残響-春(仮タイトル) 髭切は物心つく頃には既に弟の膝丸と共に音楽の習い事に通っていた。髭切が習っていたのはヴァイオリンとピアノで、弟の膝丸はバレエ。ヴァイオリンの日は同じ時間帯に弟もバレエのレッスンを受けていて、二人まとめて親の車で送迎されていた。しかし所要時間は膝丸の方が三十分間長かったので、髭切は膝丸のレッスンが終わるまで待つ間、ヴァイオリン教室の空き部屋を借りて暇つぶしをしていた。その日のレッスンの復習をすることもあれば、部屋のピアノを借りて練習することもあった。
小学生の頃のある春の日のこと。年度が変わってまたひとつ学年が上がった髭切に、新しく後輩ができた。その子供はヴァイオリンが初めてで楽器をまだ買っていなかったのだが、歳の割に身体が小さくて四分の四スケールの楽器を買うのは少し早そうだという話になったらしい。そこで髭切の母は、その子供に髭切が昔使っていた小さいサイズの楽器を貸し出すことを提案した。どうやらその子供と髭切の母親たちは会社の同僚で、もとから良好な関係を築いていたらしい。
その子供が初めてレッスンに来た日のこと。空き部屋で練習していた髭切が講師に呼び出されて廊下に出ると、講師の後ろから小さな白い子供がひょっこりと顔を出したのが見えた。
「国永くん。お兄さんが楽器を貸してくれるんだよ。お礼を言って、自己紹介しようね」
「鶴丸国永です……楽器、貸してくれてありがとうございます。よろしくおねがいします」
講師の前に出て姿勢を正し、ぺこりと頭を下げた白い子供は、弟よりも背が低くて華奢だった。なのでてっきり小学校に上がりたてほやほやか二年生くらいだろうと思った髭切は、率直な感想を述べた。
「おやまあ、これはまた小さな子が来たねぇ。何歳かな? 何年生? 僕は髭切。五年生だよ」
髭切がにこりと笑って声をかけると、子供は一瞬目を見開いて固まった後に、顔を真っ赤にさせていき、ぷるぷると拳を震わせながら金切り声をあげた。
「ハァ? ちびじゃねぇ、バカにすんな! ふたつしかちがわねぇよ!」
予想は大外れ。鶴丸と名乗った子供は八歳、小学校三年生だった。とてもそうは見えなかったが、言われてみれば最初の話し方は一、二年生にしては大人びていたような気がしなくもない。怒る姿は悪ガキそのものだが。地団太を踏む鶴丸を「どうどう」と宥める講師の苦笑いを見上げて、髭切も年上の余裕を見せることにした。
「あはは、まあそうカリカリせずに。せっかくだから楽しくやろうよ。僕の楽器で良かったら貸してあげるからさ」
「うるせぇ! 今に見てろよ、あんたなんてあっという間に追い抜いてやるからな! 毎晩牛乳飲んでるんだからな!」
「そうかい。大きくなるのが楽しみだねぇ」
「きぃぃ~!」
「ほらほら、時間だよ。年齢を間違えたのは謝るからさ、レッスンを受けておいで」
ぷりぷりと怒る鶴丸の相手をすることに飽き始めた髭切は、鶴丸の肩にぽんと手を置いてくるりと後ろを向かせて、そっと背中を押した。すると講師も頷き、鶴丸と手を繋いで歩き出した。
「……ふんっ、すぐにあんたより大きくなって、上手くなってやる! いいか、俺は三日月の伴奏で弾くんだからな! 覚えてろよ!」
「はいはい、頑張って」
三日月って誰かな。と、少し気になったものの、髭切もいい加減練習に戻りたかったので気にしないことにした。その三日月は将来大物ピアニストになる三日月宗近で、後に髭切も知り合うことになる。
鶴丸と髭切はその後も何かと接点があった。髭切と鶴丸の間にもう一人別の子供が個人レッスンを受けていたのだが、その三十分間で空き部屋を共用することがあったのだ。鶴丸は決まった時間よりも早く来て準備をしていて、髭切はそれまで通り親の迎えを待っていたためだ。部屋の端と端で対角線上に立って背中合わせで弾いているとはいえ、他人が同じ空間で同じ楽器を練習していたら初心者の鶴丸は気が散ってしまうのではないか。と、危惧していた髭切だったが対する鶴丸は歳の割に集中力が高く、文句ひとつ言わずに大人しく個人練習をするのが常だった。しかし、完全に互いの存在を無視し続けるということもない。
