菫青石は砕けない3「……何で」
「ん?何がでござるか?」
「何でここにいるんだよ、お前」
眉間に指を押し当てて皺を伸ばしながら、アガレスは面倒くさそうに問いかけた。ここはアガレスの実家で、当たり前みたいな顔をして玄関前にいるのは、ガープだ。アガレスの問いかけに、きょとんとしている。
見慣れた、見慣れすぎた、どこまでも他人との間合いが分かっていない剣士の、ポンコツな姿である。
「アガレス殿に会いたくなったでござる!」
「……明日学校で会うだろうが」
「そうでござるが、明日は学校に行っても別行動でござるし、今日は家にいると聞いたので」
「俺は、休みの日は家でのんびりしたいの。知ってるだろう」
「そうでござるが……」
「何だよ」
別に何も間違っていない主張をするアガレスに、ガープはしょんぼりと肩を落とした。少しずつ、少しずつガープとの距離を取ろうと努めているアガレスにとって、休みの日に押しかけられるのは困る案件だった。気持ちが揺らぐ。
……そう、ガープと過ごすことは嫌ではないのだ。心地好くて、安心出来る。自分の恋心に目を瞑れば、気心知れた相棒と過ごす時間は良いものだ。恋心に目を瞑れなくなってきたから、距離を取ろうとしているのだけれど。
そんな風にぐちゃぐちゃになった感情を必死に押し隠しているアガレスの耳に、ガープの言葉が飛び込んできた。いつもの口調で。
「ここ最近アガレス殿と一緒に過ごす時間が少なかったので、拙者、寂しかったのでござるよー」
「……ッ!」
拗ねた子供のような台詞だった。アガレスを特別の相手だと言うように、会えないことを寂しがる感情を隠しもしない。その無邪気な言葉がアガレスに与えた衝撃は、凄まじいものだった。
言われた言葉が、ではない。その言葉を告げたガープの心情を察せたからこそだ。
(お前はそうやって、何でもないことのように言うんだ……!)
あくまでもお仲間として。親しいクラスメイトとして。それ以外の感情なんてどこにも見えない、どこまでも真っ直ぐで純粋で、無垢な言葉だった。だからこそそれはアガレスの胸に突き刺さり、癒えてもいない傷口を抉って血を流させる。
何とも思っていないのに、間合いの取り方を間違えている剣士は、普通の人なら絶対に取らないような距離を取る。アガレスが必死に広げようとした距離を、適切に保とうとした立ち位置を、一足飛びに飛び越えて踏み込んでくるのだ。
踏み込まれた側のアガレスが、どれほど苦しいかなんて、考えもしない。会えて嬉しいと思ってくれるだろう?とでも言いたげな顔だ。どこまでも無遠慮で、無自覚で、無防備で、……そして、残酷だった。
「景色の綺麗な場所を見つけたのでござる。アガレス殿もきっと気に入ると」
「……俺はさぁ、綺麗な景色よりも寝たいんだけど?」
「勿論、いつものように拙者がきちんと送迎するでござる!」
「……そういうことじゃなくてさぁ」
はぁ、とアガレスは溜息をついた。今の自分が、いつも通りの態度を取れているのを褒めてやりたい気分だ。この数年で鍛えられた結果だろう。何も嬉しくないが。
ガープはアガレスの主張に、不思議そうに首を傾げている。何で?とでも言いかねない。今までだって一緒に出かけていたんだから、今日も一緒に出かけようよと言いたげである。実に子供じみている。
「別に、俺じゃなくても良いだろ」
「え?」
「綺麗な景色を見つけて、誰かと一緒に見たいってのは分かる。それなら、出不精の俺を選ばなくても、他の誰かに声をかければ良いだろ」
なるべく普通の口調で告げたつもりだが、多少言い方がキツくなってしまったのは自覚している。そんな風にガープが別の誰かを選んで、別の誰かと楽しげに過ごすのを想像すると胸が軋んだ。それでも言わずにはいられなかったのだ。
少しは、自分以外の誰かにも目を向けてもらわなければいけない。そのことに慣れてもらうのだ。そうしなければ、アガレスはガープから距離を取ることが出来ない。無意識だろうが意識的だろうが、ガープにはアガレス以外の誰かへ関心を向けてもらう必要がある。
