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    kemeko_hina

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    kemeko_hina

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    降風webオンリーにて公開しました、ゼロしこのなんちゃって降風です。独自解釈アリアリなのでご注意ください〜。

    #降風
    (fallOf)Wind

    まなうらのシリウス 夏になると毎年訪れていた父方の祖父母の家は、東京から下道だと五時間くらいの場所にあって、山々の合間を縫うように存在する集落のひとつだった。
     昔気質で口下手な祖父、いつも快活に笑っている祖母。数少ない地元の子どもたちとする川遊びや虫取り、探検ごっこ。そのどれもが大好きだったけれど、特に好きだったのは夜だ。
     人口の明かりが少ないそこは、星がよく見えた。ひとつひとつの星の瞬き。今にも降り注いで落ちてきそうな星の海。ときおり流れる星の涙。眩いほどに輝く、一等星。
     首が痛くなるくらい見上げ続けて、眠ってしまうのがもったいなくて、夜中にこっそり起き出してはまた眺めていた。星に名前があることも、遥か昔の人々が星を繋いで物語を紡いだことも知らなかったけれど、その瞬間だけは、夜空は全部自分のものだった。けっして誰の手も届くことのない、世界でいちばん綺麗なひかり。
     それから何年かして、祖父母がふたりとも亡くなってしまってからは、一度もそこへは行っていない。
     


     ――東京には空がないといふ。

     学生時代に習ったある一文を、ふと思い出した。かれこれ三十年東京で生きている身としては実感はあまりない。ビルとビルのわずかな隙間でさえも見逃されることなくまたコンクリートの塔が作り上げられ、飽くことなく人々が蠢きあう。それを窮屈だと今さら感じはしないし、そこに生きる人々を守ることが己の職務である。ただ、ここではどんなに晴れた夜であっても、地上の明かりにかき消されて、片手で数えられるくらいにしか星も見えない。それを少しも寂しく思わないといえば嘘になる。
     公安部に割り当てられた警視庁の十三階の片隅、休憩スペースとは名ばかりの、安っぽい革張りのベンチに風見は腰を下ろした。節電対策と銘打ってほぼ電灯の落とされた自動販売機が、かすかな音をたてて存在感を示している。ガラス越しに見える外界では、沈みきった太陽の名残のような橙色が、そろそろ姿を消そうかといった頃合いだ。日暮れが遅くなってきたな、と近頃めっきり鈍くなった季節感にひととき身を任せる。
     座り直すたびに小さく音のなるベンチに深く腰掛け直し、風見はそっと目を閉じた。このところ、もはや馴染みになりつつある疲労感が全身を重くしている。今だってようやく、膨大なデータの中から必要な情報だけを拾い上げ終わったところなのだ。その作業そのものは風見の苦手とするところではないのだが、なにぶん時間が問題だった。指示を受けたのは昨日。内容からして通常ならば三日はほしいところだが、上司から『至急』とひとこと付け加えられてしまっては、もう風見に拒否権はなかった。
     そもそも、その上司が問題なのである。この春から風見には、通常業務とは別にとある役割に任ぜられた。それがこの疲労の原因、もとい元凶なのだが。
    「風見」
     ため息を吐き出そうとして、聞こえてきた声にぐぅと息を詰めた。なるほど、安寧とは儚いものだ。
    「降谷さん……お疲れさまです」
     風見が慌てて立ち上がりかけるのを片手で制すると、降谷はいつもどおりの涼し気な顔で、風見の座るベンチの空いた反対側に許可もなく堂々と腰を下ろす。そのまま長い足を組むものだから、急に狭くなったスペースに風見はなんとも言えない気持ちになる。綺麗な顔をしているのに、やたら面の皮が厚い。などとは口が裂けても言えないが、思うことは自由だろう、たぶん。
    「ん、」
    「え?あ、すみません、ありがとうございます」
    「ん」
     言葉少なに差し出された缶コーヒーを両手で受け取る。見ると、降谷の手にも同じものがあった。いつの間に買ったのか、少なくともここの自動販売機ではないだろう。だとすると、たとえ風見がこの休憩スペースにいなかったとしても、最初から降谷は差し入れてくれる予定だったに違いない。
     さっきは失礼なことを考えてすみません、と心の中で謝罪しながら、風見はありがたく冷えたプルタブを開けた。実際のところ降谷は風見よりひとつ年下なので、初めは些細なものとはいえ奢ってもらうことに躊躇いがあった。降谷からすると風見は部下に違いないのだろうが、風見からすれば降谷とは所属する機関も違うわけで。上司といえば上司だよなぁ、くらいの微妙な位置づけだったのだ。しかし以前そのことに言及したところ、降谷がなぜかものすごく嫌そうな顔をしたので、以降もうなにも言わないことにしている。
     冷たい液体が喉を通れば、鈍かった思考が少しはっきりしてきた気がする。独特の香料と缶の匂いで、コーヒーそのものの味などほとんどわからないが、このいかにもらしいところは嫌いじゃない。
     ――あれ?
     ふと覚えた違和感。どうして降谷も、同じ缶コーヒーを持っているのか。
    「あの、降谷さん」
    「なんだ?」
    「本日の登庁は、例の資料の件ですよね?」
    「そうだが」
    「えーと、すみません。まとめてはあるのですが、デスクに置いてきてまして、すぐに取りに……」
    「いい。これを飲む時間くらいあるだろ。急かしておいて悪いが、な」
     そう言って降谷は先ほど風見がしたのと同じようにプルタブに指をかけた。こくりと嚥下する喉仏をじっと見つめてしまう。
    「……降谷さんに缶コーヒーって似合わないですね?」
    「ふっ、ふふ、きみは僕をなんだと思ってるんだ」
    「ぅえ、今の声にでてました?」
    「きみはよくそれで公安が務まるなぁ」
     どこか呆れたように、けれどしかたがないな、とでも言わんばかりの声色に、風見の心臓が嫌な音をたてる。
     違うのだ。そもそも風見と降谷はこんなふうに隣に仲良く座って同じコーヒーを飲むなんて、そんな微笑ましい間柄ではなかったはずだ。出会ってから数ヶ月、降谷は風見に容赦なく無茶振りとも言える指示を与えてきたし、その間叱責されたことも一度や二度ではない。それに降谷は電話にしろ直接会うにしろ、だいたい自分の言いたいことだけ言ったら終わり、というパターンだった。なので、てっきり風見は降谷はそういう人なのだ、と思っていたのだ。
     それがどうして、この人は今こんなにも機嫌よさそうなんだろうか。いまだ白熱灯の警視庁、その片隅で薄暗くさえ感じる照明の下にあってなお輝きを損ねることのない麦藁色の髪に、褐色ががった肌。仕立てのいいグレーのスーツを纏う姿はどこからどう見ても風見の知る降谷だけれど、もしかして別人、なんだろうか。
    「なんかきみ、ろくでもないこと考えてるだろ」
    「エッ、いえ、そんなことは……!!」
    「風見……きみのその顔に出すぎるところ、個人的にはともかく、なんだかとても不安になってきだぞ」
    「個人……?」
    「……、いや。とにかく、今さらきみに言うべきではないかもしれないが、公安たるもの常に危機感をだな……」
     きゅうと眉間に皺を寄せながら小言を言う降谷は、やっぱり風見の知っている降谷だ。あぁよかった、などとまた降谷に知られたら怒られるであろうことを思ってしまう。だって、困るのだ。風見にとって、降谷は知らないひとのままでいてくれなくてはいけないのだから。


