ウィーク・エンド・ロール(Ver.1.5)1 事始あるいは踊れど進まぬ会議のこと
「……で、だ」
宇髄天元は言葉を句切り、美術室の真っ白い壁を掌で強く叩いた。補修されたばかりのそれは力強い掌底を容易に受け止めて、厳粛に佇み続けている。とはいえ、彼の芸術活動の一環で再び爆破されるのも時間の問題だろう。それを思えば、響いた音にも、僅かばかり悲しげな気配が見え隠れしているようでもある。少し離れた頭上で、ピンクと緑のビビッドな色彩で塗られた猫の絵が、気遣わしげに周囲を見下ろしていた。
「俺らのド派手な新曲が完成したはいいが、発表する場が今のところ見つからない。この由々しき事態をどうするか、ってのが今日の……っつうか、今日も議題だ」
宇髄の正面で、パイプ椅子に座った三人の男子生徒達が口々に騒ぎ立てる。
「それなんですよね。俺も今回は一層気合いを込めて歌ったのに、どこにも出せないなんて」
竈門炭治郎が、顎に手を当てて唸った。額の半分を覆った痣が、寄せられた眉につられて軽く引き攣れている。それを受けて、真ん中の席に座っていた金髪の少年――我妻善逸がぼやく。
「やっぱり作ったからには聞いてもらいたいもんな。とはいえ、校内ではムリだけど……」
「あぁ? そんなの無視すりゃいいじゃねえかよ」
善逸の右隣に座っていた嘴平伊之助が、威勢良く身を乗り出した。それを遮って、善逸も負けじと声を張り上げる。
「馬鹿、またドヤされたいのかよ! 今度は停学食らうかもしれないぞ」
ヴォーカルの炭治郎、三味線の善逸、太鼓の伊之助、そして爆音ハーモニカの宇髄。彼ら四人が主宰するバンド〈ハイカラバンカラデモクラシー〉は、目下のところ活動休止の憂き目に遭っていた。
それというのは、つい先日このキメツ学園で行われた文化祭でのイベント『キメツ☆音祭』での一件に端を発している。彼らの演奏により体調不良者が百人単位で続出し、文化祭を壊乱の憂き目に叩き込んだということで、文化祭実行委員会会長・胡蝶しのぶ直々に今後の演奏活動の禁止を言い渡されたのだ。
会場となった体育館には苦悶の声と悲鳴が響き渡り、救護に当たった実行委員の神崎アオイたちをして『さながら野戦病院のようだった』とまで言わせしめるような惨状だったという。音痴の炭治郎と伊之助による絶妙な不快感を与える形に外した音程、善逸の作るこの世の幸せ全てを妬む呪詛にも似た歌詞、そして鼓膜が破裂せんばかりの音量で奏でられる宇髄のハーモニカ。それらが最悪の形で混じり合い、一種の殺人機械になるまでに練り上げられた楽曲。そんな彼らの演奏スタイルを委員会も危惧し、何度も彼らが棄権するよう仕向けてはいたが悉く失敗に終わり、このような未曾有の大災害を引き起こした形だった。
しかし、彼らは自分達の演奏が酷すぎたせいでそのような事態を引き起こしたとは露ほども気づいていなかった。寧ろ『観客が失神するほどに感動的な演奏が出来た』と喜んでいるのだから、始末に負えない。かくしてキメツ学園最凶のバンド〈ハイカラバンカラデモクラシー〉はメジャーデビュー、ひいては世界進出の野望をいまも虎視眈々と狙っているのだった。
そしてついこの前の日曜、防音設備のしっかりとしたカラオケボックスで新曲のセッションと録音を終え、その発表手段についての作戦会議を行っている最中なのだが――
「るっせぇ! じゃあてめえは良い考えあんのかよ」
「う……まあ、そうなんだよな……」
口ごもった善逸が、言葉を接ぐかわりに盛大なため息をつく。学生バンドという出自上、活動拠点とする学校での演奏を封じられてしまうのはどうしたって痛手だ。宇髄のツテを頼って学外での発表手段を探すということも提案されたが、自分達全員が主体なのに教師の宇髄にばかり頼り切るのは本懐ではない。そう三人が主張したため、いちど保留されている。
「うーん、しのぶ先輩から『今後校内での演奏は一切禁止ですよ』ってはっきり言われてしまっているからなぁ……」
「あぁん? なら簡単じゃねえか」
溜息をついた炭治郎を覗き込み、伊之助が鼻息荒く口火を切った。
「演奏するなって言うんだろ? じゃ、演奏しないで音だけ流しゃ良いじゃねえか」
その言葉に、他の二人が目を見開いた。宇髄も感心したように緩く頷いている。
「それは……たしかにあるかもしれねぇな。実行委員会から言われたのは『今後一切校内での演奏を禁止する』だからな。録音したものを流すなとは言われてねえ」
「だろぉ?」
「伊之助、こういうときは知恵が回るよなぁ……」
いかにも、といった風情で腰に手を当て、伊之助は笑う。糸口を見つけたことに盛り立てられ、三人はパイプ椅子を寄せ合って更に議論を密にしていく。宇髄もそんな三人に入り込むように、高い身長を屈めるようにして輪の中を覗き込んだ。
「生演奏はせずに音源を流して、なおかつ俺らの名前が売れる方法、ってことだな」
「そんな方法、うまくあるもん?」
「お昼の放送で流してもらうとか?」
「許可、下りないだろ……ただでさえ目を付けられてるんだから」
