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    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

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    斑猫ゆき

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    精神科の患者タンジロと医者タミオチャンの炭魘④です、今回微グロ表現あり。相変わらずなんでも許せる人向け。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    ジョハリの箱庭・Ⅳ『未知』

     硝子扉を開けるなり、夏の吐息が首筋を撫でた。クーラーに慣れきった肌が、段々と熱を吸い取っていく。運動場の赤茶色い平坦なトラックが、眩い太陽光の中で揺らいで見える。数メートル間隔で壁同士を接合しているはずのコンクリートの塀は、日射しを受けてまるで一枚の鏡のように仄白く光っていた。まるで書き割りのような平坦な風景。塀の上から除く樹冠だけが、穏やかな風に揺れて景色を塗り替える。
     白線を跨いで数歩、トラックの内側まで辿り着くと、民尾は隣に並ぶ炭治郎の顔を覗き込んだ。
    「それじゃ、普段通りのプログラムでトラック三周とボールハンドリング二十分。そこまで気温は高くないみたいだけど、水分補給は忘れずに。それと、眠くなったらすぐに言うこと」
    「はい、民尾先生」
     頷いて、炭治郎はスタートラインの位置に収まった。それを確認して、右手で耳を押さえ、左の人差し指で空を突く。スターターピストルなんてある筈もないから、まあ気分だ。塀の向こうからしきりに見下ろしてくる木立が、前傾姿勢で合図を待つ少年の肌にみどりの光を落とす。目を細めて、民尾は大きく唇を開いた。
    「よーい……ドン!」
     反動を演じた手首が、中空で弧を描く。口伝ての発砲音で空が撃ち抜かれた瞬間、炭治郎は走り出していた。伸びやかなフォームで遠ざかっていく背中をぼんやりと見つめながら、民尾は額に滲み出した汗を手の甲で拭う。普段は比較的涼しい高原に立つこの診療所といえども、夏の盛りは見逃してはくれない。無精して羽織ってきたままの白衣が熱を孕んで風に揺れる。運動着に着替えている少年を逆恨みの視線で辿りながら、民尾は手で首元を扇いだ。
     炭治郎の毎日の運動管理も、民尾の仕事のひとつだった。
     突発的にナルコレプシーの症状が出てきたときの処置担当という口実ではあるものの、まあ体の良い監督官にすぎなかった。カウンセリングといい、精神科医の領分を越えて総合介護の域に入りつつあるのだが、人手がいないのだから仕方がない。
     ここに来るものは大抵が鬼舞辻所長に拾われた人材だ。研究者としての手腕は確かだが人格に問題があり、一般の病院や研究所では鼻つまみ者扱いされて持て余されていた手合い。理論構築は完璧でも、実際に患者に対面させるのは殆ど自殺行為に近いという輩だって枚挙に暇が無い。そんな中で患者への対応は、一番若輩かつ比較的コミュニケーションに難がない民尾にお鉢が回ってくるのは必然だった。
     うんざりした顔を欠伸を装って手で隠しながら、トラックの端を仰ぎ見る。既に少年は二周目を走り終えようとこちらへ戻ってくる最中だった。伸びやかに宙を切る手足の動きは優美で、無駄がない。なにか競技でもやっていたのだろうか。思い出す。昨晩同じ布団で寝たときに、太腿に手が触れたときのこと。薄い脂肪と緩んだ筋肉が表面についてはいるが、その奥側には確かに鍛えられた肉が埋められている。そんなアンバランスな固さ。スポーツ医学に詳しい訳でもないが、あれはスポーツ経験者がしばらく競技から離れたとき特有の衰えに似ている気がした。
     そんな勘ぐりはすれど、特段本人に尋ねる気はない。自分と彼とはあくまでも医師と患者という立場でしかないのだから。深入りするつもりなど、さらさら。
