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    nigiyakashi3

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    nigiyakashi3

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    ※月島が幸せになってほしい鯉登と、幸せになるために生まれてきた月島の話。
    ※現パロ転生風味
    ※挫折中。月鯉になる予定だけど、月ちよが付き合って別れています。

    #月鯉
    Tsukishima/Koito

    暁を迎えに(仮)「会いたいと思わないのか?」
    「思わないことはない。いつかどこかで元気な顔を見られたらいいなとは思ってる」
    「はあ、謙虚なことで」
    「そうだろ、私はわりと謙虚なんだ」
    「今は、な」
    「今も、だ」

    杉元は、目深にかぶった帽子を取ってゴシゴシ汗を拭いた。夏の木漏れ日が、傷のない顔にチラチラと落ちる。蝉時雨の合間に、手のひらを冷やすアイスコーヒーの氷が涼しげな音を立てた。

    「良かったな」
    「え?」

    帽子のつばを深く下ろした杉元に、鯉登は少し笑った。そんなにせっせと隠すものもないくせに、なぜか癖みたいになっているそれが健気で微笑ましかった。そして、その献身はこの度めでたく成就したのだ。

    「夏が終わった頃に惚気話を聞いてやるから、たっぷり用意しておけ」
    「の、惚気ねぇよ!犯罪になるだろ!」
    「本気にするなよ、ものの例えだ阿呆。どうせこの夏はめいっぱい楽しむんだろ?キャンプとかバーベキューとか、なんかいろいろ行くんだろ」
    「そりゃまあ、行けたら、な。まあ、アシリパさんの都合が良ければだけど…」
    「かーっ!おまえはそんなだから駄目なんだ!昔からそうだおまえは、甲斐性がない!意気地がない!行きたいんだろ?誘いたいんだろ?じゃあやれ!今すぐやれ!本当に何もわかっとらんな!りぼんばっかり読んでないでそろそろ花ゆめぐらい読んだらどうだ!」
    「舐めんな!花ゆめもマーガレットも読んでるわ!」
    「じゃあできるだろうがすぐにやれ。やりたいこと全部やるまでおまえの夏は終わらんからな」
    「なんの宣告だよ」
    「死刑宣告だよ」
    「殺されんの俺!?」
    「おう殺すぞ、変な遠慮なんかする奴は、三枚におろして尾形百之助に送りつける」
    「ヤメロぜってぇ嫌だ死んでも嫌だ」
    「そうだろ、私も尾形と接点を持ちたくないので絶対にやりたくない。なので、頑張れ、杉元」

    鯉登は薄くなったアイスコーヒーを飲み干すと、くされ縁の友人に心から笑って祝福を送った。

    「応援してる。何かできることがあったら、いつでも相談してくれ、必ず力になる」

    杉元が変な顔で口を曲げた。本当に変な顔だ。でも、とても嬉しそうだった。

    「…おまえって、ずっとそんな感じにしてればいいのにな」
    「なんだそれ、どんな感じ?」
    「いやいい、そのままでいてくれ」

    そうやって笑う杉元の方が、いつもそんな顔をしていればいいのにと鯉登は思う。ずっと会いたかった人に会えた時くらいは、鯉登も知らない顔をして清々しく笑ったのだろうか。きっとそうだったんだろう。おもむろにスマホをいじり出した真剣な表情は、夏の初めのまだ爽やかな風に輪郭が滲みそうなほど柔らかく見えた。
    じゃあまた、と杉元と別れたあと、鯉登は日差しを避けながら一人暮らしのマンションへ帰る。大学も三年を過ぎ、そろそろ卒論や就職活動に動き出さなくてはならない。高卒で働きだした杉元には関係ないことだが、あまり自由に時間を割いてやれなくなる前にあちらが落ち着いて心底ほっとした。まだ太陽は高かったけれど、通りかかったコンビニに誘われるように入ってまっすぐ焼酎の一升瓶を引っ掴み、それだけを買って店を出た。自分でも驚くべきことだが、今この道に誰もいなかったらスキップで駆け出したいほど高揚していた。それくらい杉元の報告が嬉しくて仕方なかった。でも人通りも車通りもある大きな通りばかりなので、鯉登は何食わぬ顔で裸の一升瓶を手にゆっくりと帰路をたどる。今日はもうさっさと家に帰って一人祝杯をあげることに決めたのだ。
    過保護な両親が借りてくれたセキュリティ万全のマンションは、大学生の一人暮らしには贅沢すぎる1LDKだ。エントランスで暗証番号を打ち込み、さらに部屋の鍵も開けて入らなくてはならないので、あまり気軽に誰かを呼ぶ機会などはないが、なんだかんだとよく訪れる杉元にはいつも面倒くさいとぶうぶう文句を言われるくらいは面倒くさい。
    杉元との付き合いは中学からだ。入学式で浮き足立つクラスに入って真っ先に目があった。その瞬間、空が落ちてきたのかと思うほど驚いた。だって、こいつは鯉登の夢の中にしか存在しないはずの人間だったからだ。
    小学校の高学年ぐらいになった頃から、鯉登は同じような夢をよくみるようになった。そこでは鯉登は子どもだったり大人だったりして、ずっと昔みたいな木造の建物へ通ったり、刀や銃を振り回して戦ったりしていた。父母や兄がいたりいなかったり、大勢の中で頭から血をかぶっていることもあった。出会ったことのない顔ばかりだと思うのに、そいつが誰だか一人残らずわかる。夢なのに全員の顔がはっきりと見えていて、起きても忘れることはなかった。それらはまるで誰かの人生を追体験しているようで、感覚が生々しく五感に残った。繋がっていたり断片的だったりする夢はいつでも殺伐としていて、何よりも命が石ころみたいに扱われる世界はそら恐ろしく、寝覚めはいつも汗だくで最低の気分だった。
    そういう中に、杉元もいた。共に戦うこともあったが、武器を構えて対峙することもあった。負わされた傷で、生死の境を彷徨うようなこともあった。
    はじめはどう接したらいいか分からなくて避けた。後から聞いたら、杉元もそうだったらしい。けれども同じクラスでまったく無視することもできずに、少しずつ話すようになると、いつのタイミングでどちらが先に口火を切ったのかも覚えていないが、同じような夢をみていることがだんだんとお互いにわかってしまった。あまりにも不思議な体験だった。集団妄想とか、何か精神的な病気なのではないかと二人して図書館に入り浸って調べ回ったけれど、病気ではないらしいということしかわからなかった。
    そのあと、また同じような夢をみる者と出会ったり、それがどうやら史実に基づいた内容であるらしいということを知っていくにつれ、これはもしかすると前世とかそういう類いのものではないかと思うに至った。ただ、起きても鮮明に思い出せるのは人の顔と名前や自分の感情くらいで、夢の中の自分の知識や技術を現実の自分が使えたりはしなかったし、その時代の詳細や地名なんかはさっぱり忘れてしまう。夢では難しい数式や筆記体の英文をすっかり理解しているのに、夢から覚めてみると等身大の自分以上のことはまったくできない。史実と思われる出来事も、何度も出てくる固有名詞をかろうじて覚えていたから当たりをつけられたというくらいのものだ。それは杉元や、後から出会った者たちもみんなそうだった。
    それでも、着ていた服や景色などをうんうん思い出しては、それを手がかりに歴史を紐解いてみたりもした。もしも前世というものであるならば、その時代の資料を探せば何らかの記録があるのではないかと思ったのだ。しかしそんなに都合よく期待に沿うような資料は見つからず、かろうじて鯉登の上司や父に似たような名前が旧日本陸軍の人名録に載っていたくらいで、自分や杉元の詳細などは見つけることができなかった。
    だから、それが前世として本当にあったことなのかは今もわからずじまいだ。夢の中で会っていてもまったく話のわからない者もいたので、ますます自信は持てなかった。
    けれども、杉元は鯉登に出会ってからずっと一人を探し続けた。本当のことでもそうでなかったとしても、たとえ本当にただの夢だったのだとしても、自分では這い上がれなかった場所からその人に引っ張り上げられ、救われたことだけは本当だから、どんな風でもとにかく会いたい。会って話をしてみたい。それでもし機会があれば、お礼を言いたいと。そう言って、夢にみるその姿だけを頼りに方々を探し回っていた。鯉登も付き合えるときは付き合ったが、きっと杉元は鯉登の思うよりもずっと多くの時間と労力をかけていたのだろう。それがこの度、とうとう実を結んだのだ。
    夢と同じように歳は離れているらしいが、なんと向こうも杉元を探していたそうだ。一目見るなりお互いに思わず抱き合って喜んでしまい、通報されてしまったと電話がきたのが昨日の夜だった。顛末を話す杉元はずっと嬉しそうで、それを見ているだけで鯉登までとても嬉しくなった。会ったこともない会いたかった人に巡り会えただけでなく、その人も同じ気持ちだったなんて奇跡以外のなんでもない。これから思う存分この奇跡を満喫してほしいと願いながら、鯉登は焼酎の蓋をあけた。
    「乾杯」
    グラスに注ぐのももどかしく、一升瓶をそのままあおった。ぬるい酒は、飲んだそばから体に馴染んでいくような気がする。
    テレビでもつけようか、と考えるだけ。音楽を流すのもいいかな、と思うだけ。母が送ってくれたお手製の漬物を、保存容器からそのままつまみながら、静かに酒ばかり飲んだ。
    (会いたいと思わないのか)
    そう。
    杉元は知っている。
    会いたい人は、たぶん鯉登にもいる。
    夢の中で名前を呼ぶといつも助けてくれる。強くて頼もしくて優しいのに、たぶんそいつ自身はそれを全部どうでもいいと思っている。そいつの悲しい背中を励ましてやりたくて、力なく垂れた手を引っ張ってやりたかった。世話を焼かれていたのはたぶんこちらの方なのに、夢の鯉登はいつでもそいつのことを世話が焼けるなあと思っている。夢はとても断片的で時系列もバラバラだったけれど、歳を重ねるごとにみなくなっていく場面や、新しく現れる情景もあって、実際の歳と連動しているところもあるようだった。
    昔からそいつはよく鯉登の夢に現れたが、なんだか最近はもうみるたびずっとそばにいるので、ちょうどこのくらいの歳の頃によく世話になったのだろうか。もっとずっと先の夢はまだあまりみないが、なんとなく、この先のどこかでそいつとは離れてそれっきりになるような気がしている。
    焼酎がもう半分ほどになってしまった。ほかにもあっただろうかとぼんやりキッチンを見やる。
    杉元が彼女と会えて本当に良かったと思う。それだけじゃなくて、彼女が本当に居たということも、昼間から酒を飲まずにはいられないほど鯉登には嬉しいのだ。彼女がいるのならば、きっとそいつもどこかに居るのに違いないと思えるからだ。夢の登場人物だって全員がちゃんといるわけじゃない。むしろ、見かけない顔の方がたくさんいるのだ。会いたい人が本当に存在しているかどうかは、会えなければ一生わからないのだ。
    とても敬愛する上官が、夢の鯉登にはいる。けれども、彼とはきっと会えない気がしている。これまでに会った誰もが彼と会ったことはなかったし、これからも誰も会うことはないだろうと確信している。なんとはなしに、その方がきっと彼にとっては良いことのように感じるのだ。自分のためにすすんで命を捧げるような人間など、必要のない人生の方がずっといい。だから鯉登は、彼には会いたいと思わない。誰もが預かり知らぬところで、きっと彼らしく生きていてくれたらそれでいいと思う。
    けれどもそいつの顔は、できることなら、一度でいいから、見たいと思うのだ。
    元気であればいいと思う。
    幸せであればいいと思う。
    そういう顔を一瞬だけでも垣間見られれば、それだけでいい。関わり合いにならなくていいから、元気で、幸せであることを、どうしても確かめたいのだ。
    夢の中で、そいつにはとても大切な人がいたらしい。
    その人との果たせなかった約束がずっとそいつの体の真ん中をぶち抜いていて、そのぽっかり空いた穴だけを見て自分には何もないなんて思っているような奴だった。それがとてももったいなくて、夢の鯉登はなんとかしてやりたいと思っている。それが叶うのか、上手くいかないのかは、今のところまだよくわからない。
    でも、だからもしそいつが今どこかに居るのだとしたら、その大切だった人と幸せであったらいいと思うのだ。
    そいつがちゃんと自分で幸せに人生を歩めているのならば、きっと鯉登の出る幕はない。そうであればいい。誰も付け入る隙のないくらい、鉄壁の幸せに浸かっていてほしい。そうであると、確信したい。
    願わくは、いつかの街角で、幸せそうなそいつが誰かと連れ立って歩いて行くのを見かけることができたのなら。
    会いたいか、と言われれば確かにそうだが、本当に一目だけでいい。少し寂しい気はするが、それでも、鯉登はそれを黙って飲み込みたい。鯉登を必要としなかったそいつのありふれた幸せを、心から祝福してやりたいのだ。
    空になってしまった瓶を逆さまにしてあおると、最後の一滴が舌を滑っていった。普段ならこれでエンジンがかかるくらいだが、今日はなんだか眠くなってしまった。夕飯には少し早いし、これから何かするには億劫な時間だ。これといって急ぎの用もないので、ここは潔く昼寝してしまうことにした。酒のおかげで鈍くなった頭は、燦燦と太陽の差し込むカーテンを締めることもせずに、柔らかいソファに体を投げ出した。欠伸をして目を閉じると、何を考える間もなくそのまま眠ってしまった。

