今日この日。江澄は顔も知らない相手のところへ嫁ぎに行く。
真っ赤な花嫁衣装に身を包み、漆黒の髪を金で出来た赤い宝石のついた簪で飾り立て、江澄は生まれ育った蓮花塢を出ていく 。
嫁ぎ先は、姑蘇。
深雲不知処。
お相手は、最も誉れ高い龍の一族、姑蘇藍氏。
その若宗主、藍曦臣に、今日この日をもって、江澄は嫁に行く。
事の始まりは数カ月前、一通の文が届いたことだった。
***
その日、いつものように門弟達と鍛錬に励んでいた江澄は、急に宗主である父、江楓眠に呼び出された。
普段より温厚で、怒ることなど滅多にない父ではあるが、急な呼び出しに江澄は何事かと緊張していた。急ぎ足で廊下を進み、父の執務室の前に立つ。一度深呼吸してから扉を二度ほど叩いた。
「父上、江晩吟です」
「入りなさい」
中から声が聞こえて、失礼します、と一声かけて扉を開けると、そこには母と姉の姿もあった。一体何事か、と驚いた江澄だったが、父の真剣な表情に只事ではない、と身を引き締める。
「これを読みなさい」
すっと、父が差し出したのは一通の文だった。
隣で姉は不安そうな顔をしており、母は不愉快そうに眉を顰めていた。怪訝に思いながら、江澄はその文を受け取り、中を開くとその差出人に驚愕した。
相手は、姑蘇藍氏の宗主、藍曦臣だったのだ。
姑蘇藍氏といえば、各世家の中でも最も優れ、最も清廉で高貴な一族と言われる竜の一族だ。
五大世家の一つではあるものの、その種族の特殊性から、他の四つの世家からも一目置かれる存在である。
そもそも姑蘇藍氏はあまり世家同士のしがらみや争いごと、利権争いなどには口を出さない。妖魔退治には積極的に手を貸すが、それ以外は、深雲不知処で静かに暮らしている一族なのだ。
それが、私信を寄越すなど、一体どういうことだ?
恐る恐る内容に目を通すと、そこには差出人以上に、驚く内容が書いてあった。
「父上……、これは一体」
思わず手元の文から顔を上げて、父に問い返せば父は深く考え込むような表情をしていた。
「見て分からないの⁉ 貴方を娶りたいと言ってきているのよ‼ 一体どういうつもりなのかしら⁉ 江澄は雲夢江氏を継ぐ者なのよ、それをっ……」
屈辱的だ、母はそう言いたいようだった。金切声で激高する母に、父は何も言わない。その様子がまた、母を怒らせた。
「江楓眠! 何とか言ったらどうなの⁉」
「母上、まだお受けすると決まったわけでは……」
何とか母を落ち着かせようとする江厭離だったが、母の怒りは収まらない。
苛立たしげにしっぽがパタパタと揺れていた。
雲夢江氏は豹の一族だ。江氏は黒豹で、江澄と姉の厭離も黒豹の血を受け継いでいたが、母の実家である眉山虞氏は雪豹だ。普段は耳もしっぽも完全に隠している母だったが、今この時ばかりは怒りが勝り、とても抑えられないのだろう。何ならそのまま完全に豹の姿に転変してしまいそうな勢いだった。
基本的に、婚姻は同種で行われる。雲夢江氏の黒豹に嫁いできた母が雪豹の一族であるように、ネコ科にはネコ科の種族を、イヌ科にはイヌ科を。そうでなければ、交配したところで、子を成すことができないからだ。
しかし、龍の一族であれば、その事情も少し異なる。
そもそも龍の同種は龍しかいない。
龍の一族である姑蘇藍氏は、たとえ異種族であっても子を成すことが出来るらしい。特殊な霊力が成せる技らしいが、それ故に、子を成す相手も男女問わない。
「三娘子、少し落ち着いて……。阿澄、お前はどうしたい」
落ち着いた様子で、妻にそう言った江楓眠は、静かに江澄を見つめた。
江澄は手元の文を再び見下ろす。
そこには流麗で歪みの一切ない美しい字で、江澄を嫁に欲しい、という旨が、丁寧に書かれている。
元々江澄には、姉と違い、許嫁のようなものが存在しない。将来、いずれは妻を娶るのだろう、とぼんやり考えていたが、まだ先の話だと思っていた。それが、自分が嫁に行く立場になろうとは、考えもしていなかったのだ。
相手は五大世家の姑蘇藍氏。同じ五大世家といえど、雲夢江氏と姑蘇藍氏には、家力に大きな隔たりがあるだろう。
相手はただの獣ではない。神獣なのだ。
男である江澄を娶りたい、と言ってきているのも神獣ならでは、と言えた。龍の血を引く姑蘇藍氏であれば、異種族の男である江澄でも、子を成すことが可能となる。
しかしそれは、男としての矜持も自尊心も全てを捨てる、ということだ。嫁ぐのであれば、子を成す覚悟をしなければならない。嫁いでおいて、子供を生みたくない、というのは単なる我儘でしかない。
しかし、嫁がない、という選択肢も実際のところは存在しない。
もし断れば、今後の雲夢江氏にとってどんな障壁となることか。
それでも、俺は今まで後継ぎとなるべくして努力してきた。それなのに、その全てを捨てるのか?