     紗がかかったような日射しの向こうで、少年は尚も走り続けている。視線を外さないようにしながら、出入り口近くのボール籠まで後ろ歩きに寄っていく。一番上にあったひとつを手に取ると、表面の凹凸にどことなく湿気った感触があった。夜露の名残か。それとも、自分の手汗か。それを判別する間もなく、民尾はトラックの脇へと戻った。
     間もなく最後の周回を走り終えて、炭治郎がスタート位置まで帰ってくる。空間を切った風が、民尾の髪を揺らす。薄い汗の匂いと、それを覆い隠すまでの青臭い緑の香。少年の耳飾りが朝の光を凝集して、小さな太陽のように輝いて揺れていた。相変わらず、彼はあのピアスを外さない。どうでもいい、ことだけれど。
     立ち止まる前の手慣らしとして緩いステップで歩を踏んでから、踵を返してこちらへと戻ってくる。その足取りが完全に収束するのを待たず、民尾は炭治郎に向けて無遠慮にバスケットボールを放った。すんなりと手元には収まらない、さりとて完全に的外れではない角度。うっかり手元が狂ったという言い訳が通用する意地の悪さを隠し持った投擲。
    「わ、っと」
     少年は若干慌てた素振りで地面を蹴ると、頭の横スレスレを通るはずだったボールを見事に捕まえてみせた。ぽかりと開けた口が反射で固く結ばれる。それを満足げに見やって、民尾は緩く手を叩いた。
    「ふふ、うまいうまい」
     にやにやと笑う民尾を、炭治郎はばつの悪そうな顔で振り仰ぐ。
    「先生、わざとやりませんでした?」
    「わかっちゃった?」
    「わかりますよ。そりゃ」
     ぼやきながらも、炭治郎は受け止めたボールをそのまま軽快に跳ね上げて、今度はドリブルを始める。左手にあった球体を右手に。そしてまた左手に。迷いのない動き。まるでボールが彼を恋い慕って吸い寄せられているかのような。そんな益体もない想像がしっくりと馴染むくらいに、少年の笑顔は眩しかった。彼を心底忌避している民尾にすら、そんな感慨を抱かせるほどに。
     苦笑しつつ、民尾は傍らに聳える病棟を見上げる。
     下から上へ、守宮のように壁を伝って、四階の窓辺へと視線を動かす。太陽を背にしている所為で薄い影を刷いてはいるが、硝子を透かして見えるのは確かにあの白い廊下だった。建物の角に位置する、あの辺りが確か四〇四号室の筈。から、と乾いた喉が鳴る。口蓋を舌で舐め上げて濡らす。口の中が干上がっていくのは、決して暑さのせいだけではない。警告。無意識の。
     四〇四号室で出くわした鉄道模型と、それに追随する形で夜の廊下で感じた白い時間。それらは、まだ根深く民尾の中に恐怖を残していた。
     だからこそ、確かめたかった。一歩引いた視点から見ることで、詳らかになるかも知れなかったから。民尾が感じた恐怖の正体と、その源流が。
     恐怖は生物を危険から遠ざける為にあるけれど、そこへいたずらに従っているばかりではただ狭窄していくばかりだ。理性を持って目に見えたものを選別し、経験則と知識をもって既知のものへと変えていかなくてはならない。学術の徒として。そして何より、曲がりなりにも鬼舞辻所長に見出された者として。
     ただ、民尾は窓を見つめた。眼球が乾きに軋む。瞬きを一瞬だけ、強く閉じて。それで、できるだけ長く目を開いていられるようにして。平たい硝子の板を、終生の敵のように睨み付けて。
     そうしてどれだけの時間見つめていようが、視線の先には窓だけしかなかった。誰も通らない。扉が開くこともない。ただの廊下。遠目から見ても、明らかな空虚。
    何も、わからない。
     わかるのは、わからないということだけで。
     外壁の白には、太陽と木立に染め上げられて、影と光が複雑な線条細工を描いている。風の一陣にすら移ろう色彩が意識に入り込んでくるうち、段々と肩の力が抜けていく。人間、そうそう気を張り続けてもいられない。空気を求めて大きく唇が開く。それで初めて民尾は、自分が呼吸を止めていたことを知った。
     諦めたように首を振り、もう一度視線を上げて、今度は建物全体を見渡す。病棟はこの運動場をコの字型に囲んでいる。曲がった短辺のうち東側に民尾の居室、西側の部分に炭治郎の病室があった。奇しくも向かい合う形に配置された自分達の部屋。外的刺激や患者同士のトラブルをできる限り避けるため、運動場が見える位置には窓はないから、別にお互いの様子が窓を透かして見える訳でもないけれど。
