第38回毎月ちょぎにゃん祭り お題「傘」 「うげっ……」
指導室に呼ばれていた南泉は長い長い説教から解放されて廊下に出た途端、正面の窓越しに見える外の景色に思わず声を上げた。正直な話、室内から出た瞬間見るまでもなく確信していたのだが。曇ったガラス越しに見える外は、耳に届く音に正しく土砂降りであった。屋根や壁に打ち付ける雨粒の音に搔き消されたかと思った南泉の呟きを拾ったのは、背後から出てきた担任教諭で呑気に「早く帰らんと電車止まるぞ~」などと言っている。
「電車じゃなくてバスだけど傘持ってねえにゃ……。せんせーが長々とお説教するから」
「授業中に寝るもんが悪いんだ馬鹿タレ。どこの部も休みになってるみたいだから早く行かんと傘に入れてくれるやつがいなくなるぞ」
「ゲ……そこまで分かってんならもっと早く切り上げてくれよにゃあ」
「ほれ、文句言ってないでさっさと帰れ。気をつけてな」
「……うっす」
腰で履いた学ランのズボンのポケットに両手を突っ込み、学年カラーである緑のスリッパをパタパタと音を立てながら天気のせいでどこか薄暗く、人もおらずどこか不気味な廊下を歩く。ホラーだったらどれだけ歩いても昇降口に出られないとか、後ろから何か追いかけてくるとか、そういう何かがある場所だよなあなどとくだらないことを考えていれば、特に何事もなく無事に昇降口へとたどり着いた。
だが今の状態ははたして本当に無事、と言えるのだろうか。教師の言葉通り大抵の生徒は帰宅が済んでいるようで下駄箱にはスリッパが並び、傘立てには一本たりとも残っていない。開け放たれたドアから見える外の景色はバケツをひっくり返したようだとか、滝のようだとか、そういった表現がぴったりと合いそうなほどの大雨。
一歩でも外に出れば濡れネズミは確定。そんな状態でバスになんて乗れるはずもないし、かと言ってこの雨の中家まで走って帰るなど考えるだけでも嫌だ。ただこの時間家には誰もいないので迎えを呼べるはずもなく、広く浅くの付き合いを好む南泉にはこの雨の中引き返してくれと頼めるほどの気安い友人はいなかった。
いや正しくは一人心当たりはあった。文句を言いながらも南泉に甘いアイツなら引き返してでも戻って来てくれるだろう。ただその時に確実に言われる文句を聞くくらいなら、この雨の中駆けていく方がマシだと思う程度には口が悪く、南泉の精神衛生上宜しくない。後々頼らなかったことに関してぐちぐち言われるかもしれないが、それはもう過ぎたことと聞き流せばいい。
職員室に行けばゴミ袋の一枚くらい分けてもらえるだろう。南泉自身は(心底嫌だが)ともかく、荷物を濡らすわけにはいかないのでそれくらいの対処はしておくか。走って帰る以外の選択肢のなくなった南泉は段取りを思い浮かべつつ、職員室に向かうために踵を返した瞬間廊下の奥、視線の先に突然現れた人の姿を認識した。
「にゃ!!!」
「なんだい、殺人鬼でも見つけたような声出して」
「どんな声なんだよそれ……。誰もいないと思ってたのに突然視界に現れたら吃驚するだろ」
「吃驚はこっちの台詞だよ。ずいぶん前に帰宅を促す放送が入ったはずだけど、一体どこで眠りこけていたんだ」
「眠りこけてたんじゃなくて、眠ってたせいで説教くらってたんだよ」
「寝てたのには違いないんじゃないか」
「うっせえ、お前こそどうしたんだよ」
「停電になったら困るから生徒会室のパソコンの対応をちょっとね、あと見回りしてたら少し遅くなってしまったんだよ。もう帰る」
きちんと着込んだ学ランに、ぺちゃんこの南泉の鞄とは違いそれなりに教科書が入っていそうな鞄を下げて目の前に立つこの男こそ、先ほど南泉が思い浮かべていた頼れる当て。
この学校の生徒会役員であり、南泉の同級生であり、腐れ縁で……恋人でもある、山姥切長義だ。こいつならこの季節に置き傘や折り畳みも含めて傘を持っていないなどないだろうし、ここであったのは救いなのかもしれない。それでもさっき遠慮したようにやはりこいつに頼るのはちょっと気が引けてしまうのだ。
恋人なのに、と文句が聞こえてきそうだが恋人ならいちいち嫌味を言わずに優しくしてほしいものだと思う。まあそんなヤツはもはや長義の顔をした別人であるし、気持ち悪すぎて絶対頼りになんてしないけど。
「ここにいるってことはお説教は終わったんだろ?早く帰ろう」
