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    斑猫ゆき

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    斑猫ゆき

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    精神科の患者タンジロと医者タミオチャンの炭魘⑦です。とりあえずこれでおしまい。原作程度の残酷描写があります。相変わらず何でも許せる人向け。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    ジョハリの箱庭・Ⅶ『箱庭』

     肩に触れた手から、つめたいものが伝わる。
     力など殆ど込められていないはずなのに、振り払えない。何某かの行動を踏み出せば、時間が移ろってしまう。予想もつかない破滅的な何かが、やってきてしまう。毒蛇に噛まれた瞬間を濃縮して永遠に引き延ばしているような、諦観にも似たつめたさ。
    「お前、お前は……」
     あり得ない。
     全て、お前の妄想だ。
     否定の弁ならいくらでも思いつくのに、上手く言葉に紡ぐことが出来ない。唇が、喉が、震えて。唾液が引いてしまった口の中が、からからと乾いて、声を摩滅させる。結びついてしまった記憶が、可能性を切り落としていく。眼球が軋む。瞬きすら満足に出来なくて。勿忘草色の光彩が、引き絞られる。ただ、目の前の扉がひどく遠く見えて。
    「たくさん夢を見て、ここまで来たんです……やっと、民尾先生に会えた」
     民尾のそれとは対照的に、少年の声はあくまでも柔らかかった。背中越しに語りかけられる。なのに、射竦められているような感覚すらある。想像上の視線が、民尾の内側でかたちを失って、無辺に不安を作り上げていく。
    「民尾くん、民尾さん、魘夢、カゲンノイチ。もう、数え切れない程いろいろな名前で呼んだ気がしますけれど、やっぱり民尾先生って呼んだ方が良いですよね。それが、今の俺たちの関係ですから」
    「何を、言って」
    「ごめんなさい、あのときは目を覚ましてしまって。きっと、民尾くんはこの夢で俺が死んだのを気に病んでると思って……ずっと、探してたんです。同じ夢を見ようと、ずっと、ずっと」
     戸惑う民尾を意に介した様子もなく、炭治郎は語り続ける。
     まるで、夢の中の論理だった。理不尽で、手前勝手で、脈絡のない文脈を継ぎ合わせた言葉。民尾に聞かせているはずなのに、自己の内側でただ完結している。そんな、つかみ所のない語り口。
    「でも、戻ってこれたと思ったら民尾くん……民尾先生はお医者様になっていたから、ああやっぱりまた駄目なのかなって最初は悲しかったんです。お医者様が患者と親しくなるなんて、憚られることだと思うので」
     はくと空を滑った唇。言葉が途切れる。
     けれど、すぐに感嘆めいた息がそれを繋いで。
    「だけど、ある時ここの所長さんが教えてくれたんです。民尾先生はほんとうのお医者様じゃなくって、自分がお医者様だと思い込んでいる患者さんなんだって。だから、民尾先生の精神の安定の為にも治療を受けるふりをして協力してくれないかって言われました。もちろん、俺はそれを受け入れました。だって、先生と一緒にいられるんですから」
     肩から炭治郎の手が離れる。
     なのに、相変わらず身体は動かなかった。縫い止められた身体が、震えたままその場を踏みしめる。乾いた音。先程巻き上げたカルテの一枚が、民尾の足の下で何かを囁いている。それに耳を傾けようとしても、彼の声が民尾を引き戻して。
    「この病棟は、民尾先生の治療の為だけに今は動いてるんです。全部が、先生のための箱庭です」
     まるで、予め定められていた台詞だとでも言うように、告げる。
     少年の声には、そんな自信に満ちた響きがあった。一切の例外を包み込んで、溶かしてしまう。そんな、傲慢とすら感じられるほどの正しさを含んだ声。
    「そんな、こと」
     途中で喉が詰まる。
     単なるいち患者の妄想に、そんな大がかりなお仕着せを用意する必要なんて、どこにもない。第一、そんな回りくどい治療を施す医者なんているはずが。反論材料なら、いくらでも見つかるのに、それらは組み上がる前に崩れていく。何かが足りない。この世界の理を貫き通すための、決定的な、何かが。
    「あるんですよ、だって」
     首元に寄せられた唇。吐息が勿体ぶって耳朶を嬲る。垂れ下がった手は耳を塞ぐことすら許してくれない。遮りたいのに、身体が動かない。せめてその次の言葉を先送りできれば。そんなその場しのぎの思考で取り繕おうとしても、開いた口は空を食むばかりで。
     それ以上は、いけない。