     そういえば、と。昨日炭治郎が部屋から閉め出された一幕を思い出す。首を大きく回して、炭治郎の部屋から自分の部屋までを手繰っても、なかなかに骨が折れる距離。この道のりを、彼が訳も分からず不安のままに歩いてきたのだと思うと、なかなかに愉快な気分だった。くつくつと笑みを掌で隠して、想像する。あのガキが、白い廊下をあてどなく進む様子を。黒い鏡になった窓と、どこまでも果ての無い白い壁。色彩のない道を。誰もいない、何故招かれたのかも分からない、未知を。
     そうして、見つけるだろう。
     あの白を。彼もきっと、恐れて。
    「……先生?」
     唐突に声をかけられ、肩が跳ねる。
     反射的に振り返れば、炭治郎がボールを抱えて背後に立っていた。気遣わしげな表情は汗に濡れて、少年の大きな瞳を、額に浮かぶ痣を、縁取るように光を砕いている。
     腕時計を見ると、運動場に出てからそれなりの時間が経っていた。おそらく、通告したボールハンドリングの二十分がとうに過ぎてしまったのだとわかるくらいには。
    「ああ、ごめんね。どうしたの?」
    「いえ、なんだかぼうっとしてたから。大丈夫かなって。大分日も昇ってきましたし」
     炭治郎の指さすとおり、太陽は既に病棟の裏から抜け出して天頂近くにかかっていた。つうと顎を滴った汗。それを自覚して、漸く熱の感覚が戻ってきた。
    「平気だよ。少し、考え事してただけ」
    暖められた肌の下で、体温が暴れている。白衣の裾を手で掴んで無理矢理に広げて、ぬるまった空気を吐き出させる。
    「悪いね、心配掛けて」
     まさか患者に心配されるなんて、医者の不養生もいいところだろう。しかも、どうしようもなく人間として反りの合わないこんなガキに。
     そう、笑い飛ばしたいところではあったが、喉元まで迫り上がってきたのは笑い声ではなく不快感だった。吐き気にも似たそれは、大きく息を吐き出しても、肺腑の奥に纏わり付いて消えることはない。
     けれども、それがなんなのかを明確に現すことは出来なかった。
     ただ、胸の底に積もっていく。あのときに出会った恐怖と同じ場所に。
     無理矢理に笑顔を作って、民尾は炭治郎と共にペットボトルの置かれたベンチへとふらふらと歩を向けた。

        *

     運動を終えたあとは、患者は着替える前に更衣室に併設のシャワールームで身体を清めてから戻らせるのが常だった。全面タイル張りの部屋は、足を降ろした途端に身体の熱をわずかに吸い取って放散させていく。曇り硝子の窓から落ちる日射しが、青いタイルに弾かれてぼんやりと光っていた。
     炭治郎ひとりでは心配だからと言う口実で、民尾も隣のブースでシャワーを浴びた。普段は戻ってから自室のものを使うのだが、炭治郎が居候している今はここで浴びようが部屋でやろうが大した違いも無い。
     温度を最大まで上げると、日に炙られた肌を熱が上書きした。蒸気の透明な匂いが鼻腔を擽る。先程まで五感に纏わり付いていた夏の気配が、たちまちに洗い流されていった。日光と気温に中てられた熱とは違う、爽やかな温度の水が、頭の先から足までをなぞって落ちる。床を叩く水滴に紛れて、民尾はほうとひとつ息をつく。
     入り口から向かって左の壁が薄い板で五つのブースに区切られていて、仕切りのカーテンは安全上設置されていない。そのうちの一番奥に炭治郎が入り、ひとつ手前に民尾がいる。横目で間仕切りの途切れた下側に目をやると、少年の脹脛から下だけが覗いている。筋肉が窪んだところに落ちる薄い影。そこをひっきりなしに水滴が流れて落ちていく。はたはたと、滴る水。それ以外には、何も聞こえない。何も見えない。ほんの板きれ一つの頼りない目隠しなのに、極端に情報は削ぎ落とされている。そんな単純な外部刺激が滴りとなって静脈を濡らす。
     ふと、また疑念が過ぎる。
     あの少年は、耳飾りを外しているのだろうか、と。
