桑名江と審神者 主は一日の大半を執務室で過ごす。そのため出陣がなければ顔を合わせることもない。印象に残っているのは、出陣前に全員を集めてひとりひとりの名を呼ぶとき────確かめるように見回して桑名江、と名前を読み上げる姿だけ。畑に居ると偶に離れから洋琴の音が聞こえてくることがあるけれど、実際に主が弾くところを見たことはない。本丸を古くから支えている加州ですらあまり聴かせてもらえないと言っていたのだから、当然といえば当然なのかもしれない。
離れは母屋から少し離れた裏手にあって、畑からはほど近く、こじんまりとした小屋だから納屋と勘違いする刀が多い。もちろん、納屋は別にある。
離れは主が洋琴を弾くためだけに建てさせたらしく、最初は母屋に置いていたのだが、刀が増えてきて騒がしくなる本丸を見て「ひとりになれる空間が欲しい」と移動させることになったそうだ。
主は弾くだけでなく作曲にも造詣が深いとみえて、れっすんで使う曲は主が作ったものを使わせて頂いているのだと篭手切が嬉しそうに話していたのを覚えている。てっきり篭手切が用意したものだと思っていたから驚いた記憶がある。
接点の少なかった主だったけど、一度だけ、畑仕事を手伝ってもらったことがある。同じく畑当番だった獅子王くんが出陣していて僕一人で作業していたときだ。
「うちの畑はこんなに広かったんだな。あまり気にしていなかったから気が付かなかった」
誰かが居るのに気が付いて見に来たのか、気まぐれを起こしたのかは分からない。恐らく後者だろう、主は僕の足元をしげしげと見つめていた。「やってみる?」と聞けば「あぁ」と小さく頷く。
僕が取り掛かっていたのは平鍬を使って土を耕す作業で、差し当たって特別なことはしていなかったが主の目には物珍しく映っていたのかもしれない。眠そうな瞳はぐっといつもより開かれていた。
納屋からとってきた軍手と平鍬を渡して使い方を説明すれば「結構力が要るんだな」と言って作業を始める。だけど、ややぎこちない。鍬を握りしめすぎて変に力が入ってしまっている。
「もっと力を抜いていいんだよ」
ほら、こんなふうに。と後ろから手を添えながら教えてあげれば、ふ、とゆるく力が抜けてそのまま土に突き刺さる。
「そう、上手。もしかして、畑仕事は初めてだった?」
ぎこちない動作に、豆ひとつない薄い小さな手。本丸を一から作りあげてきたのだから畑仕事もしたことがあるだろうと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。触れた手は思った以上に小さくて折れてしまうかと思ったほどだった。肉体的には同じ男であるはずなのに、その手は、体は、あまりにも頼りない。
「恥ずかしながらね」
「そんなことないと思うよぉ。ここにいる刀剣みんなが初めてだったんだからね」
主はきょとんとしてから小さく笑う。
きっと彼の手は苦労を知らない。主は周囲に大事にされて育った。それは本丸を立ち上げる以前のことだろうから、どのようにだったのかは分からない。刀剣のような鑑賞物のように愛でられてきたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。何にせよ、僕の知るところではないけれど。少なくとも、主からはそういう雰囲気がする。
「そうだったな、忘れていたよ」
暫くして、主が休憩を提案してきたので中断することにした。主の額には汗が薄く滲んでいて疲労が見て取れる。ふたりで縁台に並んで座り、持ってきた麦茶を飲む。ひんやりとした麦茶が喉を潤していく。時折吹く風が前髪を揺らす。
「主は、さ。どうして僕たちに曲を作ってくれたの」
眠たげな瞳が見開かれるがすぐに元に戻ってしまう。
「知ってたんだな」
「篭手切が教えてくれたよ。嬉しそうにね」
「……そうか」
「どうして?」
「…………」
主は自ら施しをするようなひとではないと記憶している。褒美として与えることはあれど、見返りのない施しはしない。「贈り物には対価を」接点の少ない僕でも知っている、主の口癖だ。
篭手切は頭打ちの褒美として空き部屋をれっすんに使いたいと申し出ていたから、褒美だとは考えられない。主がよくそばに置くのは古くから本丸を支える加州や前田、執務を手伝うことの多い長谷部や長義、松井がほとんどで、松井はともかく僕と同じように接点の少ない篭手切を特別扱いしているとは思えない。だとすれば、ひとつしかない。
「もしかして、曲を作ってもいいって思えるほどの何かがあった?」
「偶にだが、お前たちには鋭いところがある」
「?」
「そうだ。俺は、音で溢れる世界を知ってしまった」
ひとりでも練習に励むあいつの姿にな、と呟く。
主は麦茶が残ったこっぷを置いて、手持無沙汰になった手を組む。その目はどこか遠くを懐かしむように細められていた。
「音が降ってきて、止まなかった。久々だったよ。あんなに心を動かされたのは。この仕事に就いてから、そんなことは一度としてなかったから」
一息おいて、またぽつりぽつりと言葉が紡がれていく。
「俺は、教えられたんだ。篭手切江に。おかしいと思わないか? 俺は人間で、あいつは刀なのに」
おかしくない、なんて言えなかった。主の言おうとしていることが僕にもなんとなく分かる気がしたから。篭手切は、あまりにも眩しい。直視もままならない程に。
「ともあれ、その礼として俺は曲を提供した。ただ、それだけだ」
俺はまだ仕事が残っているからもう戻ることにするが、お前も程々にしておけよ。主はそう言って立ち去ろうとする。僕は少しでも引き止めたくて、釈然としない気持ちをぶつけるように問いかけた。
「だから、れっすんには来てくれやんの? 篭手切かて……」
「思い出さないほうがいいことだってある」
言い終える前にぴしゃりと遮られた。主は立ち止まる素振りをみせたが僕を一瞥してそのまま去っていく。しかし何かを思い出したのかゆっくりとした足取りでこちらに歩み寄ってきた。
「もし、もしだが……お前たちがすていじを作るなら。その時は見に行こう」
約束、するから。まるで幼子をあやすような優しい声音だった。それから覗き込まれる。僕が驚いて後ずさると主はゆるりと微笑んで踵を返す。僕はその後ろ姿をぼうっと見つめていた。頼りないはずの背中がやけに大きく見えた。
その後、主がすていじを見に来る日は訪れなかった。