    ###

    パン、と柏手を打つ音がした。反射的にそちらを振り向くと、顔の前で合掌しているそいつと目が合った。

    「…なんしょっとや」
    「いえ、蚊がいたので」
    「おう、やったか」
    「はい、吸われてますよ」
    「私か?」
    「さあ、私かもしれません」
    「もうそんな季節か」

    軍衣の襟元を緩めながら窓を見やると、開け放したガラス戸の向こうは照りつける陽の光で白く見えた。

    「北海道に来た頃は、こっちはもっと年中涼しいのだと思っていた」
    「鹿児島よりは涼しいのじゃないですか」
    「あんまし変わらん。夏は暑い」
    「そうですね、私も夏は暑いので嫌ですね」
    「へえ、鬼の月島軍曹でも苦手なものがあるんだな」
    「私も人間ですから、嫌なもんは嫌です」
    「ふうん、ほかには何が嫌だ?冬はどうだ」
    「冬は、厚着するのが面倒なので嫌ですね」
    「はは!確かに!そう言われてみると私もどっちも嫌な時があるな。でも、暑い日に西瓜を食べるのは気持ちがいいし、寒い日に燗をちびちびやるのもいいぞ」
    「…確かに」

    神妙な顔をして頷いてみせるのが面白くて、ちょっと笑ってしまった。まだ何の経験もない青二才の鯉登にとって、いくつもの戦場を闘い抜いてきたそいつは遥かな大人に見える。そんな奴が、一回りも歳下の上官の言葉を素直に飲み込む姿は微笑ましいような、何とも言えない気持ちがした。

    「何かおかしいですか」
    「いや、何も」
    「はあ」

    不審げな顔をするくせに、そいつはそれ以上食い下がらない。わきまえているのか、興味がないのか、たぶんどっちもなんだろうと鯉登は思っている。身の回りのことや軍務に必要なことはなんでも知っている風なのに、誰でも知っている花の名前やものの仕組みをさっぱり知らなかったりする奴なのだ。

    「終わった」
    「お疲れ様です。早いですね」
    「こんなもの基本だ、時間をかける意味がない」
    「頼もしいお言葉で。資料、ついでに返して来ますが」
    「これだけ置いておいてくれ、あとは頼む」
    「はい」

    体を伸ばしてほぐしながら将校室を見渡すと、昼時を過ぎた中途半端な時間帯だからか、鯉登とそいつのほかには誰も居なくなっていた。がらんとした室内を眺めつつ、そういえば腹が減ったなと思った途端、あ、と声が出てしまった。

    「どうかしましたか」
    「いや、あー、月島軍曹は今晩鶴見中尉殿に何か言いつけられているか?」
    「いえ、特に何もありませんが。何かご用ですか」
    「うん、できれば腹を空かせて私の下宿へ来てほしい」
    「…は?」
    「明日は日曜だったな、では泊めてやるので外泊の許可を取っといてくれ」
    「ちょっと待ってください」
    「月島は下戸だったか?」
    「違いますけど、少尉、一体なんのお話ですか」
    「お裾分けの話だ。月島軍曹、手伝ってくれ」
    「はあ?」

    呆れたように眉間に皺を寄せるそいつに、理由を話してやろうと口を開きかけて、やめた。めったに動揺を見せない鬼軍曹を、ちょっと振り回してやりたくなった。明日は日曜だし、少しくらい羽目を外してもいいだろう。

    「ふふ、きっと来い。後悔はさせんぞ」
    「なんのお話です…」
    「ふふふ、さて飯だ飯だ」
    「鯉登少尉殿」
    「早くしないと食いっぱぐれるぞ、月島」
    「…わかりました、行けばいいんですね」
    「うん、是非とも来い」

    そいつはさも面倒そうにため息をついた。そんなにあからさまにしなくてもいいのに、と思うこともあるが、まああの鶴見の右腕と誉れ高いほどの豪傑なのだから、その鶴見の元を離れて鯉登のような新米少尉の世話をするのはさぞかし不平不満も溜まることだろう。それは鶴見の役に立てればと願ってこの道を志した鯉登にとっても、その心中察して余りあるところだった。
    頼んだ資料の山をヒョイと抱えたそいつに、鯉登は思わずにっこり笑ってしまった。

    「…なんです」
    「ふふ、楽しみにしてていいぞ」
    「はあ」
    「うふふ」
    「ご機嫌ですね」

    部下を労うのも上官の務めだ。鶴見の元で働けない間、代わりなどとはおこがましくて考えるだに畏れおおいが、せめて悪くはないと思えるくらいの器だと知れれば、少しは気分も晴れるだろう。その場で得た軽い思いつきだったが、思いのほか良い考えのように思えて、鯉登はその日の午後の厳しい演習も楽しくこなしたのだった。

    「おう、来たか」
    「はい、こんばんは」
    「上がれ上がれ」
    「お邪魔いたします」

    そいつは相変わらずの仏頂面で黙々と靴を脱いで部屋へ上がった。しかし、女中が茶と一緒に塗りの重箱を持ってきたので、さすがの鉄面皮も目を見開いた。鯉登は、してやったりとばかりにんまりした。

    「…私は何を食わされるんですか」
    「従兄弟が結婚したそうでな、母がこれをどうしても私に食わせたくて、昨日わざわざこっちへ来て作ってってくれたんだ」
    「はあ、それは、おめでとうございます」
    「いや、私は顔も思いだせんくらい昔に会ったきりだが、まあ、たぶん母はこれを作りたかっただけなんだ。鹿児島では祝い事のときにしか作らんから」
    「そんなおめでたいもの、私などがいただいてよろしいので?」
    「母も張り切って作りすぎてな、一人じゃとても食いきれんで、手伝ってくれ。なに、日頃世話になっちょっで、そん礼じゃ思うて食やよか」

    言いながら蓋を開けてやると、そいつはさらに目を真ん丸にして白黒させた。

    「…酒、ですか」
    「そう、酢の代わりに酒を使ってな、酒ずしちゅてお殿様ん食いもんやった。華やかじゃろ?」
    「はい、こんな派手なもの食ったことありません」
    「そうやろう、ふふ、たまがらせたろ思うて言わんかった。びっくりしたか?」
    「…失禁するかと思いました」
    「わははは!せめて食べてからにせぇ!」

    そこへちょうど良く女中が酒を持ってきたので、畏って座ったきり目の前の重箱を見つめるばかりで手を出そうとしないそいつに、箸を握らせ、猪口を持たせて酒を注いでやった。すると、そいつは思い出したように恐縮してもごもごと礼を言うので、鯉登はこんなに甲斐甲斐しく誰かの世話を焼いたことはないな、と少し良い気分になった。

    「どうだ、うまいか?」
    「…はい、うまいです」
    「ふふ、そうじゃろう、母の酒ずしは天下一品だ」
    「はい、食べたことのない味がします」
    「ふふふ、ほら酒も飲めのめ。これも母が持ってきてくれたもんじゃ。鹿児島のだぞ」
    「いただきます」
    「うまかじゃろ?」
    「…はい、とても」
    「うふふ、今日は無礼講じゃ、たくさん食って飲め!」

    勢いよくそいつの目の前に置いた徳利が空になるのは、思ったよりも早かった。薩摩隼人の名に恥じぬよう負けじと杯を空けつつ、重箱いっぱいに詰め込まれた飯をつついた。普段は寡黙な男だが、酒のせいか今晩はよく口を開くので、鯉登はなんとなく嬉しくなっていろいろ話した。

    「おめでたいものなら、私などより中尉殿に差し上げればよろしいのに」
    「阿呆、おいのかかどんが作ったモンなんぞ、鶴見中尉どんにお勧めするようなものではなか。中尉殿には、ちゃんとした料理人が作ったモンを召し上がっていただかねば」
    「これだって十分美味しいじゃないですか」
    「そうじゃ、おいにとっちゃ天下一品じゃ。こりゃ、かかどんがおいのために作ったもんじゃっで、おいが一番うまいち思うように作っちょる。そげんもん鶴見中尉どんにお勧めすんな失礼じゃろ。かかどんにもがられるわ」
    「…なるほど」
    「じゃっどん、うまかろ?独り占めすんはもったいなか、気安いもんに食わしてうまかーちゅてもらいば、おいもかかどんも嬉しか」
    「うまかー」
    「わははは!月島がうまかちゅた!…あー、と、薩摩弁が出とるな、すまんかった」
    「わかるんですから、いいんじゃないですか」
    「わかるか?皆わからんと言うが」
    「早いと聞き取れませんが、普通に話せば誰でもわかります。兵営ではみんな郷の言葉を話しますし、上にはそちらの訛りの方も多いじゃないですか」
    「でも、中尉殿には伝わらないから」
    「それは早口だからでしょう。お父上殿は中尉殿とも話されるんですから、ゆっくり話せば伝わりますよ」
    「そうだろうか」
    「そうです、やってみなさい」
    「うん」

    殊勝に頷いてみせると、そいつははっとしたように居住まいを正した。

    「申し訳ありません、知った風な口をききました」
    「実際知っているじゃないか。私よりずっと」
    「いいえ、少尉殿より少しばかり長く生きているだけです。ここ以外ではなんの役にも立ちません。…昔から、殴る蹴るばかりの人間ですので」
    「そいばっかいのモンを重用するような方じゃなかろ、鶴見中尉殿は。私も、月島軍曹はあの中尉殿の信に厚い、羨ましか男じゃ思うちょる」
    「…そんなに良いものではありません。買いかぶりすぎです」
    「ふん、何が不満だ?私の知っている月島軍曹は偉かもんだぞ。二度も前線を戦いぬいただけでなく中尉殿をお守りした名誉の傷痕輝く体躯は鋼のように剛健でありながら、それを鼻にかけて下の者に威張らず、寡黙で謙虚だが情に厚く豪胆だ。私は鶴見中尉殿が右腕たるおまえを私の補佐に付けてくださって光栄に思う。それだけ私は期待されているのだと思うから、いつでも身が引き締まるんだ」

    今晩は無礼講だと言ったのは鯉登自身だ。だから、素面で言うには少し恥ずかしい本音を言ってもまあいいかと思えた。とは言え、世辞と思われたらせっかく恥をしのんで口にした言葉が無駄になるので、鯉登はしっかりそいつの目を見て言ってやった。
    すると、そいつは重箱の蓋を開けたときみたいに目を丸くして口をつぐんだと思うと、するりと逃げるように俯いてしまった。

    「買いかぶりすぎです、本当に…」
    「なんでそう思う?私は思っていることしか言わない。わざわざ嘘をついてやる義理もない」
    「…嘘ぐらい平気な顔をして吐けなくては、中尉殿の元では働けませんよ」
    「中尉殿のご命令なら華麗に吐いてみせる」
    「華麗に?」
    「そうとも。華やかに、麗しくだ」
    「どんな嘘ですかそれは」
    「知らん。鶴見中尉殿のお考えになることがおいごときに分かっわけなかろうもん」
    「…無茶苦茶ですね」
    「無茶苦茶やらんと経験の差は埋められん。ほんのこて羨ましか男じゃ。少しぐらい歳を分けてくれ」
    「無理です」
    「無理だな」

    自分で言っておいて、呆れた顔を上げたそいつと目を合わせた途端、おかしくなって笑ってしまった。つられたようにそいつも笑ったので、珍しい顔を見られて嬉しくなって、さらに無茶苦茶なことを言うとまた笑った。なんだそんな顔もできたのか、と思う。

    「…という作戦はどうだ?」
    「そもそも機関銃の意義がわかりませんが」
    「中尉殿は機関銃を撃ちまくるのがお好きと聞いた」
    「それは作戦には関係ないでしょう」
    「指揮するのは中尉殿だから、お楽しみいただければいいじゃないか」
    「…それ絶対に提案しないでくださいよ」
    「ではそれらしい論文を書いて理論武装したらどうだ。題は、そうだな…」
    「はは!なるほどそれらしい!」
    「いや待て、それより…」
    「あははは!」

    笑うそいつは爽やかで、普段の老成したような雰囲気はなりを潜めて年相応に潑剌として見えた。生きていたら、兄はこれくらいの年齢だったんだなとふと思い出した。久しぶりにたくさん笑って、目尻ににじんだ涙をぬぐった。

