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    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

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    斑猫ゆき

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    精神科の患者タンジロと医者タミオチャンの炭魘⑥です。直接的な表現はありませんが性行為の描写があります。相変わらず何でも許せる人向け。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    ジョハリの箱庭・Ⅵ『盲点』(2/2)

     夕食を終えて、弛緩した空気が部屋には流れていた。くちくなった腹を持て余しながら、民尾はリクライニングチェアに座りぼんやりとコレクションの棚を見つめている。四八五系の丸みを帯びた赤いラインが、ディスプレイボックスに反射する光で滲んで、白く塗りつぶされていた。首を揺らすと、角度のせいで丁度光が凝集され、民尾の目を刺す。思わず床を蹴り、椅子を回転させて身体全体を逸らした。
     半回転して後ろを向けば、炭治郎がベッドに腰掛けてうつらうつら船を漕いでいるのが見えた。民尾を待っているつもりなのかも知れないが、別に頼んだつもりもない。寧ろ炭治郎が寝ている間しか実質的に民尾に自由はないのだから、良い迷惑だ。穏やかな微笑みの皮を被って、民尾は立ち上がる。
    「いいよ、寝てな」
    「いえ、そんな」
     かぶりを振ったつもりが、遠心力にすら負けてベッドに倒れ込む始末。よろけてシーツの上に手を突いた彼が身を起こす前に、民尾はベッドの脇まで歩み寄っていた。転がった身体に敷布をかけてやりながら、意地悪く笑う。 
    「じゃあ俺が、仕事の邪魔になるからって言ったら寝てくれる?」
     瞬間、炭治郎の肩が跳ねた。
    「冗談だよ」
     くすくすと笑って、民尾はベッドに腰掛ける。炭治郎の背中を緩く叩いてやると、気が抜けたのか、大きく息を吐き出した。敷布越しに、肌が震えているのが分かった。見上げてくる大きな瞳は、不安に揺れる赤子のように濡れて。からり、と音を立てて花札のような飾りが揺れる。
     ふいと、炭治郎が口を開いた。
    「先生、最近なんだか意地悪ですね。まるで、お医者様じゃないみたい」
     差し出された炭治郎の言葉に、今度は民尾の眉が寄る番だった。
     響きこそ眠気に浚われて胡乱ではあったが、その根底にはどこか確信のようなものが感じられた。首筋を嫌な汗が伝う。返す言葉を図りかねて、民尾は唇をちいさく震わせる。けれど、口の中がからからに乾いて、ただ苦い味だけが言葉の代わりに染み出してくるばかりで。
     見下ろした赤い目に、悪意は感じられなかった。寧ろ唐突に黙りこくった民尾を慮るように、しきりに首を傾げている。それを見る限り、あの言葉も彼にとっては何気無い冗談なのかも知れない。ただ、民尾の内側にひどく鋭い響きを持って食い込んでしまったというだけで。こめかみが鈍く痛む。まるで噛み合わない歯車が、悲鳴を上げて軋むように。
    「お医者様だよ。だから、もうお眠り。患者は医者の言うことを聞くものだよ」
     すみません、と俯いて、炭治郎は敷布の中に頭まで潜り込む。すぐに聞こえ出した規則的な息を聞き届けてから、民尾はそっとベッドから腰を上げた。彼を起こさないように。もう、しばらくはあの紅い瞳も、穏やかな声も、揺れる耳飾りも、感じ取りたくはなかったから。