    「だってこれ、夢ですから」
     
     民尾の意識が、溢れ出す。
     表面張力で保っていた水の器に加えられた最後の一滴のように、ことばが彼を震わせる。塗り潰す。閾値を超えた知覚が、一瞬黒く飲み込まれて、すぐに復旧する。
     思考が追いついてしまう前に、民尾は駆け出していた。とにかく、この場を離れたかった。炭治郎の夢に、狂気に、飲み込まれてしまう前に。どうやって扉を開けたのか、どういう手順を経て彼を振り払ったのか。そんなこともわからない位に、沸騰した自意識。
     ぼやけた白熱灯が照らす廊下が、気づけば民尾を包み込んでいた。白と黒に塗り分けられた情景を、掻き分けて走り続ける。ひらめいた白衣が、停滞した空気を孕んで。
     角を曲がったところで、民尾の足が一瞬緩まった。
     病室の扉が開いている。あれ程厳重に管理されていた筈の、鍵のかかった空き部屋たち。それらが一斉に、腹の中を晒していた。斜交いに廊下の向かい側に開いた窓が、黒い鏡になって並び合う。
     戸惑いはあったものの、後ろから迫ってくるものを予感して、そのまま曲がり角の向こうへと身体を投げ出した。切れる息を振り切ってひといきに駆け抜けようと、民尾は床を蹴る。靴下のままの足が滑りそうになるけれど、転んでしまう前に次の一歩を踏み出して、無理矢理に距離を広げて。
     四一〇号室の前を過ぎようとした瞬間に、冷たい風が顔を打った。空調のそれとは全く異質な、身を削るほどの温度。竦んだ身が、反射的に足を止めた。混じる欠片は、肌に触れては溶け落ちていく。強風に舞い上がるそれは、雪の手触りに似ていた。けれど、何故こんなところに。民尾の意識を新たな疑問符が塗りつぶしていく。
     おそるおそる部屋を覗き込めば、白い景色が視界を遮った。それは病棟のコンクリート壁にも似ていたが、青い光を表面に渡らせた色は、紛れもない氷のそれだった。気圧差で押し出されてくる空気が、民尾に容赦なく叩き付けられる。眼球を庇って細く瞼を開くと、漸くその仔細が見えてくる。白い、白く煙る視界。
     部屋の中は、雪景色に連なっていた。吹雪を捕まえて白く彩られた木立が、地面に積もった雪の中に高々と突き立っている。黒ずんだ幹の目指す空は無色に濁り、その果てを見通すことも出来ないほどに遠かった。病室に収まるはずもない質量のそれを呆然と見上げる。白と黒の世界。
     その中を見通すうちに、民尾の目が色を捉えた。
     林の中ほど、半ば埋もれるようにして、緑色の何かが見えた。こわごわと一歩を踏み出せば、地面に降りたばかりの雪に足がめり込む。一歩、二歩と身体を進めていくうちに、足に冷気が絡みついてくる。薄手の靴下はすぐに浸食され、溶け出した雪に濡れて感覚を無くしていく。それでも民尾は歩みを止めない。
     雪の中に身体を投げ出す内、目の前の仔細が明らかになってきた。みどりと、黒、それから、目の覚めるような赫。
     それは、緑と黒の市松模様の羽織を着た少年だった。
     横倒しに地面に転がった彼の首元には、大きな傷跡が見て取れる。裂けてめくれ上がった皮膚の端からこぼれ落ちる血液が、周囲の雪に赤く染みては溶かしていく。溢れる血と雪との温度差で立ち登る湯気が、未だ傷が付けられて間もないことを示している。その隣では雪深く埋まった一本の刀が、黒光りする刀身に朱を纏い付かせていた。片側だけ空に向けられた瞳に落ちる風花が、段々と融けることをやめて降り積もっていく。飛び散った飛沫が、耳から下がった花札に似た耳飾りにいくつもの日の丸を作り上げて。
     悲鳴が、上げられる前に喉奥に落ちた。飲み込んだ声の分重くなった身体を抱えて、民尾は後ずさる。踏みしめた感触がリノリウムのそれに変わったのを認識した途端に、踵を返して駆け出す。
     気づけば、民尾は絶叫していた。白い廊下に、いちどは押さえ込んだはずの声が増幅されて響く。それすらも何処か遠い。白い壁に、黒い窓に、吸い込まれて、消えていく。
     あれは何。
     あれは、夢。
     あの少年が見ていたという、夢。
     意味のない答え合わせ。いくら意識が疑問を投げつけても、谺のように返るばかりで。知識が何も役に立たない。何も、分からない。当てずっぽうの夢判断みたく、ただ無作為に繋がれた情景を機械的に処理していくだけで。
     四〇九号室の扉も、開いている。
