両片思いのフィガ晶+シャイロック「あ、」
(好きです)
声に出なくてよかったと思った。好きだと、自覚すると同時に胸の奥がぎゅうと痛んだ。いつかいなくなる自分が、賢者である自分が、魔法使いに恋をするなんて。罪悪感で頭も体も重くなる感覚があって、行き場のない、あってはいけない感情を抑えるのが精一杯だった。
(フィガロのことが、好きです)
柔らかそうな癖っ毛に触れたいと思った。穏やかな錫色と目が合うと、微笑まれて胸が高鳴った。年長者然としておきながら迷子の子供のように見えることがあって、かと思えばやはり大人の、それも千年単位の余裕を見せつけられては彼が分からなくなることもあった。それから、それから、とフィガロのことを想う度に、ああ、だからこそ、とか、だけれども、と前置きはあっても、結局(好きだなあ)に帰着してしまう。自覚してからは特に顕著で、自分の中の想いをどうにか表に出ないよう押し込めることに必死になるしかなかった。賢者としての役目すら果たしているかどうか危うい自分だ。この感情はどう考えても余計でしかない。だから、
***
「最近、賢者様に避けられてる気がするんだよね」
「おやおや」
バーカウンターを挟んだ向こうで、妖艶な笑みを浮かべたシャイロックは相槌にも感嘆にも聞こえるような声を漏らした。南の兄弟は任務で魔法舎を空けており、今宵何杯目になるか分からないグラスを傾ける彼――フィガロを咎めるものはいない。
「聞いてくれる?」
「話したいのでしょう?」
「あはは」
ふわふわと笑ったフィガロにわざとらしく眉を顰めて見せたシャイロックだったが、迷惑であればとっくに追い出している。そうしないのは、面倒事の予感に心惹かれたからだった。視線で先を促すと、フィガロはゆるまった口角を上げたまま話し出した。
いつからだったかな。気付いたら、賢者様の様子がおかしかった。体調が悪いとか、知らない内に厄介なことに巻き込まれているとか、そういう悪い状態ではないんだけど。ただ、極端に目が合わない。合わないというか、合う前に逸らされているというか。随分前、賢者とその魔法使いとして出会った頃は確かにそういうこともあった。パーティでの一件は少し迫り方を間違えたっぽいな、と反省もした。けれどそれから時間も経ったし、賢者様とは良い関係性を築けているという自負があった。それどころか、目が合うと彼は照れくさそうにはにかんでさえいたのだ。声をかければ嬉しそうに応えてくれたし、他愛ない会話も楽しんでくれていたと思う。もちろん、彼は誰に対しても分け隔てなくそうだったけれど、警戒されていた時期を思えば、俺にとっては格段の変化と言って良かった。それが最近はさっぱりだ。話しかけてもそそくさと逃げられるし、食堂でも席を外していることが多い。いそうな場所に行くといないか、立ち去った後ということばかり。これはもう、気がする、を通り越して明白だった。知らない内に何か気の障ることを言ったか、してしまったか、そうならごめんねを言いたいけど、避けられてるんじゃそれも出来ない。まあ機会をうかがわなくても、何かしらの任務のタイミングで一緒に行動することもありそうだけど、そういう不可抗力じゃなくて、きちんと賢者様と話をしたいんだよね。
そんなことを話して、ぽつりと付け加える。
――だって、あまりにも、
「寂しいじゃない? ……あ、いま、鼻で笑った?」
「まさか」
「そう? 別に怒らないけどなあ。美人に鼻先で笑われるなんて、ちょっとドキドキしちゃうしね」
空になったグラスの横に、新たな一杯を置いたシャイロックは確かに笑みを浮かべてはいた。
「なんとも、初々しいような、甘酸っぱいような素敵な状況に置かれているようで、微笑ましく感じただけですよ」