     ……良くない傾向だ。
     苦々しく、民尾は唇を噛む。
     やはり、一緒に暮らすことで必要以上に気安くなっているきらいはあるのだろう。治療には有効かも知れないが、こんどはこっちの胃が持たないかもしれない。自嘲を込めて笑いながら、民尾は立ち上がる。そろそろ、今日の報告メールを打たなくては。そんな義務感で心を急かして、言いようのない不安を振り払って。
     ちらりとベッドの脇にあるチェストを見やれば、あの人形の家が、ランプシェードの脇から顔を覗かせていた。気怠い暖色の光に照らされて、ふたつの人形が影に縁取られている。市松模様の服を着た炭治郎を象った人形と、黒髪に、おそらく白衣を現わした地のままの白色の胴体をした民尾の人形。浮き上がった微細な凹凸が、それが相応の手数をもって形作られたことを暗に主張しているようだった。あの少年の年齢にしては無骨な指先が、必死で粘土細工をこねくり回している様子を瞼の裏で想像しながら、民尾は手を伸ばす。
     今のうちに、これを壊したら炭治郎はどんな顔をするだろうか。
     泣くだろうか、怒るだろうか。
     それとも、民尾を哀れむのだろうか。こんな、八つ当たりなんてして、と彼の内側を見透かして。
     彼の慈悲に溢れたまなざしが脳裏を掠めて、民尾は手を引っ込める。それからゆるく首を振ると、リクライニングチェアの元へと足を向けた。そうしてPCに向かい合ってメールソフトを立ち上げたまではよかったものの、今日は何故か筆が進まない。どう、まとめれば良いものか。顎に手を当てて、ふうむ、とひとつ首を傾げる。
     どうにも、主観が入りすぎてしまっている気がしてならない。今日の出来事。炭治郎に対する形容。どこが、とは言いきれないものの、端々から手前勝手な主張が見え隠れしているように感じられて仕方がなかった。そんな、夢の中の論理にも似た浮ついた文章ばかりを打っては消して。
    「あ、っと」
     思わず、民尾は声を上げる。タッチパッドにひっかかったカーソルが暴れて、右上の送信ボタンを押してしまっていた。キャンセルを押す間もなく、画面の中央には『送信完了』の文字が表示される。まだ、冒頭の挨拶しか打っていないというのに。
     一瞬背筋が冷えたが、別に取り返せないミスでもない。これから本文を書いたら、謝罪の言葉を添えてもう一度送り直せば良いだけの話だ。
     大きく深呼吸して、民尾はディスプレイに向き直った。なるたけ私情を排して、ただ見たまま、聞いたままを記述するように努める。先入観は、恣意的な情報は、単なる記号としての情報を、心を蝕む毒へと変える。変化はたいていの場合退化である。それが、所長の持論。であれば、自分はそれに従うまで。それが、この施設に迎え入れられた医者として、研究者としての務めだと。自分に言い聞かせて、民尾はただキーボードを繰る。
     ほどなくして、通知音とともに画面に小さなポップアップが浮かんだ。表題は新着メールの知らせ。民尾は頬を引き攣らせる。
     施設配給のこのPCでは、アドレスを知っている人間は所長と数人の同僚しかいない。だとしたら、先程のミスを指摘する旨だろうか。引き攣れた頬が、そのまま強ばって唇が半開きになる。おそるおそる、民尾はメールをクリックした。
     宛先を見て、息を呑む。鬼舞辻所長からだ。早鐘を打つ心臓が、意味の無い呻きを喉元に上らせる。心の中でひたすら平身低頭しつつ、民尾は目を限界まで細めながら本文を見た。数行にまとめられた文章の先頭には略辞と、それから。