「なあ髭切。あんた、どうやって弾いてるんだ?」
「うん? 質問の意味がよくわからないのだけれど」
「俺、全然上手く弾けないんだ」
鶴丸が通い始めて三か月ほど経ち、いつものように互いに好き勝手に音を出していた時のこと。ふとした瞬間にちょこんとシャツの裾を引かれた髭切が視線を下げると、楽器を抱えた鶴丸と目が合った。鶴丸は丸い大きな目で真っ直ぐに髭切を見上げていたのだがどこか切迫した様子で、髭切の服を掴む手はぷるぷると小刻みに震えていた。
「うぅん……きみは始めたばかりだから、上手く弾けなくて当然なんじゃないかな」
「でも俺、すぐに上手くならなきゃいけなくて」
「ふぅん。どうしてだい?」
鬼気迫った様子の鶴丸に気圧されつつ、コテンと首を傾げる。音楽の習い事は始める時期が早ければ早いほど良いなんていう言説もあるそうだから、鶴丸は何かそれらしき情報を耳にして必要以上に焦っているのかもしれない。そうであるならば、ここは先輩の自分が気の利いた言葉をかけてやるのが良いだろう。そう判断してひとまず問いかけてみた髭切だったが、鶴丸の次の言葉で更に首を傾げた。
「夏休みになったら三日月にまた会うから、あっと驚かせてやるんだ。そんで、伴奏させてやるんだよ」
「ふむ。三日月っていうのは、きみの友達? 伴奏というと、ピアノを弾く人なのかな」
「うん。親戚で、めちゃめちゃ上手いんだ。三日月のピアノは世界一なんだぜ」
「へぇ、上手なんだねぇ」
「うん……それでさ、あんたはどうやって弾いてるんだ? 俺と何が違うんだ?」
世界一、と言った途端に鶴丸からそれまでの気迫が失われて表情も翳ったような気がしたが、鶴丸がすぐに話を戻したので髭切も気に留めないことにした。兎も角鶴丸は楽器の弾き方について何か困りごとがあるらしい。しかし髭切は鶴丸の上級生というだけであって、勿論楽器の先生ではない。何を言ったものやらと暫し悩んでから口を開いた。
「う~ん……僕はきみが弾くのをちゃんと見たことがないから、何が違うかと言われてもわからないなぁ。先生に聞いたらどうかな」
「先生はいつも焦るなって言うんだ。子供のうちから練習しすぎるのは良くないって……」
それはそう。髭切は深く頷いた。ただでさえヴァイオリンは腕をひねる姿勢で構えなければならず、身体への負荷がないとは言えない楽器なのだ。ましてや身体の小さな鶴丸が、子供らしからぬ異様な集中力を保ったまま長時間の練習を繰り返せば、将来怪我をしてしまうリスクも大きくなるのが目に見えている。先生の言うことを聞くように宥めるべきだと判断した髭切が口を開こうとするも、それより先に鶴丸が髭切に懇願するような視線を向けて言葉を続けた。
「でも俺はとっとと上手くなりたいんだよ。でさ、練習しすぎるのがだめなら、少しの練習で上手くなれば良いってことだろ? だからさ、あんたがどうやって弾くのか見て、真似しようと思ったんだ。上手いやつの真似をすれば、手っ取り早く上手くなれるから。前にバレエやってた時にも俺、年上の子達の真似ばっかりしてたんだぜ」
それもそう。学ぶというのは真似をすることから始まる。鶴丸はそれをバレエで会得したようだが、確かに楽器の練習についても同じことが言える。なるほどこの鶴丸という少年は、なかなか賢い。感心したところで、髭切は一つ、引っ掛かりを覚えて首を傾げた。
「きみ、僕のヴァイオリンを上手いと思ってくれているのかい?」
髭切はいまだかつて、鶴丸に自分の演奏をしっかりと聴かせたことがないはずだった。空き部屋で一緒に練習していると言っても互いに自分の練習に集中しており、髭切自身も鶴丸の音は聞き流していたので何を練習しているかは詳しく知らない。同じ教室に通う他の生徒達の演奏を聴く機会も年に一度の発表会しか存在せず、その発表会は今年度、まだ開かれていない。しかし鶴丸はそんな髭切の疑問自体が不思議でならないといった様子で、まるで髭切を鏡に写したようにコテンと首を傾げた。
