真夏の夜は 初めに夜のプールと聞いた時は、なんだかうす暗くて静かな場所を想像していた。たぶん、学校のプールのイメージが強すぎたのだと思う。直線でふちどられたプール、水色のペンキ。殺風景で、ひっそりとしていて。だけど今回招待してもらった有楽町のナイトプールは、もちろんそれとは全然違っていた。
ゴージャスで、カラフル。まさにそんな感じだった。暮れかけた空の下、そこらじゅうが輝かしくライトアップされている。楽しむべき時はこれからだと言わんばかりだった。
プールサイドに立ち並ぶ建物は南の異世界の情緒に溢れていて、黄金色に塗り染められている。そこにライトが当たってますます眩しい。水の中にライトが仕込まれているらしく、プールの中さえも光っている。いっぱいの水が光を反射して目がくらみそうだった。
遠くの方に立派な高層ビルがいくつも見える。そのたびに、ここは別世界でも何でもなく、いつもの東京だったと思い出すのだった。
あちこち見て回るうち、ある二人連れに何度か顔を合わせた。上品な物腰をした黒山羊の男性と、髪の長い竜人の男性だ。はじめまして、から始まり、次の時には、やあまた会いましたね、と声をかけられ、そのまた次のタイミングではとびきりにこやかに微笑みかけられた。どうやら自分のことを知っているらしい。こちらは見覚えがないので気まずくもあったのだけど、正直に話したら「構いませんよ」と穏やかな返事をもらったのでほっとした。
「これから仲良くなればいいのです。そうでしょう?」
そう言った竜人の男性は、ちっとも気を悪くした風もなくにこにことしている。優しくて機転の利くひとだ、と思った。
彼は、自らのことをフッキと名乗った。続けて、落ち着いた瞳をくるりと動かし、「お兄ちゃんと呼んでくれても構いませんよ。むしろ、是非そうお呼びなさい」と言い添えてくる。
「ええと……お兄ちゃん……?」
さすがにどういうことなのか分からなくて、曖昧な笑いを浮かべてしまう。それに気づいたのか気づいていないのか、フッキはとにかく嬉しそうにしていた。かしこまった様子で控えているメフィストはさておき、フッキは自分に好意を寄せてくれているらしい。ひたむきにこちらに向けられている瞳の熱っぽさや、とろけるような声音が、それを伝えて寄こしていた。
「あの……その水着を選んだのは……?」
なんというか、露出の多い水着を身に着けていた。立派な体格をしていることもあって、ちょっと目のやり場に困る。そもそも、初対面のひとの水着姿をじろじろ見るものでもないけれど。
社会的地位の高い、色々な意味で余裕がありそうなひとだ、という印象があった。だからもしかすると、誰か他のひとから贈られたものなのかもしれない、なんて考えがちらりと頭をよぎる。
「ええ。これは僕が自分で選びました」
「そうなんですか」
でも、違っていたらしい。背の高い彼は小さくうつむいて、そのぴったりとした水着に視線を送る。次の瞬間ぱっと顔を上げ、こっちを見つめたフッキは、悲しそうに眉尻を下げていた。
「変、でしょうか」
まるで、相手に気に入ってもらえなかったらどうしようとでも言わんばかりだった。それがひどくおおごとで、何よりも大事だとでもいうように。
「え? いや、そういうわけじゃなく……」
肌面積が多い、とか、目のやり場に困る――体じゃなくて顔を見ていればいいんだろうけど、何しろ顔が整っていてそれはそれで落ち着かない。しかも向こうはこっちの目をものすごく見てくるので、片時も視線を逸らすことなく見つめ合い続けることになってしまう――なんてことは言えるわけがない。肉体がどうこうとか、セクシャルな要素は当然だめだ。失礼のないように何とか言葉を探して、
「いいと思います。泳ぎやすそう、ですよね」
やっと出てきた肯定的な台詞はそれだけだった。泳ぎやすい。何しろほんのちっぽけな水着なので、泳ぐとすれば水の抵抗がなさそうなのだ。