     降谷と初めて会ったのは、まだ冬の気配が強い、風の強い日だった。
     滅多に顔を合わせることのない上司の上司から呼び出され、何も聞かずとある会議室へと行くように命じられた。おそらく訝しげな顔をしていた風見に、その上司の上司は他言無用だと念を押すばかりだった。
     今にして思えば、このときに気づければよかったのだ。たとえ気づいたところで風見に拒否する権利などないのだが、それでも、とどうしても考えてしまう。あのひとに出会わなかった未来のことを。
     会議室の扉を開けた先にいたのは、風見の運命を変えたひとだ。
     綺麗だと思った。風見の知る誰よりも強烈な色彩を持ったひとだったけれど、何よりもその春の空のような瞳の中に、痛いくらい強く瞬く星を見つけてしまった。
     その星が、今でも風見を捉えて離さない。
     有り体に言えば、一目惚れだ。三十年近く生きてきて、まさか自分にそんなことが起こると思わなかった。
     そのあと、降谷が何を話したのか、風見がどう答えたのか、正確には覚えていない。ただ降谷が警察庁の警備局警備企画課、通称ゼロに所属しているということと、どういう都合かはわからないが、風見がその連絡役として選ばれたこと、それだけは理解した。そして同時に、絶望もしたけれど。
     同性の、それも上司の立場になるひとだ。おまけに相手がゼロだなんて、どうしたってどうにもならない。職務に支障が出ることは許されないどころか、彼の双肩には日本国民全員の命がかかっていると言っても過言ではない。それを風見の、しかも私情なんかで、万が一のことがあってはならないのだ。
     そうでなくても、降谷にはもっとふさわしいひとがいるに違いないのだから。
     降谷の警察官としてのデータは表向きすべて削除されているが、連絡役となったあと、資料として渡されていた。その資料の中で風見は、降谷の両親は彼が幼い時分に亡くなっていること、さらに警察学校時代の、特に親しくしていたという同期4人全員が殉職していることを知った。何より驚いたのは、そのひとりが風見の知っている人物だったからだ。
     諸伏景光。
     一時期公安部に配属されていた彼のことを、忘れてはいない。風見の班でこそなかったけれど、同じ公安部外事課にいたのだ。高圧的だと親しくない者からは敬遠されがちな風見に、最初からかなり気安く接してきたのが諸伏だった。風見の何がそうさせたのかはわからないけれど、会えば笑顔で話しかけてきたし、何度か飲みにも誘われた。まだ幼さを残す、柔らかな顔立ちに浮かべた笑顔が印象的な青年だった。
     諸伏が亡くなったことは、風見も聞いていた。上司から知らされた数少ない情報は、とある組織に潜入中の殉職だと、それだけだった。それ以上のことは今も知らされていない。警察官として生きている以上殉職の可能性はないとは言えないが、実際には年にほんの数人いるか、いないかの話なのだ。少なくとも、風見の知っている中では諸伏だけだった。だというのに、どうして。
    『幼馴染がいるんです』
    『なんでもできるやつなんですけど、できすぎてちょっと自分を過信してるところがあって』
    『ものすごい無茶するんですよね、ときどき』
    『だから、心配で』
    『あいつが自分のこと大切にできるくらい、大切に思ってくれる人ができたらいいなって思ってるんです』
     いつの日か、彼の言った言葉が脳裏によみがえる。あれは降谷のことだったんだと、そのとき初めて気が付いた。記憶の中の諸伏は少し困ったような顔で笑っていたから、きっとほんとうに、降谷のことを大切に思っていたのだろう。
     もし諸伏がいたならば、降谷の隣を歩くのは彼だったかもしれないし、そうじゃないかもしれないけれど。
     その誰かは、風見ではないのだ。
     だがら降谷が、彼にふさわしいひとに、彼がしあわせになれるひとに出会うまで、影として支えることができればいいと思った。
     幸いなことに、降谷は最低限にしか風見に関わろうとしなかったから、この気持ちはいくらでも隠し通せると思っていた。そう、ずっと。



     それから、一年と少し。降谷の無茶振りによって忙殺される日々は相変わらずだったけれど、それをようやく日常と受け止められるようになってきたころ、変化は訪れた。
    「……いまなんと?」
    「だから、毛利小五郎探偵のところに弟子として潜入することにしたよ。ついでに毛利探偵事務所の1階の喫茶店でアルバイトも」
    「正気ですか降谷さん……」
     アルバイト?ゼロが?喫茶店で?
     降谷からの思いもよらない発言に、風見の思考が宇宙へと旅立ちかける。
    「おい、正気とはなんだ。本気さ。『安室透』としての活動もそろそろ頭打ちだったし、悪くはないと思う。……気になることもあるしな」
    「……?」
     もともと『安室透』は、組織の情報屋『バーボン』の表向きの顔として設定した人物だ。たしかになんの後ろ盾もない若い私立探偵よりは、名探偵毛利小五郎の弟子、のほうが箔がつくかもしれない。が、それだけではないのだろう。とはいえまだ、風見に話すほどには確信がないといったところだろうか。
    「では、毛利小五郎氏のほうはともかく、アルバイトとは?いくらなんでも目立ちます」
    「情報収集の一環だよ。できれば、なるべく近い位置にいたほうがいい。目立つのは得策とは言えないが、まぁ『安室透』としてなら多少はかまわないだろ」
    「降谷さんが多少で済むとは思えません……」
    「だよなぁ。僕もそう思う」
     いけしゃあしゃあと言ってのける横顔に、風見は今回ばかりはため息を禁じえない。先程の降谷の発言もどこか引っかかる。『なるべく近い位置に』が、誰とのことを指しているのか。
     ざわ、と心が波打つ。風見の知らないところで、たぶん、何かが起ころうとしている。そんな予感だった。
     風見はいつからか癖になってしまった、眼鏡のブリッジを意味もなく押し上げた。
    「……考え直すおつもりは?」
    「ないな。これは決定路線だ」
    「わかりました、降谷さんが決めたことであれば、こちらに異議はありません。念のため、スケジュールの共有だけはお願いします」
    「あぁ、わかっている」
     鷹揚に頷きを返す降谷の表情は、どこか楽しげに見えた。瞳の星が、きらきらと瞬いている。
     降谷さん、と呼びかけようとして、やめた。風見にできることは、ただ指示に従うことだけだ。
     とうに決めていたはずだった。覚悟していたはずだった。降谷はいつか、風見の手の届かないところに行ってしまう。それは最初からわかっていたことで、だからこそ、けっして手を伸ばそうとはしなかったのだ。
    「風見?どうかしたか?」
     こちらを覗き込む降谷の、さらりと流れる麦穂のような髪のひと束ですら、ひどく遠い。
    「いいえ、何でもありませんよ」
     意地で作った微笑みに、降谷が一瞬虚をつかれたような顔をした。その唇がなにかを紡ぎかけたのを、読もうとして失敗する。
    「……?すみません降谷さん、なにか、」
    「いや、なんでもない」
     早口でそう言うと、降谷はさっと立ち上がった。そのまま会議室の扉へ向かう背中を眺めていると、ぽつりと呟きが落ちる。
    「……いつも悪いな」
     え、と聞き返すまもなく、扉の閉まる音がして、もうその姿は見えなくなった。古いエアコンの、やけに仰々しい音ばかりが部屋に響く。
    「うそだろ……」
     そんなこと言われたら、諦めがつくものもつかなくなってしまうじゃないか。
     じわりと顔に滲む朱を隠すように、風見はその場にしゃがみこんだ。
     