     再び民尾は、ドアの向こう側を覗き込んでしまう。これ以上見たくない、そう、思っている筈なのに。首が、手が、身体が、勝手に。
     埋み火のように焦げ付いた夕景が、そこにはあった。逆光を浴びて黒く塗りつぶされたシルエットは、どうやら駅のホームのようだった。誰もいないベンチが、剥げた塗装の代わりに影を塗りたくられて立っている。
     扉の足下から地続きに伸びたレールの上に、不自然に積み上げられたものがある。それが人体のなれの果てだと知れたのは、目が大分慣れてからのことだった。
     赤い日射しと染み込む血に染められて、元が何色だったのかも分からない制服。肩甲骨が折れ、背中側に大きく捻り上げられた右腕が、まるで翼のように天を目指して。最早痣なのか轢断された跡なのかもわからないほどにぶちまけられた額。そこかしこに散らばる縮んだ欠片は、挽き潰された臓物らしかった。夕日と同じ色の瞳が、焼け焦げた影の街を虚ろに溶かし込んでいた。風が吹く度に揺れる耳飾り。からと、民尾を、轢死した少年を、悼むように、嘲うように。
     くぐもった叫び。
     既に喉が枯れている。
     だのに、声を上げることを止められない。唇が壊れてしまっている。既に息は切れているのに、身体は勝手に叫びを造り続けて。
     ひとつ部屋を離れても、次の扉に吸い寄せられる。既に定められた手順をなぞるように、民尾は動いてしまう。坂道を転がり出した球体のように。崖から飛び、地面にぶつかる瞬間を待つ自殺者のように。
     四〇八号室には、和室の鴨居で首を吊った炭治郎の死体が。
     四〇七号室には、学校の屋上から飛び降りた炭治郎の死体が。
     四〇六号室には、風呂場で手首を切った炭治郎の死体が。
     四〇五号室には、ひどく焼け焦げて耳飾りだけをあとに残した炭治郎の死体が。
     なおも声を裂きながら、ふと、民尾は思い出す。十人の少年達がひとりずついなくなっていく童謡。家に帰って、ブランコから落ちて、眠って。ひとりずつ消えていく。最後に残った一人は、どうなったか。首を吊った。結婚した。あとには誰もいなくなった。歌の代わりに、荒い息が、叫びが、喉を滑る。ああ、どちらが正しかったのだっけ。覚えているのに、出てこない。既に知識が何の役にも立たない速度で、恐怖は更新されていくばかりで。
    「待ってください、民尾先生!」
     背中へ飛んできた声に、民尾は更に速度を上げた。限界まで腕を振って、床を蹴る爪先に力を込めて。急がなければ、追いつかれてしまう。
     だけれど、何に?
     開け放たれた四〇五号室のドアを越したところで、四〇四号室の扉が見えた。
     一瞬身が竦んだけれど、すぐに思い直す。あの扉だけは開いていない。なら、大丈夫。なにも、こわくない。何が怖かったのかすら、もう思い出せないけれど。
     四〇四号室の前を行き過ぎようとしたところで、何かにぶつかった。民尾は床に倒れ込む。打ち付けた尻が、酷く痛む。それでも尚前に進もうと這い出した手が、空中で押し留められた。景色は見えているのに、先に行くことが出来ない。
     透明な壁に隔てられた先に、死に物狂いで、民尾は両手を突き出す。何度も、何度も、打ち付ける。伝わってくる反動が肉を、骨を軋ませても尚。
     不意に、空間に突き立てた爪が、何かを抉った。指がめり込んでいく。夢のさかいを裂いて、その内側へ。無意識の領域へと。
     穏やかな風が、民尾の頬を撫でた。
     違和感を覚える間もなく、裂け目は膨張し、民尾の前に天地をつくりだした。
     頭上には何処までもつづく空が、輪郭を曖昧にした雲を運んでいく。抜けるような青が、眩しい程に視界の上半分を満たしている。足下には踝にも満たないほどの水面が広がり、遙か向こう側で空と触れ合っていた。何処までも透き通り、あたたかい世界。
     けれど、浅い湖が、空を映すことはなかった。
     民尾はやっと気づく。吹き渡る風に、鉄錆びた匂いが乗っていることを。
     水面を、無数の死体が埋め尽くしていた。
     捻れ曲がった手足がそこかしこから突き出し、染み出した血液が水の上に脂ぎった虹を作る。市松模様の羽織が。若葉色の制服が。入院着が。液体を吸い込んでぐずついて滲んでいる。ひとつとして、生きているものはいない。青褪めた肌が、張りを失って青空の下でただ照らされるばかりで。まるで、生の盛りを終えて降り積もる虫の死骸のように。