文化祭実行委員長である胡蝶しのぶは校内では顔が広く、彼女の息のかかっていない委員会はないと言っても過言ではない。四人は知る由もないが、〈ハイカラバンカラデモクラシー〉の演奏による災害を未然に防ごうと彼女が校内各所で手を回していたことも厳然たる事実だ。しのぶにバレないように、となれば空いている放送室をジャックしてゲリラ放送を行うしかないが、明らかな校則違反だ。これからの活動を考えれば、委員会からの宣告を掻い潜る形だとしても、正規の手段で堂々と進めなければならない。
「ううん……一見音楽の発表に見えない形で、かぁ」
あ、と炭治郎の唇が小さく開いた。
「……映画、とか?」
「映画?」
全員が、炭治郎の言葉を疑問符の形で繰り返す。
それを受けて、炭治郎は力強く頷いた。
「うん、映画のエンディングとかであるだろ。主演のアイドルグループが歌う曲が流れるやつ。ああいう風に、俺たちが主役の映画で、それの主題歌として新曲を使う、とか」
「あー、演奏がダメだって言われたので映画に転向しました! なら許してくれるかもなぁ……で、サプライズで……か。うーん」
金色の頭をこねくり回すようにかき乱して、善逸が唸る。
「でも映画……撮るの? 俺らが」
「そう、なるよなぁ」
撮影には、演奏とは違うそれ相応の苦労があるだろう。何より三人は映像に関してはズブの素人だ。美術教師の宇髄はその方面にも明るいと見えるが、アドバイスを受けながらでも進められるかどうか。新たな迷路へと入り込んだ議論に、三人は再び額を突き合わせる。
「映画って、あの絵が動くやつのでけえのだろ? 作れんのかあれって?」
「まあ、作れないことはないと思うけど……去年の文化祭で、確か今の三年生の先輩達が自主製作映画をクラスで作ってたし」
「お前らがやるって言うなら、俺は応援するぜ」
頭上から降った宇髄の声に、三人は一斉にそれを振り仰いだ。
「機材の用立てならアテがあるしな。ただし、あくまで主体はお前らだ。シナリオやキャスティング、演技……そういうものはしっかり組み立てないとな」
微笑みに細められた瞳。片側だけ赤い文様に縁取られたそれを見上げて、三人は唇を綻ばせる。
「それなら、いけるんじゃないか? 俺も、ちょっと興味あるし」
「なんかよくわからねぇけど、面白そうじゃねえか! 俺はやるぜ。わかんねえものにも挑戦していくのが山の王だからな!」
「ええ~……輩先生に任せて本当に大丈夫なのかよ……」
次々に立ち上がる炭治郎と伊之助をよそに、善逸は疑い深く苦い声を渡らせる。その肩を抱いて、宇髄が笑う。
「多分モテるぜ。映画、というか演劇ってのはいつもは見せない顔を出してナンボだからな。普段とのギャップに女子もときめくってもんよ」
「やりまぁす!」
威勢良く叫んだ善逸に、宇髄は呵呵と笑って背中を大きく叩いた。あまりの勢いに咳き込んではいるが、にやけた口元は止まらない。
「それじゃ宇髄先生、お願いします!」
「おう、しっかりやれよ。俺も、機材やキャスト集めなんかは声かけてやるからさ」
漸く停滞から抜け出した議論が、動き出す。
宇髄はチョークを取り、黒板に大きく『映画』と書き込んだ。
「そしたら、まず決めなきゃいけないのはシナリオじゃない? どんな映画にすんの」
「シナリオだったら、善逸が書けるんじゃないか?」
「え、俺?」
全員の視線が一斉に善逸に向く。けれど当の彼はといえば、唐突な言葉にしきりに目を瞬かせているばかりだ。ずいと詰め寄る伊之助にも、ただ呆けた顔を向けるばかりで。
「紋逸、お前できんのか?」
「前に小説読ませてくれただろ、『善逸伝』ってやつ」
う、と善逸の喉を苦い声が滑る。
「あ、あれ……あれはさぁ……お前、めちゃくちゃダメ出ししてきたじゃん……」
「確かに、展開に無理があったり、キャラクター毎の贔屓がすごすぎたりしたけど……」
容赦のない炭治郎の舌鋒に、たちまち善逸は胸を押さえる。見るからに憔悴した様子の友を見て、炭治郎もほんの少しだけ胸が傷んだ。それを振り払うように、でも、と口を開く。
「でも、あれだけの量を書き上げられるのはすごいと思う! 俺はそういうのやったことないけど、資料集めとか推敲とかなら手伝えると思うし……」
俯いた善逸の肩を優しく叩いて、炭治郎は彼の手を握った。
「頼むよ、善逸にしかお願いできないんだ」
善逸の目を覗き込んで、炭治郎は首を傾けた。
あまりにも曇りのない、赤い瞳。それと視線を結んでいる内に、善逸はやがて盛大なため息をついた。
「……ったく、しょうがねえなぁ! やっぱ俺がいないとなぁ」
威勢良く立ち上がり、善逸は高笑いする。その背中を満足げな表情で頷きながら見守る炭治郎。「人誑しだよなぁ竈門は……」と呟いた宇髄の声は、さしもの善逸の耳にも届いていないようだった。
「あとはジャンルだが……あんまり特殊な撮影技術が要るのはやめたほうが無難だろうな。とすると、シナリオと演技だけで生かせるようなものが良いと思うが」
「そこはやっぱり恋愛ものが鉄板でしょ~! こう、苦難を乗り越えた果てに生まれるラブ! みたいなさぁ……ああ……」
「探偵ものとかは? シナリオがしっかりしていれば、撮影の技術がそこそこでもいいものが出来ると思うし」
「とにかくカッコいいやつなら何でも良いぜ!」