     『安室透』としての行動が増えてからの降谷は、少し変わった。
     風見は潜入中の降谷とは接触しない。公安部の人間だとすでに顔が知られてしまっているためだ。
     とはいえ降谷のスケジュールは風見も把握している。加えてときおり漏れ伝え聞くところによると、安室は毛利小五郎の弟子としてよりも、喫茶ポアロでのアルバイトがもはやメインなのではないかと思うほどの働きようだった。
     ここまではまだ想定済みの範囲内だったのだが、問題は女子高生やら若い女性たちからやたらと安室透の人気が上がってしまったことにある。なぜか店のSNSまで始めてしまった。写真などはもちろん載せていないが、目立たないわけないよなやっぱりな、と風見は頭を抱えてしまう。
     しかし、問題はそれだけではなかった。喫茶ポアロにはしょっちゅう捜査一課の刑事たちも訪れるのだというではないか。安室透の同僚である、榎本梓が関係したとある事件でのつながりらしいが、最初に聞いたときは二度目の正気ですか降谷さん発言を繰り出してしまった。成り行きなんだからしかたないだろ、なんとかなるさ、と笑う降谷は、焦りなんてひとつも感じていないようだった。
     そう、降谷はよく笑うようになった。前はもっと、他人を遠ざけているような雰囲気があったのに。
     当然のことかもしれない。降谷が風見に語って聞かせるポアロでの逸話は、どれもこれも優しいものばかりだったから。『安室透』としてかもしれないけど、降谷はそこに、いっときの安寧を得たに違いないのだ。
     だから風見は降谷の話に笑顔で相槌を打つ。よかったですね、そんなことがあったんですね、ときどき、うらやましいなぁ、なんて声色を乗せて。
     降谷のよく響くテノールは、風見に耳を塞ぐ方法を教えてはくれない。うれしいと、よかったと思う気持ちはほんとうなのに、どうしたってざわざわする心は消えやしない。
     寂しい、なんて、言えっこないのに。
     今日もまた、報告書のUSBデータを渡すために訪れた警視庁近くの公園で、背中越しにぽつぽつと、降谷の声に耳を傾ける。表向きは通話中のサラリーマンに見えるように。赤の他人なのだと、示すように。
     芽吹いたばかりの新緑が風に揺れて、ときおり視界に影を落とした。初夏の葉音は、どこまでも青い空にざわめいては消えてゆく。
     風見は相槌を打つ間に、そっと苦笑いを付けくわえて言った。
    「でも、ほんとうに気をつけてくださいね。最近の女子高生は怖いらしいですよ」
    「まぁな……なんていうか、若さってすごいよな」
    「ふふ、降谷さんでもそんなおじさんみたいなこと言うんですか」
    「おい」
    「冗談です。安心してください、私は降谷さんのほうが怖いですから」
    「なんだそれ」
     そう言って、背中で降谷が笑った気配を感じたので、ほんとうですよと心のなかで呟いた。こんな他愛ないやりとりができてしまうことが怖い。いつか失うとわかっていながら、ぬるま湯のようなつかの間の平穏にしがみついてしまいそうな自分が怖い。この気持ちが、耐え切れずあふれてしまうのが、降谷に伝わってしまうのが、怖い。
    「……あぁ、明日からは組織に入る。たぶん今回は長くなると思うが、手はずはいつもどおりに」
    「承知いたしました。お戻りになる前には片付けておきます」
    「頼んだ」
     ふいに降谷の声がピンと張りつめたものに変わって、風見も即座に、けれど周りからは不自然に思われないほどに姿勢を正しながら答えた。
    「それから、来月のサミット会場の査察の件、どうなっている?」
    「はい。各班の配置図はデータでお送りしたとおりです。今回は外事四課のほぼ全員で当たる形になりますので新人もおりますが、それぞれ班長ないしは経歴の長い者と組ませます」
    「そうか……僕もその頃には戻れるとは思う。風見、気を抜くなよ」
    「は、心してかかります」
     風見が首肯したのを最後に、ふっと降谷の気配が消えた。心の中で数秒きっちりカウントしてから後ろを振り返れば、降谷の姿はもうどこにもなかった。
     相変わらず衣擦れの音ひとつ、足音ひとつも立てないのだから、まったく末恐ろしい。
     ほぅ、といつの間にか詰めていた息を吐き出して、今日も何事も起こらなかったことに安堵する。いまだに降谷と会うのは緊張する、だなんて彼が知ったらまた笑うのだろうが、明日からはまたしばらく連絡がとれない。
     降谷のことだから、風見が心配することはなにもない。わかっていても、顔も見られず、声すらも聞けない日々が続けば不安になる。無事に戻ってきてくれればそれでいいと思い続けていたけれど、今はもう、降谷の帰る場所があることを素直に喜べない自分に嫌気がさした。
     部下としての領分を過ぎているこの気持ちは、いつ昇華されてくれるのだろう。
     そのとき、いまだ名前すらつけられないこの気持ちは、どこに行くのだろうか。