    ###

    目を覚ますと、部屋は真っ暗になっていた。寝すぎたらしい。とりあえず明かりをつけて時計を確認すると、19時を回っていた。いくらなんでも寝すぎで驚いた。すっかり空っぽで文句を垂れる腹に水道水を流し込んで束の間黙らせると、財布を尻ポケットに押し込んで家を出た。何か作っても良かったが、外に出たい気分だった。
    夜風に吹かれながら欠伸をする。初夏の夜はまだまとわりつくような暑さを知らず、清々しささえあった。こんな天気がずっと続けばいいと思うが、うだるような夏はもうすぐそこまで来ている。
    さっきまでいた夢の中の暑さを、まざまざと覚えている。詰襟の息苦しさ、窓外の日差し、柏手の音、笑う目尻の皺。話の内容はあまり覚えていないが、とにかく楽しかったことだけは胸の奥にほっこりと残っている。そういえば、兄は元気だろうか。見るたびにすくすく大きくなっていく甥っ子姪っ子たちは、最近ではすっかり人間らしくなって、鯉登を名前で呼んでくれるようになった。無性に兄に会いたい気がした。幼い頃のように飛びついたら、温厚な兄でもさすがに驚くだろうか。
    行きつけの喫茶店に入って、窓際に座る。創業何十年という歴史のあるこの喫茶店は、昔ながらの味と量を守っているらしく、見た目度外視でボリュームがあるので、食えるなら食えるだけ嬉しい一人暮らしには大変ありがたい。通ううちに顔も覚えてもらえたおかげで時々おまけしてくれたりもするので、つい来てしまうのだ。
    大盛りのオムライスとサラダのセットを平らげると、食後を見計らってコーヒーが出てきた。

    「今日は誰かを待ってるの?」

    にっこり笑ってカップを置いた店主が尋ねた。身に覚えがないのできょとんとしていると、店主も、おや、という顔をした。

    「だって、外ばかり見ているから」

    いつもは読書か勉強か、何かしているのに今日はずっと外を見ている、と指摘されて、鯉登は力なく笑ってみせた。
    さっきみた夢は、珍しく穏やかだった。あんな風に時間を分け合うように過ごす夢はあまりみない。食事を囲んだり、他愛ない話をしていることもあるが、たいていは殺伐とした時間の束の間だったり、只中だったりした。そういう時間しかともにしないと思っていたから、少しだけ覚めてしまったのが惜しい気がしたのだ。もう少しだけ、みていたかった。
    店主が行ってしまうと、鯉登はコーヒーを飲みながらまた窓の外をぼんやり眺めた。大通りに面した喫茶店からは、たいした景色は見えない。向かい側は1階に不動産屋の入ったオフィスビルで、両脇も味気ないビルがのっぺりと並んでいるだけだ。ちなみに不動産屋の店長もこの店の常連で、昼時に来るとよく店主と親しげに話し込んでいる。見るともなしにまだ明かりのついている不動産屋を見ていると、ガラス張りの店の中で店長がまだ客の応対をしていた。こんな時間まで働いているのか、と時計を確認すると、もう閉店時刻になろうとしていた。慌ててコーヒーを飲み干して立ち上がると、店主がカウンターの方からやんわりと制止した。

    「まだいいよ」
    「いや、ちょうど飲み終わったので」
    「待たなくていいの?」
    「…約束があるわけではないですから」

    そう、と言ってそれ以上深追いしない店主は、とても喫茶店の店主に向いていると思う。現にこの距離感が心地よくて、鯉登はもう3年も通っている。

    「明日は唐揚げ定食にするよ」
    「いいですね」
    「ザンギだよ、知ってる?北海道の唐揚げ」
    「北海道」
    「そうそう、味付きの唐揚げってかんじかな?よかったら食べにきて」

    北海道。縁もゆかりもない土地なのに、名前を聞くだけで懐かしいような歯がゆい気持ちになるのは不思議な感覚だ。思わず必ず食べにくると約束してから店を出た。
    ドアを押し開けると、ちょうど向かいの不動産屋からも最後の客が出てきたところだった。なんとなく自動ドアの間からのぞいた顔を見た瞬間、息をのんだ。

    蚊をつぶした手のひら、呆れたため息、驚いた顔、目尻の皺、名前を呼ぶ声。
    さっきみた夢が鮮やかによみがえる。

    そいつは、鯉登の待ち人だった。

    (ほんとうにいた)

    初めて杉元に出会ったとき以来、会ったことのない者に会ってもあまり驚かなくなっていたのに、いま鯉登は一歩も動けないほど動揺していた。頭の片隅で、これが昼間の雑踏ではなくて良かったな、などと呑気に考えている自分がまったく別の人格のように思えた。
    そいつは、不動産屋の店名が入っているらしい封筒を持って、店先に出たまま店長とまだ何か話している。鯉登は、にこやかな店長に対している、一度も笑ったことがないような無表情を食い入るように見つめた。
    見れば見るほど、そいつだった。背格好はまったく同じで、頭まで夢のとおりにきれいな坊主頭だ。暗い上に遠目でもわかるほどガタイが良くて不健康そうには見えないし、仕事帰りらしいスーツ姿も清潔そうできちんとしていた。
    つまりもう、とにもかくにも、どこからどう見ても、そいつは元気そうであった。

    (ほんとうにいた)

    さっきから頭の中にそればかりが浮かんでいる。鯉登は、道のこちら側に立ち尽くしたまま、そいつの横顔から目が離せない。何度も瞬きをした。何度目を開いても、そいつはそこで店長と話している。いると思いたかったとはいえ、本当に出会ってしまうと信じられないものなのだな、とぼんやり考えた。
    と、店長がひときわ大きな声で礼を言うのが聞こえたと思うと、そいつも会釈をして歩き出そうとこちらを振り向くのが見えた。
    その瞬間、鯉登は思わず頭を抱えてしゃがみこんでしまった。

    (いや、別に、隠れんでもよかか)

    辺りはすっかり夜で暗いし、第一道の反対側などわざわざ見ようと思わなければ見ないだろうに。そう思い直しながらもおそるおそる顔を上げてみると、あろうことかまばらに車の流れる通りの対岸で、そいつはしっかり立ち止まってじっとこちらを見ていた。しかも鯉登がそれを認識する間に、そいつはなぜかおもむろにガードレールを乗り越えると、車の合間を縫ってまっすぐこちらへ横断してくる。え、なんでだ?と呆気に取られて見守るうちに、あっという間に目の前までやってきたそいつはうずくまったままの鯉登の肩をがしりとつかんだ。

    「大丈夫ですか」
    「え」
    「聞こえますか」
    「は、はい」
    「頭が痛いんですか」
    「頭…?」
    「向こう側から、あなたが頭をおさえてしゃがんだのが見えたので」

    そう言って、そいつは不動産屋の方を指した。つられて指の先を見やると、店長が店の前でおろおろしているのが見えた。それでようやく止まっていた頭が動いて状況を理解した。

    「あ、あー、すんもは…すみません、大丈夫、です」
    「体調が悪いんですか」
    「いえ、いえちょっと、そう、酔っぱらってて」
    「飲みすぎですか。立てますか」
    「はい、大丈夫です、すみません」

    鯉登が危なげなくすっくと立ってみせると、そいつは少し下からこちらを見上げた。夜の外灯と看板の薄明かりの下、初めて見るその顔に胸の内側をひっかかれるような懐かしさを感じた。やっぱり、そいつは間違いなくそいつだった。

    (ほんとうに、いた。…いてくれた)

    鯉登は、喉の奥にこみ上がるものを無理やり飲み下して、なんとか口を開いた。

    「…ありがとう、ございます。もう大丈夫です」
    「それなら良かった。この辺、治安はよさそうですけど、どこでも道端で寝ると警察の世話になるので、気を付けた方がいいですよ」
    「え、そうなんですか」
    「交番で絞られると、結構へこみます」
    「ふ、はは、肝に命じます」
    「そうしてください、では」
    「…あ」

    あっさり行こうとするそいつを、思わず呼びとめてしまった口を勢いよくおさえた。粗相に狼狽してとっさに塞いだのだったが、そいつは何を勘違いしたか、慌てて鯉登の背中に手を添えた。

    「吐きそうですか?」
    「え」
    「気持ち悪いですか?」
    「あ、やや、すんもはん、なんでんなかです」
    「なんでん…?」
    「あーなんでもありません、すみません。…どうぞ行ってください」
    「本当に大丈夫ですか?」
    「はい、そんなに酔ってませんから」

    行ってくださいと、ほとんど自分に言い聞かせるためにもう一度言った。そいつは、少し伺うような目をしただけで、すぐに手を離した。それから、それじゃあ気を付けて、と言い置くと、今度こそ背を向けた。
    鯉登は、その背が見えなくなるまで見送った。
    長年の願いが叶う瞬間というのは、案外あっけないものだなあ、としみじみと思った。
    あの様子だと、たぶん夢はみていないのだろう。きっとその方がいい。そいつが今ちゃんと大切な人と幸せに暮らしているのかまではわからなくとも、身なりや纏う雰囲気、こちらをのぞき込む目元にあくせくした色がなかったので、少なくとも道端の酔っぱらいにためらいなく手を伸ばせるほどには、心穏やかに暮らせているのだろう。おまけに、夢の中のそいつなら絶対にしそうもないような話まで聞けた。あれは確実に体験談だったろう。道端で酔いつぶれて交番に連れて行かれてこってり絞られて、その事実にしおらしくへこんだりしたのだ。それだけでも、夢の中の暗い瞳をしていたそいつとは違う半生を歩んでいるのだろうことがわかった。
    それだけわかれば、十分な気がした。
    家路をたどりながら、鯉登はうんと伸びをした。星の見えない都会の夜空を仰ぐと、気持ちのいい夜風がするりと頬を撫でていった。とても清々しい気持ちだった。ああ、今日は本当に良い日だったな、と頬がほころぶ。
    そうだ、杉元に連絡しなくては。優しすぎるきらいのある幼なじみが、感じなくてもいい罪悪感みたいなもので瞳を翳らせていたのを、鯉登はしっかり見ていた。だから、おまえは会いたくないのか、なんて自罰的なことを聞いたりなどするのだ。自分のことでもないのだから、関係ないと切り捨てておけばいいものを。ふ、と思わず笑ってしまう。鯉登が幼なじみの幸せを喜んだように、杉元もまた腐れ縁の友の祝福に備えている。それに応えてやることができて、鯉登は二重に嬉しかった。ついにお互いの長年の肩の荷がおりたのだ。どんな顔をするのだろうか、今は何を考えるのも楽しかった。
    住宅街に入った夜道は都合よく人影がなく、鯉登は数年ぶりにスキップをして帰った。

    ###

    「え、そんだけ?」
    「うん」
    「うん、て…」

    軽く報告した翌日、仕事が終わってからどうしても話を聞きたいと言われて、よく二人で行くチェーン店の居酒屋で杉元と会った。席についてビールと酒を頼み、それらが到着するのを待てずに杉元が話を催促した。とは言え、道端で出会って別れた、というだけの話なので、ちょうど突き出しとビールと酒が来る頃にはすっかり話し終えてしまった。
    杉元はビールを受け取ったまま、途方に暮れたような顔をして固まった。なんだ、もっと喜んでくれるかと思ったのに。ちょっと拍子抜けした鯉登は、さっさと二合徳利から酒を注いで飲みだした。

    「あ!オイ乾杯しろよ!」
    「なんだ、するのか」
    「乾杯はいつもするよ!はいおめでとう乾杯!」
    「雑だな」
    「いやだってよ…」

    もごもご言葉を詰まらせた杉元は、思い直したようにビールを流しこんだ。鯉登は、息をついた杉元が口を開く前にすかさずメニューを渡す。

    「何食うんだ」
    「…ちょっと見せろ」
    「どうせいつも同じの頼むくせに」
    「今日は違うかもしれねぇだろ。おまえ何頼むの」
    「出汁巻きと手羽先と枝豆とぬか漬け。あとから刺身と挟み揚げと揚げ出しと一本漬け」
    「え、待ってまっていつ決めたんだよ!てか、漬物2回言うのかよ!」
    「好きだから」
    「えー俺ぬか漬け苦手ぇ…」
    「じゃあ浅漬けにする」
    「優しい…」
    「ほらさっさと決めろ、呼ぶぞ」
    「あー待って!すぐ見るから!」

    結局それからしばらく悩んだ挙句にほとんどいつものメニューをなぞったので、注文のとき思わず笑ったら強めにどつかれた。驚いて注文の確認もせずに退散していく店員を尻目に、テーブルを挟んでしばらく応酬すると、どちらからともなくやめる。いつものお定まりだ。

    「連絡とったのか」
    「え?あー、うん、夏休みに誘ってもいいかって」
    「なんだその煮え切らない聞き方」
    「仕方ねぇだろ!大人が子ども誘うの、ただでさえ気ぃつかうんだよ!」
    「まあどうあがいても犯罪だからな」
    「ちゃんと保護者にご挨拶行くし、しばらくは同伴をお願いしますぅー!後ろめたいことなんてありませんー!」
    「…なんて挨拶するんだ?難しくないか?」
    「いやマジでそこなんだよ…、頼む!一緒に考えてくれ!おまえの頭脳が必要なんだよ!」
    「いつ行くか決まってるのか?」
    「……今週末」
    「紙とペン出せ今すぐ。おまえの猿頭でも覚えられるシナリオを考えてやるから、丸暗記しろ。それを写真に撮ってアシリパにも送っておけよ」
    「はい、鯉登さま。よろしくお願いします」
    「おまえ手土産はどこで何買うつもりだ?」
    「てみ…やげ?」
    「おまえのスマホは飾りか!お宅訪問の作法ぐらいググらんかいバカタレ!」
    「そんなもんあんの…?」
    「あるにきまっとろうもん!今すぐアシリパに親の好きそうなモン聞け!お菓子とか酒の肴とか。会うのは日曜か?」
    「土曜です!」
    「じゃあ金曜だ、一緒に買いに行くぞ。仕事は?」
    「ありません!服を買わなきゃかなと思って休みにしました!」
    「…スーツとか?」
    「そうそう、それくらいは分かったよ俺も」
    「…服は私のを貸してやる。サイズそんな違わないだろ」
    「え、スーツぐらい買うけど、持ってねぇし」
    「それはまた今度にしろ、スーツ高いぞ」
    「やっぱ高ぇのかぁ」
    「まあピンキリだけどな」