    『人形の家については取り上げずに経過を観察して欲しい。そして竈門炭治郎は引き続き魘夢の部屋で面倒を見ること』
     
    「は……?」
     思わず、民尾は書き途中のメールの文面を確認する。二度、三度と、ほんの短い文面をなぞって、その度息を呑む。そうして次は、所長からのメールと、そのタイムスタンプを見直して。けれど、駄目だ。ぼんやりとした光を放つ画面がいくら切り変わろうと、そこに書かれている文面は変わらない。そう、民尾には見えているのだから。
    「なんで……」
     震える唇から、やっとの事で言葉が転がり出る。
     人形の家についてはこれから記述しようとは思っていたが、誤送信をやらかした時点では一行たりとも打ち込んではいない。だとしたら、何故。
     戦慄した指が、てんでばらばらにキーボードを叩いた。意味の無い文字列が、勢いのままに画面を占領し始める。我に返ってバックスペースキーを押し続けても、今度は本来の文面すら飲み込んで。
     どうしてか、思い出す。子供の頃にやっていたロールプレイングゲームの一幕。ダンジョンでワープの魔法を使うと、稀に四方を壁に囲まれた密室に飛ばされてしまう。魔法が使える回数が残っていればいいが、尽きていればそこでゲームオーバー。石の中にいる、というメッセージだけが嘲うように何度でもスクロールされる。黒い画面に映し出される文字を見て、何度歯噛みしたことか。過去にあった苦い記憶が、ほんの少しだけ民尾の逆立った意識を宥める。そんな、事態の類型でしかない記憶。恐怖を和らげるために、脳が掘り返しただけの。事態の解決を諦めた無意識が、きゅらきゅらとそんな益体のない情報を繰り出し続ける。
     民尾は振り返り、天井を見渡す。施設の来歴からして、部屋毎に監視カメラくらい設置されていてもおかしくはない。そこから提供される情報を元に、予め民尾からの報告内容を想定して機械的に送り返しているという可能性だってあるのではないか。民尾がこの施設の職員だとすれば何のため、そんな労力を所長自ら裂く必要があるのだという反証は努めて無視して。
     部屋の角、チェストの陰、コレクションケースの奥、本棚の隙間。それらしき場所に、片っ端から目を凝らしてみせる。おそらく、カメラがあるとしたら部屋全体を見渡せる場所にある。そんな当て推量で視線を滑らせるけれども、一向にそれらしきものは見つからなかった。
     痺れを切らし、白衣を翻して民尾は立ち上がった。そうして、首から提げた職員用のIDカードを改めて手に取った。そこには『鬼舞辻総合診療所』の施設名と、職員の肩書きが確かに刻まれている。そして、それらと共に並ぶアルカイックな微笑みを浮かべる自分の写真と、『魘夢民尾』の名前も。
     そう、そうだ。自分はこの療養所に勤める医師のひとりだ。そうでなければ、今手にしているこの身分証は何だ。自分に言い聞かせるように、民尾はカードを握りしめる。軟質ケースの端が掌に食い込んで染みるけれど、それだって何の軛にもならない。
     ほとんど駆け出しそうな足取りで、民尾は廊下に出た。白い壁にも、黒い鏡になった夜の窓も無視して、角を曲がり、エレベーターの前まで一息に辿り着く。IDカードを操作盤にかざすと、すぐに扉が開いた。その事実が民尾の自意識を僅かながら慰める。急いた足取りで乗り込んで行き先のボタンを押すと、程なく動き始めた。移り変わる階数ランプすらもどかしくて、何度も爪先で床を叩く。
     目指すのは二階の資料保管室だった。あそこなら、今まで受け持った患者のカルテが保管されているはずだ。それを見れば、はっきりする。自分が今までここで幾人もの患者と向き合い、治療し、過ごしてきた過程も結果も、全て。
     やがて、エレベーターのドアが開いた。明かりの落とされた廊下には、青黒い闇が蟠っている。一歩踏み出せば空調すら途切れて、纏わりつく湿度が民尾の足を引く。それを振り払って、液状化した夜の中、ただひたすらに足を動かした。滲む汗を、窓から射す月の光が舐め上げて。
     資料室は、三階を挟んで民尾の部屋の丁度真下にある。足早に廊下を曲がり、タッチパネルにカードを押しつけると、錠の外れる音がした。戸を乱暴に引いて、民尾は部屋の中に転がり込む。教室ほどの広さの室内には、鉄製の書棚が三つ、中央に配置され、壁際も全て本棚で囲まれている。