     それは、一瞬だった。
     音、光、熱、風。
     そのすべてを認識するが早いか風見の身体は爆風に弾き飛ばされた。とっさのことで受身をとることが間に合わない。背中を強かに打ちつけ、衝撃に内蔵が揺れるが、今はとにかく状況を把握しなければ、と反射的に閉じてしまった目を開ける。
     無意識で眼鏡のブリッジへと伸ばした指は空を切った。爆風の衝撃でどこかへ飛ばされてしまったようだ。舌打ちをひとつして、近くにいたはずの部下を呼ぶ。
    「志村!佐藤!無事か!?」
    「風見さん!」
    「こちらはなんとか!」
    「状況は!?」
    「わかりません……いったいなにが……!」
    「応援と救急を要請しろ!早く!」
    「はい!」
    「風見さん、ひとまずここから撤退を!」
     痛みに顔を顰めながら立ち上がる。骨が無事であればいいのだが。
     あたりには崩れ落ちたコンクリートが散乱し、ところどころ火の手が上がっていた。何が起こったのかを把握するには情報が足りなすぎる。まずは、と考え始めたところで、風見の背中を何かが這い上がった気がした。
     ぞっとするような、何かが。
    「……あいつは?」
     惨状を目視で確認しながら、頭の中で今回の配置を思い浮かべた。おそらく爆発の発生地点にいちばん近かったのは、風見を除けば、まだ配属されたばかりの若い捜査員だったはずだ。ざわざわと嫌な予感が、身体に絡みつくのを感じる。煙のせいなのか、喉がひどく乾いていた。
     視界の端に、コンクリートの陰に隠れるよう落とされた見覚えのある色のスーツと、その欠片。だったもの。
    「……くそ、」
    「風見さん……」
    「わかっている……、動けない人員の救助と撤退が最優先だ!急げ!」
    「はい!」
     今は振り返るな、と必死に自分に言い聞かせる。目をそらすことでしか、そこに立っていられなかった。
     収まりきらない煙の向こうから、聞こえないはずの声がしたのはそのときだ。
    「風見!!」
    「!、降谷さん!?」
     グレーのスーツ姿の降谷が駆け込んでくる。その端正な顔には珍しく焦りの色が浮かんでいて、風見はびくりと表情をこわばらせた。サミット会場の爆発という公安、ひいては日本の警察としてあるまじき失態を犯してしまったことに、今さらながらに背筋が凍る。今回の現場を任されていたのは風見だ。しかしゼロまでもが出てくるとあれば、風見だけの責任では済まされない可能性だってある。
     どうしよう、とうろたえたのもつかの間、どこかでコンクリートが落ちる音がして、風見ははっとした。
    「降谷さん、ここはまだ危険です!早く外に……」
    「風見、無事か」
     ひたり、と真摯な瞳が風見を射る。息を乱した降谷を見たのは初めてだった。心臓が嫌な音を立てる。
     降谷が、まるで違うひとみたいだ。
    「風見?」
     訝しげな声に、風見は慌てて首を振る。右肩はコンクリートに強打したせいで鈍い痛みを訴え、顔を含めた身体の正面にはいくつかの火傷と飛び散った破片による傷ができているが、ここで動きを止めるわけにはいかなかった。
    「はい、問題ありません」
    「……わかった。状況は?」
    「まだすべてを把握できてはいませんが、数名が死傷したものと思われます」
    「……、そうか。……爆発の原因は特定できそうか?」
    「少し……気になることが。詳しくは外で、」
     第二の爆発の可能性がないわけではない。今ここで再び爆発が起これば、風見や部下たちはおろか降谷にまで危険が迫る。早く出ましょうと言外に促したにもかかわらず、降谷はじっと風見を見据えたままだった。
    「降谷さ……っ!?」
     瞬間、すり、とあたたかなものが風見の目元に触れた。降谷の指が、隠すもののなくなった風見の下瞼を二度、三度と撫でる。
    「ふ、降谷さん……?」
    「きみ、眼鏡なくて大丈夫なのか」
    「え?あぁ、眼鏡ですか?大丈夫です、視力に問題はないので……」
    「え」
    「え?」
     何かおかしなことを言っただろうか。風見はいつもより軽く感じる顔を小さく傾げた。
    「いや、なんでもない……風見」
    「は、はい!」
    「今回の件、思っている以上に厄介かもしれない」
    「……どういうことですか?」
     すっと風見から手を離し、降谷はそのまま自らの唇に指を当てた。何かを考え込むように真剣な光を宿した瞳に、風見も表情を引き締める。
    「なにが爆発したかわかるか?」
    「爆発元はまだ特定できていません。高圧ケーブル等の可能性もありますが……現時点ではなんとも」
    「高圧ケーブル……?」
    「確証もありませんし、それが偶発的か作為的かも判断はできませんが……」
    「そうか……」
    「降谷さんは、これは事故ではないと?」
    「断言はできないが、状況もタイミングも、サミットを狙ったテロにしては不自然すぎる。かといって事故で終わらせることはできないな……風見、」
     降谷はそこで一度言葉を切った。
    「この件が捜一に移った場合、証拠がなければ事故として処理される可能性がある」
    「はい」
    「……ホシをあげるぞ」
    「は、」
    「今から言う証拠を偽造しろ」
    「ちょ、ちょっと待ってください降谷さん!それは……冤罪を作れ、と?」
    「違法捜査どころか、完全に黒だな」
     ふ、と自嘲的にすらみえる笑みを浮かべる降谷に、風見は動揺を隠せなかった。作為的に誤認逮捕するなど、いくら公安といえど許されるはずがない。
     降谷の命令だとしても、断るべきだ。断らなくてはいけないのだとわかっている。そんなことがまかり通ってしまえば、警察官としての正義を失いかねない。
     けれど、と風見の脳裏に浮かんだのは、ついさっき物言わぬ存在へなってしまった部下のことだった。
     駐在所勤務から異動してきたばかりだと言っていた彼は、まだどこかあどけなさの残る顔をしていた。人懐っこくて、気がよく利いて、そして。
    『風見さん!』
     よく笑顔で風見を呼んだ。今回が彼の公安の捜査員として初めての大規模な査察だった。いつもの調子のよさはすっかりなりを潜めて、緊張しているのだと苦笑する彼に、風見はなんと言ったのだったか。……間違っても、自分がいるから大丈夫だなんて、言うべきではなかったのだ。彼をもう少し、離れたところにいさせてやれば、あんな。
    「……ふるやさん、」
    「うん」
    「誰か、はもう、決まってるんですね」
    「あぁ……考えがある」
    「わかりました、ご指示を」
    「いいのか?僕が言うのもおかしいが、たぶん、今まででいちばん無茶苦茶な命令だぞ」
    「え……自覚あったんですか?」
    「それなりにはな。……きみには、嫌な役回りをやらせることになる」
    「かまいません、同意の上です。私も、このまま終わらせることなどできませんから」
    「――わかった。実行はこの場が収まってからだ。風見、必ず真実を掴むぞ」
    「……はい!」
     不安がない、わけではない。心が傷まないわけはない。それでも、風見にだって公安警察としての意地がある。矜持がある。なにより、彼の死を無駄にはしたくなかった。
    『風見さんがいるなら、大丈夫ですよね』
     守れなくてごめん。でも、もし許されるのならば、それを最後の約束にしてもいいだろうか。
     迷いは、もうなかった。



    「これでよく公安が務まるな」
    「す……すみません……っ」
     ぎりぎりと捻り上げられた腕が痛い。風見は思わず、目線で降谷に訴えかけた。
     ――やりすぎじゃないですか降谷さん、ここまでやるとは聞いてないんですが!
     そんな視線を降谷は黙殺して、知らない者が見たら叫び声のひとつやふたつ上げてしまいそうなくらい、冷たい瞳で風見を見下ろしている。
     いや、知っていても怖い。降谷の演技力が恐ろしい。……ほんとうに、演技だよな?
     降谷が手の中の盗聴器を握りつぶすと同時に掴まれていた手を乱暴に離され、風見はわざとでもなくその場に崩れ落ちる。
    「いったい……だれが……!!」
     少々やりすぎのきらいがあるような気がしたが、去り際に降谷が小さく片目をつむったのが見えたので、及第点ということなのだろう。
    「待って!!」
     傍らの少年が降谷を呼び止めるが、すでにその背中は遠い。風見はゆっくり立ち上がり、少年に近づいていく。
    「盗聴器は、君が仕掛けたのか?」
     半ば確信的ではあったが、あえてそう尋ねる。
    「いやまさか、こんな子どもが……」
    「安室さんは、全国の公安警察を操る警察庁の……ゼロ!!」
    「!」
     なるほど、そこまで読んでいるのか。
     風見は内心で舌を巻いた。降谷の言うとおり、この子はただの子どもではない。
     そう、すべては、降谷の作戦だった。
     元警察官である毛利小五郎、今は名探偵眠りの小五郎を犯人に仕立て上げると聞いたときは、さすがに3回目の正気ですか降谷さん、が飛び出た。有名人、それも探偵として数々の事件を解決している彼を逮捕すれば、マスコミに嗅ぎつけられるのも必至だ。家宅捜索から逮捕まで、いかに情報を漏らさずに迅速に行えるか、がまず第一の関門だった。
     毛利小五郎の指紋は警視庁在籍時のものを複製するだけだったので問題はないのだが、なにぶん筋書きがなかなかに強引なうえに、捜査一課も黙らせなければならない。刑事部から公安部が嫌われているのは周知の事実だが、今回の件でさらに風当たりが強くなったのは間違いなかった。特に風見への。
     もちろん、そんなことを言っていたら公安は務まらない。他の部署から嫌われたって、自分たちにしかできないことをやる。そして、始末だって自らでつける。それが公安警察だ。
     毛利小五郎の家宅捜索の際、降谷からはとある指示が出ていた。そこにいる子どものスマートフォンに盗聴アプリを入れる、というものだ。おそらく、その子からも何かしらのアクションがあるはずだ、とも。
     以前から『安室透』としてその子どもと関わっていることは聞いていたが、実際に目にすれば想像以上に幼い子どもだった。ほんとうにこんな子が、と半信半疑であったのだが、やはり降谷の言うことは間違ってなかったらしい。いくら賢いといっても小学校に上がったばかりの子どもが、降谷の正体をやすやすと見抜けるはずがないのだ。
     そうか、降谷は最初から、この子を動かすために毛利小五郎を選んだのか。
     得心すると同時に、風見の心が小さく揺れた。
     『安室透』としての降谷を、風見は知らない。
     安室としてどうやって生活しているか、情報として知ってはいるけれども、実態は何もわからない。
     降谷はこの子の何を知っていて、この子は降谷の何を知っているんだろう。
    「君は一体……何者だ?」
     風見が問えば、その子どもは、まっすぐな瞳で答えた。
    「江戸川コナン。探偵さ」
     あぁ、似ている。
     どこまでも澄んだ色。その中に燦然と輝く、眩いまでの光。
    「君の言う――」
     理性と感情の間で、ぽつりと言葉が流れ落ちた。
    「『安室透』という男は、ひとごろしだ」
    「え……?」
     『安室透』は、風見の知る『降谷零』を殺すんだ、いつか。
     それは、風見の勝手な感傷だけれど。ささやかな意趣返しだ。子ども相手に大人気ないと、笑えばいい。
    「……去年、拘置所で取り調べ相手を自殺に追い込んだ」
     自殺、と彼が小さく息を飲んだのがわかった。
     そういえば、と風見の中で何かがひっかかったような気がする。しかしそれは線を結ぶことなく、思考の隅に霧散した。
    「悪い、子どもに言うことじゃなかった」
     さすがに聞いていて気持ちのいい話ではないだろう。たとえ本来の見た目通りの子どもでないとしても、風見の目からは少なくとも、年端もゆかない少年にすぎないのだ。
    「だが、君にはなせがこんな話ができてしまう。……変わった子だ」
     だから、きっと降谷も。
     それ以上は言葉にせず、風見は少年――江戸川コナンに背を向けた。彼とはまたきっと、どこかで会うだろうと予感めいたものを感じながら。
     