セクハラにもならず何とか会話を繋げることもできた、とほっとしたのも束の間、フッキは困ったような微笑みをこぼした。
「ふふ、お褒めの言葉をありがとうございます。しかし僕は、水に入るつもりはないんです」
「え? プールに来ているのに?」
平凡すぎる質問をしてしまったに違いない。それは相手にとって可笑しかったらしく、フッキは目を細めて楽しそうに肩を震わせた。
「僕の体は、体温調節が不得意ですから。水に入って体温が下がると、あまり良いことがないのです」
そういえば爬虫類は変温動物といって、人間のように自力で体温を一定に保つことが難しいと聞いた覚えがある。竜人もそれに頭を悩ませていたということだろうか。
「体をたくさん覆うようなタイプの水着だと、万が一濡れてしまった時に乾きにくいでしょう? だからなるべくスマートなものを、ね」
「ええと、じゃあ一体何しにこのナイトプールへ……?」
このレジャー施設には、水に入らなくても楽しめるコースが色々と用意されている。マッサージにヘッドスパ。豪華なレストランや、しゃれたバーもあると聞いた。でもフッキとはこのプールサイドで何回も顔を合わせている。室内の娯楽に興味があるようにも見えなかった。
彼は、それはもちろん、と言って胸を張った。ひとの視線をしっかりと捉え、素早く片目をつぶってみせる。
「可愛い君よ。僕はただ、君の顔を見に来たのですよ」
*
「僕はただ、君の顔を見に来たのですよ」
その発言のどこまでが本気なのか、ちっとも分からなかった。自分の顔を見るためにナイトプールに来ただなんて嘘みたいな話のくせに、冗談かお世辞にしては熱量が高すぎる。
思わずフッキの表情を窺ったけれど、やっぱり判断がつかなかった。にやにやするどころか、当たり前のことを言ったまでというような表情をして澄ましている。まさか本気で、と思いかけた矢先、フッキの瞳がすいと細くなった。
「ふふ、固まっていますね。君よ」
「それは……」
「さっきの僕の発言で頭がいっぱいなのでしょう? それはつまり僕のことを考え、僕によって心が揺さぶられているということに他なりません。……ふふ!」
フッキはさも嬉しそうに、うっとりと笑った。
――ねえ、このひとちょっと危ないひとなのかな、なんて。こっそり相談したいのに、頼れるギルドの仲間たちは今そばにいない。
「さて、可愛い君の顔をもう少し見つめていたいところですが。もうじきお友だちが戻ってくるのでしょう?」
「う、うん」
さっきシロウから連絡があったのだ。もうじき用事も終わるらしい。バトルステージもひと段落したらしいから、ケンゴをひっぱって戻ってくるよとシロウは言っていた。
『君が膨らませてくれたビーチボールがあっただろう? せっかくだから、それで遊ぼう』
そんなことを言われて嬉しくないわけがない。待ってるよと伝えて、名残惜しく気持ちで通話を切った。
「君はどうぞ遊んでいらっしゃい。僕はここでゆっくりしていますよ」
プールサイドにはデッキチェアが並んでいる。白一色の大きな椅子はいかにもリゾートらしく、ゆったりとして見えた。そのうちのひとつを指差して、フッキは楽しそうにしている。
「この辺りは広々としている。あちこちのプールもよく見えます。きっとあなたたちは、ここか、そちらのプールで遊ぶでしょう? それならこの場所からでもよく見えますから」
ひとくちにプールと言っても、ここにはいろんなプールがある。小さなこどもでも遊べるように水深のごく浅いもの、自分たちのお腹の辺りまで水深のあるもの。くるぶしまでを濡らすような、人工的な波の打ち寄せる場所も作られている。プールにつかってボールを打ち合うなら、きっと後者のふたつだろう。それはフッキの言うように、ここからすぐ近くのところにあった。
「……フッキ」
淡いアメジスト色をした瞳と見つめあう。本当にフッキには、他の用事がないのだ。