     板張りの向こう、少年の首があるだろう筈の高さを見通そうとしても、出来るはずもなかった。ただ白い表面に飛び散った雫が流れ、自由落下に身を任せていくだけで。どうでもいいはずの、他愛ない問い。だけどこびり付いて離れない。どれだけ洗い流そうと、水は身体の表面を滑るばかりで、胸の中までは届かない。湯気が身体を包む。温度を伴った曇りが目の前を、思考を、曇らせて。
     よろめいた足が、タイルの表面を踏みつける。ぱしゃりと軽い音が、意識を裂いた。足下に薄く溜まっていた水の層が、今さらながらに皮膚の感覚に繋がる。はたと我に返り、民尾は腕時計に目をやった。十気圧防水のそれは、降り注ぐ水滴も熱もものともしない。針が指し示す時刻によれば、そろそろ食事の時間が近かった。蛇口の上に放ったタオルを取って、民尾は隣に声をかける。
    「そろそろ、上がろうか」
     はぁい、と短い返事が聞こえて、蛇口を締める音が聞こえた。続けて、水音が途切れる。民尾もそれに追随して、シャワーを止める。軽く髪を絞って全身を拭き、ブースを出た。それとほぼ同時に、炭治郎もタオルで前を隠して隣のブースから姿を覗かせる。
    「た、民尾先生……前くらい隠してくださいよ……」
    「別に、恥ずかしがることないでしょ。男同士だし」
     笑いかければ炭治郎は困ったように、視線を逸らす。その耳元には、耳飾りが水滴を弾いて変わらず揺れているのが、確かに見えた。
     着替えを済ませて、病棟の中に戻っていく。エレベーターに職員用のIDカードをタッチすれば、ほどなく扉が開いた。一階から、四階まで。それ程の時間はかからなくとも、密室の中では流れる時間は凝って重たい。扉の上部に表示される回数表示が緩慢に切り替わっていくのが、どうしようもなくもどかしい。こつ、と床を靴底で打つけれど、それで速度が速まるはずもなく。
     炭治郎はといえば、過眠の症状が出始めているのかうつらうつらとし始めていた。運動を済ませた疲れもあるのだろう。包み込むように手を握ってやると、慌てて大きく目を見開いて首を振る。それがどうにも滑稽で、民尾は薄く微笑んだ。
     とはいえ、部屋に辿り着く前に眠られてはたまらない。彼の気を紛らわそうと、民尾は話題を探る。この時分であれば、そうだ。
    「そうだ、炭治郎くん。来週の配達のときに何か欲しいものある?」
     この診療所では、患者が担当医に申請して危険性が薄いと判断された物品であれば、月ごとに親族が設定した限度額まで購入可能とされている。それらは週に一度の日用品の配達業者によって運ばれ、患者に分配される。山奥という立地から頻繁に面会を行うことも難しく、患者の親族から差し入れなどを行うことも難しいという申し立てから出来た制度だった。普段は毎日の問診の折に聞き取っているのだが、別にこのスキマ時間に聞いてしまったところで差し障りはないだろう。
    「え、っと……」
     炭治郎はしきりに視線を彷徨わせていたが、やがてあ、と小さく声を上げて民尾に向き直った。
    「そうだ、粘土と……それからなにか画材が欲しいです。絵の具でも、マーカーでも、なんでも」
    「それだけでいいの?」
    「はい」
     紙粘土や画材なら、作業療法の一環として施設に置いてあるはずだ。施設内に在庫があるものであれば、担当医師が申請すれば簡単に出庫もできる。最近新規の患者がいないせいで放置されているから、駄目になっていなければの話だが。
    「だったら、多分ここにあると思うよ。申請すれば出してくれるはずだから、明日にでも渡してあげられる」
    「本当ですか! ありがとうございます」
     少年の零した快活な笑み。それは滞留した密室の中でいやに明るく輝いて。けれどそれは、ほどなくして開いた扉から射す光にすぐに掻き消された。
     部屋に着くと、炭治郎はすぐ崩れるように眠ってしまった。なんとか民尾のベッドには辿り着いたものの、前のめりに倒れ込んで、上半身しか敷布には収まっていない。若干乱暴に両足首を持ち上げて、ベッドへと転がしてやる。確実に痛みを感じるであろうねじり方ではあったが、目を覚ますどころか魘される気配すらなかった。それを確認してから、民尾はPCに向かい合う。