    軽く話題を振ったらわりと喫緊な案件を引き当ててしまったので、鯉登はそれからずっと杉元の世話を焼いた。すぐにアシリパに連絡を取らせ、子持ちの父である鯉登の兄にそれとなくラインでインタビューして筋を練り、その間に返ってきたアシリパの返事から手土産にあたりをつけて予算を検討しながら、なんとか親に怪しまれないシナリオを作り上げ、予想される質問と回答集まで用意し、そこから逆算して金曜から土曜の杉元の予定を組んでやった。聞けば、アシリパは母を早くに亡くしていて、父と二人暮らしなのだと言う。じゃあなおさらしっかりやれ、と激励すると、そこまで酒に強いわけではない杉元が、テーブルに頬杖をついて目をしぱしぱさせた。鯉登は何本目かの二合徳利にそのまま口をつけながら、そろそろお開きかなと考えた。こいつはある程度酔っ払うと早々に寝始める。この筋肉ダルマを担いで帰るのはごめんだ。

    「つうか、おまえ俺のことばっかじゃなくて、おまえの話をしろよ。今日おまえの話聞く会だぞ」
    「いやおまえの方がヤベェせいじゃろがい」
    「そおなんだよ…俺ヤベェんだよ…頭わりぃしスーツも持ってねぇし、てみやげのこともよく知らねぇし…」
    「もっと否定してやれることを並べろ、励ましてやる」
    「なんだよそれぇ…フツーにはげましてくれよぉ…」
    「フツーか、そうだな…おまえはわりと顔がきれいだから、小綺麗にすれば今言ってたやつほとんど隠せると思う、ぞ」
    「えマジで?それどんな魔法?」
    「人は見た目が9割っていう魔法だ」
    「すっげぇ魔法…どうやってかけんの…?」
    「金曜に私がおまえにかけてやるから、土曜は言われたとおりにしっかりやれ」
    「こ、こいとぉ…!男前すぎてほれちまうよぉ…!」
    「そうだろう、もっとたたえろ、私を」
    「ヒュー!かっこいい!金持ち!ボンボーン!」
    「よーし表へ出ろ。絶対に会いに行けない顔にしてやる」

    そう言って胸ぐらを掴むと、なんだとてめぇやんのかこら、とかむにゃむにゃ言っているのをズルズル引きずって会計に向かった。
    外に出ると、ぬるくも冷たくもない風が吹きつけた。アルコールで上がった体温には気持ちがいい。飲み屋街を抜けて大通りへ出ると、すぐに寄ってきたタクシーに杉元を押し込み運転手に目的地を伝え、もし起きなかったら邪魔にならない道端に転がしておけばいいとアドバイスしてドアを閉めた。
    ふう、と息をつく。まったく手のかかる幼なじみだ。末っ子の鯉登は、父母と歳の離れた兄に散々かわいがられて育ってきたので、あまり誰かの世話を焼いたことはない。だからなのか、杉元に頼られたりあれこれお節介をするのは新鮮で悪い気はしなかった。さて、Tシャツとジーンズしか着ないあいつにどんな服を着せてやろうかなと考えつつ、鯉登も帰路についた。
    居酒屋のある繁華街から家までは歩くと30分ほどかかるが、帰り道をそれて駅まで行くのもタクシーをつかまえるのもなんとなく面倒で、そのまま歩くことにした。腕時計を見るとまだ22時前だ。夜中というには早いが、週の真ん中の水曜日だからなのか、繁華街を離れるにつれて人通りも店の明かりもぐんぐん減っていく。落ち着いた店がぽつぽつと並ぶ辺りまで来たところで、チェーン店のコーヒーショップが目にとまった。そんなに回っている気はしないが、酔いざましにコーヒーでも飲もうと一面ガラス張りの店内を窓越しにひょいと覗き込んだ。席はほとんど埋まっていたが、レジには列がなかったので入ろうかと思ったところで、ふと見られているような気がして何気なく目線を下げると、ガラスを挟んで目の前にそいつが座ってこちらを見上げていた。
    たぶんお互いに驚いて、しばらく黙って見つめあってしまった。
    そいつは先日会ったときと同じようなスーツで、通勤鞄を隣の席に置いていた。アイスコーヒーと思われるグラスはもう半分くらいになっていて、氷だらけのそれをかき回していたのか、中途半端にストローをつまんだまま固まっている。そこで鯉登はようやく正気に返った。

    (あ、これはたぶん待ち合わせだな)

    そいつはどことなく手持ち無沙汰そうな、居心地の悪そうな様子に見えた。そういう顔をしているというわけではないが、なんとなく鯉登はピンときたのだ。すぐに立ち上がれそうなほど浅く腰かけたイスに、落ち着かなげにグラスを握りこんでいるのが全てを物語っている。これはきっと自ら入りたくて入ったわけじゃない。ここで待つよう誰かに指定されたのだ。
    鯉登はすべてを合点した。そういうことなら、素早く撤退せねばなるまい。
    そこで先日の感謝の気持ちも込めて、鯉登はその場で深々と頭を下げた。それから気恥ずかしさをごまかすためにちょっと笑って見せてから、立ち上がりかけたそいつを手のひらで制してさっさとその場を離れた。コーヒーは途中のコンビニで買った。
    熱いコーヒーを、ゆっくり飲みながらゆっくり歩く。アルコールで鈍くなった五感が、カフェインと熱でじわじわと覚醒していくような気がした。
    また会うとは思わなかったが、よく考えてみれば近くの不動産屋を利用していたのだから、生活圏がかぶっていると考えるのが妥当だろう。今まで会わなかったのは、最近引っ越してきたということなのだろうか。
    もしかすると、もしかすると、これからあの店に現れるのかもしれない人と、二人で新しい生活をはじめるために引っ越してきたのかもしれない。
    そうなのだとしたら、近い将来には本当に街角でそいつの幸せを確認できるのだろう。
    コーヒーはなかなか冷めず、舌が痺れるほどの苦さで酔いはすっかり覚めていた。繁華街を離れ、ビルの間にアパートや住宅が増える細い道は、静まりかえって夜に沈んでいた。大通りを行き交う車の音が遠くかすかに聞こえ、首筋を風が滑り、指先には紙コップ越しにも熱い温度。鯉登は、街の中からくり抜かれたように確かな感覚を持て余しながら歩いた。

    ###

    「そんなもの買ってどうするんです」
    「なんだ月島、メンコ知らんのか」
    「知ってますよ、そういうことではなく」
    「知ってるなら付き合え。伊地知閣下を貸してやる」
    「いくら暇だからって、ほかにやることが」
    「まあ、負けるのが嫌ならやめておいた方がいいだろうな、月島軍曹」
    「…お借りします」

    あまり表情を変えない有能な部下の目が、途端にぎらりと鋭く光るので、鯉登は内心で笑う。人には安い挑発に乗るなとよく言うくせに、自分が一番短気なことをこの男はたぶん知らないのだ。

    「メンコなんて何年、いや何十年ぶりか」
    「私もまだ鹿児島にいた頃にやってたな、兄さあが」

    ぐ、と込み上がったものを飲み込んで、鯉登は何食わぬ顔で続ける。

    「兄が、強くて、全然勝てなかった。今思えば十三も離れているから当然なんだが、当時は悔しくていろいろ研究したんだ。だから私は強いぞ」

    せっかく取り繕って笑ってやったのに、何の意味もなかったらしい。そいつは、何かを堪えるような顔をうつむいて隠した。なかなか難しいものだと思う。お互いに傷を抱えていて、それをお互いに知っているのに隠そうとするのは、本当に難しかった。

    「ほらやるぞ!台を運べ!」
    「…どこでやるんです」
    「病院の裏あたり、風避けになっていて良さそうだった」
    「人通りがあります」
    「気にするな、噂になったらとぼけろ」
    「噂になったらおしまいですよ…」

    メンコを買った駄菓子屋でついでにもらってきたちょうど良い木箱をそいつに持たせ、二人で病院の裏手へ回った。路地というほど狭くはなく、道の端に木箱を挟んで屈強な男二人が対峙しても、その横を悠に人一人が通れるくらいの広さがあった。この道が病院にしか続いていないためか、通りはわりと閑散としていた。

    「あー!今のありか!?」
    「ありです。起きてるじゃないですか」
    「いや、こんなの見たことないぞ!物言いをつけたい!議論が必要だ!」
    「じゃあなしでいいです。どうせ次でおしまいですから」
    「…その言葉を必ず後悔させてやるぞ」

    鯉登は、最後の有坂閣下を拝むように両手に挟んで擦り合わせると、いざと再び向き合った。対するそいつは涼しい顔で、獲ったメンコを扇状に開いてさりげなく見せびらかしている。嫌な奴だ。

    「…筋肉ダルマめ」
    「ありがとうございます」
    「ええい、いくぞ!」
    「どうぞ」

    小気味よい音とともに、鯉登の叫び声が近所中に響き渡った。

    「声がでかい」
    「ないごてじゃあー!ないごて中将が少将に負くっとじゃあー!」
    「では東郷大将で討ち取ってさしあげましょう」
    「貴様我がもの顔で使いおって!それは私の東郷閣下だぞ!」
    「もう私の閣下です」

    パン、と鼓膜を揺らす破裂音がしたと思うと、実際より些か絵画的に描かれた端正な有坂閣下がふわりと優雅に浮き上がり、はたりとあっけなく裏返った。

    「閣下ぁー!」
    「これで文句なく私の勝ちですね」
    「貴様、恥も何もないのか!それ全部私が買ったメンコだぞ!」
    「かかって来いと言ったのは少尉殿じゃないですか。だから安い挑発に乗るなと」
    「挑発に乗ったのはおまえの方だろうが!」
    「身に覚えがありません」
    「…言っておくが、月島、おまえはわりと短気だからな」
    「負け惜しみですか」
    「たちの悪い奴だな…まあいい、今日はもう暗くなってきたから、おまえの勝ちでいい」
    「ありがとうございます。これ返します」
    「…貴様、私から奪い取っておいてそうあっさり返せると思うか?東郷閣下だけ返せ。あとは明日奪い返すから、持っていろ」
    「はあ、なぜ東郷閣下なんです?」
    「大将だからだ!一番強いはずだ!」
    「…ふ」
    「なんだ月島、貴様いま笑ったのか?この私を笑ったのか?」
    「はいはい東郷閣下ですよ、どうぞ」
    「ふん、そうして今のうちに余裕をかましておくがいい。今日で完全におまえの手の内は見切った。明日はけちょんけちょんにして吠え面かかせてやるから、ハンケチーフを用意しておけ」
    「持ってません」
    「それぐらい持っておけ!」

    噛みつく鯉登にも、そいつはいつも無表情を貼りつけて意にも介さない。しかし、鯉登は知っている。こいつは自分で思っているより、ずっと表情が豊かなのだ。本当になんの感情もないときの顔と、そう振る舞おうとしているときの顔の見分けがつくようになってしまえば、同じ仏頂面でも、その後ろに隠している感情が何なのかすぐにわかってしまう。
    そいつは、鯉登のメンコを軍衣の物入にしまった。折るなよ汚すなよ、と釘を刺すと面倒そうに、はいはい、と言いながら台にしていた木箱を持ち上げた。二人並んで病院の入り口へ向かいながら空を見上げると、夜と昼の混ざったような色をしていた。

    「月島、たそがれだ」
    「そうですね」
    「どんな漢字を書くか知ってるか」
    「…漢字、あるんですか」
    「ある」
    「知りませんでした。平仮名かと」
    「おまえは誰だ」

    そいつが驚いた顔をしてこちらを見た。それがなんだか子どものような幼い顔に見えて、鯉登は思わず笑った。

    「そういう意味だ」
    「は」
    「『誰そ彼』、と書く。ちょうど相手の顔の見えにくくなる頃だから、この時間は気を付けろと口を酸っぱくして言われた。知っている人のように見えても、たそがれ時は薄暗いから見間違えてしまう。だから聞くのだ、『誰だ、おまえは』」

    鯉登が目を見て言うと、そいつは目をぱちぱちさせて答えた。

    「…月島基軍曹です」
    「そういえばそんな名前だったな、いい名前だ」
    「はあ、ありがとうございます」
    「私は鯉登音之進少尉だ」
    「はい、よく知っております」
    「良い名前だろう」
    「はい、そう思います」
    「覚えておいて損はない名前だ、しっかり覚えておけ。間違えないように」
    「…間違えませんよ」
    「そのうちメンコになるからな。そしたら買えよ、月島軍曹」
    「覚えておきます」