「阿澄、家のことは気にしなくて良い」
父がそう優しく声をかけてくれる。
でも
父は穏やかではあったが、江澄には厳しかった。その父の優しさが痛いほどに苦しい。
江澄は俯いて一度キツく唇を噛み締めた。そうしてから、顔を上げると、一言告げた。
「俺、行きます。姑蘇藍氏へ」
三人が軽く息を飲む音がした。
「それは、分かっているね。阿澄、お前にとって……」
「分かっています。ですが、これも何かの定めでしょう。姑蘇より、父上をお支え致します」
文を返して、一歩下がると、拱手して深く頭を下げた。
「江澄、貴方何を言っているか、分かっているの⁉」
「分かった。下がりなさい」
母が再び叫んだが、父がそう言うので、江澄は二人に一礼して部屋を退室した。部屋の中からは、母が怒鳴る声が聞こえて来た。その声に、遣る瀬無い気持ちが込み上げてくるが、かける言葉など何もなく黙ってその場を離れる。そんな江澄の後を姉の江厭離が追いかけてきた。
「阿澄」
「姉上……」
「阿澄。姑蘇が嫌になったら、いつでも戻ってきていいのよ」
そう穏やかに微笑む姉の姿に、安心して江澄はこくりと頷いた。この姉の前ではどんなに大人ぶって、強がったところで何もかも見透かされてしまう。
「大丈夫。阿澄は良い子だもの。上手くやっていけるわ」
「そう……、かな」
「そうよ。大丈夫。きっと大丈夫よ」
本当は不安で仕方がない。行きたくなんてない。
江澄は人一倍自尊心が高く、雲夢江氏の後継ぎであることを誇りに思っていた。それなのに、ただ一つの文で、その全てを捨てなければならない。
だからといって断れるわけもない。
家のことなど考えなくて良い。
父はそう言った。けれどそんなわけがない。今まで後継ぎとして奔走してきたからこそ、家のことを第一に考えなければならない。江澄には、骨の髄までその考えが浸透しているのだ。
「姉上よりも先に嫁ぐことになってしまったな」
「うふふ。貴方の晴れ姿を見ることが出来て嬉しいわ。……」
お互いに空元気を振りまいている。それが分かってた。けれど、それしかできなかった。姑蘇の深雲不知処は、龍が住まう神聖な場所故に、許可がなければ立ち入りを許されない。
嫁いで行けば、姉に会える機会はぐっと減ることだろう。
姉もそれを理解しているのだ。
「皆、行ってしまうわね」
ポツリと呟いた姉は少し寂しそうだった。皆、の中には、随分前に出て行ってしまった義兄も含まれているのだろう。
「文を出しますよ。姉上」
「そうしてね。阿澄」
子供の頃のように額にそっと口付けすると、姉は行ってしまった。
きっと寂しいのだろう。優しい人なのだ。誰よりも。何も言わずに出て行った義兄をずっと心配している。俺も随分探したが、結局見つけられなかった。
きっとお前がいたのなら、この話に憤っていたことだろう。こんなの不当だって。懐かしい思い出に、懐古の情が込み上げて来て、江澄は頭を振った。これからは忙しくなる。文に寄れば、数カ月で婚姻の準備を済ませなければならないからな。
江澄の予想どおり、それからの数カ月間は、慌ただしいほどに忙しかった。当初はかなり激しく反対していた虞紫鳶も江楓眠に説得され、渋々ではあるものの納得した。
納得してからの彼女はかなり潔く、てきぱきと準備を進めると、江澄に対しても嫁ぐ者としての心得を厳しく説いた。
そうして、婚姻の日、当日を江澄は迎えた。
***
面紗を被ったままの江澄は、父に手を引かれて、婚姻の儀を済ませた。
姑蘇の婚姻の儀は、実に質素なもので、粛々と行われるそれに、こんなに静かな婚姻もないな、と静かに息を吐いた。
花嫁は、花婿が面紗を取るまで、顔を見せられない決まりなので、江澄は儀式の最中も、宴の最中も誰が集まっているのか分からないどころか、花婿の姿さえまともに見れなかった。
見たのは、赤い花婿衣装の裾と、がっしりと大きな手だけ。
食事の際は話さない、という掟があるらしく、静かに宴が終わると、次は姑蘇の人間に手を引かれて、寝室まで連れていかれた。
臥牀に腰かけ、心を落ち着かせながら待っていると、誰かの足音がする。恐らく花婿の藍曦臣だろう。
寡黙な人物なのか、宴の際も儀式の際もほぼ話さないので、結局江澄は、藍曦臣がどんな声でどんな風に話すのかさえ分からなかった。
「震えているね」
「あ」