各々が勝手気ままに挙げる言葉をひとつひとつ摘まみ上げて、宇髄はその度に頷きを返す。速記で黒板にまとめたそれらを振り仰ぎ、再び三人へと向き直る。
「総合すれば、とにかくド派手でカッコ良くて恋愛要素のある探偵もの、か」
「え、それまとめるんですか?」
「要素は最初に挙げておけばおくほどいいんだよ。蛇足だと思えばあとから削りゃいい。最初っから小さく収まって地味なもんができるよりよっぽどいいだろ?」
「なるほど……確かにそうですね」
感心したように頷く炭治郎。それに不敵な笑みで応えた宇髄は、おもむろにパーカーの内側を探り出した。
「おーし、そうと決まりゃ前祝いだァ! ノってきたぜ!」
懐から取り出された筒状の物体。
それがダイナマイトの雷管だと気づいた瞬間に、三人の顔色がさっと変わった。
「あ、ちょっと宇髄先生! 爆破はまずいですって! 壁直してもらったばっかりなのに!」
「うおぉ危ねっ!」
「炭治郎、水、水っ!」
焦る三人の制止も空しく、コードに火が灯った。ほどなく、威勢良く放り投げられた爆薬が壁に向かっていく。意識が遅らせたスローモーションで描かれる放物線。やむなく三人はそれに背を向ける。爆風と閃光による被害を防ぐために目と耳を塞ぎ、口を大きく開けて姿勢を低く。そんな対策を反射的にとってしまえるくらい、もう三人は宇髄のこの癖には慣れっこになっている。
次の瞬間、爆音と煙、それから壁の破片が空間を満たして、美術室は吹き飛んだ。
*
炙られたコーヒー豆の匂い。深い苦みの中にもどこか芳醇な甘さの混じるそれを鼻先で弄びながら、炭治郎はおそるおそるテーブルに肘をついた。重厚な木目の刻まれたそれは素人目にも作りの良いもので、一瞬気安く肘を乗せることすら躊躇ってしまう。蓄音機から流れる哀愁を帯びた歌声が、耳触り良く通り過ぎていく。あれはファドというポルトガルの伝統的な歌謡曲だと、先程宇髄から教えて貰った。
何を取っても知らないことばかり。こんな高級な喫茶店に来るのは初めてだから、どうしても気後れが来てしまう。ホットコーヒーのカップを両手で包んでみたって、まだまだ落ち着きはこない。それは同じテーブル席に座る善逸も同じようで、しきりに店の出入り口のほうをちらちらと見ながら、唇を湿らせる程度にコーヒーを啜っている。
頼みの綱である宇髄は急にかかってきた電話に応答するためにいちど店外に出てしまっている。ここは彼の奢りだと言ってくれたものの、メニューにあった値段は学生には少々荷が重い金額で、一抹の不安と申し訳なさが素直に味を楽しませてくれない。そんな二人の焦燥をよそに、伊之助はただひとりクリームソーダに盛られたアイスをつつくことに夢中になっていた。
あの会議の中で宇髄がダイナマイトで壁を吹っ飛ばし見事な大穴を開けたために、美術室は秘密の話し合いには向かない環境になっていた。校内では件の休止命令により、音楽教師の響凱に頼んで完全防音の音楽室を借りることはおろか、空き教室を使うにも申請が許されない状況だ。そのために、詫びも込めて宇髄が行きつけであるというこの駅前の喫茶店へと連れてきてくれた次第だ。
シナリオ作業は善逸が書き上げたものを校閲し終わり、あとはキャスティングという段階にまで進んでいた。
あらすじとしては、大正時代の山村を舞台にしたミステリというのが大枠だ。主人公の探偵が炭治郎、ヒロインの婚約者が善逸、ヒロインの腹違いの弟が伊之助。それからヒロインの父である村の長が宇髄。それ以外のキャストは四人のひとり二役と、協力が見込める他の先生達に依頼するということで想定されている。そして唯一、決まっていないのが。
「ヒロイン役だよなぁ、あとは」
ノートにまとめられたキャスト一覧をシャーペンの先で叩いて、善逸が大袈裟なまでに神妙な声を上げる。不安を振り払うかのようなそのひと声に、炭治郎と伊之助も改めて気を引き締めた。
主人公と恋に落ちる令嬢――ひいてはヒロインに当たる大事な役どころなのだが、未だにそこだけがキャスト表の中で空白になっている。
予定としては来週末の連休を当てて、県境の山中にある廃村で泊まり込みの撮影を行うつもりだった。宇髄の親戚が昔そこに住んでいた縁で、撮影の交渉を行ってくれたのだという。室内の画は公民館の茶室を借りるなどで賄えても、村の全景を写したものはどうしても近場で取るのは難しい。となると、どうしても今のうちにキャストを選定し、同行して貰う必要がある。そんなタイムリミットへの焦りも相俟って、どうしても議論は混迷してくる。
「山奥の寒村を牛耳る豪農の娘……つまりはミステリアスで、静かな雰囲気の美女!」
だらしない口元を掌で隠して、善逸は笑う。そのマスの欠落に様々な思惑を当てはめているのだろう。呆れ気味な視線を善逸に注ぎつつ、炭治郎はしきりに首を傾げる。
「ううん……誰だろうなぁ。俺たちの知ってる人で、っていうと」
「静かな感じの女……じゃあしのぶとかどうだ?」
「お前なぁ……文化祭実行委員会から俺たち演奏禁止令食らってんだろ!? 委員長サマに頼める訳ないでしょ!? わかってんのかほんとにお前?」
即座に撥ね付ける善逸に、伊之助も負けじと反駁する。
「るっせーな! じゃあお前は当てがあんのかよ!」
突きつけられた言葉はあまりに明快で、かつ難解で。