    病院の入り口へ続く石段を先に立って上りながら、鯉登はふと思い立って振り返った。前を行く背中が突然止まったので、そいつは迷惑そうに木箱を持ち直した。

    「急に止まらんでください」
    「月島基軍曹」
    「なんです」
    「私も忘れないようにする。おまえはすぐどこかへ消えるからな」
    「消えてるのは少尉殿です」
    「おまえが私を見失うからだろう、それは」
    「少尉殿がじっとしていてくだされば何事もないんですが」
    「それは無理だ」
    「なぜ」

    眉を寄せるそいつを尻目に、鯉登は前に向き直って階段を上る。

    「覚えておけと言ってるだろう、私の名前は音之進だ。いつであろうと、どこであろうと、前に立って進んでいく。だからおまえは見失わないようにしっかりついて来い、月島」

    一陣の風が通り抜けた。鯉登は病院のドアに手をかけながら、風上を見やった。暮れなずむ空から吹いてくる風に髪を梳かれる。夕焼けの後から青とも紫ともつかない色が混ざり合っていく様は、幻想的で美しかった。

    「空がきれいだ。月島、明日も晴れだな」
    「…そうですね」

    鯉登は、翌日の陽気を予感させる夕焼けに向かい、明日はその懐いっぱいのメンコを必ず取り戻してやるぞ、と決意を新たに拳を握りしめた。

    ###

    最近目覚めが穏やかだな、と感じながら起き上がる。夢見がいいのだ。血なまぐさく、体中が軋むような薄暗い夢ではなく、平穏で取るに足らない日々の夢。例によって細部はまったく掴みどころがなく霞のようにぼやけて淡くなってしまうのに、メンコが台を叩く音や、見上げた空の美しさ、髪の間をすり抜けていった風の温度、無愛想の下に隠したそいつの不器用な感情の色は、まるで本当にそこにいたみたいに思い出せる。本当におかしな夢だなと思う。まさかそいつも、本当に生きていたなんて。
    鯉登は、ぐっと伸びをする。思考の海に潜りそうになった頭を切り替えて、夢の残滓を追い払うようにカーテンを開けた。空はからりと晴れていた。明るい朝の陽を浴びると、むくむくとやる気がみなぎってくる。よし!と気合を入れてベッドを降りた。
    身支度をしながら食パンを二枚トースターに放りこみ、家を出る準備をすべて終えたらシンクに寄りかかってパンをかじる。一人暮らしは少し寂しいけれど、何もかも自由なのは悪くない。実家でこんなことをすれば、父も母も怒りはしないだろうが、小言くらいは言うだろう。行儀が悪いとか、ちゃんと座って食べなさいとか。家を出てしまった今となってはそういうのもまた悪くはないと思うが、自分のことを自分で決められるというシンプルで一番大事なところが守られているのは、何にも替えがたく良いものだ。
    パンくずをシンクに払って水を飲むと、カバンを掴んで家を出た。今日は講義が二つと発表が一つと教授の手伝いがある。外は生ぬるく重さを感じるような温度で、すぐにじっとりと汗をかいた。それでも朝の風はまだ爽やかで、かいたそばから汗を冷やしていくのは気持ち良かった。今日も一日やることはたくさんある。鯉登は、研究室へ着いてからのタイムテーブルをあれこれと考えながら大学へ向かった。

    は、と気がついてパソコンの時計に目をやると、もう20時を回ろうとしていた。試験前でもないのに、少し粘りすぎた。もはや研究室に残っているのは卒論と奮闘している面々か、教授の手伝いで居残っている者だけだ。鯉登が教授に言いつけられていたものはすでに終わっていて、ついでにこちらも、と手をつけたら夢中になってしまったらしい。でももう空腹が限界なことに気付いてしまったので、さっさと作業を切りあげて荷物をまとめると、誰にともなく、お先に、と声をかけて研究室を出る。背中に、お疲れ、といくつか声がかかったので、ドアを閉めるまえにひらひらと手だけ振って応えた。友だちというほど親密な者はいないのだが、何気ないやり取りを面倒くさく思わないほどには、この研究室の雰囲気は気に入っている。
    夜でもそれほど人通りの減らないキャンパスを通り抜け、大学近くの安くて旨くてたくさん食べられる定食屋に直行した。入るなり寄ってきた店員にメニューも見ずに唐揚げ定食の大盛りを頼むと、席に荷物を置いてセルフサービスの水を持ってきた。一口飲んで息をつき、スマホを取り出して通知を見ている間にもう定食がやってきた。いただきます、と手を合わせてから食べた。父母の教育の賜物で、誰も見ていなくてもこれをしないと鯉登は罪悪感に苛まれる体になってしまったのだ。研究室や学食ではたまに笑われることもあるが、鯉登にとって親密ではない人間は空気と同じなので、度が過ぎない限りはどうでもいい。
    腹いっぱい食べて、ゆっくり水を飲んでから店を出た。夜風はまだ少し冷たくて、食べて汗をかいた体にはちょうど良かった。いつも瞬く間に過ぎ去ってしまう束の間の心地よい季節を堪能しながら帰った。
    マンションのエントランスを通り、一つ目のセキュリティを解除してエレベーターホールへ入る。二基あるうちの一つは最上階の10階で、もう一つは5階にいるようだったが、そっちの方はさらに上へ昇っていき、代わりに10階の方が下降し始めた。しばらく待ちそうだな、と思ったとき、ちょうどエントランスにつながる自動ドアが開いたので反射的にそちらを見た。

    「え」
    「あ」

    今朝も夢にみたそいつが、ちょっと驚いたような顔をしてそこにいた。

    「…どうも」
    「…どうも、こんばんは」
    「…こんばんは」

    呆気に取られている鯉登に軽く会釈をすると、そいつは鯉登の隣に立ってどう見てもエレベーターを待ちだした。つい習慣で会釈ついでに晩の挨拶まで返しておきながら、鯉登の頭はなかなかこの状況を処理しない。エレベーターがゆっくりと降りてくる。なぜここにそいつがいるのか、そんなもの答えは一つしかない。階数のカウントダウンに急かされるように、鯉登は思わず口を開いてしまった。

    「…先日は、どうもありがとうございました」
    「いえ、あの後はちゃんと帰れましたか」
    「はい、ちゃんと家のベッドで寝ました」
    「それは良かった」
    「…あー、いつからこちらに?」
    「先週からです」
    「先週」
    「はい、土日で越してきました」

    それはまた急だな、と思う。よくは知らないが、6月なんて異動にしては中途半端な季節なんじゃないのか。
    ポン、と音がしてエレベーターが到着した。誰も降りなかったので、二人で乗り込んだ。鯉登の方に階層ボタンがあったので、自分の階を押してからそいつを振り向いた。

    「何階ですか」
    「8階お願いします」
    「はい。縁起いいですね」
    「え、そうですか」

    そいつは怪訝な声で言った。ほんの世間話のつもりで言ったので、鯉登はちょっと首をかしげた。

    「ええ、だって末広がりの8だから」
    「末広がり?」
    「漢字の八って、裾に向けて広がっているでしょう。だから末広がり、おめでたい数字ですよ」
    「はあ、なるほど。そんないい意味があったんですね、8」
    「なんだと思ってたんですか」
    「…四苦八苦とか、八方塞がりの8と思ってました」

    真面目な顔をしてこちらを見上げるそいつに、鯉登は我慢できずに笑いだした。

    「ふふ、ははは!それはひどい!真逆ですね!8、いい数字なのに」
    「そうですね。…そんな風に思ったことありませんでした」
    「うふふ、じゃあ、今日からは末広がりの方にしときましょう」
    「そうします」

    ふう、と笑いを収めたところで、鯉登の住む7階に着いた。

    「では、おやすみなさい」
    「…おやすみなさい」
    「ふ」

    ドアが閉まりきるのを待てずに、鯉登はまたしても笑ってしまった。閉まるドアの隙間で、そいつにしっかり見られていたのがわかってしまった。怪しまれたいわけではないのだが、どうしても我慢できないのだ。
    エレベーターが行ってしまうのを見送ってから、廊下を歩き出す。部屋へ向かいながら、たどたどしい挨拶を思い出してまた笑った。こんばんはとかおやすみとか、日常に馴染んだ挨拶だと思うのに、そいつは鯉登に言われてはじめて知ったみたいにおうむ返しにしたようなのがおかしかった。言い慣れないような言葉ではないはずなのに、一瞬、躊躇うような間を空けるのだ。
    もしかすると不審に思われたのかもしれない。たしかに少し馴れなれしかったか。
    いかんいかん、と鯉登は気を引き締める。まさかこんなことになるとは思わなかったが、やはり向こうはこちらに見覚えがないようだし、あまり親しくしても変だろうから今後は距離感を間違えないようにしようと決意を新たにした。
    とは言え、学生とサラリーマン(おそらく)だ。生活リズムも違うだろうし、住んでいる階層も違うのだし、まあそう頻繁に出会うこともなかろうと鯉登は欠伸をかみ殺しつつ鍵を開けて部屋に入った。次の金曜、杉元に言ったらまた驚くだろうなとのんびり考えた。

    翌日は木曜日だった。
    講義のない日だったが午前中だけ教授に呼ばれて手伝いをして、ズルズル拘束されるのが嫌なので昼飯を理由に辞した。学食で遅めの昼を食べて、図書館でレポートの資料を探しながら少し勉強したらもう日が暮れかけていた。
    図書館を出ると、時計は19時を過ぎたところだったがあたりはまだ明るかった。空には梅雨など忘れたような夕焼けが広がっていて、明日も晴れそうだと思う。

    「お、鯉登ちゃんじゃん」
    「白石」

    帰り道の途中にあるコンビニから、ひょこりと見知った顔が出てきた。白石は、へらっと笑ってこちらへ近づいてきた。鯉登はそれですべてを察する。

    「なー飯食った?」
    「まだだけど奢らない」
    「えーなんでだよおー、昨日バイトクビになった哀れな俺に施しをくれよおー」
    「またクビになったのか、今度はなんだ」
    「へへ、今度はすげぇぜ。食器棚ドミノみてぇに倒して店の皿ぜんぶ割った!」
    「…どうしようもない馬鹿だな」
    「なー!ウケんだろ!?ビビって逃げてきたわ!」
    「は!?逃げて来たのか!?」
    「だって弁償とか言われても払えねーもん」
    「謝罪くらいしろ!」
    「したした」

    誠意のかけらもない様子でヘラヘラしている白石は、歳下の鯉登に軽蔑の眼差しを向けられてもどこ吹く風だ。出会ったときからこの男はこうだ。
    そして杉元が言うには、かの夢の中でもこうなのだそうだ。鯉登の方には何度か見た顔だな、くらいしか登場しないが、杉元の方には頻々と出てくるらしい。

    「そういや杉元、生き別れの妹ちゃんに会えたって?」
    「ああ、聞いたのか。妹ではない」
    「ラインきた。なんか知らんけど俺にも会わしてくれるらしいわ。なー鯉登ちゃんはどんな子か知ってる?かわいい?歳いくつ?」
    「全然知らん」
    「なんだよー、期待だけがどんどん膨らんじまうよー」
    「そのまま破裂して死ね」

    ひどーい、とうっとおしく泣き真似をするのには目もくれず、鯉登はさっさと歩き出す。けれども白石は慣れた様子でひょこひょことついて来る。
    白石は夢をみない。鯉登のことはおろか、杉元のこともアシリパのことも何もかも知らない。どんな場所にも留まれない質なのは夢と同じらしく、仕事や家をころころ変えながら、まだ前科がついていないのが不思議なほどスレスレの生活をしているらしい。それなのに、数年前に杉元と出会ってからはその周りをうろちょろしていて、時折ふらりと杉元や鯉登の前に姿を見せてはまたどこかへ消えるのだった。

    「奢らないからな」
    「あーわかってるわかってる。さっきパチで勝ったからそんなに困ってねぇし」
    「なんで白石なんかと飯を食わなきゃいけないんだ…」
    「一人で食うより楽しいだろ?」
    「一人で食った方がましだ」
    「またぁ、鯉登ちゃんよぉ、そんなんじゃ友だちできねぇぞ」
    「困っとらんわ」
    「困る困らねぇの話じゃないだろ?友だちってもんはよぉ」
    「あーうるさいうるさい、なんでおまえが友だちについて語ろうとしてるんだ、おまえ友だちいないだろうが」
    「はあー?いますぅー、めっちゃいますぅー」
    「どんなのが?」
    「女の子紹介してくれる奴とか、一緒にイメクラ行ってくれる奴とか」
    「それ杉元とただのクズだろう」

    白石とはいつもそんなだ。話したそばから忘れるような話ばかりしながら食べた。白石は終始にやにやしていて、鯉登はうんざりしていた。それでもなぜかいつも白石が満足して(何にだ?)どこかへ行くまで付き合ってしまう。
    定食屋を出てマンションの前まで隣を歩くと、そこで白石はさっと手をあげた。

    「じゃ、行くわ」
    「ちゃんと弁償しろ」
    「すると思うか?」
    「すると言ったら見直した」
    「はは!またなー」
    「もう来るな」

