。巨体を折り曲げてこちらへ視線を合わせるさまに、どことなく小児科医を連想する。それもやはり、この男の魔力なのだろうか。そのようにこちらが受け止めたから、そう見えているだけで。空気の流れに、甘ったるい金木犀の匂いが再び鼻先を行き交う。
    「炭治郎くん。君はさ、夢を見るのに必要なものって何だと思う?」
     突飛な質問。けれど、先程の無惨の説明よりはまだ受け取りやすかった。
     首を傾げながら、炭治郎はなんとか思いつきをそのまま口に出す。
    「え……っと、眠ること。でしょうか?」
    「それも三分の一くらい正解。だけど起きながら意識が一時的に何処かへ行ってしまう白昼夢っていうものもあるし、『意識が基底現実を離れること』という夢の広義においては、それは正確とはいえない」
    「というと……」
    「少し言い換えてみようか。夢の中でいろんなものを見たり、聞いたり、嗅いだりするためには何が必要?」
    「……『夢を見ている自分』がいること、ですか?」
    「そうさ、君はなかなか賢い子だなぁ。感覚を受容する意識があること。それが、夢を見るための条件、さ」
     童磨は片目を閉じて笑った。間を充分に持たせて、居住まいを正す。
    「でも、自分ってなんだろう。何を持ってして、自分と他人を分けられるんだろうね?」
    「それは……」
    「まあ、ここは言ってしまおうか。『感覚の癖』を寄り集めたもの。その集合体を、俺たちは『自我』だと考えている。例えば同じ匂いをかいだとしても、ある人は良い匂いだと思うし、ある人は刺激が強すぎると思うよね。そういう、感覚受容の差は個々人で全く別のものとなる。それをひっくるめて『自分』と定義する訳だ」
     ほう、と息を吐いて、童磨は膝の上で手を組んだ。
    「まずは、ここで一区切り。質問はある?」
     炭治郎は口を開きかけて、また閉じる。
     自分が置かれている状況とその話に何の関係があるのですか。そう聞きたかったけれど、やめた。きっと、その結論に辿り着くために、いまの迂遠な語り口があるのだろうから。
     童磨は、考えさせている。炭治郎自身が結論に辿り着くために必要な情報を与え、それを正確に理解させるために。
    「今のところ、は」
     炭治郎が首を横に振ると、童磨は満足げに頷いた。
    「そうかい。じゃあ、第二部だ。君は『胡蝶の夢』っていうのを聞いたことがあるかな?」
    「えっと……言葉だけは。どういう話なのかはあまり知りませんが」
    「ふぅむ。じゃあ説明した方が良いかな。ある人が夢の中で自分が蝶々になっていることに気がついた。その感覚はとてもリアルで、目が覚めたあとでも人間である自分が蝶になった夢を見ていたのか、それとも元々蝶だった自分がいま人間になった夢を見ているのかわからなかった、って話。それが、胡蝶の夢さ」
    「別の、自分……」
    「そう。君だって、夢の中で経験した刺激やショックを目覚めたときにも引きずっていたりするだろう?」
    「……はい」
     薄い刃が首筋にめり込んでいく感触を、思い出す。夢の中で覚醒するために、幾度となく斬った自分の頸。自分の境、内と外が破ける音。噴き出した血の赤が、目の前に蘇ってくるようで。
     背筋を駆け登ってくる悪寒に、炭治郎は首元を手で押さえた。凝った血液にも似た無惨の瞳が、それを静かに見つめている。
    「だけど普通の人は、起きている内にそれらを忘れてしまう。だって、蝶の肉体と人間の肉体の視点や刺激の傾向は全く別のものだから。体高、自重、身体パーツ。それらから受け取る感覚の違いはあまりにも激しくて、現実の肉体から与えられるそれにあっという間に押し流されてしまうんだ」
    「……ええ、と。それは、どういう……」
    「眠っているときでも、現実でほっぺたをつねられれば夢の中でも痛みを感じたりするよね。精神の作用は現実の肉体……もっと言えば、現実での感覚受容体と密接にリンクしている。さっき『自分』というのを『感覚の癖の総体』と言ったのはそのためさ。肉体があれば、現実と夢との感覚のずれが、現実に対する錨のような働きをして、夢の世界へ没入してしまうことを防いでくれる」
     頷きながら、炭治郎は童磨の言葉をゆっくりと反芻する。彼の話し方は程よい緩急と間が挟まれていて、こちらが話を噛み砕く時間を用意してくれていた。
     そのお陰で、なんとなく、話が見えてきたような気がする。