途端に、善逸の眉が寄った。
「う……そりゃさぁ、俺だって主役になれたら、うう……」
途絶えた言葉を丸め込んで、禰豆子ちゃん、と口の中で小さく呟いてみる。
ほんの小さな音が漏れ聞こえていないか、ちらりと炭治郎の方を見やるが、気遣わしげにこちらを覗き込む瞳に訝しげな色はない。ほうと小さく息を吐き出してから、善逸は軽く唇を噛む。炭治郎はといえば、そんな善逸の悶々とした気持ちも知る由なく、顎に手を当てて思案げに視線を上の方に遣っていた。
「っていうことは、カナヲや神崎先輩にも頼めないよなぁ……そうなると、うーん……そうだ。伊之助、やってくれないか? ほら、文化祭のミスコンで去年出たとき、結構評判だったじゃないか」
「いやー……あれは見た目だけの前提だからだろ。演技が入ると厳しいよ」
「あんなめんどくせー格好もうやりたくねーって! 大股で歩くなとか、うるせえしよぉ」
あれやこれやと議論はコーヒーの上を飛び交っていく。時間と共に冷めていくカップの中身とは裏腹に繰り出される言葉が色を失うことはない。いつしか店に対する気後れも不安も何処へやら吹き飛んで。
ふいと、ほんの解れ目から言葉が途切れた。そこから広がる静寂。幾分和らいだ空気にともかく一息休戦、と、三人が一斉に飲み物へと手を伸ばす。それまでちびちびと飲み下していたホットコーヒーはどうにも温んで、気付けというにも刺激が足りない。ミルクと砂糖の甘さばかりが先に立った舌で口の中を擦り、炭治郎はまたひとつため息をついた。それに続くように、善逸と伊之助もテーブルの上に吐息を投げ出した。
そんなさなか、とろりとした穏やかな声が、傍らの通路から投げかけられる。
「あれぇ、奇遇だねぇ」
三人が声の方を見やると、いつの間にかテーブルの傍らにはひとりの青年が、微笑みと共に立っていた。線の細い面に、スーツは一見して仕立ての良いものとわかる。肩で切り揃えられた髪が、しなやかに揺れていた。首からは無骨な一眼レフが、そんな優美な佇まいとはどうにも不釣り合いに下げられている。それがこの落ち着いた店によく似合う彼を、ほんの少しだけ浮き立たせているようでもあった。
彼をひとめ見て、炭治郎は驚きの声を上げる。
「あっ……民尾さん!」
民尾と呼ばれた青年は微笑んで、やあ、と手を軽く振る。
「こんな高い店に来るなんて、どういう風の吹き回し?」
「はい、学校で組んでるバンドのミーティングで」
「ふーん、大方先生のおごりかぁ、良いご身分だねぇ」
いかにも親しげな風情で話すふたりに、善逸がおずおずと問いかける。
「炭治郎、この人知り合い?」
「あ、そうか。善逸は反対方向の路線だから知らないんだっけ」
通路に近い側へ座っていた炭治郎が、すぐ横にいる民尾を掌で指し示す。
「この人が魘夢民尾さん。ほら、いつも言ってるだろ。俺が通学電車の中で捕まえてる変質者の人」
「はじめまして」
「ふーん、この人があの……」
電車の中で捕まえている、変質者。
その言葉に覚えた違和感を受け止めるには、炭治郎と民尾の笑顔はあまりにも自然すぎた。
思わず納得して頷いてしまったあとに、漸く認識が遅れてやってくる。
「……はああぁぁあぁぁあああああああぁぁぁあ!?」
善逸の黄色い高音が店内に響き渡る。
驚いた顔で振り返った店員に必死で頭を下げる炭治郎。そんな彼をよそにして、善逸はなおも詰め寄ってくる。
「いやお前なに普通に挨拶しちゃってるの? 変態だろそいつ? なんでそんな落ち着いてるんだよ!」
「うーん、まあいつものことになってしまってるからなぁ」
顎に手を当てて首を傾げる炭治郎。疑問符を浮かべた表情は、まるで何が問題なのか分かっていない様子で。善逸はそれを見てがっくりと肩を落とす。すぐ隣の椅子に居るのに、この瞬間だけはどうにも遠い距離を感じた。
「それ絶っっっ対ダメなやつだろ……」
「うふふ、君のことも聞いてるよぉ。我妻善逸くん、でしょう? 炭治郎から聞いてた通り賑やかな子だね」
「えっ何? 炭治郎、変質者に俺の情報流してるの?」
口に手を当てて笑うその様子はあくまで優雅で、電車で日常的に尻を出している変質者だと言われてもにわかに信じがたくはある。
けれど、嘘をつくのが極度に下手な友人が、そんな無益に自分を騙してくるはずもなく。困惑とともに、善逸は炭治郎と民尾の顔に視線を何度も往復させる。
「そんな言い方はないだろう? お尻を出してないときは別に民尾さんは普通の人と変わらないんだから」
まるでこちらが悪いことでも言ったように口を尖らせる炭治郎に、善逸はがっくりと肩を落とした。
真面目で人間の善性をひたむきに信じているこの友人の性分を、善逸も普段は好ましくは思っていた。けれども、こうも自分の感性とズレた受け答えばかりされれば、流石に呆れも混じってくる。
「おい、紋逸のこと知ってるってこたぁ、俺のことも勿論聞いてるよな!」
「うん、嘴平伊之助くんだよね。いつも学校にお弁当しか持ってこないっていう」
「お、よくわかってるじゃねえか!」
「いいのかよそれでお前は……」
豪快に笑い飛ばす伊之助の背中に、善逸の声はまるで届かない。更なる混迷を見せていくかと思われたテーブルの上に、鷹揚な声が響いた。