    鯉登の渋い顔など目に入れることもなく、白石はたらたら歩いて行った。本当にどうしようもない奴だな、とため息をついて見送った。

    「こんばんは」

    後ろから声がした。振り向くとそいつがいて、鯉登はとても驚いた。

    「…おう、こんばんは」
    「どうかしましたか」
    「いえ、なんでも」
    「そうですか」

    では、と会釈すると、そいつはさっさとマンションへ入っていく。鯉登も、まあ偶然会ったんだし仕方ないかとその後ろについて入った。エレベーターホールへ連れ立って入ると、また二基とも上まで行っていた。しばらく待ちそうだ。
    さてどうしたものか、と鯉登は少し考える。横目に隣を盗み見ると、そいつはまっすぐに立ってじっとエレベーターの表示を見上げている。このまま沈黙すべきか話すべきか、どちらが不自然でないのか検討した。

    「…毎日遅くまでお仕事なんですね」
    「あー、いや昨日は遅かったですが、今日はまあ普通です。飯も食ってきたので」
    「そうでしたか」
    「学生さんですか」
    「はい」
    「へぇ…」

    続く言葉を飲み込んだ声が間延びして消えた。慣れた反応に鯉登はちょっと意地悪く笑ってやる。

    「贅沢ですか?」
    「は、いえ、いいんじゃないですか。一人暮らし物騒ですし」
    「ふふ、親が過保護なんで、甘えています。周りからはボンボンなんて言われますが」
    「まあ、人それぞれですから」
    「ええ、気にしません。なので、気にしないでください」

    少し慌てたそいつににっこり微笑んで見せると、気まずそうに顔を逸らした。うむ、我ながらかなり嫌味な言い方ができたと思う。あまり親しくしないためには、向こうに良い印象を持たれなければいいのだと今気づいた。これでおそらく、裕福な家庭の生意気な箱入り坊ちゃん(飲んだくれ)というあまり良くない印象が仕上がったことだろう。

    「…7階でしたね」
    「はい、どうも」

    エレベーターが到着するまでお互いに黙り、乗り込んでからそれだけやり取りした。これでもう二度と話さないかもしれないんだな、と思うと少し寂しいような気もしたが、もともとそいつの人生に鯉登は関わらないはずだったのだから、それも仕方がないと飲み込んだ。何分刈りかわからないが、丸坊主よりすこし伸びたような後ろ頭を見納めのつもりで到着まで見下ろした。

    (お幸せに)

    夢でみたというだけの話だ。予知夢でもなんでもない、ただの夢。何も確かなことのない、妄想かもしれない、冷静に考えれば、そんな曖昧なものに関係のない人間を巻き込むべきではない。
    それでも、鯉登はそいつの幸せを心から祈りたいのだ。頭ではまったく理解できずに困惑しているのに、体の芯みたいなものが、心が、そいつをずっと気にかけている。元気そうな姿を見るたび、名前もわからない感情がほっと胸を撫で下ろす。それは一体誰なのだろうか。
    ポン、と到着を知らせる音がした。
    鯉登は何食わぬ顔でそいつに、おやすみなさい、と声をかけながらエレベーターを出る。そのまま振り返らずに部屋へ向かった。
    不思議な夢の話は、もうこれでお終いにしよう。
    そいつはきっと誰でもない。
    そして、鯉登もまた自分以外の何者でもない。
    曖昧なものに引きずられていては、そいつどころか、自分の人生をも見失ってしまうかもしれない。
    誰のためでなく、自分のために、これからはちゃんと明確に避けた方がいいな、と鯉登は思い直した。

    ###

    金曜日は、朝から杉元の手土産探しに付き合い、昼を食べてから鯉登の家に来て服を選んだ。ついでに、今後保護者と一緒に会う時に使えそうな服も選んで貸してやることにした。何しろ杉元ときたら本当にファッションに興味がないばかりか、常識的な知識さえないのだから、新しく見繕って買えと言うより先にまずセンスを養うところから始めなくてはならなかったのだった。
    ようやく当面の服を選び終え、すべてをたたみ直して鯉登のキャリーケースに詰め込むと、杉元は大きなため息をつきながらリビングの低いテーブルに突っ伏してしまった。まだ夕暮れには早かったが、時刻はもう夕方だった。
    鯉登にこき下ろされてもぐうの音も出せず、普段は一切使っていないところの脳みそばかり使った杉元は、ぬるくなった飲みかけのペットボトルを頬にすり寄せて疲れきっていた。

    「前は彼女もいただろう、どうしてたんだ」
    「…あれは、ちょっと社会人になって、浮かれてて…、向こうは歳上だったし、何しても許されたから…」
    「え、そんなだったのかあの時おまえ…」
    「やめてくれ…自分でもわりと黒歴史なんだよ…、ちゃんと振られたんだから時効にさせてくれ…」
    「そんなにひどかったのか?悪いが付き合い方を考え直したい」
    「そこまでひどくねぇよ!ちょっとその、調子のってたっつーかイキってたっつーか…だってしょーがねーだろ!ギリギリ10代だったし向こうも23だったし、は、初彼女だったしで、ちょっとハメ外しても止めてくれる理性がお互いになかったんだよ!」
    「ほーう、では一番ひどい思い出は?」
    「……一番じゃねぇけど、服の話なら…」
    「言ってみろ」
    「…夜景の見えるレストランを予約したって言われたから、仕事帰りに作業着のまま直行して、入ろうとしたら止められたのを…支配人に凄んで押し切った」
    「それが一番じゃないだと…?」
    「……それをな、杉元くんカッコいいねっつってそのまま平然とフルコース食って帰るようなバカップルだったんだよ…フレンチを箸でな…」
    「ひっ…!」
    「だからぁ!今は反省も後悔もしてるし同じワダチを踏まねぇようにと思って俺は今日休みを取ったんだよ!手土産のことは知らなかったし調べもしなかったけどさ!」

    もう勘弁してください…と弱りきった声で言うと、杉元は机にひれ伏した。鯉登は気づかれないように少し笑った。からかいすぎたらしい。すっかりしおれた杉元が、スン、と鼻をすすったので、鯉登は笑いを収めて咳払いした。

    「杉元、いいか、今日買った菓子折はな、実家でもよく貰うし、大人なら甘いものが好きじゃなくてもなんとなく知ってるような定番の有名なやつだから、誰が見ても無難に選んだってことが確実に伝わるものだ」
    「…さすが、なんでもよく知ってんね」
    「私がすごいって話じゃない、ちゃんと聞け。だからこれを出せば向こうには、少なくとも一般的な常識くらいは身についてる人間なんだと一目で伝わるってことだ。前も言ったが、おまえは見た目は悪くない。今日私が選んだ服を着てこの菓子折を持って行けば、おまえの気にしなきゃいけない社交的な要素はほぼゼロになる」

    杉元がむくりと頭を起こした。そのふてくされたような顔にしっかり書きつけてやるような気持ちで、鯉登はびしりと指を突きつける。

    「こんな付け焼き刃でどうにかなるような要素なんか取るに足らん。今後も必要なときは私でも業者でもできる者に頼ればいい。そんなものよりアシリパの親にとって大事なのは、おまえの内面がどうであるかだ。いつでもアシリパの幸せや未来をまず考えて行動する、信頼に足る人間かどうかだ。そこは何も心配せんでいいんだから、上手くやろうとか何が正解とか無駄なことは考えんで、とにかくおまえは一生懸命やれ。おまえの選んだことなんだから、おまえのやることがすべて最も正解だ。安心して臨め。でもシナリオは忘れるな」

    杉元は何か言いかけて、けれどもぐっと口を閉じた。

    「…常識がないの、いつかバレるかもよ」
    「そんなものが必要なのは第一印象だけだ。バレる頃には、どうでも良くなってる」
    「そんなのわかんねぇじゃんかよ」
    「じゃあやってみればいい。どうせやるしかないんだし」
    「うぐ…」
    「さっさと腹をくくれ。そして私に美味い飯を食わせろ」
    「…そんなもんでいいのか」
    「なんだ、レンタル代でも請求すれば満足か?ちなみに明日着るジャケットは兄のお下がりだけど、いくらするか教えてやろうか」
    「え、あれそんな高いやつ…?ご、5千円くらいか…?」
    「3万だ」
    「ひ…!」
    「とは言えまあ5年くらい前のだし、レンタルするとしたら…」
    「鯉登くん鯉登くん!何が食いたい!?今日は俺なんでも奢るぜ!」
    「当たり前だ」

    ふん、とことさら偉そうに鼻を鳴らしてやると、杉元はようやく笑った。
    それから二人で鯉登のお気に入りの喫茶店へ行って、少し早めの夕飯を食べた。いつもは料理のセットとコーヒーのところを、今日はさらにポテトとケーキもつけてやった。杉元は、食いすぎだろ、とぶうたれたが、自分の方がたくさん頼んでいたのでスルーした。

    「この唐揚げうめぇなぁ。しっかり味がついてんのにしつこくないし、いくらでも食べられそう」
    「ザンギってやつだ。一昨日のランチだった」
    「あー、北海道のか。一個食う?」
    「うん」

    もぐもぐ食べながら鯉登は昨日白石に会ったことを話し、杉元はアシリパとのやり取りなどを大いに照れながら話した。杉元とは、出会った頃からずっと気は合わないし、好みや興味のあることも全然かぶらないが、だから喧嘩も日常茶飯事なので今さら気を遣うこともないのが楽だった。
    ふつりと会話が途切れたとき、杉元が少しためらいがちに言った。

    「…最近さ」

    鯉登は食べるのをやめないまま、黙って次の言葉を待った。

    「あんま、夢、みなくなってて」

    ごくりと自分の喉から音が聞こえた。ちょっと咀嚼が足りなくて、嚥下するには痛かった。

    「全然てわけじゃねぇんだけど、俺うたた寝でもガッツリみること多かったから、そういうの、最近なんか全然、なくなったなって気づいてさ」
    「夜は」
    「夜はまだみる。でもなんか、ホント、あんまみなくなってんだ。起きてほとんど覚えてないことも多いし。逆に、フツーの夢、みることも多くなってきた、気がする」
    「そうか」

    杉元はザンギをつつきながら、真剣な顔をしていた。嬉しそうでも悲しそうでもなかった。それが、鯉登には少し救いだった。

    「おまえはまだ全然?」
    「まあ、変わりない」
    「そっか」

    思うに、と杉元が言う。先は聞かなくてもわかった。

    「俺はたぶんアシリパさんに会いたかったんだ」

    はっきりとそう言う杉元は、どこからどう見たって爽やかな好青年だった。心根はまっすぐで、素直で優しい。頑固でロマンチストにすぎるところもあるが、それもこの男の魅力を損なうものではないだろう。

    「会えたから、もうみなくても良くなったんじゃないかな」

    杉元はいい奴だ。鯉登はよく知っている。
    気も合わないし、趣味も興味のあることも全然かぶらないし、今でも会えば喧嘩ばかりしているし、夢の中なんか殺し合っていたような気さえするが、鯉登はこのまっすぐな男をおおむね好ましく思っている。それどころか、誰にでも太鼓判を押して紹介できる人間だと思っている。
    だから、杉元が夢もみないでぐっすり眠って、新しい明日を始められる日がとうとう来たというのなら、それを喜ばしく思わない理由などない。
    けれども杉元は妙な顔をする。なんとも言えない顔をして、何か言いたそうに鯉登を見る。

    「なんだその顔」
    「え、なんだよ」
    「良いことがあったなら、いい顔をしろ。なんでそんなブサイクなんだ」
    「へん、モトからだい」
    「言っておくが、おまえは明日からが始まりだぞ。夢の話なんかしてる場合か?ルックスでカバーできるのは第一印象までだ。あとは自分で頑張らないと、最悪警察呼ばれるぞ」
    「…嫌なこと言うなおまえ」
    「最悪の事態をいろいろ想定しておけば、いざと言うとき対処できる。二度と会えなくなってもいいのか?」
    「…やだけど」
    「じゃあどうにもならん夢のことなんか放っておけ。おまえは明日のことだけを考えてろ。あと早く食え」

    鯉登がやいやい言うと、杉元は気に障ったように口をとがらせて、勢いよく食事を再開した。よしよし、と思う。
    優しすぎる幼なじみは、放っておくと人のことばかり考えて、自分の幸せを持ちあぐねてしまう。だからそうして怒っているくらいがちょうどいい。腹を立てて、目の前のことにしか集中できないくらいでバランスがいいのだ。

    「おまえも、なんかした方がいいんじゃねぇの」
    「なんだ今度は私の心配か?余裕だなあ、杉元。私はこれから卒論やら就活やらあるから、もうあんまりおまえに構ってやる暇ないからな」
    「え、マジか」
    「マジだ。白石でも頼れ」
    「やだよ、あいつ俺よりヤベェ奴じゃんか。俺でもわかるわ」
    「私から見ればどっちもどっちだ」
    「…おまえさあ、言っとくけど、おまえの方がヤベェ時けっこうあっかんな?」
    「へぇ、いつ」
    「わりといつもだよ」
    「具体的な状況が思いつかないなら、それはおまえの被害妄想だ」
    「ほらそういうとこ!」
    「冷静で理論的なところがか?長所としか思えない」
    「…もういいわ」