     一連の事件はIoTテロによるものだということが判明し、無事にサミット会場の爆発の事件化には成功した。降谷が捜査一課に手柄を渡すというのにはいささか納得できないが、今回はそれよりも、次の一手をどう打つかのほうが重要だった。
     犯人まで突き止めることができれば、彼に少しは報いることができるだろうか。頭に浮かんだ面影を、風見はそっと振り払う。まだだ。まだ何も終わってはいない。
     今朝から降り続く雨は、春の生ぬるい風の中にあってもどこか冷たい気がした。そういえば、降谷が傘を差しているところを見たことがない。安室のときはどうなんだろう。あるいは、バーボンのときは。
     雨を吸ってその色を濃くした麦穂は、どこかさみしげに見えた。こんなとき、傘を差しかけることができたらよかったのに。風見にできるのは、せめて人の目から降谷を隠すことだけだ。
    「降谷さんが怖いです、」
     いつか言った言葉が、風見の中で重く響く。
    「風見、僕には僕以上に怖い男があとふたりいるんだ……そのうちのひとりは、まだほんの子どもだがな」
     静かな声だった。あのプライドの高い降谷が、と驚くまもなく続けられた言葉に、風見も少し笑った。
    「いま、降谷さんと同じ子どもを、思い浮かべましたよ……って、」
     振り向くと降谷の姿はそこにはなかった。珍しくもないことだが、ここ最近ではあまりしなかった行動に、やはり今日の降谷はどこかおかしい、と天を仰いだ。
     Norのシステムが航空宇宙局、NAZUにあるという現在の状況はけっして楽観視できる話ではない。降谷……ゼロのほうでも、それ以上の情報は掴みきれないのだろう。しかし、そのことだけで降谷があんな顔をするかと言われれば、答えは否だ。たとえ窮地にあったとしても、他人に弱った顔を見せるひとではない。となれば。
    「怖い男、か……」
    『僕には、僕以上に怖い男が、あとふたりいる』
     自分でも怖いという自覚はあったんですね、なんて、いつかのように言える空気ではなかった。ひとりは、例の少年。では、もうひとりは?
     どこで出会ったのか。どんな関係なのか。たぶん、降谷に聞いても教えてはくれないだろう。それは、風見が知る必要のないことなのだから。結局、出会ってから今日に至るまで、風見は降谷のことを何もわからないままだ。
     いや、わかろうともしなかったツケかもしれないな、と自嘲の笑みが漏れる。近づきすぎるのが怖いからと、どこかでずっと逃げていたのは風見のほうなのだ。
    「……会ってみたいな」
     あのひとに存在を認められたひと。自分ではたどり着けないところにいるひと。あのひとの隣に並ぶことを許されたひと。
     ぱたり、ぱたりと傘を打つ雨音の感覚が広くなった。どんなに強い雨でも、いつかはやむだろう。風見は、そっと傘を閉じてみた。遮るもののなくなった髪を、肩を、空からの雫が濡らしていく。
     雨粒が跳ねた眼鏡を外して、ふとあのときのことを思い出した。
     降谷の長い指が、下瞼の表面をすべる感覚。風見が自覚している己のそれよりも、ほんの少しあたたかな手だった。組織潜入のすぐあとだったからか、わずかに香水の匂いがした。そういえば、あんなふうに降谷に触れられたのは、あれが初めてだった気がする。
     あのとき、降谷は何に驚いてたんだろう。



    『風見、羽場一二三だ』
     その名前を聞いたとき、風見の中にあった違和感が、ようやく点と点を結んだ。どうして今まで気づかなかったんだろう。拘置所の中で自殺したことになっている男。彼が亡くなったことを警視庁公安部が原因だと知っている者は、内部の人間を除けば三人。そのうちのひとりにはすでに見返りが与えられているし、もうひとりは別の形での報復を目論んでいたはずだ。となれば、残りは。
    「降谷さん、まさか――」
    『あぁ。あいつに間違いない』
     ざぁ、と目の前が暗くなった。今回の事件に関わった人物の顔がいくつも浮かんでは消えて、最後に残ったのは彼の顔だった。
    「……っ、そんなの、それじゃあ、」
    『風見、』
    「すべて我々が間違っていたというんですか……!?」
     検察庁の検事が、協力者など二度と持たないようにと、牽制のつもりだった。公安はすべての捜査に、それがたとえ合法であろうと違法であろうと、責任を持たなければならない。協力者ひとりに対してもそうだ。それができない者に、自分で始末をつけられない者に、真似事などさせるわけにはいかない。
     けれどもそれが、今回の事件の引き金だったというのならば。
     瞳の奥が熱い。言葉にならない気持ちが溢れて、頭の中が沸騰しそうだった。
     だめだとわかっている。こんなところを降谷に知られるわけにはいかなかった。わかっていても、今にも滲んでしまいそうな視界を止められない。
    『風見。振り返るな』
    「……!」
     降谷の静かな声が、嵐のような心に入り込んでくる。そう、いつものような、よく響くテノール。
    『僕たちは前に進むしかない。泣いても喚いても、後ろに道はない。僕たちが正義でなくてなんなんだ?だれがこの国を守れるんだ?……後悔するのは、一番最後でいい』
     けして優しい声じゃない。けれどその中に隠された、降谷の押し殺してきた本音に、心に、初めて触れられたような気がした。
    『風見さん』
    『風見さん!』
     今はもういない、ふたりの笑った顔を思い出す。
     風見にできることは、そう多くない。
     物事の善悪を決めるのは風見ではない。だからたとえ一方的であったとしても、風見は風見の正義を突き通す。
     振り返ってはいけないのだ。どんな重荷を背負ったとしても、やるべきことをやらなくてはいけない。
     ――そう、約束したからな。
     風見は乱暴にスーツの袖口で瞼を拭った。震える唇から、熱をもった呼吸を逃がす。
    「……降谷さん、指示をください」
    『よし、まずは僕が今から言う場所に向かってくれ』
    「はい!」
     風見は走り出す。何が待っているかはわからなくても、とにかく、前へ。
     大丈夫ですよ、と誰のものかもわからない、声なき声が聞こえた気がした。



