Kiss「――――それで、舌が痺れたと。なるほどね」
ぴんっとカップの縁を弾くと、それは真っ逆さまにテーブルから落下し、お気に入りと謳っていたノリタケは音を立てて壊れた。まだ半分は残っていた毒入りの紅茶はフローリングに広がり、じんわりと染み込んでいく。テツヤは割れたカップを手袋をはめた手で持ち上げるとワゴンに乗せた。ティータイムはこれでおしまいだ。
持ってきていたジョージアンターコイズはペアで揃っていた。そのうちの一つを壊したとなると、もう一客もこれから日の目を見ることはない。また新しいカップとソーサーを探しておかなければと、その原因でもある毒入り紅茶を飲んだテツヤは、たかが舌が痺れる程度の神経毒一つでここまで激怒した兄である征十郎に視線を戻した。
征十郎とテツヤは正真正銘、同じ母から生まれた一卵性の双子だった。しかし、髪の色も違えば目の色も違う。顔立ちも吊り目がちな猫目の兄と、ビー玉のような丸いテツヤとでは大きく異なり、側からみれば兄弟に思われることはあっても、双子に間違えられることはあまりなかった。そんな双子である征十郎とテツヤは、父から受け継いだファミリーのボスとアンダーボスだった。その仕事柄、暗殺や襲撃はそう珍しい事でもなく、命を狙われる事はしょっちゅうだった。食事に毒を仕込まれる事もあり、外出先で信用できる身内以外の作ったものの毒見をするのが、弟であるテツヤの役目だった。テツヤは体質的に毒に耐性がある。それがわかった時、ファミリーでの二人の立ち位置が決まったといっても過言ではなかった。
しかし、テツヤも全ての毒に耐性がある訳ではなく、今回のように死ぬまでには至らないが、多少苦しむ程度のダメージを受けることがある。テツヤとしては兄に被害が及ばなければ自分がどうなっても、という気持ちがあるせいか、無表情で変化が乏しい顔と評価されているにも関わらず、征十郎だけにはすぐ見抜かれてしまう。
今だって顔立ちも良く美人だと言われる兄は、不機嫌を隠そうとせず、皮のソファから立ち上がるとテツヤの前に立ちはだかった。
征十郎の方が五センチほど高く、いつも見下ろしてくるメンバー達よりは首は痛くならない。しかし、この距離というのも厄介で、征十郎は顔色を変えないまま片手でテツヤの手を掴むと、もう片方の手は痺れにより半開きとなった口の中に突っ込まれ、舌を掴んだ。
「せ、いじゅ、ろさま……なに、を」
「あぁ、本当に動かせないんだね。可哀想に」
征十郎はその言葉の意味とは裏腹に、全く可哀想とは思っていない――どちらかといえば、楽しそう表情でテツヤの動かない舌の表面をなぞる。人よりも敏感な舌は、その指の些細な動きだけで背筋がぞくりと粟立ち、身動きが取れなくなる。
唇の端からは溢れる唾液がこぼれ、ジャケットに滴り落ちる。兄の意図を計り知れないまま、テツヤはその行為を受け入れていると、途端に指を引き抜かれ、今度は唇が触れた。
「ふ、ん……っ、ひっ」
「テツヤ、逃げないで。僕はただお前にキスがしたいだけだ。いつもしているだろう」
兄の柔らかい舌が口腔内へ最も簡単に侵入して、テツヤの弱いところをなぞっていく。抵抗できないのを良いことに、征十郎は嬉しそうに舌を絡ませて、普段出来ない事をしていた。
征十郎は、キスが長い。それに気づいたのは、物心ついた頃から日常となっていた寝る前のキスだった。二人は常に二人で一つ。片時も離れる事なくそばに居て、同じベッドで寝起きしていたが、征十郎はいつも途中息ができなくなるくらいテツヤの唇を塞ぎ、満足するまで終わらなかった。
苦しい。でも、それはどこか幸せで。
テツヤはそれが当たり前だと思っていたが、ある日血のつながった兄弟で、しかも、自分の分身とするのは当たり前でないことに気付いてしまった。
しかし、征十郎に伝えても止めようとはしない。それどころか、自分でも知らない奥まで暴かれて、キス以上の事をしてしまった。与えられる微かな痛みとそれ以上の快感は、溺れるのには十分すぎた。しかし、理性まで飛んでしまい、記憶をなくすことが多くなった苦肉の策で、ある時から征十郎の舌を噛み、理性を取り戻させた。時々、滲む血が口の中に広がるけれど、それさえも愛おしく、喜んで受け入れた。
それからというもの、大人になっても行われる夜毎交わすキスは、舌を噛み早急に終わらせていた。その度に物足りなげな顔をする兄に、テツヤは気付かないふりをするのが常だった。しかし、今日テツヤは抵抗することができず、征十郎は嬉しそうに舌を出し入れし、唾液を送り込んだ。
「せ、いく……っ、ら、め……、くが」
「ダメじゃないだろう。このくらいの毒、お前から与えてもらえるなら本望さ。それよりテツヤが欲しいなら、僕が全部あげる」
「ん、ん――んっ」
「大丈夫、殺さないさ。死ぬ時は一緒だ」
ベルトを外す音がして、気が付けば着ていたスラックスは下に落ち、太ももにひんやりとした空気が触れた。指でなぞられて、下着の紐に触れた時、一瞬征十郎の腕がドアの方に動いた。目で訴えると、ただ笑うだけで答えはわからないまま、紐は解かれて身体はソファに沈み込む。自分よりも少し重さのある征十郎の身体を受け止めながら、テツヤは痺れる舌に痛みを覚えつつも目を閉じた。
次の日、動くようになった舌で再び紅茶に口を付けていると、男の死体が発見されたニュースが流れた。それは、ありふれた日常ではあったものの、舌を裂かれていたという言葉に一瞬手が止まる。征十郎を見ても、ただいつものようににこにことテツヤの顔を見て笑っているだけだ。テツヤは何も知らないふりをして、そのままぬるい紅茶を口に含んだ。