    杉元はようやくあきらめたらしい。今度こそ真面目に皿に向かい、きれいに平らげるまで余計な口をきかなかった。
    デザートとコーヒーまでしっかり味わって店を出ると、夏至を前にずいぶん長くなった日もすっかり暮れていた。先日、そいつが出てきた向かいの不動産屋は、今日はもう閉まっていて暗かった。

    「あ、もしかしてアレ?その人が出てきたの」
    「覚えてたのか」
    「いま思い出した。向こうからこっち結構距離あんのに、親切な人なんだな」
    「そうだな」

    確かに、よく見えたなと思う。でも先にじっと見ていたのはこちらの方なので、その視線で気づかれたのかもしれない。

    「その後会った?」
    「うーん」
    「え、何、どういう意味だよ」
    「いや別になんでもない。それよりおまえ早く帰ってしっかり寝た方がいいぞ。睡眠不足は頭の回転を鈍くする。ただでさえ鈍いんだから」
    「ちょっと、なんかあったんなら教えろよ。水くせぇだろ」
    「なんかあったら教える。なにもないから教えない。じゃあな」
    「あ、おい!鯉登!」

    さっさと歩きだした鯉登の背に、杉元の声が追いすがる。鯉登は止まらずに半分だけ振り返って、手を振った。

    「自分の心配だけしてろ」
    「…ずるいんだよおまえは」
    「知ってるだろうが」

    まだ何か言っている杉元に、鯉登は背を向けた。
    ずるい。確かに鯉登はずるい。
    杉元のことはなんだって聞くのに、自分のことははぐらかしてばかりいる。何もないわけではないのに、何かあったというほどでもない。なぜなら、鯉登は杉元と違ってこれからこの縁を繋ぐ気がないのだから、何もないことにしておきたいのだ。
    マンションが近くなると、なんとなく辺りを見回した。夕方の住宅街には、ほどよく人通りがある。行き交う老若男女が悲喜こもごもの表情で歩いていくのは、金曜だからだろうか。その中にそいつがいないことを確認すると、少しほっとした。マンションに着いて部屋のドアを開けるまで、今日はとうとう一度もそいつに会わなかった。
    閉めたドアに背をもたせかけて、鯉登は一息をついた。明かりもつけずに、暗い部屋をぼんやりと見つめた。
    会えたから。
    そう言った杉元が浮かぶ。
    夢はいつも残酷で、細部はすっかり忘れてしまうのに、恐ろしかったことだけは汗まみれの体が覚えている。夜中にひとり飛び起きたり、枕の色が変わるほど泣いていたことなんかざらにあった。なぜ起きたのかも、何に涙したのかもよくわからないのに、ただ胸を内側から焼かれるような激しい感情だけが残っている。
    気持ちのいい夢ではない。眠るのが億劫になるほど夢見は悪い。いつもいつもみるわけではないことだけが救いだ。それでも、気が変にならないのは不思議だった。もしかしたら、もうとっくにおかしいのかもしれない。
    だから、そんなものをみなくて良くなるのなら、それはきっと良いことなんだろう。この夢の暗示する何かを解決したら、みなくなるのではないか。杉元と二人で調べ回っていたときには、そういう結論にたどり着いたこともあった。
    しかし、鯉登はそれを考えない。
    会えたから。
    杉元が言う。
    この夢に何か意味や目的があるのだとしたら。
    鯉登は靴を脱ぎ捨てて部屋へ上がる。明かりをつけると、暗闇は一瞬で消えた。
    その意味や目的を考えることは、何かの蓋を開けることのような気がした。これを開ければきっと自分が大きく変わってしまうという不安が、重石となっていつも必死にそれを抑えている。
    杉元のように会えただけでは消えなかった鯉登の夢は、ではこの夢のまだ見ぬ行方は、果たされなかった願いなのだろうか。この蓋を開けて、何も知らないそいつを鯉登の人生に巻き込んでしまえば、夢みた本当の願いは果たされ、いつしか血なま臭い夜とも決別できるというのだろうか。
    鯉登には、そいつの幸せはおろか、自分の幸せさえ今はまだどんなものかもわからないのに。
    何も確かなことはない。不思議な夢が現実と何か関係があるなんて誰にもわからない。もしかすると杉元や他に出会った者たちも、鯉登に合わせてくれているだけなのかも。本当はやっぱりすべて鯉登の妄想で、実際には何もないのかも。そっちの方が、あるいはよほど現実的だ。
    それでも、そいつが生きているということは、たった一つの確かな事実として鯉登の前にそびえ立つのだった。

    ###

    むっとした臭いが立ち込めているが、それが何の臭いなのかわからない。無意識に鼻をこすると何かがついた気がして手を見てみたが、暗くて黒くてよくわからなかったのでとりあえず軍衣へこすりつけた。どうせこれはもう捨てるしかない。いつまで着ていなくてはいけないのかと少しだけ考えた。顔だけでも洗いたいが、どこにも水の気配がない。
    うめき声が聞こえたので、探してとどめを刺した。さっきからこればかり繰り返している。靴が重い。底が粘るような心地が鬱陶しかった。もう向かってくる者はいなくなっていたが、一匹残らずと言われているので、鯉登は舎房の中まで慎重に見て回っては息の根を止める。

    「鯉登少尉殿、どこですか」

    聞き慣れた声が聞こえた。耳の中に空の袋を詰められたような感覚が邪魔をして、音は聞こえるのにそれがどこから聞こえてくるのだかわからない。足をとめてきょろきょろと見回していると、後ろから腕を掴まれた。

    「こっちです。大丈夫ですか」
    「ああ、そっちだったか。耳が」
    「お怪我はありませんか」
    「ない。中尉殿は」

    刀を仕舞いながら振り向くと、そいつはなんだか変な顔をしていた。

    「中尉殿はご無事です。病院へ向かわれました。我々も追って来いと」
    「わかった。行こう」
    「少尉殿、大丈夫なんですか」
    「何がだ?おまえこそ大丈夫か」
    「は」
    「顔が変だ」
    「もともとこうです」
    「そういう意味じゃない」

    歩き出そうとすると、掴まれたままの腕を引かれた。仕方なくもう一度そちらを見下ろすと、やはり妙な顔をしてこちらを見ている。

    「なんだ、中尉殿に呼ばれているのだろ」
    「…平気そうですね」
    「平気で悪いか?」
    「いえ、ご立派です」
    「ふん、初陣のボンボン少尉を慰めにでも来たつもりだったか?補佐役の鬼軍曹殿には悪いが、覚悟の足りない新米少尉を叩き直すのは、次までお預けだな」

    鼻で笑ってやると、そいつもほんの少しだけ頬を緩めたらしい。ようやくいつもの顔に戻ったように見えた。やっと腕が自由になったので、その手を大きく振りかぶった。

    「いてっ」
    「行くぞ、月島軍曹」
    「なぜ叩いたんです…」
    「姿勢が悪いからだ、シャキッとしろ」
    「はあ?」

    途端に物騒な目をして睨み上げてくる歳上の部下に笑いがこみ上げるが、鯉登はそれをすっかり飲み込んで涼しい顔のまま歩き出した。こいつは日頃から表情に乏しい奴だが、感情の抜け落ちたような顔は珍しい気がした。状況が状況なので気が立っているのは鯉登自身も自覚していることだったが、そいつは瞳の鋭さに反して表情は凍りついたように静かだった。なんとなくその顔が気に入らなかった。元に戻って何よりだ。
    累々と敷き詰められた人間を踏まないように歩くのはとても面倒だったが、踏んで転んでこれ以上汚れるのは御免こうむりたいので、慎重に避けながら歩いた。

    「この後は」
    「中尉殿からは病院へ来いとしか聞いてませんが、そこで何か仰せつかるかもしれません」
    「そうか。鯉登閣下は、戻られたか」
    「中尉殿とお話されたあと、一緒に駆逐艦へ戻られました」
    「そうか」

    少し話ができたらと思ったが、お互い任務中なので仕方がない。ようやく鶴見へご恩返しの端緒を開けたことを報告したかった。

    「少尉殿のお話をしておられたようですよ」

    後ろからそいつが言った。律儀にも、いつもより大きな声で話してくれる。

    「本当か」
    「お名前が聞こえました。内容まではわかりませんでしたが」
    「お叱りでないなら、なんだっていい。お二人に名を呼ばれるのはいつでも嬉しい」

    少し心が浮き立つような気がして、口の端がゆるんだ。
    そのとき、左の耳がかすかな物音を捉えた。今し方通り過ぎた左後方の位置、戸板が細く開いていた、あそこか。
    それが意識に上る頃には、鯉登はすでに抜刀して駆け出していた。

    「少尉殿!」

    人間の手やら足やら、頭さえ構わず踏み潰し、たどり着いた舎房の戸板の後ろには、怯えきった顔の老いた囚人がいた。しかし、鯉登がその表情を認識したのは、はねた頭が足元に転がってきた後だった。何か言いかけたような中途半端な口元を見下ろすと、首から噴き上がった血が頭や首筋に降りかかった。軍刀の斬れ味が最悪だな、と思った。

    「少尉殿、大丈夫ですか」
    「おまえはさっきからそればっかりだな。何ともない」
    「…まだ残っていましたか」
    「隠れていたようだ。賢明だな」

    刀を鞘に収めると、鍔の音が独房に響いた。今ので致命的に刃こぼれしたのがわかったので、次はもう一息に首をはねるのは無理だろう。この囚人は運が良かった。首を伝う生温かい血を手のひらでぬぐうと、また軍衣にこすりつけた。

    「宿に寄る時間はあるだろうか、病院へ行くのならなおさらこの格好ではいかんだろう」
    「急げとは言われておりません。そのくらいは良いでしょう」
    「風呂に入りたい」
    「それは我慢してください」
    「拭くだけでは、髪についた血が取れないかもしれん」
    「切りますか」
    「…だとしてもおまえには任せんわい」
    「そうですか」

    舎房を出ると、冷たく澄んだ空気を深く吸って吐いた。まだこちらまでは延焼していないが、燃えている方にはどす黒い煙がもうもうと立ち昇っている。天井が高いせいか、中にいるとそこまで息苦しさを感じなかったのに、外に出てみると途端に体が軽くなった。

    「もうすぐ軽傷の者を乗せた艦が出ます。そちらに便乗しましょう」
    「…船か」

    とたんに気分が重くなる。さっきは高揚していたのでそれどころではなかったが、今は疲労に加えて感覚が鋭敏になっているので絶対に酔ってしまうだろう。それに。血に塗れた手のひらを見下ろす。

    「しばらくの辛抱です。そこまでひどく酔う前に着くでしょう」
    「わかっている。みっともなく吐いたりなどしない」
    「甲板で吐く分には構わないのじゃありませんか。まだ暗いですし、きっと誰も見てません」
    「…甲板には行かない」

    それだけ言うのがやっとだった。かたい地面は歩きやすく、早足に進めばそいつを隣に並ばせなかった。前ばかり見て歩いた。
    突入する時に瓦礫の山にした外壁を乗り越えると、河岸に駆逐艦が一艘待っていた。もはや乗り込む者の姿はなく、甲板には数名の水兵がきびきびと働いているのが見えた。鯉登はそちらを見ないようにして乗り込んだ。すでに胸がずっしりと重たく、妙な味のするものがせり上がってくるのを何度も飲み込んだ。できるならば、血まみれの手を洗い流したい。首や髪で固まりかけている血の臭いが、視界をどんどん狭くしてゆく。

    「少尉殿、船室へ」
    「…どっちだ」
    「こっちです」

    狭い通路でそいつがするりと鯉登の前に出ると、先に立って歩きだした。鯉登は姿勢を保ちながら口に手を当てないようにするので精一杯で、何も考えずにその背を追いかけた。
    寝台が上に3台も重なった扉のない船室をいくつか通り過ぎながらしばらく行くと、体を屈めないとくぐれない小さな扉が並ぶ所まで来た。そいつは、迷いなく一番手前の扉を開けた。室内を覗くと、作りつけの寝台と机が一つずつあるだけでいっぱいの狭い部屋だった。壁に穴が空いているだけの棚には、本が数冊入っている。どう見ても誰かが日常的に使っている部屋のようだった。

    「この部屋を借りましょう」

    そいつがあっさりと言ったので、鯉登は少し驚いた。

    「誰かの部屋だ」
    「今はいません。戻られたら、私がお話します。扉の前におりますので、少尉殿はお休みください」
    「しかし」
    「その顔色で歩き回れば、皆が振り返りますよ」

    お休みください、と繰り返した月島は、有無を言わさぬ迫力で鯉登を部屋に押し込んだ。体が全部入るやいなや、危うく背中にぶつかりそうなほど素早く扉を閉められた。すれすれだった。
    改めて部屋を見回すと、明らかに誰かの所有物と思われる物がそちこちにあり、加えて本や資料の題を見るに、果たして陸の軍曹風情が話して聞いてもらえるような位の方であろうかとひやりと思った。けれども、その時ちょうど出航したらしい艦がぐらぐらと揺れたものだから、鯉登はもう立っていることもできなくなってその場にうずくまった。

    「くそ…」

    尻をつけた床が不安定に揺れる。確かに足をついているのに、浮いているような頼りなさがどうしても慣れない。気持ち悪い。えずくのをこらえて口元を覆うと、血の臭いが鼻腔に満ちた。感覚を閉じてしまいたくてかたく目を瞑れば、待っていたとばかりに見たこともないはずの景色がはっきりと眼前に広がった。

