初めての この世界には、少し口にする分には問題ないけど、分量を間違えると恥ずかしい目に遭う食べ物というのがいくつか存在する。その内の一つが《おしゃべりなローズ》で、俺はつい最近まさに大変な目に遭ったばかりだ。結果的に、片思いだと思っていた人と実は両想いだったことが分かったので、悪いことばかりではなかったけれど、それでも思い出せば顔から火が出るくらい恥ずかしい経験ではある。
そして、やっぱりローズの種類で、《ぶるぶるローズ》という、食べ過ぎると震えが止まらなくなり、誰かに抱き締めてもらわなければ止まらないという、大変なバラがあるらしいと知ったのも最近のことだ。けれどそれも料理に使うと良いアクセントになるというので、同じ過ちは繰り返すまいと、念入りに分量を量り、もちろん自分の分は味見した量も計算して取り分け、ローズのテリーヌを魔法使い達に振舞った。中には止める間もなくたくさん食べて震えが止まらなくなったブラッドリー(対処法を伝えた後すぐにくしゃみでどこかへ飛んで行ってしまった)や、むしろ知った上でたくさん食べて笑いながら震えていたムル(ひとしきり震えた後、「あきた!」と言ってシャイロックに飛びついていた)もいたけれど、概ね問題はなかった、はずだった。オーエンが、俺の口元にフォークを押し付けるまでは。
「食べてよ、賢者様」
オーエンは不気味なほどににっこりと口角を上げて、俺の口元にテリーヌから丁寧にバラの部分を掬い取ったフォークを押し付けてくる。
「で、でもこれはオーエンの分で」
「知ってる。……聞いたよ? これ、食べると震えが止まらなくなるんでしょう? ひどいなあ賢者様……僕にそんなおそろしいものを食べさせようとするなんて」
「それは食べ過ぎた場合で、ちゃんと、分量をはかって、」
「じゃあ賢者様が食べても問題ないよね?」
「俺はもう自分の分を食べてしまったので」
「いいわけばっかり……北の魔法使いの手に渡ったものなんか、こわくて口に出来ません、って正直に言えば?」
「そんなことは」
は、の形に口が開いて、オーエンはその隙を見逃してはくれなかった。楽しそうに「えい」とフォークに乗ったものを俺の口に放り込んでしまうと、「遠慮しないで」と笑う。
「みっともなく震えるところを、僕に見せてね」
そう付け加えて。いいわけばっかりなのはオーエンの方じゃないですか、とか、それが目的だったんですね、とか、恨みがましく言うことはできなかった。口に入れられたものを吐き出すような行儀の悪いことはできなくて、そもそもそれは俺が作ったものなのでもったいないと思う気持ちもあり、咀嚼して飲み込んでしまったのだった。おかげで、「オーエン!」と言いたかったのに、テーブルに置いた手は既に震えていて、振動で「オォオオ」みたいな変な声が出ただけだった。慌てて口を押さえるものの、押さえる手も、体も小刻みにぶるぶると震えている。ムルが震えた時はとても楽しそうにしていたけど、勝手に体が震えてしまうのは、自分の体が自分のものじゃなくなったみたいでひどくきもちわるい。オーエンは顔を輝かせて俺を眺めていたけど、すぐに不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。と思ったら、「賢者様!」と後ろから声がする。
「カ、カカカ、イ、」
カインだった。後ろを振り向く前に、ふわりと見慣れた白いマントが見えて、前にがっしりとした腕が回された。ぎゅう、と椅子ごと抱きしめられている。これは、バックハグというやつじゃないだろうか。すごい。ドラマみたいだ。と思った次の瞬間には体の震えが止まっていて、俺は泣きそうになりながら今度こそ振り向いて、救世主の顔を見上げた。
「カイン、ありがとうございます……!」
「……あーあ、興醒め。バラみたいに青くなって、ぶるぶる震える賢者様をもう少し見ていようと思ったのに」
「オーエン、お前な……! あっ」
カインが伸ばした手をひらりと交わして、オーエンはあとはもうすっかり興味をなくしたように姿を消してしまい、後には食べかけのテリーヌだけが残されていた。
「すまない、賢者様……守れなくて」
震えから助けてくれたのに、カインは心底申し訳なさそうに眉尻を下げた。朝に挨拶のハイタッチをしていたので、食堂の入口から俺とオーエンがいるのは見えていたものの、和やかな雰囲気だったので、わざわざ声をかけてオーエンの機嫌を損ねたら悪いな、と感じて立ち去るところだったらしい。俺も、オーエンと二人きりだったけど、和やかに食事ができていると思っていたし、カインは何も悪くないのに。「それに」とカインは続ける。
「震えを止めるためとはいえ、急に抱き締めたのもすまなかった」
「あ、いえそれは、仕方ないですし、貴重な体験をしました」
「? そうか? ならいいが……」
少し不思議そうな顔をしていたカインは、俺が後片付けをするのを手伝ってくれた。片付けながら、俺は身をもってぶるぶるローズの効果を知ったので、今後使う時はますます気をつけないと、みたいな話をしたと思う。カインは朗らかに笑って「そうだな」と言いつつ「また震えが止まらなくなっても、俺が止めてやるさ」と胸を叩いてくれたので、俺はその頼もしさに心から感謝したのだった。
