光のお隣さん/第二話「なんだ、繁盛してるじゃないか」
引き戸を開けられた瞬間に反射で飛び出す「いらっしゃいませ」を、すんでのところで飲み込んで、カウンターの内から睨んだ。安堵と失望を混ぜ合わせ、さらに無礼でコーティングした声。果たして店の入り口には、長い銀髪を一つに括った、見た目だけなら絶世の美男がすらりと立っている。名は、エスティニアン・ヴァーリノ。大学時代からの腐れ縁だ。一応スーツを着てはいるが、終業と同時にネクタイを抜かれた襟は寛げられて、またその姿が腹立たしいくらいにさまになっている。
「そりゃ、オープン直後だからな。最初は何もしなくたって、物珍しさで来てもらえるさ。腕が問われるのは、これからだ」
予約していたかのような足取りで入ってきた男が、カウンター席に就いたのを確かめてから、小声で返す。この野郎、引き戸が開けっ放しだ。自分の手で開けたくせに、自動で閉じるとでも思っているのか。
「流石に君は冷静だ。要らぬ心配だったようだな?」
と思ったら、その引き戸から、もう一人が現れた。
「アイメリク」
誰かさんとは違って後ろ手にしっかり戸を閉めた男は、これまた誰かさんとは違って、きっちりネクタイを結んでいる。無香のワックスで複雑に整えられた黒髪が、見た者をとろけさせるような顔立ちを彩っていた。
「お前まで来てくれたのか。忙しいだろうに、ありがとな」
「礼を言われることじゃないさ。私は友人の抜け駆けを制しに来ただけだから」
「?」
カウンターに肘を突き、微塵の躊躇もなくおしぼりで顔を拭く男が、連れを睨んだ。剣呑な視線を微笑でいなして、アイメリクも隣に座る。
アイメリク・ド・ボーレル。彼もまた、大学時代からの腐れ縁ということになる。尤も、エスティニアンとは違い、色んなことを弁えているアイメリクとの関係は、言うほど腐ってはいない。どころか、この店を持つにあたって、幾らか出資されてすらいる。友人同士で金の貸し借りはしたくないと渋った自分を、貸し借りではなく投資なのだと、彼は一刀両断した。流石に大学を卒業すると同時に起業した男は、手腕も口も達者なものだ。
「何にする?」
「俺には訊かなかったな」
「お前はどうせ生だろが」
「コロナはあるかい?」
「あるぞ。ライムは?」
「お願いできるかな」
「よしきた」
ジョッキに生ビールを注ぎ、まずはエスティニアンの前に。続いて冷蔵庫からコロナビールの瓶を取り出すと、栓を抜いて、種を除いた櫛切りのライムを口に挿す。自分自身も学生の頃、よくしていた飲み方だ。
「君も一杯、と言いたいところだが、少々時間が早すぎるかな。好きなものをつけておいてくれ。閉店後にでも飲むといい」
「お気遣いの紳士が過ぎる……」
瓶を受け取ったアイメリクの言葉に痺れて憧れながら、伝票にあるコロナの数を、1から2へと書き換えた。
「狭い店だな」
「やかましいわ」
一方、がばがばと生ビールを呷る男は、この物言いだ。置いた枝豆を一つ潰して中身をぶつけてやろうかと思う。
カウンターが三席と、四人掛けのテーブルが二つ。スペースにはまだ余裕があるが、独りで切り盛りをこなすには、このあたりが限界だった。オープンからニ週間しか経っていないということもあり、今のところは連日盛況、常時満席に近い状態だ。それでも一人で充分に回し切れると思っていたが、実のところ、八時間×五日がすべてこの様相になる現状はなかなかに厳しく、アルバイトを一人だけ雇おうかとも思っている。
テーブル席は三名さまと四名さまで埋まっている。カウンターもたった今、空いたところを清めたばかりだ。まるで狙って来たかのように、タイミングの好い二人である。
「なかなかさまになってるじゃないか」
「なんで上から目線だ、お前は」
「まったく。素直に安心したと言えばいいものを」
「勝手な代弁は止せ」
新たなジョッキにつけられた口が、白い泡を纏って尖る。注文を訊かれなかったことを不満のように言ったくせに、やはり二杯目も生だった。仕事が楽なので構わないが。