彼は膝に置いた江澄の手を取ると、そっとそんなことを囁いた。静かな低音で耳によく響く声だった。
「大丈夫。君が嫌がることは何もしません」
藍曦臣はそう言うと、そっと面紗を取り払った。
一気に開けた視界に、江澄は一瞬きゅっと目を瞑ってからおずおずと開く。目の前には、天上人のような美しさをもった男が立っていた。
この人が、藍曦臣。
筋の通った鼻と、薄く大きな唇。胡桃色の瞳に影を落とす長い睫毛。艶やかで長い黒髪。そして、龍族の象徴ともいうべき、瑠璃のように美しい角。
「江澄。今日は疲れたでしょう。もうお休みなさい」
彼はそう言うと、そっと江澄の頭を撫でた。そこには、緊張のあまり隠しきれなかった耳が姿を現していた。下半身には、衣装に隠れて見えはしないものの、尾が不安気に揺れている。さっと頬を朱に染めた江澄だったが、藍曦臣が手を放すと抗いようもない眠気に襲われた。
何とか抗おうと、目を擦ったり瞼をぱちぱちと瞬きさせるものの、徐々に瞼は重くなり、ついに開けることすら叶わなくなる。
そのままゆっくりと江澄は、深い眠りに落ちていくのだった。
***
翌朝。小鳥の囀りに目を覚ました江澄は、ハッと気が付いて飛び起きる。室内に藍曦臣の姿は見当たらず、豪奢に着飾っていたはずの婚姻衣装はいつの間にか脱がされ、寝衣に着替えさせられていた。
完全にやってしまった……。
江澄は思わず、その場で頭を抱えた。
本来であれば、婚姻の儀を済ませた後、そのまま初夜を迎えるのが通例である。しかし、昨夜あろうことか江澄は寝落ちてしまったのだ。おまけに、着替えまで藍曦臣にしてもらっているではないか。
自らの失態にううっと呻いた江澄だったが、ふと手に当たる感触にハッとする。振り返れば、落ち着かなさげに揺れる尻尾がそこにあるではないか。嫌な予感に改めてしっかりと頭を触れば、そこにはしっかりと柔らかな獣の耳が存在している。
思わず江澄は深い溜息をついた。
本来、獣の耳と尻尾はそう簡単に姿を表すものではない。幼い子供であればコントロールができないので、常に出しっぱなしだし、感情の高ぶりに合わせて獣の姿に転変してしまうことも、ままある出来事だ。
しかし、それが十五も過ぎればそうではない。
耳と尻尾は、隠すのが礼儀。それを露出させてしまう、ということは自身の至らなさの象徴ですらある。
何らかの儀式で、敢えて露出させることはあっても、無意識に出してしまう、というのは大変不甲斐ないことなのである。
確かに家族の間であれば、あらわにさせたまま、という場合もあるが、まだ嫁いだばかりで、ここの掟や習慣もよく理解していないのに、耳や尻尾を晒しているのは大分無礼だろう。
昨日、確かに藍曦臣は角を露出させていたが、耳と角では役割が異なるのだ。龍族に耳はなく、代わりに角がある。しかし、耳と違い角は、霊力が強く修為が高い者ほど隠すのが困難だという。故に、姑蘇藍氏の者は尾は隠しても角は隠さない。
しかし、江澄の耳はそういうわけにもいかないので、何とか引っ込めなければならない。最悪、尻尾のほうは衣の中に隠していいだろう。しかし、耳はそうもいかないのだ。
溜息をついて、とりあえず臥牀から立ち上がると、脇に衣服が置かれているのに気付く。
姑蘇藍氏の校服だった。真っ白な上衣には術が練りこまれ、護符の役割をしているようだ。薄藍色の帯には、巻雲紋が刺繍されている上品な校服だった。
それに袖を通すと、サイズはちょうど良かったが、雲夢江氏の校服とは異なるひらひらとした衣装に戸惑いを隠せない。雲夢の服は袖も裾もぴったりとしたものが多いから、こんなにゆったりとした衣装を着ることは少ない。確かに婚姻衣装もこのような衣だったが、あれはあの時の一度限りと思っていたから我慢したのだ。
しかし、これを常に着るのか。大きく開いた袖口を見ながら、再び溜息を吐いていると、静かな足音が聞こえて来た。
「江夫人。お目覚めでしょうか?」
聞こえて来た若い声にぎくりとする。姑蘇の門弟だろうか。
「あ、ああ」
「朝餉をお持ちしましたので、入ってもよろしいでしょうか?」
「大丈夫だ」
返事をすると、すっと襖が開いて、まだ年若い青年が入って来る。初めて見る顔だ。と言っても、姑蘇藍氏とはあまり交流がないし、昨日は藍曦臣以外、誰の顔も見ていないので当たり前と言えば当たり前だ。