実際、問題児クラスの仲間達や、収穫祭で共闘した面々ならば、時間さえ合えば喜んで参加してくれるだろう。そういう知り合いがガープには増えた。今のガープは、アガレスが出会った頃のように、他の皆に逃げられていたガープではないのだ。
彼の気性を理解して、お節介でお世話焼きでお人好しのガープを気に入っている者達は多い。そういう者達との交流に時間を割いてもらえれば、アガレスは助かる。アガレスが距離を取ろうとしていることに気付かせぬまま、二人の時間をズラすことが可能になるからだ。
そんなアガレスの思惑なんて知りもしないガープは、不思議そうに首を傾げて言葉を発した。やはり、その言葉は無邪気で、無垢で、アガレスの心に突き刺さる。
「拙者は、アガレス殿と見に行きたいのでござるが?」
「……お前、なぁ……」
自分が見つけた綺麗な景色を、一番のお仲間であるアガレスと共有したいと無邪気に告げてくる。ガープはいつだって直球だ。彼の言葉には偽りなんて存在しない。だからこそ、アガレスは、辛いのだ。
さぁ一緒に、とガープは顔をキラキラと輝かせている。誰の前でもガープはこんな感じで楽しそうだが、アガレスを前にしたときは特に楽しそうだった。どんな自分でも受け入れてくれる相棒への、無条件の信頼が見え隠れする。
……そんな信頼を、育てなければ良かったとアガレスが後悔しているなんて、微塵も気付かずに。自分が向ける無邪気な信頼が、アガレスをどれほど追い詰めているかなんて、考えもせずに。
それに気付かないガープだから、ガープなのだ。そんなガープだから、出不精だったアガレスを引っ張り出して、相棒の位置に納まることが出来たのだ。分かっているから、アガレスは今、何も言えなくなる。
ガープから向けられる真っ直ぐな感情を、無碍にすることが出来ない。彼に分かる形で振り払うことが出来ない。そんなことをして悲しませるのは本意ではない。
だから結局、アガレスが折れるしかないのだ。自分が苦しむのは分かっていても、目の前の男を拒絶出来ない。その信頼を、裏切りたくないと思ってしまうからこそ。
「……俺は寝てるぞ」
「到着したら起こすでござるよ!」
「到着しても寝てるかもしれねぇぞ」
「その時は、アガレス殿が起きるまで待ってるでござる」
「……物好きめ」
呆れたようにアガレスが口にした言葉に、ガープはぱぁっと顔を喜びで染め上げた。その言葉が了承だと彼は知っている。その程度には付き合いは長く、深いのだ。
室内着のままで出かけるのはアレなので、上着を一枚引っかけるアガレス。心得たように近寄ってくるししょーの上にぽすりとうつ伏せになろうとしたのだが、それより早くガープの腕がアガレスの腰に回った。そのまま、慣れた手付きで小脇に抱えられる。
「別に、ししょーに運んでもらうけど」
「拙者がお誘いしたのだから、拙者が運ぶでござるよー!ししょー殿は、飲み物と食べ物をお願いするでござるー」
「飲み物と食べ物って何……」
「綺麗な景色を見ながら飲食すると良いと聞いたのでござる!」
にかっと笑うガープに、あっそうとアガレスはそれ以上何も言わなかった。当たり前みたいに小脇に抱えられても、文句を言うつもりはない。慣れているので。
出会った頃に比べればアガレスの身長は伸びたけれど、相変わらずガープに軽々と運ばれるのは変わらない。アガレスの身長が伸びるのと、ガープの腕力が成長するのが釣り合ってしまっているらしい。いい歳をして小脇に抱えられるのもアレなのだが、奇妙に落ち着くので仕方ない。
いざ出発!と楽しげに笑うガープの声を聞きながら、アガレスは瞼を閉じた。目を覚ましたときには彼が見つけたという綺麗な景色が待っているのだろう。少しだけ楽しみで、……広げることの出来なかった距離に心は、少しだけ、軋んだ。
今はまだ、大丈夫。耐えられる。普通の顔で、仲間の顔で、相棒の顔で、笑っていられる。自分が耐えきれなくなる前に離れなければと思いながらも、当たり前みたいに伸ばされる腕を振り払う術が、今のアガレスにはまだ、存在しなかった。