     それから。
     正直に言って、何が起こったのか、もはや風見にもよくわかってはいない。
     結論から言ってしまえば、少なくとも人的被害は避けることができた。
     羽場二三一……今は違う名前で生きている男を連れ出し、江戸川コナンの知り合いだという発明家、阿笠博士の元を訪れた。そうして真犯人である日下部誠から、NAZUのパスワードを聞き出した、ところまでは想定通りだったのだが。
     その後警視庁めがけて落下する惑星探査機「はくちょう」を爆薬で軌道修正し、さらに避難先のカジノタワーに衝突しそうになった「はくちょう」のカプセルを降谷と江戸川少年で阻止するとなったことはさすがに想定云々の前にうそだろと心の声がだだ漏れていたと思う。肝が冷えた、なんて言葉では足りず、もはや冷えすぎて胃が痛い。
     物損被害の大きさはそれなりだが、数千人の命を救ったと思えば些細なことだ。上層部が頭を抱えるくらいはしたかもしれないが、そのあたりはどうにかしてくれるだろうと踏んでいる。ある意味では国に貸しができた、と喜んでいる者すらいるかもしれない。
     モノレールの線路に彼が愛車のRXー7で乗り上げたことも、残念ながら彼女がもはや修理不能になってしまったことも、すべてロハである。風見の作成する書類の数がいまさら数枚増えたところで、残業時間はそう変わらない。
     降谷が少年――江戸川コナンとともに飛び出して行ったとき、風見はほっとした。このふたりならどんな状況だって覆せるくらいの力がある。きっと大丈夫だ、と。ただの勘かもしれないけど、そう思えたのだ。その間風見にできたことなんてそう多くはなくて、結局、自分の無力さを痛感するばかりだ。
    「降谷さん……また派手にやりましたね」
     トム・クルーズだってやらないですよ、たぶん。呆れ顔でつけ加えれば、いつものクールフェイスはどこへやら、降谷が憮然とした顔になった。
    「またってなんだ、またって」
    「え、そこですか?」
    「どこだと思ったんだ?」
    「フィクションと現実を混同するな、のところでしょうか。トム・クルーズは否定しないと思ってました」
    「……きみの中で僕はいったいどうなっているんだろうな」
    「はは、」
     降谷さんは降谷さんですよ。僕の中では、ずっと。
     風見は言葉の代わりに、降谷を見た。そこここが煤けているし、左肩は何をどうしたのかぱっくりと切れている。カプセルの軌道を変えるなんていうとんでもないことをして戻ってきたかと思えば、すっかり満身創痍といった体だ。
    「とにかく手当が先ですね。志村か佐藤を呼びますから、とりあえず降谷さんはここで……」
    「風見」
    「はい?」
    「風見、きみが連れていけ。あと病院じゃなくていい。セーフハウスに行く」
    「は……え?私が、ですか?」
    「何か問題が?」
    「いや、ありますよ……避難解除されたとはいえまだ誘導が終わってませんし」
    「現場には刑事部がいるだろ。機動隊だって出動してる」
    「えぇと……現場の後始末も残ってます」
    「それこそきみの部下がいるだろう?被害状況を報告させろ。後で僕が見る」
    「大破したRXー7の回収は?言っておきますが、今回はどうにもなりませんからね」
    「……それも僕のほうで善処しよう。回収だけ指示しておけ」
    「は、承知いたしました。忘れないでくださいよ降谷さん」
    「わかってるよ……で、他には?言っておくが、各報道機関にはウラの理事官がとっくに圧力をかけている」
    「でしたら……えぇと、」
    「ないな?じゃあ決まりだ」
    「ですが、ふるやさ、」
    「決まり、だな?」
     ゆっくりと一音一音発せられたそれは、もはや風見に断りの選択肢は与えないぞ、という脅しにしか聞こえなかった。
    「車を回してきますので少々お待ちいただけますか……」
    「あぁ、わかった」
     早くしろよ、とのたまう降谷はしかし、右手で左腕の怪我のあたりを押さえている。降谷があまりにも平然としていたためにうっかりしていたが、あれはどう見てもガラス片で切った傷だ。いかに薄手とはいえ革のジャケットをすっぱりと切ってしまう程の鋭利なものだったのだろう。それほど深くはないようだが、油断はできない。
    「す、すぐ取ってきます!」
     走り出した風見の背中を、降谷がどんな顔で見ていたかなんて、風見には知る由もなかった。