「当たり前だろう? 何度も聞けばわかるさ。髭切は上手で、たくさん練習してる。最初はすぐに追い抜いてやるって言ってたけど、すぐには無理だ。その……前はチビって言われてムカついたから勢いで言っちまったんだ。悪かったよ」
言いながらしょんぼりと肩を落としていく鶴丸を、髭切は唖然としながら眺めた。チビと言った記憶はないけれどもそれは聞き流しておくことにするとして。揶揄われて怒る姿は年相応の子供らしさを感じさせるくせに、こうして妙に達観したことを言い出す。髭切はそんな鶴丸を、不思議で面白い子供だと思った。
「……きみ、本当に三年生?」
「おい! 今学年関係ねぇだろ! チビだからってバカにすんな!」
「いや……はは、ごめんごめん。それじゃあ早速、弾き合いっこをしてみようか」
また怒り出した鶴丸を軽くいなした髭切は、鶴丸が使っていた譜面台の隣に自分の譜面台を寄せて、並んで弾けるように身体の向きを変えた。鶴丸が使っている楽譜を覗き込むと自分も使っている音階練習用の譜面だったので、レッスンバッグから同じものを取り出して自分の譜面台に置く。そうして楽器を構えた髭切を、鶴丸はぼうっと見上げていた。
「ほら。きみも楽器を構えなよ」
「その、弾き合いって何だい? きみが弾くのを見せてくれりゃあそれでいいのに……」
「僕もきみの弾き方を見てみようと思ってね。きみだけが見るより二人で見た方が、違いがたくさん見つかるだろう? 手っ取り早くやろうよ」
「なるほど……うん、やる!」
髭切の提案に、鶴丸は目を輝かせて頷いた。頭一つ分ほど身長の違う二人が隣に立って演奏する姿はこの後も時折ヴァイオリン教室の講師の目に留まっていたらしく、やがて仲睦まじく微笑ましい二人組だと母親たちにも知らされることとなった。鶴丸の上達スピードは速まり、いつしか個人レッスンだけでなくグループレッスンにも参加するようになった。そこで他の子供の演奏を聴いても鶴丸はやたらと髭切の隣で弾きたがり、その音を全身で吸収するようにして更に上達していった。
――きっと鶴丸は近い将来、僕よりも上手くなる。
そんな考えが髭切の脳裏をかすめるようになるのに、そう時間はかからなかった。同時に弟の膝丸はいつの間にかバレエのコンクールに出場するようになり、本選出場まで進んでしまうような実力を身に着けていた。
「いつか兄者の伴奏で踊りたいからな!」
賞状を手にして笑う弟に拍手を贈ったは良いものの、その望みを叶えてやることはきっと時が経てば経つほどに難しくなっていくのだろうという予感がしていた。
小学校を卒業して中学校に入学した髭切は、「アンサンブル部」というごく小規模な室内楽の同好会を立ち上げた。音楽の部活は他に大規模な吹奏楽部が存在していたのだが、ヴァイオリンから管楽器や打楽器に転向するつもりはなかったため、いっそ団体を作ってしまうことにしたのだ。持ち前の豪胆さを遺憾なく発揮してあっという間に仲間を集めてしまった髭切には教師たちも驚き、当時の担任はクラシック音楽を好んでいたことから快く顧問を引き受けた。
勿論ヴァイオリンのレッスンにも通い続けていたのだが、勉学に力を入れていくにつれて頻度は減らした。毎週から隔週へ減り、高校受験対策が本格化すると月に一度に減った。鶴丸と会う機会も次第に減り、レッスンの時間帯や曜日が変わったことも相まって並んで弾くこともなくなった。教室の発表会も小学生と中学生では時間帯が異なるため、丸二年間は鶴丸の演奏を聴くことがなかった。
髭切が中学三年生の時の発表会でのことだ。開演前の集合時間に合わせて同年代の子供たちやその親や友人達が次々とロビーに集まる中、髭切の視線は知り合いを探すうちに隅のソファーに吸い寄せられた。座っていたのは楽器ケースを抱えたまま微動だにしない白い子供と、その隣で何やら話している藍色の髪の子供。単に知り合いだから目がいったというよりは、なんだか二人の間に漂う空気が異様だったのが目についたのだ。二人の表情が、遠目にもはっきりと対照的に見えた。
「やあ。鶴丸に、お隣は三日月宗近くん、かな?」
「……髭切。久しぶり」
「髭切……というと、源氏の髭切か。仰せの通り、俺は三日月宗近だ」