     メールを確認すると、所長から転送で書面が来ていた。内容は管理業者からの報告。操作系統に何某かの異常が生じているのは明白だが、原因がわからない。引き続き調査を行うので、判明次第追って報告する。そんなメッセージの上に、鬼舞辻所長からの命令が簡潔に記されていた。下記にあるように、目下の所施錠システムの異常は調査中につき、病室の鍵が戻るまでは引き続き炭治郎の面倒は民尾の部屋で見ること、と。
     それを読み終えた瞬間、民尾は盛大な溜息をついていた。なんとなく予想は出来ていたことだけれど、改めて文章として突きつけられれば、嫌でも意識せざるを得ない。このガキと、あとどれくらい一緒に暮らすことになるだろうか。折角のコレクションに傷を付けられなければ良いけれど。何より、こんなうまの合わないガキと一緒にいること自体が耐え難い。
     出口の見えない先行きを想像して、暗澹たる気持ちになる。胸の奥に蟠ったものをもう一度溜息で吐き出して、民尾はゆるく首を振った。
     了承する旨を返信してから、ベッドへと足を向ける。少年の傍らに腰を降ろして、民尾はその顔を覗き込んだ。安らかな寝顔。規則的に息をついて。額の痣が、柔らかな表情へまるでノイズのように覆い被さっている。
     また、夢を見ているのだろうか。
     そして、民尾にそっくりな誰かを、夢の中で。
     花札に似た耳飾りを、指で弾いてみる。涼やかな音が、空調から吹き寄せるわざとらしい冷気の中で、凜と揺れた。二度、三度と、繰り返す。それでも少年は目覚めない。民尾の知らない場所で、知らない夢を見ている。
    夢の中で、少年は今頃どのような立ち位置を演じているのだろうか。
     ふと、何処かで聞いた言葉を思い出す。毎晩の眠りは死んでいくための小さな練習なのだと。
     炭治郎も、確か言っていた。夢の中で自分を殺すことで、目覚めることが出来るのだ、なんて。
     だとしたら。覚醒が夢の中の自分を殺すことで成り立っているのなら。置き去りにされた夢の世界は、どこへ行ってしまうのだろう。
     夢から覚めるまでは、認識としてはそこは現実でしかないというのに。擬似的に殺された自分の亡骸と、それを包んでいた世界は、何処へ。
     少年の顔を見下ろしても、その答えが透けて見えることはない。
     ただ、隔てられるだけ。
     現実と、まぼろしに。
     民尾はゆるく首を振って、立ち上がる。もうそろそろ昼の食事が運ばれてくる時間だった。

        *

     それから何日経っても、はかばかしい知らせはなかった。
     毎日の報告と、所長から送られてくる返信にも、代わり映えはない。鍵の修理が立ち行かないため、炭治郎は引き続き民尾の部屋で様子を見ること。いくら恩義を感じている所長直々のお言葉とはいえ、いささか冗長に感じてくるほどの日数を、民尾は彼と過ごした。その間、少年はといえば起きている間は渡された紙粘土と画材とを何かしらいじくり回している。民尾が覗き込もうとすると恥ずかしそうに隠してしまうから、何をしているのかはわからないけれど。
     別に、頭のおかしい子供が何をしていようと知った話ではない。一応、報告のメールにはその旨を記載してはいるが、鬼舞辻所長や同僚からのレスポンスもない。だから、どうだっていいことだった。自分にも、他人にも。ただ、炭治郎以外がどう思っているかは知らないが。
     とはいえ、自分の送る報告書の全体像だって、それに負けじと退屈なものでしかない。大体が炭治郎の体調と服薬管理に、夢の話。それを当たり障りのない内容に翻訳して、誰が読んでも筋の通るものに粉飾して書き上げ、送信する。それだけが、民尾に与えられた仕事らしい仕事だった。
     思うに他人の夢の話ほど、聞いていて退屈なものはない。
     夢が記憶の整理であるなどというのは、昨今使い古された解釈ではあるが、それは一定の真実を含んでいる。散在する脳の記録を無秩序に繋ぎ合わせた断片は、そのひとつひとつが個人の積み重ねてきた過去の産物なのだから。たとえそれが自分にとってどれだけの意味を持っていようが、その歴史を共有しない他人には解釈のしようが無い。だから、民尾は自分の夢を他人に話さない。それがどれほど気がかりなものであろうと。