     手始めに入り口に一番近い棚に手を伸ばす。ファイルが差された箱ごと引っこ抜いて、一番表にあったものを取り出す。天井近くに開いた窓から差す月明かりだけでざっと内容に目を通すと、見慣れないアルファベットの並びが読み取れた。おそらく、ラテン語で書かれたものだろう。同僚のひとりが好んでこの言語を使っていたなと、胡乱な記憶が今さらながら浮かぶ、舌打ちして、民尾は箱を書棚に戻しかけて、すぐに思い直す。この行動も全て監視されているとしたら、自分のカルテが見つかるまでひっくり返している暇はない。だとすれば。
     民尾は箱を手にしたまま、踵を返した。
     そうして、自分の部屋に戻ると、再びパソコンのディスプレイに向き直った。支給品のこのPCでアクセスできるうちのひとつに、多言語翻訳サイトがある。ラテン語を翻訳できるかはわからないが、意味が分かれば何かしらの繋がりが見えるかも知れない。例えば、民尾が同僚と共同で診ていた患者である、とか。
     まずは一枚目は、若い女性のものだった。切り揃えられた前髪の下で、虚ろな黒い目がこちらを睨み付けている。垂れ下がった三つ編みが痩せた胸元に降りて、華奢な身体を三つに切り分けていた。それを一瞥して、民尾は記載されたアルファベットの羅列を入力していく。
     ゆっくりと翻訳のボタンを押すと、ボックスの中に日本語が表示される。カタカナで構成されたその言葉を、民尾はゆっくりと口にする。
    「Luciola cruciata(ゲンジボタル)、Lycoris radiata(ヒガンバナ)……?」
     そこまで読み取って、民尾は口に手を当てた。唇の皮膚を伝って、細かな振動が全身に広がっていく気すらする。心臓を掠めた陰が、つめたく腹の底へと落ちていく。
     ラテン語の発音は、殆どローマ字読みで対応することが出来る。そんな雑学を耳にしたのはどこでだったろうか。そんなどうでも良いことは頭に浮かぶのに、口に出した言葉は唇の震えに巻き込まれて、うまく言葉を紡ぎ出せない。読み方は分かっても、舌がもつれて、歯の根が合わなくて。
     クリップでまとめられた書類を次々に捲り、翻訳にかけていく。その度に、右上に貼られた患者の写真が、民尾を嘲うようにゆらと光を渡らせていた。文字を打ち、画面を見て、書類をめくり。その度に、唇を凍らせて。
    それを何度繰り返した頃か、民尾は諦めたように背もたれに身体を預けた。
     結局、カルテに記されていた言葉は、ほとんどが何かしらの動植物の学名だった。精神医学には何の関係もない、それだけで完結し、意味の途絶された、ただの名詞。隠語だとしても、ラテン語で書いた上に象徴化する意味が分からない。一般に馴染みのない言語という時点で、患者の意識を遠ざけるという意図は充分満たしているのだから。
     髪を掻き毟って、民尾は首を振る。まとわりついた日々の澱を削り取るように、そうやって記憶を掘り返す。自分は医者で、魘夢民尾だと。全ての物証が抜け落ちた今、記憶だけがただ証明だった。けれど、既に疑念を持ち始めた脳は、疑問だけを吐き出し始める。整合性をとうに揃えられなくなったという、エラーコードだけが募って。
     鬼舞辻所長と、同僚と、最後に顔を合わせたのはいつだったか。
     そもそも、所長の顔かたちは、同僚達の名前は。
     そして、医師免許はどこにある?
     視界が明滅している。眼球が揺れて、像を結ぶことを拒否している。見たくないものを、信じられないものを追い出すために。けれど、既に遅い。伝わってしまった情報は、とうに頭の中を駆け巡ってしまっている。忘れることも出来ない速度で、かたちを結んでしまって。
    「なんなんだ、これ。何だっていうんだよ」
     民尾は天井に向けてカルテを投げつけた。跳ね上がったクリップの金具が咥えていた書類を放して、宙に舞い上げる。
    「俺は医者だ、精神科医だ。魘夢民尾だ。それ以外の、何物でも無い。人喰い鬼でも、電車に出没する変質者でも、夢と現実の区別がつかない子供でも、ましてや病人でもない! 此処に居る俺は、俺は……」
     威勢良く吐き出されたはずの声が、弱々しく尾を引いて消えていく。まき散らされたカルテが、文字をその身に踊らせて、ゆっくりと床に降りていった。そうして言葉は地に落ちる。何の意味も結ばずに。
     全てが悪い夢のように思えた。理不尽で、整合性のない、つぎはぎの世界。いっそこの場で舌を噛めば、目覚めることができるだろうか。夢の自分を殺せば、また違う自分が現に目覚めるとしたら。
     けれど、だとすると。
     夢の中で死んだ自分は、世界は、何処へ。
    「民尾先生……?」
     差し出された声に、民尾は顔を上げる。見れば、炭治郎がベッドから身を起こして、こちらを仰いでいた。気の抜けた色の電灯の下で、赤い目が。全てを見透かしたような、あの目が、民尾を見ている。