制服の学ランを着たまま座っていた鶴丸は、ぶすくれた表情でちらりと目線だけ上げた。対して、別の中学校のブレザー服を着た三日月はしっかりと髭切を見上げてにこりと微笑んだ。やはり機嫌の差が歴然としている。一体何があったのやらと気にならないでもないが、ロビーの掛け時計のさす時刻は開演に迫っていた。プログラムは学年順になっているから鶴丸の出番は早いはずで、のんびり座って話し込んでいては時間に遅れてしまう。
「鶴丸。お前、一年生だからすぐに出番だろう? 早く衣装に着替えておいでよ。控室の場所はわかるかい?」
「うん、わかる……じゃあ三日月。俺、着替えて来るから。またな」
髭切が話しかけると鶴丸は素直に頷き、三日月に一声かけてぴょこんと立ち上がるとすたすたと歩き去った。相変わらずの仏頂面だが、その背を見送る三日月が浮かべるのは奇妙なことに満面の笑みだ。
「ああ。お前のヴァイオリン、楽しみにしているぞ」
「……」
返事もせずに行ってしまう鶴丸を、髭切は首を傾げながら見送った。暫く会わないうちに背も伸びて声も少し低くなったような気はするが、態度まであからさまに硬化するような性格だっただろうか。懐かれているとまではいかずとも、髭切との関係性はそれほど悪くなかった。となると、鶴丸の不機嫌の原因は当然、不気味なまでに笑顔を絶やさず座っていた三日月にあるのだろうと考えられた。そこで髭切は三日月の隣に腰かけて、改めて話を聞いてみることにした。三年生の髭切の出番はずっと後で、鶴丸の演奏を聴くにしてもまだ時間に余裕があった。
「やあ三日月くん。お互い顔を見たことはあるけれど、話すのは初めてかな。今日は鶴丸の演奏を聴きに来たのかい? 確か親戚だったっけ」
それも単なる親戚というだけでなく、鶴丸は過去に三日月のピアノを「世界一」と称えて、伴奏をさせると意気込んでいたような気がする。幼い頃の記憶を引っ張り出しながら話しかけてみると、三日月は「ああ」と深く頷いた。
「歳も近いから、弟のようなものだな。今日は初めて奴のヴァイオリンを聴けるから、ずっと楽しみにしていたんだ。鶴丸自身は何やら緊張しているようだがな。さっきからずっとあの調子だ」
三日月はおっとりとした調子で「ははは」と笑っているが、髭切にはそれがなんとも浮世離れしているように感じられた。鶴丸の表情を思い返してみても、どうにも三日月の言う通りにただ緊張しているだけだとは思えない。そもそも「鶴丸国永」と「緊張」という単語が髭切の頭の中では結びつかなかった。仮に緊張したとして、態度に出すような可愛げは無かったように思えてならなかった。
「ふぅん……鶴丸も楽器を始めてそこそこになるはずだけど、本当に初めて聴くのかい?」
「ああ、きちんと呼ばれたのは今回が初めてだ。これまではずっと、何故だか煙たがられてしまっていたからなぁ。俺は毎年、聴かせて欲しいと頼んでいたんだぞ? なにせ、奴にヴァイオリンを勧めたのは俺だからな」
「へぇ」
「聴かせろとしつこく言いすぎたせいか、去年までは発表会の日程を隠されていたんだ。まあ、反抗期というやつだったんだろうな。ははは」
「反抗期、ねぇ……」
おそらくそれは原因ではない。髭切はそう直感したが、なんとなくこれ以上鶴丸のことについて深掘りするのは良くないような気がしたので黙っておくことにした。触らぬ神に祟りなしとか、言わぬが花とか、そういった言葉が頭に浮かんできた。それよりも、髭切の興味は目の前でふわふわと笑っていて掴みどころのない三日月という少年に向き始めていた。聞いた話ではこの少年は中学二年生だったはずだが、もっと大人のようにも感じるし、逆に子供のようにも感じる、なんとも不思議な雰囲気を醸している。
「ところで、三日月くんはピアノを弾いているんだよね。上手いって聞いたよ。コンクールにも出ているのかい?」
髭切が僅かに身を乗り出して尋ねてみると、三日月はぱちくりとまばたきをしてからまたにこりと微笑んだ。
「ああ。上手いかどうかは聴いて判断してもらいたいものだな。コンクールは、先生に勧められたものについては一通り。そうだ、『がらこん』というのにも呼ばれたから、もし日程が合えば聴きに来てくれ。鶴丸には先程声をかけたから、一緒に来てくれたら嬉しい」