「それってつまり、鼻で笑っ、あれ、これお酒じゃないね」
「そろそろ明日に響く量でしょう? 二日酔いで苦しむのは自業自得ですけれど、苦しむ貴方を見て心を痛めるのは、ミチルや、他でもない賢者様ですから」
「はは、手厳しいなあ。いや、優しいのかな? この場合は」
苦笑いを零しつつ新しい一杯に口を付けたフィガロは、それでもまだ饒舌な唇で続ける。
「まあ、人間の心っていうのは移ろいやすいしね。良い関係になれたと思っていたのは俺だけで、賢者様の心はそう感じる前に変わっちゃったのかも」
「……フィガロ」
「なんてね。止める人がいないから飲みすぎちゃったかな。君の言う通り、明日に響きそうだし、これで最後にするよ」
それからフィガロは言葉通り、最後の一杯を飲み干すと、少しふらつきながらもバーを後にした。それを見送った後のシャイロックは空いたグラスを片付け、カウンターを拭き、それから新たに背の低いグラスを二つ取り出す。ルージュベリーとレモンを少し入れて、作りかけの鍋を温めると、中身をゆっくりと注いだ。これもアルコールは入っていない。準備が出来ると、足元に目線をやった。
「さ、こちらをどうぞ、今宵最後のお客様。私もご一緒しても?」
その声で、カウンターの下で膝を抱えて縮こまっていた人物が顔を上げる。
「シャイロック……」
蚊の鳴くような声と共によろよろと立ち上がった彼に、シャイロックは向かいの席を示す。先程までフィガロが腰かけていた椅子の隣だ。彼――賢者は力なく頷くと、誘導されるままそこへ腰を下ろす。乾杯、とグラスを傾けると、シャイロックはしょんぼりしている賢者をあやすように優しく声をかけた。
「だから言ったでしょう。困りますよ、と」
「あれ、シャイロックが、って意味じゃなくて俺が、って意味だったんですか……」
勧められるがままに腰かけた賢者がこのバーを訪れたのは、フィガロがやってくるほんの数分前だった。その時点で随分と夜は更けていて、シャイロックがいなければそのまま部屋に戻るつもりだった賢者はほっとして足を踏み入れたのだ。誰かと、もしかしたら他でもないフィガロと鉢合わせる可能性も考えないでもなかったが、魔法舎の廊下はしんと静まり返っていたし、こんな時間に他の誰かに会うこともないだろう、と高を括っていたのが運の尽きだった。ちょっと眠れなくて、おや、ではノンアルコールのホットワインでもいかがですか、などとやり取りしているところに、
『シャイロック、いる~?』
そんな声が聞こえて、コツコツと靴音も続いたものだから、賢者は咄嗟に「匿って下さい、少しだけ」と両手を合わせ、シャイロックは「困りますよ」と言いながらも、賢者が椅子の並んでいるカウンターから回り込んできて、狭いスペースへ滑り込んだのを止めなかった。シャイロックが立っている側のカウンターの下には空き瓶や木箱を置いてあるだけで、賢者一人であればすっぽり収まることが出来た。身動きが取りづらいとはいえ、フィガロがお酒を嗜んで立ち去るまでならその場しのぎになるだろうと踏んだのだったが、こんなことならフィガロに軽く挨拶をした後、入れ違いに出て行った方が良かったと反省する。ただ、さっきは本当にフィガロと顔を合わせるのを何としても避けたい、という気持ちが勝っていたのだ。
「……寂しい、って、言ってましたね」
シャイロックが準備してくれたホットワインは、冷たくなっていた指先を温めてくれた。ふう、ふう、とさましながらゆっくりと喉に流し込むと、体の内側もじんわりと温まっていき、ようやく言葉がするりと零れていく。
「俺、フィガロを傷つけるつもりじゃなくて、ただちょっと、色々と、自分の気持ちの整理がついていないというか、それで……あー、えっと……」