    「……ああ、起きたの」
     いま、自分はどういう顔をしているだろうか。
     そもそも、いまの自分に顔があるかどうかすら、分からないけれど。
    「聞いてた? 今の」
    「……はい」
     俯くように、炭治郎は頷く。
    「とんだお笑いぐさだよ。自分は医者だ、なんて言っておいて」
     芝居がかった仕草で笑うと、民尾はベッドに歩み寄る。そうして腰を下ろすと、炭治郎の顔をまじまじと覗き込む。あまりに近づきすぎた距離に、炭治郎が一瞬身を引かせても、お構いなしに間を詰め直す。そうして、唇を歪めて、笑った。
    「結局、俺が一番おかしかったんだ。いっつもそう。だって……」
     ひといきに吐き出そうとした言葉。
     けれど、その先が紡がれることはなかった。
     かさついた感触が、口元に触れる。息を、言葉を押し留めるそれが、炭治郎の唇だと、遅れて気づく。かたく閉じられた瞼が、ほんの僅かな距離に映る。掴まれた手首が、軋むように痛む。
     身悶えして振り切ろうとしても、少年の力は存外に強い。酸素を乞うた酸素が、喉を震わせる。それでも、唇は重ねられたままで。
     やがて、少年の方も息が詰まったのか、大きく咳き込みながら唇を離した。気道に滑り込む空気が、やけに冷え冷えと感じられる。後ろ手にベッドの上でよろめいた民尾の背を、炭治郎の腕が支えた。
    「大丈夫です、先生。俺が民尾先生はおかしくなんかないって保証します」
     大きく肩で息をしながら、切れ切れに。それでも、確固とした力強さを持って。
    「ここには、俺たちふたりしかいないんです。それなら、他の誰がなんて言ったって関係ないじゃないですか。俺は、民尾先生にたくさん勇気づけられました。俺にとって、民尾先生は間違いなくお医者様です」
     その言葉にはくと瞬きを返して、民尾は紅い瞳を覗き込んだ。それは相変わらず静かに燃える炎のように鮮やかな光を湛えていたけれど、不思議と嫌悪は感じなかった。眩しすぎる光が、今はひどく温かく感じて。
     民尾はおずおずと、彼の名を呼ぶ。
    「……炭治郎」
     口に出してから、気づく。初めて彼を呼び捨てにしたことを。
     呼び直そうかと思ったけれど、すんでのところで押しとどめる。それが、なぜだか今はいやに他人行儀な呼び方に思えて。
    「本当に?」
    「……はい、ごめんなさい。さっきはお医者様じゃないみたいなんて言って」
     炭治郎は所在なげに頭を掻く。それを見て、笑みが民尾の唇を滑った。
     再び距離を詰めて、唇が触れそうなほどに近づく。驚きに見開かれた赫灼の瞳。それを無視して民尾は炭治郎の首に腕を回して、ぐいと引き倒した。民尾の身体の上に、少年の筋肉質なそれがバランスを崩してもつれ込む。熱が、匂いが、これ以上ないほどに近づいて。
    「た……民尾先生?」
    「じゃあ、証明してよ。俺はここにいるって。言葉じゃなくて、行動で示して」
    「え……」
     途切れた声。沈黙がふたりの間に降りて、固まる。それから数秒。
     汚い駆け引きだと、我ながら思う。けれど、仕方がない。それしか知らないから。首筋に顔を埋めて息を吹きかければ、少年の身体がびくりと跳ねるのが分かった。初心な反応を嘲うように、民尾は片目を閉じてみせる。そうして、少年の足の付け根を自分の腿で擦って。
    「大丈夫、俺の言うとおりすればいいから。それとも、なあに、君の覚悟ってそんなもの?」
     二度、三度と股の間に足を滑らせるのを繰り返すうち、少年の吐息が熱くなっていく。苦しげに眉を寄せながら、少年が僅かに視線を逸らす。漸く民尾の意図するところに気づいたのだろう。身を起こそうにも、既に民尾の四肢に絡め取られて逃げ出す事も叶わない。
     炭治郎は意を決したように一つ息を吸い込むと、耳元に手を遣った。
    「えっと、あの……少しだけ、待ってください。ピアス外すので」
    「……そんなことしなくてもいいのに」
     くすくすと笑うと、炭治郎は照れたように頭を掻いた。
    「危ないですし、何というか、ちょっと。後ろめたくて」
     涼やかな音がふたりの間を一瞬だけ裂いて、すぐに消える。そうしてサイドチェストの上、人形の家の隣に外したピアスを置いてから、炭治郎は改めて民尾の肩を捕まえる。それを薄笑みで受け入れながら、民尾は照明のスイッチに手を伸ばした。

