沈丁花(ちんちょうげ)の君高校時代の友人だという人の結婚式に参列した彼女を迎えに行った、その帰り道。覚束ない足取りの彼女の手を引きながら歩く。
彼女はお酒をあまり飲まない人だったはずだと記憶しているが、たまたま飲みたい気分だったのか、場の雰囲気がそうさせたのか、頬は紅潮していて目もほんのり潤んでいる。どれだけ飲んだのかと聞けば、へらへらと笑いながら分からない、と間延びした声が返ってくる。明らかに平常とは違った反応に相当飲んだであろうことが伺えた。
迎えに行くまではしゃんと平常通りの爽やかな笑みを携えていたのだが、ふたりきりになってからはこの有様である。酔いが回ってきたのかもしれないが、純粋に甘えられている、と思う。
そもそも彼女が普段お酒を飲まないのは酔っ払ってしまうと格好が付かないからで、外聞を気にする彼女はこんなことで醜態を晒すわけにはいかないでしょう、と言って断ることが殆どだった。だから飲むこと自体が珍しい。
「そんなに飲むようなことがあったんですか」
彼女はやや口篭ったがやがて意を決したように口を開いた。
「いちは、これからのこと考えたことある?」
「これから、ですか」
「そー、私たちのこれから」
「そうですね。あまり考えたことは無いです」
恐る恐る彼女の様子を伺うが、お気に入りだという曲を口ずさんでいて、気にしている様子はなかった。寧ろ上機嫌ですらある。そのお気に入りの曲は知らないはずだったが、妙に耳馴染みがよく、聞いているだけで心が安らぐような、そんな曲だった。
「じゃあ、過去のことは?」
過去。己の知らない彼女の過去。知りたくないと言えば嘘になる。とはいえ彼女は自身のことをまるで話そうとしない。話したくないのなら無理に聞きたいとは思わなかった。
どちらを言えばいいのか悩んでいるうちに彼女が先に言い足す。
「私の高校時代、とか」
「教えてくださるんですか」
「教えてほしい?」
「教えてほしい」
とろりとした瞳がゆるゆると伏せられる。街路灯にアイシャドウが反射して輝き、長い睫毛が揺れた。形の良い唇が弧を描く。
「どうしようかな、教えてもいいけれど……」
まだ、今ではないかな。教えたくないことを誤魔化すための、いつも通りの言葉を待つが、その言葉は紡がれなかった。
「想像するのはどう?」
思いもしなかった言葉に、目を瞬く。驚きを隠せないでいると、どうしてそんなに驚くのよ、と笑われる。
「今日はよく笑いますね」
「いちが居るからよ」
緩く繋がれた手に力が込められる。すっかり同じ体温になった手のひらが汗ばんでいた。ふたりが一体化してひとつのなにかになったように感じるのに、汗が薄い膜を張ったように邪魔をして、ひとつにはなれないのだと気づいた。
「例えば私たちが同じクラスだったら」
二歳上の彼女と仮にそうだったとして、今と何が変わるだろうかと考えながら、彼女の高校時代の姿を想像する。短く切り揃えられた黒髪に成熟しきらない幼い顔つき。テニス部に所属していたという話を聞いた覚えがあるから、テニスラケットを持ち歩いていたかもしれない。
そして今日はテストがあるとかないとか、そういう些細なことで一喜一憂するのだろう。それはあまりにも想像に容易い。
だが、その隣に並ぶ己の姿は、想像できなかった。人気者で誰にでも優しくて、皆から愛される彼女は学生時代であっても変わらなかっただろう。そんな彼女に自分は相応しくないのではないかと思うのは一度や二度の話ではなかった。
「自分は、貴女の傍に居てもいいのでしょうか」
息を呑む音が聞こえた気がして、帰りましょうか、と歩を早める。暫くして後ろに引っ張られるようにして振り返れば、潤んだ瞳と目が合う。世界の中心みたいな目に射抜かれるたびに自分を肯定してもらえたような心地になる。
「私は、いつも考えるんだ。いちが居てくれたらどんなに良かっただろうって」
もしも、いちが同じクラスだったら。もしも、出会うのがもう少し早かったら。どうしようもないもしもを並べて、やっぱりいちが好きだなと思うの。陽だまりみたいな言葉が矢継ぎ早に並べられて、気恥ずかしくなってくる。
彼女の名前を呼ぼうとして、止まる。ぐらりと揺れて倒れそうになる体を慌てて引き寄せて支えた。ほっと息をついたのも束の間で、彼女が首に手を回してくる。身を固くすれば、ふふ、と満足そうに腕に力を込めてきて、身体がさらに密着した。あたたかな息が首筋にかかってこそばゆい。
「いちは、かあいいねぇ」
ころころと笑う彼女に軽く相槌を打って背中に手を回す。望んでばかりで、何も返せていない。彼女は望むものを自力で掴み取ってしまうから。いや、与えられすぎて、何から返せばいいのか分からないからだろう。それでも彼女は自分を肯定してくれている。自惚れでもいい。自意識過剰でもいい。彼女が認めてくれている、それだけで今までの生涯を愛してやれる気がした。