「おう、お前ら。決まったか?」
見れば、宇髄が戻ってきたところだった。伊之助の隣の椅子へ座り直そうとして、傍らの民尾に気づいてはたと顔を上げる。
「その人は……」
「あ、俺の知り合いです。魘夢民尾さんっていって」
「こんにちは、先生。炭治郎くんがいつもお世話になってます」
いかにもマトモそうな顔で軽く頭を下げた民尾。顔をしかめてそれを睨み付ける善逸を、炭治郎が肘で小突いてたしなめる。
「ああ、どうも。こちらこそ。立ち話もなんだし、あんたも一緒にどうだい?」
空いていた隣のテーブル席からひとつ椅子を借りて、宇髄は民尾に座るよう促す。それに従って、民尾は宇髄と炭治郎の間、丁度誕生日席に当たるテーブルの短辺に収まった。カメラを首から外して膝の上に置き、撫でるように軽く位置を整える。そうして微笑みと共に軽く会釈をした彼を交え、都合五人がテーブルを囲む大所帯が出来あがる。
「で、どうなんだ?」
改めて、宇髄は三人に向けて切り出す。サクランボの茎を口の中で結ぶのに勤しんでいた伊之助の分もと、炭治郎と善逸が状況の説明に躍起と乗り出す。
「えっと、メインキャストはさっき決めたとおり。で、ヒロインだけ決まらないんですよ……」
「ミステリアスで神秘的な美女、って……なかなか、イメージに合う子が……」
美女、という部分をことさら強調する善逸。コーヒーに口を付けようとした宇髄はその言葉に手を止め、はたと目を見開いた。
「ん? ここにいるじゃねえか」
顎でしゃくって宇髄が指し示した先。
その向かうところへ、一斉に三人の視線が集中する。
「なんだ、それで連れてきたんじゃねえのか? ヒロインに、って」
宇髄が首を傾けて問うた、その先。
全員の視線を浴びて、民尾は勿忘草色の瞳を瞬かせて首を傾げた。その仕草は極めて嫋やかで、ヒロイン、という言葉にもよく馴染む気色と見える。けれど。
「え……」
はくと開いた唇たちから、同時に声が漏れる。様々な疑問符が一瞬のうちに大量にポップアップしては、消えずに重ねられていった。
この人は、男では?
そもそも、変質者を映画に出して良いのか?
こいつら、何の話をしているのかなぁ?
どれも、瞬間的に湧き上がっては、言葉になる前に泡が弾けるように空しく消えていく。ずぞぞ、と伊之助がメロンソーダを啜る気の抜けた音だけが、テーブルの上に転がって。
「宇髄先生、民尾さんは男の人ですよ? 確かに顔立ちは整ってますが」
浮かび上がるハテナマークをまとめ上げて、最初に口火を切ったのは炭治郎だった。
「別に、男が女役したって良いだろ? 歌舞伎だって全員男がやるもんだし。それに竈門だってヘタに親しくもねえ女子を相手にするより、見知った男の方が演技しやすいんじゃねえのか?」
「え、あ……まあ……」
宇髄の明快な返しに、言葉を濁らせる炭治郎。俯いたその顔を遮るように立ち上がり、善逸が口調を荒げる。
「っていうか先生! そいつ変質者ですよ? ほら、いつも電車で尻出してるって、あの噂の!」
「ロックでいいじゃねえかよ。最近はそういうパフォーマンスがすっかりおとなしくなっちまってるからよ。〈スターリン〉ってバンドは客席に豚の頭を投げ込んだりしてたんだぜ?」
豪快に笑い飛ばして、宇髄の話は脱線を始める。曰く、親子連れで来ていた客を煽って子供を泣かせたV系グループ、分厚い硝子板で弦を掻き鳴らして客の鼓膜を破壊したギタリスト。それに比べれば今のバンドはぬるすぎる、云々。
「お? なんだ! 景気のいい話じゃねえか!」
「いや、怖すぎるんですけど……」
鼻息荒く両手を振り上げる伊之助が、リボン結びになったサクランボの茎を舌に乗せてあっけらかんと笑う。それをよそに、善逸は怯えた顔で自分の肩を抱きしめていた。へなへなと自分の椅子に座り直した彼をテーブル越しに見やって、憮然とした顔で民尾が問う。
「……なんの話? ひとをおいてけぼりにしてさぁ」
その言葉に、炭治郎と善逸ははたと顔を見合わせる。そういえば、ここまで彼にはろくに説明もなく話を進めてしまっていた。慌てて、炭治郎がフォローに入る。
「えっと、いま俺たちで映画を撮ろうっていう話になってて、で、ヒロイン役を誰にするかって相談してまして」
「それで、俺にって?」
その言葉に大きく、炭治郎が頷く。
「来週、月曜日がスポーツの日で三連休になるでしょう? そこでキャンプしながら撮影しようって。えっと、なんて言いましたっけ。藤襲山越えて、となりの山にあるって聞きましたけど」
「……もしかしてそれって、ダム工事が入ってる山のこと?」
「ああ、そうだが……」
宇髄が言葉を引き継いで頷くと、民尾はなにやら思案げに顎に手を遣る。
「お願いします、民尾さん!」
炭治郎が身を乗り出し、民尾の肩を掴んだ。深い青色を見つめる赤い瞳が、僅かに潤む。上目遣いに覗き込んだ姿勢は明らかに無意識の産物で、小動物のように首を傾ける愛らしい所作も、生来のものと見えた。
繋がった視線を介して、ふたりの間に無言の交渉が結ばれる。宇髄をして人たらしと言わせしめる炭治郎の、本領発揮。思わず噴き出した宇髄を慌てて善逸が窘める。
やがて、縋り付く視線を優しく受け止めるかのように、民尾は静かに首を縦に振った。