「ねえ、ちょっとの間、ここにいてくれるかな」
「ええ。君が望むのであれば」
少し考えたことがあって、そう口に出した。理由は伝えなかったけれど、フッキはあっさりと頷く。なんだか少し、面白がっているようにも見えた。自分がいったい何をするのか、予想もつかなくて、ひとまず見守りたいというように。
どっちみち、シロウたちが戻ってくるまでまだ時間はある。フッキが優雅な所作で腰を下ろしたのをみとめ、くるりと回れ右をした。
でも結局のところ、たった数分後、ばつの悪い思いで元の場所へ帰ってくる羽目になっていた。
見覚えのある姿を目指して、ゴム草履の底をぺたぺたと言わせながらデッキチェアの方へ向かっていく。声をかけるより先に、フッキはくるりと振り向いた。
「おや? 僕に何か……」
「あなたに何か飲みものでも買ってこようと思ったんだけど。ええと、その。好きな味が分からなくって……」
ハイソでもないし、ましてや高校生だ。おしゃれなバーには入れないけれど、食べものの屋台なら外にも出ていた。リョウタが言っていたように、東京中の名店とコラボしたスイーツなんかも出ているらしい。その中には、いかにもリゾートプールらしいトロピカルな色合いのジュースやソーダフロートなんかも並んでいた。
「君の顔を見に来たのです」と言っていたフッキ。その言葉は嘘じゃないらしくて、でもそれ以外何もしないのももったいないと思った。もちろん、もったいないかどうかは本人が決めることだけれど。
フッキが自分に好意を寄せてくれている理由も、よく分からない。でも、うっとりと笑いかけてくる表情がよみがえる。そんな風に思われているのに、じゃあさようならと放置しておくのも気がとがめた。
デッキチェアのそばには、これまた真っ白なサイドテーブルが置かれている。その上に何か夏らしい飲みものの一杯くらい置かせてもらってもいいんじゃないか、なんて。つつましい財布を握りしめて屋台の方に向かったはいいものの、肝心の彼の好みが分からなかったのだった。
恰好よくは決められなかったけれど、この期に及んでもったいぶってたって仕方ない。あとは直球で行くことに決めた。
「好きな味を教えてくれないかな。それか、一緒に来てくれると……」
「――なるほど君よ、それはつまり!」
「わ、わあっ」
言うなりフッキは、弾かれたように立ち上がった。背も高く、体格もいいフッキのことだ。びっくりして、思わずおびえたような声が出てしまう。慌てて口を抑えたけれど、本人は全然気にしてなんかいないみたいだった。目を見開き、真剣な表情でこっちの顔を覗き込んでくる。思いきり顔を寄せられて、慌てて身を引いた。
「それはつまり、デートということですね!?」
「いや、そんなこと言ってないですけど」
飲みものを買いに行くだけのことであって、別にデートのつもりはない。論理の飛躍ですと突っ込むより先に、フッキの口からはつらつらと言葉が溢れ出てくる。
「ええ、ええ、お兄ちゃんには分かりますとも。あちらに出ているたくさんの屋台、それをひとつずつ見て回りましょう! 可愛い妹には僕がおやつを買ってあげましょうね。夜食にだって目をつぶって差し上げますよ。お兄ちゃんと君だけの秘密です。ふっふ!」
水を得た魚、という表現をむかし習った覚えがあるけれど、これはまさしくそうなんじゃないかと思う。落ち着きはらった様子はいったいどこへ行ったのか、興奮したように言葉を重ねるフッキを前に思わず圧倒されてしまった。
「まあいいか……」
何よりフッキは嬉しそうだ。目を輝かせ、今にも歌い出しそうですらある。誰も彼もが楽しめるなら、こんなに素敵な夏の夜もない。
「行こう、お兄ちゃん」
それまで一回も口にしなかった呼び方を使いつつ、手を差し出す。フッキはいよいよ目を丸くした。
「僕の妹は、いつだって予想を超えてくるのですね」
感心したような呟きが、艶をまとって響いた。