「大丈夫か、アイメリク。こんなの秘書にしちまって」
「大丈夫ではないが」
「大丈夫ではないんかい」
「まあ、今後に期待するさ。もともと面倒見のいい男だ、仕事さえ覚えればハマると思うよ。それに、友人が秘書というのは、何よりも私の気が楽でね」
「そういうとこあるよなお前……」
器がデカいというか、遊びを忘れないというか。職を(ほとんど喧嘩の末に)転々とするエスティニアンを、秘書として迎え入れたのには、もちろん友人を放っておけないという親切もあるのだろう。だが、それ以上に、アイメリクの語った理由が大きそうだ。確かに、この優秀な男に優秀な秘書がついたら、それはもう仕事をしまくらずにはいられなくなってしまうだろう。そういう意味では、エスティニアンくらいのちゃらんぽらんな男が、アイメリクの秘書となったのは、却ってよかったのかもしれない。大丈夫ではないらしいが、大丈夫なのではないだろうか。
友人二人が訪れてから、一時間ほど経った頃。客の入れ替わりは未だない店の戸を開けて、彼は現れた。
「こんばんは。……おや、満席でしょうか」
「いえ、空いております、こちらへ。エスティニアン、鞄をどけろ」
流石はアイメリク、見事な采配だ。
「いらっしゃい、ウリエンジェさん」
「お邪魔いたします。今宵も盛況でいらっしゃるご様子、何よりです」
「いつもので?」
「ええ、お願いします」
微笑み、スツールに腰掛ける姿は、しゃなりと音がしそうに優雅だ。お冷やとおしぼりを先に出し、ジンバックを作りにかかる。レモンジュースをやや多めに、ステアは底までしっかりと。
「常連か?」
そう考え至っているなら、敬語くらいは遣ってほしい。手が空いていれば脳天に拳骨の一つもかましたのだが、生憎と今は、バースプーンとグラスで塞がっている。
「不躾で申し訳ありません。我々は彼の友人でして、特に、この男は何もかもが心配で仕方がないのです」
「おい」
ナイスだアイメリク。略してナイメリク。エスティニアンの尻を拭かせたら世界一の男。
「お気になさらず。お察しのとおり、開店されて間もない頃から、通わせていただいております。お酒も、お料理も絶品ですが、何より雰囲気がいい。店主殿のご人徳の賜物かと存じます」
「ちょいと褒めすぎじゃないですかね」
「率直な感想ですよ」
ジンバックを差し出すと、ふふ、と薄い唇が笑った。冷奴と、明太オムレツ。まずはと注文された二品を伝票に書き込み、用意にかかる。
「何者だ?」
だから敬語。敬語を。もう地金がモロバレなので、今更どうでもいい気もするが。
「占い師さんだ」
「うらないし」
エスティニアン全力の「胡散臭い」という顔を、この上もなく最良のタイミングで、アイメリクがおしぼりで覆った。
「何をしやがる」
「出汁巻きの醤油が」
じゃれる二人を横目に見ながら、冷奴の器を置く。
「凄腕で有名なお人だぞ。雑誌で特集を組まれたことも、TVの取材が来たこともある」
「それは興味深い。ぜひ一度、占っていただきたいものだ」
「喜んで。お待ちしております」
なんというスムーズなビジネス会話か。アイメリクさまさまである。
「お前も占ってもらったことがあるのか?」
「ある。厄介な星が近付いているが、それを抑えて余りある星も一緒に訪れるため、心配はないと言われた」
「ほう。いつの話だ?」
「今日」
「ンッフ」
アイメリクが咽せた。この男、涼しげな顔をして、昔から笑いのツボが浅い。
「失礼。……なるほど、凄腕でいらっしゃる」
「恐れ入ります。しかし、私など、まだまだ修行中の身です」
「貴方以上の占い師がそうそういるとも思えませんがね」
「おりますよ。たとえば、見えぬものをも見通すと噂の女性が、近くに」
「マジすか」
それは初耳だ。そんな傑物が近所にいたとは。
「新宿の魔女と呼ばれております」
「ヤバそう」
「やぼうございますね」
ウリエンジェの言い回しに、またしてもアイメリクが咽せた。
「お勘定ー」
「はい、ただいま!」
