後ろの正面だぁれ「高坂さん、山法師の噂ってご存知ですか?」
任務の待機中、やたら大きく赤い月を眺める諸泉が、突如思い出したように高坂へ問う。
山法師とは、桜が散る頃に満開を迎える樹木だ。
十字の手裏剣のような形の白い花を咲かせるが、正しくは花びらではなく総苞片 、つまりガクの部分が変化したものらしい。ふと、幼い頃の甘く懐かしい記憶が蘇る。
『ははうえ見てください、あそこにきれいな花が』
『ふふ、あれはお花に見えますが本当は違うのですよ。まるで忍びの擬態のようですね』
『しのび…とてもりっぱで、まるでちちうえみたいです!』
うんと幼い頃、母に手を引かれ山へ入ったことがある。
繋いだ手のぬくもりや、優しく微笑む母、山全体を包む生命力溢れる新緑の匂い…ついこの間のことのように鮮明に思い出せるのは、自ら離れることを決意した敬愛する家族との、数少ない大切な思い出だからだ。
山法師は夏の日差しを浴びながら咲き誇る姿も美しいが、秋になれば野苺に似た赤くぷちぷちとした丸い実をつける。これが実に甘く、幼少期の高坂にとって季節限定の山の恵みだった。淡い思い出に補完され、どちらかといえば良い印象が強い樹木ではあるが、噂は特に耳にした事がなかった。
「知らん。山法師がどうした」
諸泉の話によると、とある山奥で〝規定外に育った山法師が突如出現したかと思えば瞬きをしてる間に跡形もなく消える〟という現象が黒鷲隊で目撃されているという。
狂い咲く姿に目を奪われ、くらりと眩暈がしたかと思えば、一定の記憶がすっぽりと抜け落ち、気づけば数時間経過していた…なんてことが起こっているらしい。里では神隠しにあった者がいる、なにかの妖術にでもかかっているに違いないと、黒鷲隊の中でもまことしやかに囁かれているのだという。
「なんだ尊奈門、もしかしてお前怖いのか」
「そ、そういうわけではないんですけどぉ」
ただ、気味悪いじゃないですか…と、口籠る諸泉の額をつつく。妖の類いは二十四年生きてきて一度も遭遇したことはなく、むしろそんなものは妄想に過ぎないとも思っている。
「馬鹿馬鹿しい。鍛錬が足りないんじゃないか?」
「えぇー」
諸泉が頬を膨らませていると、遠くで梟が鳴いた。
任務再開の合図だ。二人の眼光が鋭くなる。
「敵が来る。ぬかるなよ」
「もちろんです!今日こそ仕留めた敵の数、高坂さんに勝ってみせますからね」
「上等だ」
さぁ尊奈門、敵に狼の狩りを見せつけてやろうじゃないか。月明かりを受け、苦無の切先がきらりと鈍く光った。
事は順調に運んでいた、はずだった。
今宵の活動範囲は以前も潜んだことのある森だ。この辺りの地理は把握しているし、迷うはずもない。それなのに諸泉とはぐれてしまった。
単純にはぐれただけならば最終目的地である組頭の元で合流すれば良いのだが、どういうわけだか任務の進捗を知らせる梟たちの声どころか、赤子のように鳴く鹿や虫の羽音すら聞こえないのだ。
なにかがおかしい。
ざあぁ、と風が木々を揺さぶる音が不気味に響き、湿気を帯びたように空気が重くなる。キィン…と強い耳鳴りが高坂の鼓膜を襲い、思わず頭をニ、三度左右に振ってみた。
その時だった。
ごうっと突風が吹き、目を閉じる。瞼を開くと同時に飛び込んできた光景に、高坂は反射的にぶるりと震えた。
「や、ま、ぼうし…」