がらこん、即ちガラ・コンサートというのは何かを記念した特別公演のことだ。話の流れから、おそらく三日月が出演するのはコンクールの受賞者が招待されて演奏する会のことだと推察できた。どのような規模のものかはわからないが、三日月が相当の実力者であることは言葉の端々からも窺える。
「ガラコンにお呼ばれなんて、すごいじゃないか。日程は後で聞いておくよ。僕はコンクールには出たことがないのだけれど、出てみるとやっぱり楽しいものなのかな」
「弾ければどこでも楽しいものだが……コンクールならではの楽しさというのであれば、質の良いホールで良いピアノを弾けて、普段関わることのない大勢の人々に聴いてもらえる、ということだろうか。教室の発表会と違って他の先生に習っている生徒たちの演奏を聴くこともできるから、それも良い刺激になる」
「それは良い。僕も機会があれば考えてみるよ」
にこりと笑って、ソファーから立ち上がる。話しているうちにロビーには更に賑わい、開演時間も刻一刻と迫っていた。それにもかかわらずなかなかロビーに戻らない鶴丸のことが、どうにも気がかりだった。
「それじゃあ、僕もそろそろ控室に行くよ。僕の演奏は鶴丸よりかなり後だけど、気が向いたら残って聴いて行ってね」
「勿論、聴かせてもらうとも。楽しみにしている」
ひらひらと手を振り、楽器ケースを持って歩き出す。髭切は他の顔見知りの出演者たちに会釈しながら舞台裏の男性用控室に向かい、ちらりと中を覗いたものの鶴丸の姿は見えなかったので、最も近くの男子トイレへ向かった。舞台衣装に着替えた鶴丸はそこにいて、手洗い場で鏡を睨んでいた。
「あ。いたいた。鶴丸、もう始まっちゃうよ」
「げぇ、髭切……そうか、もうそんな時間か」
「衣装、ベストにしたんだ。似合ってるね」
鶴丸は白のシャツに黒のベスト、黒のスラックスに革靴、ネクタイはワインレッドという装いだ。小学生の頃の半ズボンにサスペンダーをつけていた姿からは見違えたものの、どこか服に着られているようにも見えてしまうのは自分が年上だからだろうか。鶴丸は髭切の言葉に眉を顰めたものの、「どうも」と素直に頷いた。
「こんなところで、何してたの。お前、本番前にお腹壊すタイプだったっけ」
「そんなんじゃない……けど……」
「けど?」
「……三日月、やっぱり呼ばなきゃよかった」
ぼそぼそと呟かれた言葉が、髭切の耳にははっきりと届いた。同時につい先程まで見ていた三日月の笑顔が思い浮かび、目の前で苦悶の表情を浮かべる鶴丸との落差ははじめに二人を見かけた時よりも更に広がっているように思えた。
「俺もちょっとは弾けるようになってきたからもう呼んでも良いかなって思ったけど、やっぱりだめだ……なあ聞いたか? あいつ、グランプリとってガラコンも呼ばれたんだってさ。俺、まだ一回本選行けたってだけなのに」
言葉を続けながら、鶴丸は拳を握り込んでわなわなと震えていた。頬は赤らんで目は潤み、とても良いコンディションとは言えない有様だ。他人への興味が薄い髭切でも、昔馴染みをこのまま舞台上に放り出すのは、音楽を愛する者の一人として気が引けた。なのでどうにかして鶴丸の気分を変えてやるためには何を言ってやれば良いか、髭切はそれなりに真剣に考えて、言葉を選んだ。
「あのねぇ鶴丸。酷なことを言うけどね、多分三日月くんはお前が上手かろうが下手だろうが関係なくお前の演奏を聴きたがるし、音を外そうが弓を落とそうが演奏の途中で止まろうが、良かったって笑ってお前に花束を渡すよ。それなりに大きいのをね」
すん、と鼻をすする音が聞こえた。鶴丸は俯き、唇を震わせている。どうやら言葉を間違えてしまったらしいが、後の祭り。こういう時、感情の機微に敏い弟であれば、どうするだろうか。脳裏で弟の膝丸に助けを求めようにも、「兄者の弟は俺だ! 鶴丸は兄者に迷惑をかけるな!」と言って鶴丸を目の敵にしていた様子しか思い浮かばなかったので、髭切は一旦考えるのをやめた。