     炭治郎と同じ布団で過ごすにつれて、毎日の夢は段々と精彩を帯びてきていた。初日にはおぼろげな懐かしさと、それに伴う薄ら寒い予感だけが鮮やかだったが、それを繰り返す毎、次第に実像を結び始めていた。辺りに散らばる列車の形をしたおもちゃと、隣にいる誰か。パステルカラーの青い壁紙。そして、壁際に置かれたジオラマと、敷かれたレールを走る八六二〇型の鉄道模型。そうして、漸く思い出す。これは、小さい頃に住んでいた家の子供部屋での一幕なのだと。
    『民尾くん』
     自分にそう呼びかける少年の面影は、炭治郎によく似ていた。けれども、大分年の離れた彼と、幼少期に出会っているはずもない。だとすると、これは。
     ……ああ、そうだ。近所に住んでいた友達だ。明るくて、誰にでも優しかった。勿論、民尾にも。
     物心ついた頃から、民尾は内向的なきらいがあった。他人と交わるのが苦である訳ではないけれど、それよりも集団から一歩引いて俯瞰することで、人間関係の機微を観察する方が向いていた。周囲の子供達はそんな民尾を根暗だとかつまらないと罵ったけれど、彼だけは違う。民尾へ積極的に声をかけ、遊びに誘い、民尾の好きな鉄道についての話をしきりにねだった。そこに打算などなく、自分の知らないものを知っている人間を尊重し、仲良くなりたいという、ただひたむきな熱意だけが見て取れた。そういうお節介なところも、あの耳飾りの少年によく似ている。
     彼と疎遠になったきっかけは、覚えていない。きっと自分のことだから、我を張り通して愛想を尽かされるかしたのだろう。そんなこと、いくらでもあった。彼も、その内の一つにしか過ぎないのだろう。今の今まで縁が途切れ、記憶の底に埋もれてすらいたのだから。
     けれど、そんな他愛のない出来事が何故、毎夜の夢に現れるのかはわからない。
     記憶をでたらめに継ぎ合わせた空想の中で、彼はいつでも輝かしかった。笑い、泣き、時には感情をぶつけあい。そんな、断片だけが、鮮やかで。
     終わって欲しくない。
     そう、願った途端に、思い至ってしまう。これは夢なのだと。色を失う情景。灰色になった世界が、端から砕けていく。彼の顔が見えなくなる。待って、と叫ぶ間もなく、現実に放り出されて。淡い喪失感。夢の中で死んだ自分を悼みながら、ベッドの上で目を開く。そうして、横を向けば、隣で眠っている。よく似た顔立ちの、けれど、耳飾りだけが異質な彼が。
     そんな自分だけの夢の世界を隠し通しながら、今日も民尾は他人の夢の話を聞く。そう、他人だ。医者と患者。そんな、実利がなければ巡り会わない、彼は。
    「今日の夢は、どうだった?」
     カルテをペンの先で軽く叩いて、民尾はリクライニングチェアから身を乗り出す。背の低い机の向こうでソファに座る炭治郎は、それを認めてほんの少しだけ俯いた。
    「……今日も、でした。民尾先生そっくりのひと……鬼が」
    「また、首を斬った?」
    「いえ、今日は……なんというか、ちょっと変わってて」
    「変わってる? どんなところが」
     炭治郎は首を傾ける。ううん、とひとつ唸り、強く目を閉じて。
    「俺は……夢の中の俺は大学生くらいになっていて、アパートで独り暮らしをしていました。変わってるところといえば……そう……家族が、生きてることと、それと」
    「それと?」
    「えっと、鬼が人間を食べて生きているんだっていうのは、前に話したと思うんですが」
    「うん」
    「……民尾先生そっくりの鬼を、俺は匿っていました。アパートに」
    「へえ、なんだか新しい展開だね」
    「はい……だけど、すごく大変でした。俺はその人に人間を喰って欲しくないから。だから、自分の血を分けてあげていたんです。こう、掌とか、指先を切って」
     左の掌を突き出して、右手の人差し指と中指を揃えて引っ掻く。おそらく刃物で掌を切ったジェスチャーだろう。炭治郎の瞳から視線を逸らさないまま、Selbstverletzung(自傷)とカルテに走り書きをする。民尾は足を組み替えて、ひとつ唸った。