「面白そうだねぇ。まあ、いいよ」
その言葉に、炭治郎は短い歓声を上げた。それにつられて、伊之助も歓喜に拳を振り上げる。善逸もやれやれと首を振ってはいたが、その顔にはへにゃりとした笑みがある。やっとキャストが埋まったという安堵からだろう。彼らの様子を眺めて、宇髄もフェイスペイントが施された片目を閉じて満足げに頷いている。
けれど、民尾の浮かべた満面の笑みには、どこか含みがあるようにも見えた。
2 道中、にわかに暗雲立つこと
秋めく山は衣替えに勤しみ始めていた。遠目からはただ平坦な緑としか見えなかった木々は、段々と端のほうから赤に黄色にとりどりの色に塗り替え出している。環状線から旧道に沿って山の内側に入り込めば、葉の一枚一枚が微細なグラデーションに染まっているのがよく見て取れた。四季が齎す緩やかな変化が、青い空の下目に見えぬ速度で作り上げられていく情景。
それら全てを台無しにするレベルの爆音をまき散らして、宇髄の運転するキャンピングカーは一行を乗せて山道を疾走していた。揺れる葉陰は、風の仕業か、それとも騒音に辟易したせいか。複雑に湾曲した急な登り坂を、崖に突っ込む紙一重で曲がりきって、車は山頂目指して進んでいく。
同乗しているのは〈ハイカラバンカラデモクラシー〉の四人と民尾、それから教師の煉獄杏寿郎と冨岡義勇の計七名。運転席と助手席、それからダイネットスペースにあるL字とロングのソファふたつにそれぞれに分かれて座り、思い思いにくつろぎながら過ごしている。BGMとして流れるのは三味線風にチューニングしたギターが特徴の、宇髄お気に入りのハードロック・バンドだ。最初は四人の新曲デモテープをかけていたのだが民尾が吐き気と頭痛を訴え、止めないなら窓から飛び降りると言い張ったため、やむなくこちらに切り替えた次第だった。
「権八郎! お前が持ってきたこれ美味ぇな!」
「お前、頬袋しながら喋るなよ。行儀悪いぞ。というかそんな甘いのとしょっぱいの一緒に食べて大丈夫なのかよ……」
中央のテーブルに載った山盛りのパンを前に、両手にそれぞれシュガートーストとソーセージパンを鷲掴みにした伊之助が笑う。丁度伊之助の隣、ロングソファの真ん中に掛けていた善逸が、チョココロネの先からはみ出すクリームと格闘しながら顔をしかめた。
「ああ、遠慮無く食べてくれ。ほんとは焼きたてを持ってこれればよかったんだけど……」
にっこりと笑う炭治郎は、既に自分の分として持ってきた米粉パンを食べ終えていた。運転手である宇髄も、山道での片手ハンドルは危険だからと、早々にカレーパンを食べ終わったあとは後部座席の面々に残りを譲っている。朝はもう食べてきたと断った民尾を除けば、車の中での朝食はそれなりに和気藹々とした空気で繰り広げられていた。
「それにしても、煉獄先生も冨岡先生もありがとうございます。いきなりのお願いなのに、快く引き受けて頂いて」
炭治郎の言葉に、助手席で『わっしょい!』と叫びながらさつまいもパンに舌鼓を打っていた煉獄が振り返り、溌剌とした笑顔を向けた。宇髄の学生時代の友人であるという縁もあり、何より生徒想いの彼は、映画の撮影協力を聞くなり快諾してくれていた。
「うむ! あれだけ熱心に打ち込んでいる君たちの姿を見て協力しない訳にはいかないだろう。演技に関しては俺も素人だが、全力を尽くそう!」
L字ソファの片辺に腰掛けた冨岡も、口の中のぶどうパンを飲み下してからそれに同調して頷く。
〈ハイカラバンカラデモクラシー〉の演奏にすっかり心を奪われ、彼らのファン第一号になった冨岡は、プロモーションの一環として映画を撮ると切り出したなり、一も二も無く頷いてくれた。普段は彼らの校則違反を容赦なく責め立てる冨岡も、バンド活動が絡むとなると幾分態度が軟化するようだった。
「……校外で、かつ音楽活動の一環というなら、まあ許そう。あれだけ感動的な曲を作れるお前たちなら、その才能は認められるべきだ。その金髪やピアスもな。ただ、学校の外でなら、だが」
眉を寄せ、テーブル越しに生徒三人をじろりと睨み付ける。その鋭い眼光に、炭治郎と善逸は思わず身を竦ませた。
「すみません、これは父の形見ですので……」
「だから俺は地毛なんですってば……」
怯えた目で冨岡を見るふたりを、ロングソファの後部端に座った伊之助はパンを口に含んだまま嘲り混じりに笑い飛ばす。
「なんだよ、情けねえなお前らはよ!」
「お前も制服の前を止めろ。あとは遅刻しそうだからと校内に穴を掘るな」
ぴしゃりと、突きつけられる容赦のない口調。愛用の竹刀は乗車の際収納スペースにしまわれているため、人差し指を向けるに留まってはいる。けれども、剥き身の刀を突きつけているのに比肩するような研ぎ澄まされた気配。それを敏感に感じ取った炭治郎が慌てて話題を変えにかかる。
「そ、そういえば宇髄先生、これから行く村って、どんなところなんですか?」
「ああ、そういえば詳しい話はまだしてなかったな……元々は湯治場としてそこそこ栄えてたんだが、湯が出なくなってからは寂れる一方でな、っと」
カーブに差し掛かり、大きく切られたハンドルが車体をゆする。