    「お邪魔します……」
    「セーフハウスなんだからそんなに気にするな」
    「そ、そうは言ってもですね」
     降谷に指示されて向かったのは、『安室透』の家として用意されたメゾンモクバだった。
     風見も確かに何度か訪れている。ここだけでなく、都内にあるいくつかのセーフハウスにも。しかし、風見はここだけはいつ来ても慣れない。実質的にここは今の降谷の住処だ。なんというか、降谷の気配が濃い。同時に『安室透』の存在も感じる。それが風見を、ひどく落ち着かない気持ちにさせるのだ。
    「救急箱、お借りしますね」
     なぜ降谷が風見に処置を頼んだのかわからいが、とにかく手早く終えて業務に戻らせてもらおう、とスーツのジャケットを脱いで、袖口を捲る。
    「その前に汚れを落としてくる。ちょっと待っててくれ」
    「あ、そうですよね」
    「うん。あぁ、これも処分しておいてくれ」
    「はー……ってここで脱がないでください!」
    「面倒」
    「えぇ……」
     ジャケットとニットをぽんぽんと風見に投げて寄越し、上半身裸となった降谷はそのままバスルームへと消えていく。
    「心臓に悪い……」
     はぁ、と見えなくなった背中にため息をかける。やめてほしい。いや気にしてしまう自分が悪いのだろうけど。降谷だから、気になってしまうのだ。ただでさえこじらせている三十路なんだぞこっちは。と、いっそ恨みがましく思いながら、風見はまだわずかに体温が残る二枚の服を検分した。
     左の上腕あたりが切れている他は、擦ったような跡があちこちにある。それから、煤と、火薬の匂い。
     空中でガラスを撃って割る、なんて、ほんとうにハリウッド映画みたいだ。でも、これは、フィクションじゃない。
     ――いきててよかった。
     心のどこかで消えてはくれなかった思いが、ふっと軽くなる。降谷と江戸川少年なら、大丈夫だと信じていた。けれど、それでも。
    「……風見?」
     降谷の声が遠くに聞こえる。耳の中に膜が張ったようだ。瞼が震えて、抑えきれなかった水滴が、ぱたりと風見のワイシャツの胸元に落ちた。
    「あ、あれ」
    「風見……!?どうした!?」
    「ちが、ちがうんです、ちがう……」
     早く止めなくては、降谷に情けないところなんて見せられないのに。思いとは裏腹に、瞳から流れる雫は、あとからあとから溢れて止まらない。
     折った袖口で瞼を擦ろうとして腕を上げるが、その動きは横から伸びてきたものに遮られた。
    「擦るな。腫れるぞ」
     湿気を帯びた降谷の手が、風見のそれに重ねられている。空いた右手が風見の顔に向けて伸ばされるのを感じて、反射的に目を閉じた。瞬間、またひとつ、涙が落ちる。
     降谷が風見の眼鏡のテンプルをそっと摘み、耳から引き抜いた。戸惑いながら瞳を開ければ、薄いガラス1枚分しか変わらないのに、隔たりのない視界は降谷の姿を鮮明に映し出す。
     麦穂はすっかり水に濡れて、降谷の身にまとう白いTシャツの肩に雫が散った。風見をまっすぐに見透かす空色が、いつかのように星を描き出す。
    「ふるや、さん……」
    「きみ、眼鏡なくても見えるんだよな」
     何か言わなければ、と口を開いた風見の言葉が途切れる前に、降谷の呟きが落とされた。
    「え……?」
    「知らなかった。健康診断の結果は見てたのに。あれ、裸眼視力だったんだな」
    「あ、はい、そうです……えっと、降谷さん?」
    「知らなかった」
     先程と同じ、けれどどこか違って聞こえる響きに、風見は首を傾げてしまう。不満気に、というよりも、どこか寂寥感を感じさせるような声だった。
    「なぁ風見。僕は、自分が思ってたよりきみのことを知らないんだ。でも、知らないことすら知らなかった」
     風見の右手をゆるく拘束していた手が離れて、変わりに両腕を背中に回される。左の肩口に、降谷の額が押し付けられた。まるで抱きしめられているような格好に、焦ったのは風見のほうだ。
    「ふ、ふるやさん、離し、」
    「なぁ……なんで泣いてるんだ」
    「な、いて、ないです」
    「泣いてるだろ」
    「ないてません……!」
    「せめて誤魔化すくらいしたらどうだ。ほんとうにそれでよく公安が務まるなぁ」
     自分の頭の、すぐ近くで聞こえる声はどうしてかいつもよりずっとやさしい。たった今この瞬間、風見のためだけの声だ。もう限界だろうと、頭のどこかで自分が言う。いつだって切り離せるように、傷つかないように、緩衝材でぐるぐる巻きにして、閉じ込めておいたのに。
     飽和状態なんて、とっくに越えていた。
    「ふるやさんの、」
    「うん」
    「ふるやさんのせいですからね……っ」
    「……うん」
     鼻の奥がツンと痛む。みっともなく声は震えているし、嗚咽だって止められない。降谷が風見の背中を軽く、宥めるように叩く。それすらもう呼び水にしかならないのに。ほんとうに、このひとは。
    「ふるやさんがこわいです……車でビルに飛び込むなんて正気ですか……」
    「ビルに飛び込んだわけじゃない。結果的にビルがそこにあっただけだ」
    「そもそも向かい側に建物がなかったらどうするつもりだったんです」
    「そうだなぁ……」
    「……あ、もういいです……。わかってます、緊急事態だったということも、降谷さんが、そうしなくてはいけなかったことも……。でも、ぼくは、嫌です。降谷さんが、いなくなったら、嫌です」
    「かざ……」
    「すみません……僕、公安失格ですね、」
     笑おうとした唇が乾いて小さくぱり、と音を立てた。泣きすぎて身体中の水分が出ていってしまったみたいだなと思う。
     降谷は先程から動かない。呆れられただろうか。情けなと思われただろうか。自棄になっているわけではないけれど、もういいか、という声が風見の中からふつふつと湧き出てくる。
     だって、降谷にはもっとふさわしいひとがいる。隣を歩けるひとがいる。それは風見じゃない。だから、風見はもうここまででいい。
    「いいわけないだろ」
    「へ、」
     ぱっと顔を上げた降谷と目が合う。
     焦ったような、怒ったような、風見の見たことのない顔をしていた。
    「風見、言ったよな?僕は、きみのことを何も知らない。……知りたいと思うのは駄目か?」
    「……!そ、れは」
    「うん?」
    「ふ、降谷さんが知る必要なんてないです!」
    「はぁ?」
    「ヒェ……っ!だ、だってそうでしょう?業務に関係のないことですし、僕はただあなたの命令に従うだけですから」
     降谷の目が、すっと細められた。風見はぞわ、と背筋に悪寒を走らせる。これは覚えのある視線だ、と。
    「……ほぉん?なるほど、それがきみの意見か。じゃあそうしてもらおうか……風見、目を閉じろ」
    「えっ」
    「命令だったら聞くんだろう?」
    「は、はい……」
     腕を捻り上げられないだけいいのかもしれない。だが、もしかしたらそれ以上の何かがあるんだろうか。恐る恐る風見は瞼を閉じる。
     瞼を透かして蛍光灯の明かりが入るだけの真っ白な視界の中では、些細な音や気配ですら身体が情報源として取り入れようとする。
     風見の肩口から顔を離した降谷が、次いで両腕を解いた。衣擦れの音、それから石鹸の匂い。外からは、車両が続けざまに通ったのがわかる。一瞬、そちらに気を取られたせいで、降谷の気配が消えた。さすがに部屋を出てはいないはずだが、近くにいるにしては存在感が希薄すぎてわからない。
     心臓がどくどくと脈打つ。握りしめた両手は、じわりと汗をかいていた。ここで、降谷が、いつものようにふっといなくなってしまったら。
     たぶん、きっとすごく、悲しい。
     そうさせたのは、自分なのだけど。
     止まっていた涙がまた零れ落ちそうになって、風見はぎゅう、と閉じた瞼に力を込めた。無意識に右手を上げそうになる。
    「だめだって言ったろ?」
    「……!ん、!」
     ふいに戻ってきた気配と、目尻に何かが触れる感覚。びくりと肩を竦めた風見に構わず、何度も触れるそれに耐えきれなくなって、風見は声を上げた。
    「ふるやさ……な、なにして、!」
    「ん?」
     降谷の声は、耳のすぐ近くで聞こえた。やっぱりそうか、と確信したもののそれはなんの慰めにもならず、風見は羞恥で顔を朱に染めた。それに気づいた降谷がわざとリップ音までたててくるので、声にならない悲鳴があがる。
    「ふは、」
    「笑いごとじゃないです……っ」
    「悪いわるい……なぁ風見、そのまま聞いて」
    「っ……、は、い」
     風見が戸惑いながら首肯すれば、降谷は顔を少しだけ離して、代わりに手のひらが風見の頬に触れた。長くて華奢な指はその実、触れれば風見よりも幾分厚みがある。
    「風見――ごめん」
    「……?」
    「たぶん、誤解させてるよな」
    「ふるやさん……?」
     何がですか、と続けようとした唇が、先程と同じ、柔らかなものに塞がれた。ただ重ねられただけのそれに、きゅう、と心の奥が締めつけられる。
     どう考えても現実とは思えなくて、ただただ確かめたくて、風見は縋るように手を伸ばした。彷徨う手を、降谷の手がそっと引いて、指を絡めるように握りこまれる。
    「かざみ、」
    「……、ふ、」
    「すきだよ。それから、僕の右腕もきみだけだ」
    「――――!」
     いま、このひとは、なんていった?
     耳は確かに聞こえていて、ちゃんと信号は脳へと届いているはずなのだけれど。風見にはどうしても理解できない。目を開けたら全部が夢なんてこと、あるのだろうか。
    「きみはほんとうに心の声が出るよなぁ、顔に……いいよ、目を開けて」
     笑い混じりの声に、わずかに躊躇いをおぼえたものの、どこまでも風見の身体は忠実に動く。そういうふうに、とっくに作り変えられてしまったのだ、このひとに。
     そろりと目を開けば、明かりに一瞬目が眩んで、それもすぐに慣れた。
    「あ……」
     思ったよりずっと近くにあった降谷の顔は、少しだけ焦点が合わなかった。けれど、ゆるやかな曲線を描くその瞳が、きらきらと煌めく眼差しが、まっすぐに風見を見ていたから。
    「う、そです……そんなわけない……」
    「意外と疑り深いな?じゃあ聞くが、なんで嘘だと思う?」
    「だって、理由がないじゃないですか……」
     降谷は特別な人間だと思っていた。どこをとったって平凡でしかない風見の、手の届かないようなところにいて、手をのばすことすら許されないのだとずっと思ってきた。
     何億光年も遠くの、あの日の一等星のように。
    「理由、ねぇ。ひとをすきになるのに、だいそれた理由がいるか?……そうだな、まずは業務のほうだけど。風見、僕はけっこう無理難題をきみに押し付けてきた」
    「ご自覚がおありになるようでよかったです……」
    「いいから聞け。たぶん、この件で僕がきみを褒めるのはこれが最後だぞ。……きみの能力は誰もが認めるところだし、いくら上からの命令とはいえ、実際にきみほど忠実に動ける人間はそれほどいない。これは僕の所感だけどな。それでいてまるきり杓子定規ではなく、柔軟に対応する能力もある。少なくとも、僕が今まで出会った中で、きみほど僕の右腕にふさわしいひとはいないよ。他のだれかはいらない。……これについては以上だけど、何か質問は?」
    「え、あ、ありません……!」
    「よし、では次だ」
     滔々と語る降谷の勢いに押されてはいるものの、風見は状況も忘れて、純粋に今までの苦労が報われた気持ちになる。ほわ、と温かい何かが風見の心を滑り落ちて、じんわりと沁み込んだ。
    「さて風見。きみは僕のことがすきだよな?」
    「…………はぁっ!?」
    「違うとは言わせないけど、反論があれば聞こうじゃないか」
    「いえ、ち、違います、僕そんなこと言っていないですし」
     もう今さら隠し通せる気はしないが、ここで素直に認めるわけにはいかない。認めてしまえば、風見のちっぽけな矜持が塵となって消えてしまう気がした。
    「ふ、ははは!それはさすがに説得力に欠けるぞ風見……さっきも言っただろ。きみはすぐに顔にでる」
    「な、なんですかそれ……じゃあ、ずっと知ってたんですか!?」
    「正確にはずっと、ではないよ。そうだな、僕が『安室透』としてポアロで働き始めてから、かな」
    「……え?」
    「ごめん、結局、僕が誤解させたのはわかっているんだ。だけど、どうしても、見たくて」
    「えぇと、すみません降谷さん、それってどういう……?」
     降谷の口調が、珍しく整然としていない。風見が訝しげに見やれば、降谷が困ったように笑った。
    「きみは、僕の前であんまり笑わなかったから」
    「は、」
    「『安室透』をきみが苦手に思っているのも知っていたよ。けど、まぁそうでもしないときみは笑わないし、『安室透』の周りにいる人間に妬いてもくれないから……おい、やめてくれ。さすがに僕も自分でもどうかと思うから、その顔はやめてくれ」
    「ふ、ふふ、だ、だって、降谷さん、それは……拗らせすぎでは……ふふっ」
    「わかっているって言っただろ。笑うな」
    「いや、無理です、ふ、あはははは!」
    「風見……あとで覚えてろよ……」
     居心地悪げな表情を浮かべた降谷が前髪をかきあげる。もう随分と乾いてしまったらしいそれは、さらさらと重力に従って落ちていく。
     風見は笑いながら、あぁ馬鹿みたいだな、とまた笑う。自分も、降谷も。あまりにもかけ離れすぎて手が届かないと思っていたけれど、手を伸ばせばきっとすぐそこにあったのだ。遠回りに遠回りを重ねて、どうしようもなく不器用なのはお互いさまだ。
    「降谷さんってけっこう、ほんとけっこうアレですよね」
    「アレっていう言葉の中にすべてを集約しようとするんじゃない……あぁもう、それで?」
    「はい?」
    「きみからは僕に言いたいことはないのか?」
     ふん、と腕を組んだ降谷が憮然として言い放つ。
     それは風見の知っている降谷で、風見がすきだと思う降谷だった。
    「そうですね……とりあえず降谷さんと僕の間で圧倒的に情報が足りないようなので、至急改善を求めます」
    「……うん」
    「それから、もう無茶には慣れましたけど、生きて帰ってきてくれなくては困ります。……できれば五体満足で」
    「あー……善処はする」
    「そうしてください。あと……」
    「まだあるのか?」
    「もう、そういうところですよ降谷さん……すきです」
    「……、ちなみにどこが?」
    「顔ですね」
    「おい……は、ほんとう、きみには勝てないな」
    「お互いさまですよ」
     風見が返した言葉に、降谷が子どものような顔で笑う。
     降りてくる二度目の唇を受け止めながら、またほんの少しだけ泣きそうになったのは、風見だけの秘密だ。