    「俺の血を舐めてるときは、すごく嬉しそうな顔をしてくれるから、それが嬉しかったんですけど……段々つらくなってきて」
    「……それは、そうだろうね」
    「やっぱり痛いですし、それに、先が見えないのがやっぱり怖かったです。いつまでこうやっていればいいんだろう。俺が死ぬか、民尾先生……いえ、よく似たあの人が、何かの拍子に死んでしまうのが先か、って」
    「夢の中で自分を殺す勇気はあっても、やっぱり痛いんだ?」
    「それは……そうですよ。それに、血は出るとはいえ、手を切った位じゃ死なないですから。自殺なら、ひといきにうまくやれば夢から覚めてしまって、それ以上の痛みはありませんし」
    「なんだか、リアリスティックな夢だね」
    「そう……そうかもしれません」
     唐突に、少年の表情に陰りが見えた。
     心なしか俯き加減になった顔の横で、からりとまたひとつ耳飾りが揺れる。
    「だから、俺は。俺は……あの人を、この手で」
    「……殺した?」
     先を接いで民尾が呟くと、ひく、と少年の喉が震えた。
     どうやら、図星らしい。確信があった訳ではないが、これまで少年が見た夢の傾向から演繹すれば、そこに帰結するのは想像に難くなかった。患者を追い詰めるような言葉を吐くなど精神科医としてはヤブも良いところだが、これも治療の一環と言ってしまえば、そうあるべくして場は収まる。この場で主導権を握っているのは、医師である民尾の方なのだから。
     唇を噛み締めながら、少年は緩慢に頷いた。まるで、罪を受け入れる囚人のような態度で。
    「……はい」
    「どうやって?」
    「あまり……覚えてないです。だけど、首を斬ったのは確かです。その人の頭が、俺の足下に転がって。文字の刻んである瞳が、こっちを見て。だけど、だんだん首も身体も、粉みたいになって、消えて……」
     そうして、炭治郎は一瞬、唇を閉ざした。言い淀んだ口の中で転がして。まるで、苦い薬を無理に飲み下すように。或いは、溶けていく甘露を名残惜しく味わうように。
    「だから俺、その人の肉を食べたんです」
    「肉を?」
     思わず、民尾は目を見開いた。勿忘草色の光彩が震え、茫洋とした色に睫毛の影が落ちる。それを見据えて、少年は柔らかく微笑んだ。
    「はい。だって……悲しかったから」
    「悲しかった……」
    「そうなんです。この人を俺のエゴで生かして、殺して。それで、なんにも残さずに消えてしまうなんてって思ったら、とってもさみしくなったんです。だから……急いで首を拾い上げて、ほっぺの肉を一口、囓りました。消えちゃう前に飲み込めたから、食べられたと思ったんですけど……」
     少年の語り口はあくまで穏やかで、寧ろ慈愛すら感じられるほどの温もりが宿っていた。夢の中とは言え、ひとの姿をした生き物を喰うという、紛れもない禁忌を語っているというのに。
     それを見ている内に、次第に民尾の内側には冷めた感情が満たされつつあった。少年の口調が熱を帯びるにつれて、自分の温度を代わりに温度を吸い取られているかのように。それはある種の樹氷にも似ていて、胸の奥深くに降り積もっては、民尾の意識を指向づけていく。民尾の意識を縛っていく。ある、ひとつの結論へと辿り着かせるために。それ以外の言葉を塞ぐ、氷の迷路となって。
    「ねえ、炭治郎くん」
     すい、とテーブル越しに顔を近づけて。
    「美味しかった? 俺の肉は」
     柔らかく、つめたいものを含ませた言葉。
     俺の、の部分をわざと強調して、民尾は微笑んだ。無論、夢の中で見たという鬼と、いま現実に相対している医師である自分が同じであるわけがない。それを、この少年が理解できているか。そう、これはこの少年がどれほど夢と現実を隔てられているかの試金石だ。そんな言い訳を理性に突きつけて、民尾はにこにことただ、嘲い続けた。
    「は……」
     少年がぽかりと口を開く。それを気にする素振りもなく、民尾はたたみかけた。
    「ねえ、教えてよ」
    「民尾先生……それって、治療に関係がありますか」