「……わかってるよ。だからずっと、呼ばなかったんじゃないか」
「そうかい。わかっているなら泣かないでよ。僕が泣かせたみたいじゃないか。ほら、ティッシュあげるからチーンってして」
「いや、泣いてねぇし」
無言でいるうちに鶴丸がまた話しだしたので適当に返事をしてみると、鶴丸は唖然としたような表情で髭切と目を合わせた。顔色はいくらか良くなり、震えはおさまっている。どうやら髭切の言葉も少しは効いたらしい。
「そう? でさ。三日月くんのことはひとまず『そういうもの』だと思っておくことにしなよ。せっかくの発表会だろう。綺麗な服も着て、ホールで、お客さんの前で弾くんだからさ。何も三日月くんに聴かせるためだけに練習してきたんじゃあるまいし」
「……」
「あっ、そうだったの?」
「……悪いかよ」
ばつが悪そうによそ見をした鶴丸は、手洗い場の鏡で自分自身と目が合うと、また視線を下へ下へと逸らしていった。俯く鶴丸の潤む瞳を眺めているうちに髭切の脳裏には自然と幼い頃の鶴丸の姿が思い起こされ、同時にひんやりと冷たいものが背筋に伝うような心地がした。
思えばこの子供は昔から癇癪を起してきいきいと騒ぐことがあったけれど、同時に奇妙なほどに聴き分けが良いという性質も持っていた。まるで真白の綿が水を吸うように、言葉も音も、次々と吸い込んで自分のものにしていった。良くも悪くも素直なのだ。小さかった彼は何もかもを糧にして精一杯背伸びをして、努力を重ねて成長してきた。けれどその努力には危うさが共存していて、土台がぐらぐらと揺らいでいた。その揺らぎはもう無視できない大きさになっていて、辛うじてそこに立ち続けるか、がらがらと崩れ落ちるか、鶴丸は今まさにその瀬戸際にいる。
鶴丸自身が勝手にその道を選んだのだと切り捨てることは簡単だ。けれどここで自分がこの子供に背を向けてしまえば、ずっと後ろ髪をひかれ続けることになるのだろう。そんな予感もした。だって、この子供はかつて髭切の隣で、がむしゃらに、そして心底楽しそうに弾いていたのだから。
「悪いとは言わないよ。でも、僕もお前がロビーでソファーに座っているのを見て、お前の音を久々に聴けるんだなぁって楽しみにしていたところなんだ。他にもお前のヴァイオリンに興味がある人はいるはずだよ。曲も、えーと、なんだっけ。結構難しい曲を練習したわけだろう? 三日月くん一人に聴かせるんじゃ勿体ないと、僕は思うね」
柔らかな笑顔を自覚的に振舞うことには長けていた髭切だったが、悲しいかな弁が立つわけではなかった。俯いていた鶴丸は髭切の言葉を聞けば聞くほど眉間のシワを深めていったが、最後にはふと力を抜いて顔を上げ、呆れたとも吹っ切れたともとれるような曖昧な顔つきで笑った。
「はは。きみ、慰めるの下手くそって言われたことないか?」
「慰めて欲しいなら三日月くんを呼んでくるけど」
「人選下手くそかよ。どう考えても逆効果だろ、それ」
わざとらしく肩をすくめた鶴丸だが、身体の強張りも顔色も改善しているのが見て取れる。胸の内でひっそりと安堵のため息をこぼした髭切は、そんな鶴丸の両肩にポンと手を置き、身体の向きをくるりと変えさせた。今鶴丸が向かうべき先は控室、そしてその次に立つのは観客の待つ舞台だ。
「さて、いつまでもこんなところにいないで、早く支度をしておいで。進行が遅れたら僕が帰るのも遅くなって迷惑だからね」
「はいはい、わかった。ちゃんと弾くよ。弾くから……」
トン、と背中を押す。そのまま歩き始めた鶴丸に髭切も続いて歩き、控室前で立ち止まる。ドアノブに手を置いたままちらりと振り返った鶴丸の背をもう一度軽く叩いた。
「鶴丸。楽しんでおいで」
「……おう!」
にこりと笑って頷いた鶴丸はその日、中学一年生の生徒たちの中でのトリを務めた。曲目はベートーヴェン作曲、ヴァイオリンソナタ第五番「春」より第一楽章。始めの一音が鳴ったその瞬間、柔らかく暖かい日差しの中にふわりと花の香りが漂う、そんな空気がホールに満ちた。舞台の中心でピアノ伴奏に合わせてヴァイオリンを奏でる白い子供の無邪気な笑顔は、多くの聴衆を明るく晴れた野原へと連れ出した。