    「では、失礼します」
     玄関先で見送る夫婦に一礼して、風見が屋外に出ると、すでに日差しは傾いていた。夕日が空一面を橙色に染めあげる。黄昏時だ。
     ぽつりぽつりと、まだらな間隔で立てられた街灯に明かりが灯る。このあたりは民家が少ないからか、その灯はいささか心もとない。蝉の声が響く。じわりと滲む汗を、生温さを孕んだ風がさらっていく。
     懐かしい匂いのする場所だった。風見が昔訪れた祖父母のいたところとは違うけれど、空気がよく似ていた。時間がゆっくりと過ぎていくような感覚も、人々の暮らしも。じゃり、と舗装がところどころ傷んでいる道路の小石を、一歩ずつ踏みながら歩く。
     古ぼけたバス停を通り過ぎたところで、慣れ親しんだ車のエンジン音が、風見の後方で止まったのがわかった。半ば確信しつつ振り返ると、予想通りの人物が真白のボディを黄金色に光らせた、彼の愛車のドアにもたれかかるようにして立っている。
    「降谷さん」
     ほんの数十秒前に歩いた道を戻りながら、風見はまた音のする小石を踏んだ。
    「会えたのか?」
    「はい」
     そうか、と軽く頷く降谷はいつもと同じグレーのスーツだが、風見はブラックフォーマルを着用している。降谷はふ、と逆光に目を眇めた。夕暮れとおなじ色をした髪が風に揺れる。
    「……すっかり来るのが遅くなってしまいました、ほんとうはもっと早く来るべきだったのに」
    「……うん」
    「ご両親には……すべてお伝えすることはできませんでしたが、僕がお話できる範囲でさせていただきました」
    「あぁ、それでいい」
    「降谷さん」
    「うん?」
    「まだ、約束は果たせていないんです。だから――僕は、振り返りません。でも、忘れません」
     あなたがきっと、そうであるように。
     夏の匂いがする。これから何度季節が巡っても、風見はすべてを抱えて生きていくのだ。
     降谷の隣を、歩くために。
     太陽がゆっくりと稜線に消え、夜が顔を覗かせた。いくつもの瞬きが、空を満たす。
    「……帰ろうか」
    「はい」



     その星の名は、ずっと知らないままでいい。
     僕だけが、その輝きを知っている。



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