         *

     案内された病室に入ると、幾分ゆるやかな色彩が戻ってきていた。モノトーンの廊下に馴れた目は、白に一滴だけ絵の具を落としたような薄緑のカーテンにすら過敏に反応する。生地を透かして映り込んでくる光に手で庇を作りながら、炭治郎は改めて息をついた。
     ベッドの上には、入院着が畳んで置かれている。大した荷物などない炭治郎には、あとはそれに着替える以外に引っ越しの準備などなかった。ペールブルーの地に紅いボタンがついたそれを纏い終わった頃、待ちかねていたようにインターホンが鳴った。
     どうぞ、と声を投げると、すぐに扉が横にスライドした。続いて、リノリウムを叩く足音が、ベッドの正面にやってくる。目の前に現れた姿を見て、炭治郎は小さく声を上げた。
    「あ……」
    「改めて、はじめまして、かなぁ」
     柔らかく微笑んだ彼の勿忘草色の瞳が、新たな色彩を病室に添える。パステルカラーで統一された室内にはあまりに鮮烈すぎる、深い色。
    「俺が、君の主治医になる魘夢民尾。これからよろしくね」
    「竈門炭治郎です。よろしくお願いします」
     慌てて挨拶を返してから、はたと気づく。彼の額を覆った分厚いガーゼに。それを皮切りにして、気を失う前の記憶があとからあとからまろび出てくる。混濁する意識のままに、彼に頭突きを喰らわせたことも。遅れてやってきた目眩を振り払いながら、炭治郎は何度も深く頭を下げた。
    「あの……ごめんなさい、さっきは酷いことをしてしまって……」
     その言葉に民尾はきょとんとした顔になる。それからふと唇を綻ばせると、ガーゼの上から患部をさすった。その手つきにも、嫌みったらしさはなく。
    「いいんだよ。新しい環境に入ってきた患者さんにはよくあることさ。寧ろ、ありがとう。きちんと謝ってくれる人の方が少ないからねぇ」
    「そんな……」
     申し訳なさげに眉を寄せた炭治郎の背を、民尾は苦笑交じりに撫でてくれる。彼に促されて、ベッドに並んで腰掛ける。薄手のカーテンを透かして、鬱蒼と茂る樹冠が窓の下半分を覆っている。それを眺めているうちに、漸く深い安堵が胸を満たしていった。
     ずっと追い求めてきた彼が、隣にいる。
     炭治郎は、凹んだシーツの傾斜にそっと手を伸ばす。民尾の存在を確かめるように沈む布の襞が、何故かとても愛おしいものに思えて、なんども掌を往復させる。
     そんな炭治郎の瞳に、ふと青が満たされた。覗き込んだ民尾の瞳が、ゆるやかに細められる。

    「それじゃあ、少しお話でもしようか」
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ☺🙏🇱🇴🇻🇪💘💘💘💘💖🙏👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    斑猫ゆき

    MAIKING精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。『ジョハリの箱庭』本編の裏で起こっていたことをタンジロとむざさま+上弦が解説してくれる話。長いので複数回に分けての投稿です
    Lycoris radiataの生活環・Ⅰ「こんな山奥に、よく来たなぁ。疲れたろう?」
     先導する男が笑う。
     童磨と名乗った医師の、白橡の髪を視線でなぞりながら、炭治郎は白い廊下を進んでいた。リノリウムの床に、歩幅のまるで違うふたつの足音が輪唱する。
     今いるこの四階に、自分の病室があるのだという。
     先程上がってきたエレベーターの中で説明された筈の情報ではあるが、どうにも実感が湧かなかった。それどころか、今日からこの診療所に転院してきた自分を、童磨が施設の入り口で出迎えてくれたときの情報も、もう既に酷く遠い。記憶は確かなのに、まるで、ほんの少しだけ過去の自分と現在の自分が、透明な壁で隔てられてしまっているかのように。
     視界は明るく、そして白い。右手にある窓の外には先程車を走らせてきた樹海が犇めいている筈なのだが、壁側に寄っているせいか、炭治郎の位置からは雲の張り詰めた空だけが見える。白と黒と、その濃淡だけで構成される景色。ときたま視界を掠める色は、雲間から零れる日射しの白から分けられたものでしかなかった。
    8685