という昼間の話をヒースクリフにすると、オーエンにバラを食べさせられて、というくだりでは青くなっていたものの、カインが助けてくれた、という流れにほっとしてくれたようだった。
ヒースクリフと両想いだということが分かって、いわゆる、お付き合い、というものを始めてから、時々こうして離れていたときに起きた出来事を夜に話すようになった。魔法舎の部屋が廊下を挟んで向かいという近さもあり、片思いしていた頃の俺が聞いたら信じられないだろうけど、今では気軽にたずね合う程だ。今夜は俺がラスティカに貰ったお茶を振舞いたかったので、ヒースクリフに来てもらっている。もちろん、任務とか、ヒースクリフが国に帰っていたりとかで毎日そうしているわけじゃないけれど、いない間こんなことがあって、とか、市場でこういうものを見かけたから今度一緒に見に行きたいとか、色んなことを話すから、前よりヒースクリフのことを知れた気がして嬉しかった。ヒースクリフも、俺の話を優しい顔でうんうんと頷きながら聞いてくれるので、俺はついついおしゃべりになってしまう。寝巻姿で髪を下ろしたヒースクリフが新鮮かついつもとは違った雰囲気でどきどきしてしまい、うまく話せなかったのが今では懐かしい。
けれど、俺が一通り話し終わると、ヒースクリフはほんの少し眉根を寄せ、急に黙り込んでしまった。
「……? ヒースクリフ?」
そっと顔を覗きこむと、下ろした前髪の隙間から覗く綺麗な碧色が、なんだか不安げに揺れている。どうしよう。オーエンの話をしたから、怖がらせてしまっただろうか。
「……賢者様、」
揺れていた碧色が、急に俺を真っ直ぐに見つめたので、どきりとする。いつも、ヒースクリフにどきどきしているけれど、それ以上にだ。ぐ、とヒースクリフが身を乗り出すから、ベッドがぎしりと軋んで、腰かけているのがベッドだと意識してしまう。俺の部屋には二人掛けのソファとかがないから仕方ないとは言え、普段寝ている場所にヒースクリフが腰かけている、と意識しないようにしていたのに。
「な、なんでしょう……」
「あの、えっと……仕方のないことだって、分かっていますけど……カインに、抱き締められたってことですよね……?」
「? そうです。すぐに駆けつけてくれたので、震えがすぐ止まったんですよ」
「お、」
「お……?」
間近で、ぱちぱちと瞬きが繰り返される。瞬きの音が聞こえてきそうなくらい、睫毛が長い。
「俺じゃ、だめですか……?」
「え、でも、ヒースクリフ、昼間は市場に行っていたじゃないですか……?」
「そうじゃなくて……」
「?」
「こ、」
「こ?」
ヒースクリフの声がどんどん小さくなっていって、俺は耳をそばだてた。
「……っ、恋人じゃ、ないですか……」
「えっと、はい……へへ」
こいびと、と改めて言葉にされるとなんだか顔が熱くなる。きっかけは完全に事故だったけれど、おかげでヒースクリフと恋人になれて、俺は幸せだな、とも思えた。しかし、ヒースクリフはゆるゆると頬が緩んだ俺を見て、「もう」と拗ねたような顔になる。二人きりのときだけ、そういう表情を見られるようになったことも嬉しい。
「今度は、誰かに抱き締められる前に、俺を頼って欲しい、ってことなんですけど」
「はい……? ん? えっ?」
全くその考えに至らなくて、ひっくり返った声が出てしまった。つまり、
「ヒースクリフ……もしかして、やきもち妬いた……ってことですか?」
「……」
ふいと顔を逸らされたが、僅かに覗いた耳が真っ赤になっている。陶磁器のように白い肌だから、赤くなった部分がとても目立っている。愛しさがこみあげてきて、俺は思わず腕を広げ、ヒースクリフをしっかりと抱き締めてしまった。わ、みたいな小さな悲鳴があがったものの、抵抗はなく、俺の腕におさまってくれている。
「あの、俺、もしもまたぶるぶるローズを食べ過ぎてしまったら、絶対ヒースクリフを探します」
「……俺がいなかったら?」
「その時は……誰か他の人に抱き締めてもらうかもしれません」
それは、仕方のないことだった。元々、お互いに毎日魔法舎にいるわけではないし、今日だって昼間たまたま食堂にいたのは俺とオーエンとカインだけで、魔法使いの半分程は外出や任務で不在だった。
「でも、」
「……でも?」
ぎこちなく、ヒースクリフの腕が俺の背中にまわる。
「ヒースクリフは、こ、こいびと、なので、何もなくても、だ、抱き締めたい、です」
間近からするいい匂いだとか、密着した胸から伝わる鼓動だとかにどきどきしてしまって、みっともなく声が震えたけれど、俺がつっかえながらそう言うと、耳のすぐ近くで息を詰める気配があって、それからやっぱり震える声が「俺もです」と返してくれたので、堪らなくなって、ヒースクリフを抱き締めたままベッドに倒れ込んだ。
「わっ」
「あ、ご、ごめんなさい、つい……」
二人分の体重を受け止めたベッドが軋む。慌てて起き上がろうとすると、背中に回ったままのヒースクリフの手が、引き留めるようにぐっと力を込めた。見れば、至近距離にある綺麗な碧色の瞳が、訴えるようにじっとこちらを見つめている。
「……抱きしめたい、だけですか?」
そんな大胆で挑発的なことを言ってくるのに、
「……顔、すごい、真っ赤ですよ……」
「い、言わないでください……」
心底恥ずかしそうなヒースクリフが益々可愛くて、俺はそっと、その唇に自分のそれを重ねた。
おしまい