     赤い瞳が、無数の眼球が、民尾を見つめている。何処までも透き通って、からっぽに。だからこそ、全てを見通して。死者が像を結ぶ筈はないのに。けれど、そう、認識してしまったら、もう。
     不意に、風が吹いた。
     一斉に、少年の耳飾りが揺れる。
     からと音を立てて。
     青天と血に染まった地表に鳴り響いて、埋め尽くす。
     はじめて、声が止まった。
     そうして初めて、民尾は悲鳴の意味を思考する。
     あれは正気の成せる最後の断末魔。
     これが止まってしまった今、自分は。
     ああ、ついにおかしくなってしまったのだと。
     乾いた笑いが、喉を滑る。不思議に穏やかなそれは、泥の底の安寧にも似て。
     ふと、視界が黒く染まった。感覚すら潰え始めたのかと無性におかしくなったけれど、遅れて目の周りにじわりと熱が滲む。後ろから目隠しをされているのだと、それでやっと気づく。
    「……見ないでください」
     少年の声が、耳元に寄せられる。あたたかで血腥い風が、嗅覚に、肌に、滲んで。
    「見苦しいでしょう? 押しつけがましいでしょう? こんなにまでして、あなたに会いに来たなんて。助けたかったなんて」
     掠れた響き。
     それが涙を含んでいることに、漸く民尾は思い至る。 嗚咽混じりの声は途切れて、ただ尾を引くばかり。しゃくり上げる喉が、俯いた影に隠れて。
    「どうしてこんなに懐かしいのか、どうしてこんなに民尾先生が恋しいのか、俺にも分からないんです。なのに、こんな……こんな」
     押し詰まった声は、足下に落ちていく。赤く濁った水面を覆い隠すには、小さすぎる響き。あまりにも頼りないそれは、けれど、確かに民尾の耳に届いた。
     目を塞いだ両手を緩く振り解いて、後ろを向く。
     そうして民尾は初めて少年を、見た。
    「俺を探しに来たの? こんなにまでなって」
     潤んだ赤い瞳が揺れる。血を流し込んだ湖のそれと、似ているようでいて異なる色。零れ落ちたしずくは透き通り、湖に僅かな波紋をつくる。けれど、赤い情景を薄めきるにはあまりにも頼りないひとかけら。泣きじゃくる姿は、ほんの小さな子供のようで。
     それでもはたはたと流す涙は、止まらない。落ちる雫が弾ける音がする。世界がこわれていく音のように。世界が作り上げられていく音のように。
     額の半分を覆う痣が、それを慰めるように少年に寄り添っている。ピアスが離れたあとの耳たぶにぽかりと開いた小さな穴が、どうしようもない欠落のように、それを嘲って。
    「夢の中で、何処かの世界で、ほんの少し出会っただけの俺を」
     俺を助けたいなんて言って、お前の方がよっぽどぼろぼろじゃないか。
     そう、揶揄おうとしたけれど。
     なぜだか、今ばかりはそんな誤魔化しをしたくはなかった。
     無言で、炭治郎が頷く。
     民尾もただ、笑うだけで。
     炭治郎は手の甲で乱雑に顔を拭って、立ち上がる。差し出された手を取って、民尾もそれに続く。
     目の前には四〇四号室のドアがあった。
     既に背後からはあの穏やかな風は吹いてこない。裂け目が塞がってしまったのか、それとも単に今は止まっているだけなのだろうか。それも、もうどうだって良いことだけれど。
     ドアノブに手をかざすと、錠の外れる音がした。少し迷って、民尾が扉を引く。金具の軋み、僅かずつ隙間が開いていく。中に閉じ込められていた匂いが、感覚を擽る。懐かしい匂い。模型塗料に、洗濯物に、スナック菓子に、様々なものが雑然と混ざり合った、子供部屋のそれ。
     もう、何も怖くはなかった。
     その先に何があるのかを、知っているから。
     開いた部屋の中に見えるのは、パステルカラーの青い壁紙。そして、いつまでもジオラマの中を回り続ける汽車。無意識に遠ざけていた、けれど帰りたかった、あの部屋へ。
     二人は同時に、部屋の中へと踏み出した。
     炭治郎が何某かを口にすれば、それに応えて民尾も唇を動かす。発話された言葉が空気を揺さぶることもない。既に声は二人の間に不要だった。その背中を覆い隠して、音もなく扉が隙間をなくしていく。
     あとには白い廊下だけが残る。誰もいなくなった場所を、蛍光灯のくぐもった光だけが照らし出していた。