         *

     水を含んだように重たい身体を起こして、民尾は着衣を整えていた。シャツのボタンを留めて、下衣をはき直す。それから、白衣の裾を念入りに伸ばした。何故か炭治郎が白衣を脱がすことを嫌がったから、多分背中の方は皺になってしまっているだろう。明かりの落とされた部屋の中で、神経質なまでに光を反射して薄青く浮かび上がる白い生地。裾を引っ張る度に、空調が吸いきれなかった汗の臭いが主張を露わにした。
     炭治郎は入院着に袖を通しているところだった。普段は後ろに撫で付けている髪が額に落ちるのが、やけに扇情的に見える。民尾の視線に気づいたのか、気の抜けた顔で笑い、すぐに視線を逸らした。
     行為が終わってほどなく、炭治郎は緊張の糸が途切れたのか眠り込んでしまっていたが、すぐに目を覚まして平謝りし始めた。曰く、気持ちよくなるだけなって勝手に寝るなんて、申し訳ないと。やたらに生真面目に過ぎる謝罪を民尾は指さして笑ったのだったっけ。そんな、一瞬前の過去。腰の辺りに蟠る鈍痛が、しきりに一部始終を思い出させて。
     とはいえ民尾の方も経験らしい経験がある訳でもない。遙か昔、放蕩に身を費やしていた頃に、見聞を広めるために性行為というものを体験してみようと思ったことはある。けれど、他人と関わるという時点で面倒になって、やめた。あとにはそれを実行するための知識のみが嫌に詳細に残っただけ。それだって、今は確かな記憶とは言えないけれど。
     炭治郎は身を起こすと、民尾の隣に座り直した。近すぎもせず、遠すぎもしない、一定の距離を保って。
    「……また、夢を見ました」
    「そう」
    「ねえ、民尾先生。聞いてくれますか。俺の夢の話」
    「……もう、俺は先生じゃないよ」
     自分が医者だなんて、ただの妄想だった。
     そうでなくても患者と一線を越えた医師など、見逃されるはずもない。どちらにしろ、自分にはもう拠り所なんてない。民尾の正気を担保すると言い切った、この少年の他には。
     ゆるりと、民尾は部屋の中を見渡す。この一幕も、どこかで見られているのだろうか。夢を覗くように、無遠慮に、無秩序に。首をひと巡りさせてから、諦めたように深く息を吐く。それを受け止めて、炭治郎は民尾の手を優しく握りしめた。
    「でも、俺にとっては先生です」
     伝わる熱と共に、差し出される言葉。
     それを前にして、民尾はただ視線を彷徨わせるばかりだった。重ねられた手と、まっすぐに見つめる瞳を、往復して、戸惑って。そうして、くしゃりと顔を歪めて、笑って。
    「いいよ、勝手に話しな」
     手を振り払い、背中を向けて寝転がれば、後ろから抱きしめられる。再び濃密になる若い匂い。先程の行為を思い出して、ほんの少しだけ身を固くしたけれど、そこから続くものは声だけだ。首元で語られる言葉はむず痒くて、けれどどこか遠いような気がした。
    「夢の中では、また俺は鬼狩りの剣士になっていました。鬼になった人達の首を斬る度に、感じるんです。悲しみと、後悔を。それを感じる度に、俺はやりきれない気持ちになるんです。でも、鬼になってしまった後に犯してしまった罪は、罪ですから。首を斬るしかしかなくて」
    「ふうん」
    「それで、俺は民尾先生に会うんです。夢の中の民尾先生はお医者様なんですけど、悪いお医者様で、治る見込みのない患者さんに暗示を掛けて、健康になったと思わせて手遅れになった後に全部嘘だってバラすっていうのを繰り返していました」
    「あはは、酷いなぁ。それ、今の俺に言う?」
    「ごめんなさい……でも、民尾先生言いましたよね。勝手に話せって。なので勝手に話すんですけど……」
    「うん」
    「夢の中の俺は、それを知ってすごく怒りました。人の心に土足で踏み込むな、って。けれど、民尾先生はどこ吹く風で。それを見て、俺は思うんです。ああ、また遅かったって。きっとこの人は、ひとのままで鬼みたいな心を持たなければ生きられなかったんだろうって」
    「ひどい言い草だなぁ」
    「夢の中の先生も、そう言ってました。同情なんていらないって。だけど、放っておけなくて、俺、後を追いかけていったんです。だけど、見失っちゃって。それで……」
    「それで?」
    「……真夜中になった頃、やっと俺は民尾先生を見つけました。でも、それこそ遅かったんです。先生は鬼に襲われて、お腹を食い破られていて……一目見て、わかるんです。ああ、もうこれは手遅れだなって。でも、先生の顔はすごく幸せそうで、笑って……」