そう言って南泉の側を通り過ぎて下駄箱へと歩いて行く長義の先には、見落としていた傘が一本傘立てに残っていた。先ほど見た位置からは死角にあったのだろうか。しまった、ちゃんと確認してさっさと拝借すればよかった、なんてことを思ってももう時すでに遅し。
「傘がねえんだ、にゃ」
その背に吐き出した言葉は、どうにも駄々を捏ねるような子供の音がして自分のことながら気分が悪くなる。借りは作りたくないけど、濡れたくないから傘に入れろ、は駄々以外の何物でもないが。
「天気予報で今日は夕方から豪雨になるって言ってたの聞いて……るわけないな。いつもギリギリまで寝てるから、朝ニュースの一つも見れなくて苦労するんだっていい加減覚えたらどうかな」
「今日はたまたまだっつーの、うるせえにゃ」
本当にコイツは減らず口だし、口を開くたびに嫌味を言う。結局応酬にのってしまう南泉なので、もしかしたらこいつにも同じように思われているかもしれないが、大抵の始まりは長義であって南泉ではないことは主張しておきたい。
南泉と同じ緑色のスリッパを下駄箱の上段にしまい、ピカピカに磨かれた焦げ茶色の革靴片手にこちらを振り向いた長義がしたり顔で口を開くのを眺めながら、あの革靴が汚れるのかざまあみろ、なんて思ってちょっと留飲を下げた。面倒なので口には出さないが、こうして内心で好き勝手言ってストレスを発散しておかないと近い将来ハゲそうなのだった。
「仕方がないから入れてあげよう」
「いらねえ」
ほらきた、なんて長義の言葉を受け取ってすぐ断りの返事を口にする。それを聞いた長義は当然ながら理解できない、という顔をする。
「は?」
「家に着くまでお前の小言聞くなんてまっぴらごめんだ、にゃ。そうするなら走って帰った方がましだ」
「猫は濡れるのが嫌いじゃなかったかな」
「猫じゃねえし、濡れるよりお前の隣で小言聞く方が嫌だよ」
「……分かった、じゃあ傘は置いて行くから好きにするといいよ」
言い過ぎかと自分でも少し思ったが、口は止まらなかった。背景はどうであれ仮にも傘に入れてやろうと提案してくれる相手にいう言葉ではなかったが、長義は別段気にした風ではない。そう思ったのが大きな間違いだったのだろうか。
下履きに履き替え終えた長義は言葉通りに一度手にした傘を傘立てに戻すと、そのまま止む気配のない外へと向かおうと歩みを進めたので、慌ててダッシュで近付き長義の腕を学ラン越しに両手で掴んで引き止める。
「なんでだよ!お前の傘なのに入らねえのおかしいだろ」
持ち主が濡れネズミになって帰って行くのに、自分は傘をさして悠々と帰れるのだと思われたならちょっと癪だが、傘を南泉に押し付けようとしたコイツの優しさのベクトルは一体どこに向かっているんだろうか。
「だって南泉、傘は持っていないし俺と入って帰るのが嫌なんだろう?なら傘置いておくから好きに使えばいいだろう」
「いや、だから何でオレに傘を渡そうとすんだにゃ」
南泉としては当然の疑問であるし、長義とてそう問いかけられることは想像していただろう。性格上すでに答えを用意しているはずの長義が口をつぐむのを見て目線だけで話せと訴えればおずおずと開かれた口から零れる言葉。
「……君のシャツが濡れて、下が透けているのを他の人に見られるのが嫌だ」
六月に入り衣替えになって早々と学ランを脱ぎ捨てた南泉は、シャツの前をほとんど開けシャツの下に着込んだ黒のタンクトップが見えている。濡れたとて、見えるのは黒のない部分だけだろうし、腕や肩が透けたところで何をと思いもう一度長義を見やれば、滅多に崩れない表情が崩れ眉尻を下げているのを見るとふつふつとこみ上げる想いがあった。
思ったことが無いわけではないが、またそう言った感情を持つとは思わなかったとこっそり嘆息してから、可愛い長義の姿をまじまじと見つめて。思い切り噴き出した。
「ふ、この雨の中、走ってる男子高校生を、そんな気持ちで見てるような奇特な奴、いねえにゃ」
あまりにも似合わない子ども染みた独占欲にひとしきり笑って、途切れ途切れに吐き出した言葉に長義の顔はあからさまに機嫌が急降下したのが見て分かる。流石に揶揄い過ぎたかと息を整えてから、まあこれくらいなら許されるだろうと口を開いた。
「しゃあねえから入れて貰ってやってもいいぜ」
「言葉使いは間違えちゃ駄目だよ。入れてください、じゃないのかい?」
「やっぱお前それ置いて帰れ」