     そうして、夢は閉じた。


         *


    『エピローグ』

     濃密な草木の匂いが、初夏を燃え上がらせている。降り注ぐ日射しに手で庇を作って、炭治郎は空を見上げた。雲一つない空は湿度でやや霞んで、薄い水の色を渡らせている。施設の窓からついさっき見えたものと同じ筈なのに、どこか清々しい情景。油蝉の鳴き声が、いくつも重なって空気を焦がす。無作為に混ぜ合わされた音に、思わず額に滲んだ汗を手の甲で拭う。冷房に慣れていた肌があっという間に熱に舐め上げられていく。若緑色をした半袖ジャケットの内側に溜まっていく暑さを追い出そうと、Tシャツの襟元に空気を送り込む。
     数段だけの階段を降りて、炭治郎は身体ごと振り返った。焼け付く日射しは視界を白く、白く灼いていく。見上げた先には、彼がつい今時分まで暮らしていた療養所の建物が聳えている。打ちっぱなしのコンクリートが無機質な印象を与えてはいるが、それも夏の光を反射して幾分滲んでいた。三階建てのそれの更に上を確かめるように、炭治郎は首を大きく逸らす。夢の名残を拾い上げるような不確かな視線。それはやがて途切れ、つい先程降りてきた階段の上、施設の正面玄関まで降りてくる。
     硝子扉の前には、ひとりの女性が楚々とした風情で立っていた。涼やかな平絽を纏った彼女は、炭治郎の視線を受け止めて、柔らかく微笑む。自身も微笑みを浮かべ、炭治郎は改めて深々と頭を下げる。
    「本当に、お世話になりました。珠世先生」
    「ええ。それではお気を付けて。炭治郎さん」
    「はい。兪史郎さんや他の方にも、よろしくお伝えください」
     本当に、主治医である彼女を始め、この施設の職員や同じ患者には迷惑を掛けたものだと思う。自分が退院までにここで過ごしてきた日々が脳裏を掠めて、炭治郎の喉元に苦いものが込み上げてきた。
     振り払うように喉を開けば、濃密な草いきれが身体の内側に入り込んだ。噎せ返りそうなそれを大きく吸い込んで、炭治郎は小さく頷く。今さら恥じたって、日々は取り返せない。だとしたら、助けてくれたひとたちの想いに背かないように生きていくだけだと。
    「本当は私も麓までお送りしたいのですが、生憎今日はこのあと新しい方の受け入れがありまして……」
     軽く俯いた珠世の頬に、結った耳隠しがほつれてひとすじ、黒が落ちる。それを指で掬って掻き上げて。仄白い彼女の肌には、汗が滲む予兆もない。背景にした建物からの強い照り返しも相俟って、夏の白い光から浮き出してきたような印象すら在った。
     山奥にあるこの療養所は、途中一般の車両が通るには憚られるような悪路も多い。その為、退院の手続きは分院に当たる麓のデイケア施設に患者を送り届けた上で行うのが常だった。草むらの脇に控えた小型バスが、急かすように唸りを上げている。