「六〇年代にダム工事の話が持ち上がって、大体の村民はそこで退去したんだ。ただ、俺の母方の大叔父は『水の底に沈もうが故郷に骨を埋めたい』と、そこの村にある先祖代々の墓に入ったんだな。その墓参りも今回は兼ねてる訳だ」
「宇髄、ダム工事は中止になったんじゃないのか?」
煉獄が問えば、宇髄は歯切れの悪い顔で首を傾ける。
「ああ、なんか最近またなんとかって政治家の肝煎りで動き出したらしいが、なんかそれもゴタゴタで止まってるらしいんだよな」
「ああ、聞いたことあるよ、それ。なんで工事が進まないのか」
ふいと、民尾が口を開いた。L字ソファのもう片側に座った彼に、視線が一斉に向く。
「工事を進めようとするうちに不可解な事故が立て続けに起きて、無期限に施工中止。そして、工事を再開しようとしている今も、それは続いている。そのうち、山の神の祟りだとか自分達の故郷が沈められることに怒ったかつての村民達の霊の仕業だとか、まことしやかに伝えられるようになって」
口調は穏やかでも、どこか底の知れない響き。
がなり立てるスピーカーの音に遮られても尚淡々と通る言葉に、口を挟むものはいなかった。
「所在地は本葉郡、大字睦、字端賀。それをもじって、ネットではこう言われてる」
ふいと、言葉が途切れる。
声を溜めた唇が、にいと笑み割れて。
「無数墓村、ってね」
薄笑みと共に告げられた禍々しい名前。
それが転がり出すなり、空気が変わった。
驚くもの、不審がるもの。反応は様々であったが、ひときわ強い怒気が運転席から伝わってきていた。急にかかったブレーキが、無遠慮に皆の身体を揺らす。テーブルの上のパンに再び手を伸ばしかけた伊之助が、慌ててそれらが転げ落ちないよう身体を張って抱え込む。舌打ちの音が、丁度曲の切れ目へ明確な区切りを添えた。
「おい、あんた……」
苛立ちも露わに宇髄が振り返ろうとした瞬間、車内に凄まじい悲鳴が響き渡った。
「俺降りる! 降りるうぅうぅううぅうううううぅぅ!」
見れば善逸が顔を真っ青にして泣きじゃくり、ガチャガチャとシートベルトをはずそうといじくり回していた。動揺の余りボタンを押すのも上手くいかず、爪が剥がれそうなまでの不器用な手つき。それを両隣から炭治郎と伊之助が慌てて押さえ付けている。
「ふふっ、此処で降りたら大変だねぇ。結構奥に来たもの。きっと真っ暗になっても麓に辿り着けないよ。幽霊どころか、猪とか野犬とかも出ちゃうかも」
「あぁああぁあ嘘! やっぱ降ろさないでぇえぇ!」
コンポから流れるギターの音すら掻き消さんばかりに泣き喚く善逸。その肩を抱いて宥めながら、炭治郎が口を尖らせる。
「民尾さん! 俺の友達をいじめないでください! それに、宇髄先生の親戚の方が暮らしていた場所にそんな失礼なこと!」
「いじめてなんかないよ。ぜんぶ事実を言ってるだけ、俺の調べてきた、ね」
民尾は全く意に介していないらしく、穏やかな微笑みを崩す徴もない。なおも取り乱す善逸の腿をばしばしと叩いて、伊之助が活を入れる。
「だらしねえなぁ紋逸! 幽霊なんか出たら俺が頭っから食ってやるぜ!」
わいわいと騒がしさを増していく後部座席。小さく咳払いをして、宇髄は体勢を立て直す。生徒達のやり取りにすっかり毒気を抜かれてしまったらしく、やや気まずそうに喉に声を滑らせていた。
「……まあ、それに関しては俺も聞きかじってるからな。秘密兵器は用意してる。何より、無責任な噂を流されるのも癪だ。なんにも出ないならそれを証明してえし、出るなら出るでなんとかしてやりたい」
再び、ゆっくりと車が走り出す。ゆるりと慣性に揺れる身体を押さえながら、炭治郎は真剣な顔で首を縦に振る。揺れについて行けずあわぁ、と情けない声を上げた善逸を、伊之助が横からシャツの襟首を掴む形で支えた。
「だからそっち方面に関しちゃ心配は要らねえよ。ド派手に大船に乗ったつもりでお前らは撮影に集中しな!」
宇髄のひと声は力強く、自信に満ち溢れていた。その言葉の上にあるものが、必ず守られると無条件に信じてしまえるほどに。漸く、車内に士気が戻ってくる。
それでも善逸は一抹の不安があるのか、身体を小さくこごめて震えている。
「うう……でも、そういう廃墟って不良のたまり場になってたりとかもあるんじゃ……ここまで来て今さらなんですけど……」
「なら尚更心配ねえよ。昔のエラい奴も言ってただろ? 殴れるなら倒せる、ってな」
何の躊躇もなくあっさりと言い放つ宇髄。それに煉獄と冨岡も続いて頷く。
「うむ、あまり暴力に頼るのは感心できないが、相手が向かってくるなら身を守るのもやむなし! 宇髄も冨岡先生も、腕が立つからな。勿論俺も、君たちに危害が及ぶようなら容赦はしない」
「不良、か。もしいるとしたら、性根をたたき直してやらねばならないだろう。キメツ学園生活指導の名にかけて」
「えっ……この先生達、もしかしなくても幽霊より怖い……?」
すっかりドン引きの様相で教師陣を見やる善逸。そんな彼の百面相をテーブル越しに見やって、民尾はくすくすと笑う。騒ぎのうち、いつの間にか不穏な空気はどこへやら行ってしまっていた。
十分ほど走って行く内に段々と傾斜が緩やかになり始めた。窓から見える景色も、周囲の山々を眼下にし始めている。前を向いたまま、宇髄が後部座席に声を投げる。