     涙を滲ませた声が、切れ切れになっていく。けれど、反面響きは熱を持ち始め、恍惚すら感じられるほどに高まっていく。吐息と共に首筋に吹きかけられるそれが、もどかしいくらいにくすぐったい。先程の余韻が、肌の深いところを伝って身体を蕩かしていく。けれど、伝導する熱は民尾の内側に伝わる前に放散していくばかりで。
     彼の言葉を拾い上げて検分しても、それを完全に把握しきることはおよそ不可能だった。言葉の拙さばかりではない。夢を構成する彼だけの来歴が、言葉の網目から零れていく事実が、埋まらない間隙をひとこと毎に広げ続けている。彼の認識と民尾の想像の間には、ただ差が開くばかりで。いくら言葉を尽くそうと、夢の仔細を完全に共有することなど出来ない。そんな諦観ばかりが、民尾の胸を満たして、溢れて。
     ふいと、泡が立ち上るように、記憶の底から湧き出すものがある。いつかに読んだ寓話。深い穴ぐらの底に閉じ込められた兄妹の話。食物と水だけは潤沢にあるその場所で、ふたりは不幸にも日々健康に暮らしていくことになる。脱出の試みは悉く失敗に終わり、ただ健全な肉体に窖の形に歪んだ精神が宿るばかり。積み重なっていく苦悩の果てに、あるとき兄妹は交わり子孫を残す。脱出の望みを次の世代に繋いでいけるのなら、自分達の生は無駄ではなかったのだと。そう、理性に、外の世界の倫理に、言い聞かせて。
     けれど、それだってただの例え話でしかない。この事象を現わすには足りない、ただの類型。これまでに知った出来事の内から相似形のものを当てはめて、不安を和らげるための。
     背を向けて、民尾は立ち上がった。
     靴も履かずに床に降りる。つめたさが鈍く、足の裏に染んだ。
    「……知らない」
     そうして、一言だけ吐き捨てる。
     生に意味を見出すために、傷を舐め合わなければならないのなら。
     なら、ひとりでいい。
    「民尾先生?」
     傷を舐め合うために共にいるのならば、傷が癒えたあとはどうすればいい?
     閉じ込められた部屋に合うかたちに歪められた自分達が、そこからもし解放されるときが来たのなら。いびつな心を絡み合わせたまま、尚も結びついていられるだろうか。目の前の彼が、生来の純粋な気質を取り戻したとき、自分を省みてくれるのか。そんな、自虐に過ぎる疑問ばかりが脳裏に鮮やかで。
    「頭のおかしいガキの相手なんて、もう沢山だよ」
     吐き捨てて、民尾は白衣の裾を翻す。自分の零した言葉が、耳の中で残響する。胸の底に転がり落ちた自身の声が、こころのやわらかい部分を裂いて、引きずり出す。いつかの追憶を。
     結局、自分は子供の頃から何も変わっていない。
     わざと斜な態度をとって、嫌われるのは当たり前だと正当化して。夢現を隔てないままに、都合の悪いことを全て相手の内に、夢の中に、追い遣ってしまう。頭では理解してはいても、それは既に矯正しようもないくらいに民尾を曲げてしまっている。内側の肉を寄生した蜂に食い破られてなお殻だけで立ち続ける甲虫じみた、グロテスクな虚勢。それだけが、民尾を突き動かしていて。
     そもそも、この時この瞬間こそが、悪夢そのものじゃないか。医者だと思っていたのがただの妄想で、患者の筈だった頭のイカれたガキと身体の関係を持って。そんな、戯画的な悪夢。だとしたら、目覚めなければ。たとえここが現実だとしても、苦しむばかりならばそれは悪夢と何の違いもない。破れかぶれの意識が、正当化を始める。夢と現を混ぜ合わせた足取りが、床を覚束なく踏みしめる。
     夢で死んだ人間が現実で目覚めるのならば、現で死んだ者は夢へ帰るのだろうか。
    そんなことばかりが、薄く滲んだ視界に浮かんで、零れては頬を伝う。
    「さよなら」
     少し迷って、吐き出せたのは、そればかりで。
    「待ってください、民尾先生!」
     追い縋る手が、ほんの僅か届かず空を切るのが、感覚で分かった。投げられた声に民尾は立ち止まる。意識が追いつく先に、そうしなければならないという強迫観念めいた予感が身体を固めてしまう。ざわりと、脊髄を上ってくる悪寒。喉元で固着した叫びが、つめたく侵されて。
     これと同じ事を、前にも、俺は。
     辿り着く前に目覚めてしまったあの夢の顛末が、民尾の眼前にある景色へ重なる。変声期を迎えて響きもまるで違うはずの声が、同じ音となって。
     そうして夢が、逆流する。