    「いえ、いいんです。すっかり良くなったのに、先生の手をこれ以上煩わせるわけにいきませんから」
     軽く片手を振り、炭治郎はまた頭を下げる。踵を返そうとしたところで、何かが脹脛の辺りを掠めた。視線を落とせば、白地に斑の色が鏤められた三毛猫が身体をすり寄せている。療養所で飼われている猫の茶々丸だった。気遣わしげな様子でしきりに自分へと寄り添おうとしてくる猫に、炭治郎は僅かに屈んで向き合った。
    「茶々丸も、元気でな」
     項辺りを軽く撫でてやると、猫はにゃあ、とひと声鳴いて目を細めた。柔らかい毛の感触と、夏の気候とはまた違う穏やかな熱に後ろ髪を引かれながらも、炭治郎は立ち上がる。
    「それじゃあ、さようなら!」
     張り上げた声は明るく、どこまでも澄み渡って夏の空に溶けた。緩やか大きくに手を振って、炭治郎はバスに乗り込んでいく。珠世はそれに薄い笑みで浮かべ、ゆると細い指を揺らして応えた。
     噎せ返る緑を掻き分けて、車が走り出す。紗をかけたような日射しが、砂利道の向こうへ小さくなっていく車体を覆い隠して。珠世は身じろぎもせず、夏を見ている。目の前にあるものを、何もかも感覚で受け入れて。ただ、車のある風景を。
     木立を曲がって完全に見えなくなった瞬間、背後で自動ドアが開く気配がした。振り向かず、珠世は目を細める。ほうと吐いた息が、熱気と混じり合う。
    「珠世様、ほんとうによろしいんですか」
     隣に並んだのは、新人医師の兪史郎だった。革靴がアスファルトをじりと踏みしめる音。苛立ちが、空気を震わせる。足下から立ちのぼる熱気にも似てそれは苛烈で。
    忌々しげに唇を噛んだ彼の息吹を間近に感じても、珠世はただ車の去って行った小径を見つめるばかりだった。
    「だって、あいつ」
     続けようとしたことばを、兪史郎は飲み込んだ。医師としての矜持と珠世への尊敬が、ぎりぎりのところで感情を押し留めたけれども、蟠る棘は胸の中でがらりと空回りを続けて。
    「……兪史郎」
    「は、はい!」
     差し出された声に、兪史郎は背筋を伸ばす。
    「病気、というのは何によって定義されるか、覚えていますか」
    「はい。まず、それが本人及び周囲にとって不都合を生じさせる状態、です」
     間髪入れず帰ってきた答え。それを聞いて珠世はゆっくりと頷いた。
    「ええ、それがまずひとつ。それから、それが改善されることを本人ないし周囲が望んでいること。みっつめに、ある特定の病状を呈しそれらが疾患として一定の状態を保っている場合。これらを満たして、初めてそれは私たち医師の領域に入ってくる」
     ほそとひとつ、息を吐く。
     喉を離れて、それは初めて熱を持ち始める。絶え間ない蝉時雨。全ての熱と光を吸収するような。