「もうすぐで、頂上の休憩所に出る。村を見下ろせるから、予定の通りそこでワンシーン撮影だ」
「はい、探偵が村にやって来る、最初のところですね」
「そうだ。だから竈門、止まったら衣装に着替えろ。それから我妻と嘴平は機材の準備だ」
「は、はいっ!」
「おう!」
ほどなくして、車は頂上付近にある開けた場所に到着した。
簡易トイレと自販機が申し訳程度に設置された小さな休憩所は、連休の初日だというのに人気はなかった。ところどころに放置された鉄骨やコンクリートブロックが、中断されたというダム工事の痕跡なのだろうか。それを避けるようにして三台ぶんがロープで区切られた駐車スペースに乗り付けて、一行は撮影準備に勤しみ始める。そろそろ正午も近づき天頂近くに持ち上がった太陽が、うららかな日射しを彼らのもとに落としていた。
まずは煉獄と冨岡が外に出て、足場の安全確認を行う。休憩所の西側は展望台になっていて、そこから目的地でもある村の全景が見渡せる。柵はあって無いようなもので、ところどころ途切れた場所があるから、そこを上手く使って柵が映らないよう撮影をするつもりだった。その間に宇髄と善逸、伊之助が機材チェックを行い、炭治郎は民尾に手伝って貰い衣装に着替える手はずだ。
「ほら、早く出なよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……草履だと歩きづらくて……」
扉の開く音に、少し離れた自販機の傍らで準備をしていた三人が振り返った。その視線の先で、民尾に小突かれながら車から降りてきた炭治郎が、照れ混じりに頭を掻く。
「どうだろう、似合うかな?」
落ち着いた緑を基調にした着物に袴、そしてチューリップハットという身なりは、いかにも山村へ降り立った探偵の風情で。
「お、炭治郎も結構ノってるな。似合う似合う!」
善逸が、カメラを手にしたままで歓声を上げた。先程までの弱腰は何処へやら、すっかりと機嫌を直して笑顔を浮かべている。
「こっちもバッチリ準備できてるぜ!」
ガンマイクを構えた伊之助が、ずいと槍でも突き上げるように集音部分を掲げてみせる。
「ようし、万端だな。おーい、煉獄! 冨岡ァ! そっちはどうだ!?」
「……大丈夫だ」
「うむ! 平気そうだ! 特に危険そうなところはない!」
冨岡の小さな声を掻き消して余りある響きで、煉獄の返事が重なる。それを確認して、宇髄は四人を伴い展望台へと移動する。剥き出しの砂利道はいかにも足場が悪く、その上草深い。慣れない草履を慎重に地面の上へ降ろす炭治郎に合わせて、なるたけゆっくりと。
丸太に外見だけを似せたプラスチック製の柵は半分近くが倒壊していて、丁度一番西側に当たる村を見通せる方角は丸裸も同然だった。その位置に炭治郎が収まり、音声収録の伊之助がやや後ろからマイクを向ける。カメラ係の善逸を含めた他の五人が遠目から見守るかたちで佇んでいる。
「竈門少年! 少し進んだところに石がいつつ並べてあるだろう? そこから崖が急になる! くれぐれもそこを越さないようにな!」
「はい。ありがとうございます煉獄先生!」
「あ、伊之助。マイクちょっと映っちゃってる。もっと右……あ、ごめん。伊之助から見たら左だ!」
「こうかぁ?」
「オッケー!」
「ふふ、楽しそうだねぇ」
「そうだな」
口々に交わされる言葉は、ひと声毎に熱量を帯びていく。これから作り上げられるものへの緊張と、それを遙かに上回る期待と、歓喜。それらを一心に感じながら、夏の名残を未だ残した薄水色の空の下で、炭治郎はカメラを振り返る。そうして、背後にいる仲間達に軽く首を引いて応えた。
「よし、じゃあ『春夢村伝説』、シーン一。行くぞ!」
炭治郎が崖へと向き直ると同時に、宇髄が手にしたカチンコを振り上げた。短いカウントの後、乾いた音が、空間を切る。
秋が滴る鮮やかな山並みを写したカメラが、ゆるりとその裾野を辿ったのち、探偵の横顔をクローズアップしていく。精悍な瞳は、その向こうにある情景を直に映し出すことはなくとも、何か目的を抱えて先を見据えていることをありありと思い浮かばせる。
不意に、映像が引いて、彼の背中へ向く。探偵が立つのは崖の上。眼下には森林の間にぽかりと開けた土地があり、いくつかの瓦屋根が密集して立ち並んでいる。村の東西には荒れた畑が広がり、更にその北側には高い絶壁が聳え立っている。風に飛ばされそうになった帽子を押さえながら、探偵はそれをただ見下ろしている。
丈の長い草むらを踏みしめて、一歩。
そうして探偵は、ぽつりと呟く。
『ここが……』
ほう、と吐き出された息が、秋風に混じり空へと上っていく。緩やかな余韻は、寧ろこれから起こる波乱を予見させる。そんな、静けさに満ちた幕開けだった。
「おし、カット!」
宇髄の声が張り上げられると共に、小さな感嘆が、探偵からひとりの少年へと戻った炭治郎の唇を滑る。鮮やかな空を直に吸い込むように深呼吸をして、高鳴る胸を掌で押さえる。
弛緩と、それでも抑えきれない、はじまりのときめき。
棚引く雲の合間に再び響いたカチンコの音が、威勢良くクランク・インを告げた。