    「ううん、純然たる興味さ」
     悪びれもせずに、首を横に振る。
    「君はそんなことくらいで気を悪くしないって知ってるから、聞いてるんだ。竈門炭治郎くん」
     意地の悪い質問だとは百も承知だ。そのために、した質問なのだから。そんな当てつけがましい意図を微笑みの下に隠しながら、民尾はカルテをまたペン先でこつ、と叩いた。
     少年は膝に手をやったまましばらく俯いていたが、やがて、意を決したように口を開いた。
    「……わかりません、でした」
    「わからない?」
    「夢の中の俺は……ぼろぼろ泣いてて。それで、涙が口に入って、塩辛くて。それで、その味しか、何も」
    「ふうん……」
    「だけど」
    「だけど?」
    「民尾先生の骨……綺麗でした」
     ほう、と炭治郎は息を吐く。
    「消えていく一瞬、肉の欠片の中に見えただけでしたけど、淡いピンク色をした骨が、赤黒い肉の中ににゅっと突き立って……なんででしょう。それを見ていたらすごく、泣きたくなって、だって、綺麗すぎたから」
     少年の語り口が、次第に狂熱を帯びていく。慈愛を通り過ぎた、強すぎる温度。まるで掌の中にいる小さな獣を労るつもりが握り潰してしまう幼子のような、ひたむきな凶気。紅い瞳が燃え上がり、危ういほどの光を放ち始める。
     それでも、炭治郎の言葉は止まらない。いつの間にか、このふたり舞台の主役は、彼に移っていた。民尾は、ただの相手役にしか過ぎない。彼の言葉を引き立たせる為だけに存在する、舞台装置。そんな、錯覚さえ覚えてしまうほどに。彼は。
     やめろ。
     もう聞きたくない。
     そう、口に出せば済むはずなのに。自分から切り出しておいて悪かったと、そう、告げれば良いだけなのに。
     唇は震えたまま、言葉を紡がない。瞳が震えている。情景を砕いている。見たくないものを取捨するために。時間を切り刻んで。
    「悲しくて涙が出るんじゃないんです。ああ、こんな綺麗なものがこの人の中には眠っていたんだって、そう思ったら、泣きたいくらいに嬉しくて」
     やめろ。
     頼むから。

     俺に分かる言葉で話すな。

     鋭い音が、空間を切った。
     はたと気がつけば、手にしたカルテを取り落としていた。かはりと開いた喉に、空調の効いた無機質な冷気が滑り込む。民尾の内側を、涼やかに満たす空気。ああ、こんなに身体に熱が籠もっていたのか。あんなに、胸の中はつめたかったのに。
     床に転がるバインダーを拾い上げる。手が震えて、うまく指が曲げられない。爪で床とバインダーの間をひっかけて、ようやく握りしめることができた。顔を上げたところで、炭治郎と目が合う。先程の潤んだ熱は既に消えた、ただ赤いだけの瞳。
    「あ……ごめんなさい」
     民尾は応えなかった。
     今の自分はどういう顔をしているだろう。知りたくない。だけど、見られてしまっている。他ならぬ、このいけ好かないガキに。
    「流石に、夢とはいえ失礼ですよね……自分が食べられる話なんて」
    「そうじゃない」
     遮るように、民尾は首を振った。
    「綺麗だっていわれるような人間じゃないんだよ、俺は」
     やっと、思い至る。何日か前、あの運動場で感じた恐怖の正体に。
     この少年と、同じものを見るのが怖かった。相容れないはずの彼と、溶け合ってしまうことが、たまらなく。
     彼の温かな心根を、それに付随したひたむきなまでの狂気を、知ってしまいたくない。理解したくない。受け入れてしまった先にいるのが、本当に今までの自分なのか、わからないから。だから、怖い。そういう、類いの。
     それが医師としての立場からなのか、魘夢民尾というひとりの人間としてなのかは、分かち難く溶け合って、判別はまだつかないけれど。
    「……悪かったね。自分から聞いておいて」
     平静を装いながら、民尾は無理に笑顔を作った。
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