テーブル席から声が掛かった。いかにもサラリーマンらしい、四人連れのお客さまだ。忘れものはないかと互いに声を掛け合う横を通って、レジに立ち、伝票を受け取る。
「美味かったよ」
「ありがとうございます」
「また来ますね」
「お待ちしてます」
支払いは、穏やかな年嵩の男が、一人でもつようだった。三人の若手社員とその上司といったところだろう。こういう組み合わせは収拾がつかなくなるまで酔うこともあるが、気兼ねなく酒を頼んでくれるので、呑み屋としては大歓迎だ。
「毎度! お気を付けてー!」
店外まで見送りに出て、駅へと向かう背に礼をする。全員、足取りはしっかりしている。タクシーは呼ばずに済みそうだ。
「こんばんは」
戻ろうと振り向くと、まろやかな低音の挨拶と、白い姿が耳目に入った。その後ろにはさらさら揺れる、樺色をした長い髪も。
「こんばんは、サンクレッドさん。リーンちゃんも」
本当に来てくれた。
「こんばんは! 夕ご飯に来ました」
「嬉しいな。二人とも、いらっしゃい」
「満席ですか?」
「いや、大丈夫です。すぐにテーブル片付けますんで、少しだけこちらでお待ちください」
どこまでも控えめに、外で待とうとした男を、引き戸の中へと誘った。大切なお客さまである。短時間で済むといっても、表で立たせておきたくはない。
後ろ手に引き戸を閉める男と、好奇心でいっぱいのきらきらした目で店内を見回す少女を視界の端に、手早くテーブルを拭き清める。椅子の位置を調整し、鞄置きの篭が空であることを確かめたら、準備完了だ。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
はい!と花開くように応えて歩き出した少女の後に、いつもの穏やかな笑みを浮かべた保護者が、ゆったりと続く。お冷やとおしぼりを手渡してから、しばらくは悩んでもらう時間だ。囁き合うようにお互いのメニューを指差す二人を見ながら、カウンターの内へと戻り、目の前の客に話しかける。
「エスティニアン」
「ん?」
「そろそろ帰れ」
直球は投げた相手に届かず、代わりに隣の男が咽せた。
「なんでだ」
「教育に悪い」
「何が」
「お前のだいたい全部」
くくく、とアイメリクの肩が、細かく震え続けている。
「この店は時間入替制か?」
「違うが臨時でそうなった」
「何様だお前は」
「店主様です。お勘定お願いできますか」
「それは客が言う台詞だろうが」
「ならば私が言うとしようか。お勘定お願いできますか?」
「おい」
「毎度ありがとうございます」
「待て」
ごねる男を埒外に、手早く会計を済ませる。アイメリクが一括で払っているが、いつものことだ。まあ、アイメリクのことだから、後で割り勘にするにせよ、他で返してもらうにせよ、上手く運ぶに違いない。
「ご馳走さま。美味しかったよ」
「悪いな。またいつでも来てくれ」
帰り支度を始めた男に、エスティニアンが溜め息を吐く。
「お前らな、まだ八時前だぞ」
「ならば、遅い時間に、また来よう。これほどの盛況ぶりなんだ、早晩に潰れる心配はないだろう?」
「ええ。ございません」
きっぱりと、ウリエンジェが言い切った。
「……もしかして、占ってくれました?」
「僭越ながら。私もこちらには、末永く続いていただきたいので」
たかが占い、されど占い。彼に保証されたからといって、この店の大繁盛が確定した訳ではない。しかし、わざわざ占っていてくれたという事実そのものが、この店に向けられている情を示しているようで、顔が緩んだ。
「あの!」
緊張した面持ちで、リーンが右手を挙げている。どうやら注文の大役を保護者から任されたらしい。
「いいでしょうか!」
「はい、ただいま!」
ウリエンジェに一礼し、カウンターから脱け出ると、まだ年若いお客さまの傍らに、片膝を突いた。背後ではどう宥めたのやら、エスティニアンが不承不承ながらも立ち上がる気配がする。アイメリクとウリエンジェの、名刺を交換する会話が、なんだか懐かしいものとして、耳の後ろを通っていった。