    『待ってよ、民尾くん!』

     背中で聞いた声。
     それでも、幼い民尾は立ち止まらなかった。追いつかれてしまえば、振り切ったはずのものが、見えてしまう。彼の悲しそうな瞳と、壊れた鉄道模型が。車軸のひとつが真ん中からぽっきりと折れてしまった、八六二〇型の機関車が、彼の手からぶら下がっているのを。
     別に、誰が悪い訳じゃない。
     模型の扱いに慣れていない彼は力加減というものを知らなかったし、民尾もそれを計算に入れていなかった。ただ、それだけのこと。
     空色の子供部屋が、いまはただ空虚な箱庭だった。列車のなくなったジオラマがわざとらしい緑をぶちまけて、視界の端へ静かに佇んでいる。それを押しのけるようにして、民尾は扉を開け放ち廊下に出た。そのまま、階段に向けて歩み去る。故意に強く踏みしめる床板が、音を立てて軋む。
     悲しくはあったけれど、癇癪を起こした訳ではない。寧ろ、胸の内はいやに冷静だった。きっと、彼との関係は元には戻らない。いくら民尾が気にしないと言い張っても、彼の中に痼りは残るだろう。なら、いっそ全部壊してしまいたい。彼との日々がかたちを変えてしまうのなら、いますべてを清算した方がマシだと。
     階段を下る一歩手前で追いつかれ、腕を掴まれた。振りほどこうとしても、存外その力は強く、容易には離してくれなかった。
    『ねえ、待ってったら!』
    『はなしてよ……っ』
     もみ合う内に、突き出した手が彼の胸を押しのけた。よろめいた足取りが傾く。倒れ込んだ先には何もない。遙か下に、一階の床が見えた。
     急な階段は、階上から転がり落ちれば命の危険すらある。母親から飽きるほど言い聞かされてきたそれが、やっと実感を持って迫っていた。

    『炭治郎!』

     叫んで、手を伸ばす。
     けれど、彼の手を捕まえる前に、もうその身体は取り返しのつかないほど遠くに落ちてしまっている。ほんの近くにあるのに、子供の手では到底捕まえられない、遠くへ。
     悲鳴が、民尾の喉を滑った。

     あの子が死んだら。

     あの子が死んだら、夢が覚めてしまう。

     瞬間、背後から肩を捕まえられる。
     吐息と共に触れた声が、民尾を凍らせた。


    「……やっと、思い出して頂けましたか?」
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