    「……私たちに出来ることは終わったのですよ。炭治郎さんが、幸せであるならば」

     珠世はただ夏を見通して動かない。その先にあるもの、彼女の手を離れてしまった全てにさいわいがあるようにとでも願うような、方漠とした視線。
     それにおずおずと兪史郎も寄り添う。うすぎぬのような空気が、そんなふたりを慰めにも似て包み込んでいた。

         *

     車体の中程に開いた昇降口から内に入れば、よく効いた冷房が全身に打ち付けてきた。熱っぽい息を吐いて、炭治郎は首筋の汗を拭った。肩から掛けたボディバッグを背負い直して、手すりに掴まりながら段をのぼっていく。
     十人乗りの小さなバスは、運転席を含めて四列編成になっている。そのうち後ろ側の席を目指そうとして、炭治郎は足を止める。
    「後藤さん、よろしくお願いします」
     ひと声かけて、頭を下げる。その仕草を受けて、看護師の後藤が運転席から首だけで振り返り、ひらひらと手を振った。
    「おう、お疲れさん。寂しくなるな」
    「はい、後藤さんにも本当にお世話になりました。落ち着いたら、あらためて御礼に伺います」
    「あーいいよいいよそういうの。便りがないのが元気な証拠ってな」
    「いえ、そういう訳には」
     後藤は初めのうちくだけた笑いを浮かべていたが、ふと、糸を張ったようにそれを途切れさせる。生真面目な顔で眉を寄せた炭治郎をまじまじと、見つめて。
    「なあ、炭治郎。お前」
    「はい?」
     後藤は視線をしきりに窓の外に向けていたが、やがて首を振った。そうして炭治郎に向き直った顔には、再び笑顔が戻っている。けれど、そこには先程よりもほんの少しだけ苦い色が含まれていて。
    「……いや、やっぱいいわ。元気でやれよ」
     はい、と朗らかに頷いて、炭治郎は席に向かった。一番後ろの窓側にあたる座席に腰を下ろし、シートベルトを付けたところで、車は走り出した。慣性に一瞬傾く身体。硝子窓に額の痣を軽く押しつけるように首を傾けると、ほんの少し夏の熱が染みた。
     窓の外をみどりが過ぎていく。高く伸びたエノコログサの群れが、林の木々を飲み込まんばかりに天を目指して。それを透明な壁に隔てられながら、炭治郎は眺めていた。白く乾いた砂利道が車体を巻き込んで、身体を覚束なく揺さぶる。
     所在なく、炭治郎は耳たぶを触る。窪んだ部分に指を滑らせると、既に穴が塞がったそこはほんの少し固くなっていた。父の形見である耳飾りは入院時に禰豆子たちに預かってもらっていたから、またそのうち開けないとならない。麓で待っているだろう妹たちの顔を思い出しながら、窓硝子に肩を預け続ける。車の揺れが直に伝わってくるせいで、脳が揺さぶられるような感覚まで覚えてくるようだった。
     幾分揺れが和らいで来た頃、炭治郎は傍らに置いたボディバッグに手を伸ばした。ジッパーを引き、中から正方形のプラスチックケースを取り出す。名目上は保護観察入院ということではあったが、殆ど措置入院に近い形でここに来た炭治郎に、大した荷物がある訳でもない。精々が使っていた洗面具や差し入れの菓子の余りくらいで。
     けれど、これだけは。
    「民尾先生。ごめんなさい。狭いところで苦しかったでしょう?」
     小声で、炭治郎は手の中のものに話しかける。そうして、開け口のツメに指をかけて、そっと蓋を開く。封じ込まれていた病院の潔癖な空気と、紙粘土の乾いた刺激臭が鼻を掠めた。中に入っていたひとまわり小さい立方体を取り出して、しみじみと炭治郎はそれを見下ろす。
    「着いたら、紹介しますね。俺の大切なひとたちのこと。今日は妹の禰豆子と、俺たち兄妹を引き取ってくれた親戚の鱗滝さん、それに、従兄姉の錆兎と真菰が迎えに来てくれるって言ってましたから。ただ、こんなところ見られたら驚いちゃうと思いますから、こっそりですけど」
     それは、人形の家だった。
     壁は四方のうちふたつだけが聳え、室内が外側から見通せるような作りになっている。ペールブルーの壁紙に、床には鉄道模型を模したシール。そして、床の穴に取り付けられた、二体の人形たち。
     紙粘土で作られた人形のうちひとつは、黒い髪に、色を塗らない生成りのままの胴体。青い瞳が、拙いながらも細かな筆致で彩られている。そして、もう一体は茶色の髪に、緑と黒の市松模様の胴体を持っている。全体的に不格好ながら精一杯丁寧に作られてはいたが、後者には耳の辺りだけほんの僅かに荒い毛羽立ちが見て取れた。まるで、何かをもぎ取った跡のような。
    「ねえ、先生。夢って不思議ですね。昔の出来事をもう一度体験したり、かと思ったら全く知らない場所を旅したり。過去の記憶を繋ぎ合わせているのか、それとも眠りを通して別の世界を見ているのか。それとも……どっちもなんでしょうか」
     いくら話しかけようと、人形が応えるはずもない。けれど、炭治郎は構わず言葉を繰り続ける。それは己の心臓の奥、ただ内側へと染み入らせるかの如く。

    「でも、いくら素敵な夢だとしても、夢ばっかり見て立ち止まっては何も変わりませんから。現実があるからこそ、夢があるんです。ふたつを分け隔てるからこそ、夢を現実に変えられる。人間は心が原動力だから。夢の向こう側まで手を伸ばそうと、踏み出せるから」

     落とされた視線は、夏の日射しにも似て、箱庭にあまねく降りそそぐ。

    「一緒に現を生きましょう。一緒に夢を見ましょう。いつでも俺は、貴方を想っていますから」

     少年の微笑みがそっと、箱庭を包み込んだ。

    「現実でも。たとえ、別の夢の中でも」
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