話しながらも、どんどん背中が丸くなっていく賢者の言葉に、シャイロックは沈黙で先を促す。
「自分勝手でした……明日にはいつも通りに、って思って……どんどん先延ばしになってしまって……」
「……それで、眠れぬ夜が続いていた?」
「そうです……」
賢者の様子がおかしい、と感じているのは、フィガロに限ったことではなかった。シャイロックを含め、魔法舎で彼と顔を合わせる魔法使いであれば皆、彼にどうやら悩みごとがあるらしい、それで夜もきちんと眠れていないらしい、と気にかけてはいたものの、直接声をかければ彼は決まって「大丈夫ですよ」と笑顔で隠してしまうのが分かっていたので、いわば今は見守り期間であった。どうしたって彼は自分を軽んじる傾向にあって、気にかければむしろ気を遣って益々不調を隠すことすらあるのが分かっていたので、目に余るようであれば無理にでも休みをとってもらうことにはなっていた。他でもない、フィガロの提案だ。しかし原因もフィガロであったとは、何ともまあ、とシャイロックは賢者からは見えない角度でこっそりと苦笑いを零す。
「すみません、シャイロックにも迷惑をかけて……」
「迷惑だなんて、そんなこと思いませんよ。賢者様には。どうか気に病まないで」
ああ、でも、と浮かんでいた微笑が悩まし気な表情に変わった。
「少し癪なので、お教えしてしまいましょうか」
「え?」
「気付いていましたよ、フィガロ」
「……え?」
「棚の真ん中あたり、赤いラベルの瓶が見えますか?」
ふわり、優雅な仕草で指が賢者の視線を誘導する。カウンターからちょうど斜め向かいに並んでいる酒瓶の内、確かに注ぎ口に赤いラベルが巻いてあるものがあった。並んでいるものはどれも綺麗に磨かれているが、それは黒っぽい瓶にラベル以外のものは何も装飾がないので、特に美しく磨かれているのが分かった。瓶に、鏡のような映り込みが見える程に。
「あっ……」
目を凝らさなければ見えないが、気を付けてみれば、瓶にはカウンターの下に並ぶ空き箱の輪郭がしっかりと映り込んでいる。それはつまり、先程まで賢者が丸まっていた場所が、今賢者が座っている位置からは丸見えだったということだ。
「普段は、そんなところまで気にする方はいませんが……目線から察するに、まず間違いないかと」
「う、うわあああ……」
「それどころか、いると分かった上であのように話されたんでしょうね。全く、意地悪な方」
赤くなったり青くなったりする賢者に、シャイロックは(そもそも貴方を追いかけてきたのでは?)と追い打ちをかけるのはやめた。賢者を気遣うに嘘偽りはない。言葉通り、気付いたことを隠しているのは癪だと感じたのはフィガロに対してのみだった。なので、立ち上がった賢者の肩をそっと押さえた。
「シャ、シャイロック? すみません、俺、いますぐ追いかけて……」
「おや、グラスの中身がまだ残っているのに?」
「あ、え?」
空になっていたグラスには、そっと鍋から移動させたホットワインがある。誠実な賢者は、首を傾げながらもすとんと再び椅子に腰かけた。
「どうぞ、慌てずお飲みになって、賢者様」
シャイロックは優しく囁いた。
「暖まったら、今夜はもう眠ってしまいましょう。二日酔いの、意地悪な男とゆっくり話すのは明日起きてからでも遅くありませんよ」
「そうでしょうか……」
「そうですとも。さあ、今宵最後のお客様。貴方が今夜はゆっくりと眠れることを祈って」
乾杯、と再びグラスを持ち上げる。今頃フィガロは、賢者が追いかけてくるかもという予想が覆って首を傾げながら部屋に戻っているかもしれないが、そのくらいの意趣返しは、相談料の範囲内だろう。賢者は申し訳なさそうに眉根を下げながらも、ようやくふにゃりと微笑んだ。
おわり