    灼熱の甲板で、白い手が、頬が、焼けていく。
    おかえりと言えばきっと優しく頭をなでてくれたはずのその手。
    微笑んでただいまと名を呼んでくれたはずのその面差し。
    血の臭いがまとわりつく。
    揺れる甲板の上で大好きだった優しいあたたかい兄が、惨たらしい姿をさらしている。
    これは何かの罰なのか?
    兄が一体何をしたというのだ?
    船が揺れる、血だまりが無感動に兄を飲み込んでゆく。
    安易な安らかを願うことさえかなぐり捨てたくなるほどの凄惨がそこにある。
    どんな言葉もどんな感情も意味がない。希望など一瞬でも持つことのできない絶望を見つめながら、軽々しく踏み潰された大切な、たった一人きりの兄。
    かける言葉が、持ち得る感情があるというのか。ただもう泣き喚くしかできない無力に視界が歪む。
    ああ早くはやく、そこへ行かなくては。
    一瞬で燃え尽きる生、なぎ払われる命。無明の絶望を叩きつけられる戦場へ、焼けつく地獄へ行かなくては。
    同じ景色を見なくては、同じ場所へ行かなくては、
    こんなきれいな手をしたままじゃ、
    鯉登は兄を悼むことすらできない。

    「少尉殿、水をもらってきました」

    扉につけた背中がふいに支えを失い、はっと目を開けると、隙間からぬっと水筒が差し出された。片手で口を押さえたまま、なんとかもう一方を伸ばしたものの、さっきまでまざまざと見えていた景色がちかちかと視界にちらついてよく見えない。しかし、部下に無様な姿を見せるわけにはいかないと、何度か掠めながらどうにか水筒を掴む。突き出た手を押しやって追い出すと、なんとか扉を閉める。けれども蓋に手をかけ開けようとするが、細かく震える指先に力が入らなくて開かない。そうこうしている内に滑り落ちて床がひどい音を立てた。あ、と思った瞬間、また背中の扉が開いた。

    「大丈夫ですか」

    今度こそ隙間から顔を出したそいつは、こちらを一目確認するやいなやどかどかと部屋へ入ってきた。ならばもう仕方がないので、鯉登は無言で水筒を拾って押し付けた。勘のいい先任軍曹は、何も言わずに受け取ってがちゃがちゃやってくれる。もはや強めに口を押さえつけていないと、えずきそうだった。

    「開きました、どうぞ」

    せめて震えだけは見せぬように、前に膝をついたそいつから水筒を引ったくって、酒瓶よろしく流しこんだ。冷たい水は、口の中や体の真ん中を清めていき、ひどい幻覚を束の間押し流した。

    「行きは大丈夫だったのに」
    「…うるさい」
    「眠れるならその方が良いのではありませんか」
    「すぐ着くだろう」
    「起こしますし、すぐ降りなきゃいけないわけでもないでしょう」

    眠れるわけがない、と思ったが、これ以上問答をする気力も余裕もなかったので、その場にごろりと横たわった。と言っても体を伸ばせるほど広くはないので、四肢を折って胎児のように丸くなった。

    「枕を借りますか」
    「いらん」
    「では、これを」

    頭の下に何かが差し入れられた。臭い。血と硝煙の臭いが染み付いている。思わず目を開けて見ると、そいつがいつも着ている外套が丸められていた。

    「…くさい」
    「申し訳ありません。でも頭は高くした方が良いかと」
    「…これに戻すかもしれんぞ」
    「どうせ洗います」

    淡々と答えるそいつの声を聞いていると、なんだかどうでもよくなってきた。本人が良いと言うのだからもうどうにでもなろうと頭を下ろし、改めて目を閉じると今度はちゃんと暗くなった。同時に泥のように体が重いことに気がついた途端、急に眠くなった。部下の前でだらしない、と思う気持ちが、寝入り端に無理やり口を開かせた。

    「…着いたら、ちゃんとやる」
    「は、お願いします」

    言わない方がいいようなことを口走ってしまったような気がしたが、なおも動じぬそいつの返事を聞くとやはりどうでも良いかという気になった。意識してそうしてくれているのだろうか、そうだとしたら、本当によくできた部下だな、と感謝した。それで鯉登はすっかり安心してしまって、すとんと眠りに落ちた。

    ###

    杉元から、上手くいった、いきすぎなくらい上手くいった、という連絡があって、お礼とその顛末を話したいと翌週の水曜日に会った。杉元ははじめから終わりまで本当に清々しく笑っていて、見るからに幸せそうだった。アシリパの父親は拍子抜けするほど話の分かる男で、杉元をとても歓迎してくれたそうだ。そういうシナリオにしたのは鯉登なのだが、頭から信用されるとそれはそれで大丈夫なのだろうかという気もした。けれども、今度キャンプに行ってバーベキューをするんだ、と嬉しそうに話す杉元に毒気を抜かれ、まあ警察の世話になるようなことは本当に何もないのだから別にいいかと思い直した。一緒に来ないかと誘われたが、丁重にお断りした。すでに白石は来るらしいと言うので、こんなゴリゴリの男ばかり三人もやって来たら、さすがにたいていの少女の親は引くだろう。それに、鯉登も今年の夏休みは何かと忙しい。

    「就職すんの?」
    「院に行くか決めかねてる。親の意向もあるしな」
    「どうせ好きにしろっつーんじゃねぇの?おまえんとこは」
    「まあ、たぶん」
    「じゃあ、頭のいい奴は世のため人のためにしっかりその頭を使ってくれ」
    「善処する」

    鯉登自身はもう少し院で研究し尽くしたいと思っているが、金の話があるので親の意見を聞かずには決められない。早くに片親を亡くした杉元にくらべれば、鯉登は父母も兄もかなり大きな企業に勤めている上、皆が末っ子の鯉登に投資したがるのでまったく金には困ったことがない。そうかと言って、他人の金をあてにして自分の進路を勝手に決めてしまえるほど厚顔無恥にはなれない。愛する人から惜しみなく与えられる愛には、できる限り誠実で返さなくてはならないと思っている。

    「アタマなー、アシリパさん、めちゃくちゃ賢いんだよなあ。なんかその、地頭がいいっつーかさあ…馬鹿がバレたら遊んでくれなくなるかなあ…」
    「え、当然もう知ってるだろ。まさか隠してるつもりなのか?」
    「てめぇマジでぶっ飛ばす」
    「あー無理無理」
    「やるかあ?」
    「やらんわ」

    それからしばらくやいやいと言い合ったりテーブル越しにどつき合ったりしながら、杉元はいつも通りぐいぐいビールを飲み、鯉登も遠慮なく酒や焼酎を飲んだ。はじめにどんなに真面目な話をしていても、結局いつもの居酒屋で飲み出すといつも通りの二人になっていく。これが腐れ縁というものなんだろうと鯉登は思っている。
    ところが、いい具合に出来上がってきた頃、ふいに杉元が黙り込んだ。それから、何か言いたそうにあーだのうーだの唸りだした。

    「なんだ、吐きそうならトイレへ行け」
    「ちげぇよ」
    「もう眠いのか?」
    「ちげぇ…」
    「じゃあなんなんだ」

    鯉登が痺れを切らして促すと、杉元はなおも言いにくそうに何度か唸ってから、鯉登の視線を避けるように顔を逸らしてようやく口火を切った。

    「…やっぱ、ちゃんと会った方がいいよ」

    ぶっきらぼうに杉元が言う。大事なところを言わないからなんのことだかわからなければ良いのに、鯉登にはそれでなんのことを言っているのかわかってしまう。店内の喧騒が突然大きくなったような気がした。

    「おまえはもういいって言うけどさ、夢、まだ全然みるんだろ?俺さ、マジでみなくなってきてんだよ。やっぱり、意味あったんだよ。ちゃんと叶えないと、この先もずっと変な夢みながら生きてくことになるよ」
    「そんなの、今までと変わらないじゃないか」
    「変わるよ、だって、おまえ一人になっちゃうだろ」

    鯉登は、すぐに二の句が継げずに瞬きをした。

    「…別に平気だ」
    「おまえのことは知らねぇよ。おまえが一人になるのは、俺が我慢ならんの」

    杉元は至極真面目だ。こいつはいつでも真面目だ。鯉登はそれを、ずうっと知っていた。

    「それはもう概念の話だな、いつからそんな小難しい話ができるようになったんだ?」
    「茶化しても俺は諦めないからな」
    「そうは言っても、おまえと私じゃ相手のスタンスが違いすぎるだろう。向こうは私のことなんか知らないんだ。無関係の他人だ」
    「一回しゃべってるんだから、もう無関係じゃないだろ」
    「屁理屈だ」
    「いやでも、近くの不動産屋にいたなら、もしかしたら案外同じマンションに住んでるかもよ」
    「そんな都合の良いこと」

    あるわけないのに。なんて勘のいい奴なんだ。鯉登は思わず目を逸らしてしまった。わりと目敏い杉元は、それを見逃さなかった。

    「え、もしかして住んでんのか!?」
    「そげんこつあっわけなかろ、何ば言ちょっとじゃバカタレ」
    「ほらぁ方言!方言出てる!慌ててんじゃん!なあ住んでんの!?会ったのかよ!?」
    「会っとらん住んどらん!知らん!酒持ってこい!」
    「よーし今日は潰してゼッテェ吐かせっかんな!すませぇーん!黒霧島のロック!」
    「おまえなんかに潰されっかい!やりたきゃジョッキで持ってこい!」
    「吠え面かくなよ?ゼッテェ吐かす!」
    「ないもなかち言ちょっ!絶対吐かん!酒じゃあ!」

    店員が迷惑そうに持ってきたジョッキを割れんばかりにぶつけ合い、かくして闘いの火蓋は切って落とされた。
    そしてその数時間後、鯉登はほとんど眠っている杉元を肩に巻きつけて暗い夜道をズルズル引きずっていた。タクシーに乗せても金も出せそうにないし、このまま一人暮らしの家に帰ってどうにかなったりしても寝覚めが悪いので、仕方なく家に連れて帰ることにしたのだ。噴き出す汗と重さに辟易しながら、この勝負における勝者のメリットがなさすぎたことを今さら後悔したのだった。

    「あー重い…」

    かろうじて足が動いているという程度で、ほとんど鯉登に頼りきっている杉元は、もはや何を言っても寝言みたいなことしか返さない。体の片側しか支えられないので、滑り落ちないようにするので精一杯の亀の歩みも遅々として進まない。こんなことなら、大通りを逸れてマンションへの近道に入る前にタクシーを拾えば良かったのに。鯉登だってしたたかに酔っていたので、その時はまったく思考が至らなかったことが悔やまれた。
    ふうふう言いながら、ゴミ袋が積み上がったゴミ捨て場を横目に通り過ぎる。可燃物のみが満載されたたくさんのゴミ袋は、どれも丸く膨らんでいて柔らかそうに見えた。いや、もういっそこのゴミ袋のベッドにそっと寝かせて行っても、あるいは杉元宅の煎餅布団よりもふかふかでいいのではないか?と真面目に考えてしまった時。

    「…あの、手伝いましょうか」

    うなだれた杉元の横からひょこりと、そいつが顔を出した。

    「お友だちですか」
    「…あ、いえ…、あーはい、まあ、腐れ縁、ですかね」
    「じゃあそこのゴミ捨て場に捨ててったら、寝覚めが悪いですね」
    「え」

    一瞬よぎった考えをなぞるようなことを言われ、思わずぎくりと足を止めてしまった。そいつはちょっと笑うと、大根みたいな杉元の腕をひょいと肩に巻きつけた。鯉登の肩から一気に重さがなくなった。
    そのままさくさく歩き出したそいつに、鯉登は大いに慌てた。

    「や、やや、よかどんよかどん、あ、いやいいです、いいです」
    「どうせ同じとこへ帰るんですから、手伝いますよ。持って帰るんでしょ」
    「じゃっどんご迷惑、あーちご、ご迷惑、ですから、本当に」
    「失礼ですが、ご出身、九州ですか」

    そいつがさらりと矛先をかえた。もう聞く耳を持たないというさりげなくも頑なな意思が伝わってきたので、鯉登はもう仕方なくそれ以上食い下がるのをやめてしぶしぶ前を向いた。杉元からはもはや寝息が聞こえてくるので、それだけは良かった。こんなところに居合わせたら、このお節介は何を言い出すかわかったものじゃない。

    「…鹿児島です」
    「いつからこちらに?」
    「あー、小学校の途中から」
    「どうりで、標準語のときは全然わからないですね」
    「こちらでは通じないので」
    「忘れないものですか」
    「家族がみんな訛ってると、なかなか抜けませんね」
    「ああ、仲が良いんですね」
    「そうですね、私は家族を愛してますし、家族も私を大事にしてくれます」

    鯉登はありのままに答えた。これまでも、家族と連絡を取り合っていると、同じように言われることがよくあった。鯉登は自分の家族の形しか知らないので、いろいろな家族がいるのだろうなと想像することしかできない。だからと言って自分が恵まれた家庭にあることを恥じることも謙遜することもないと思っているので、たとえその問いかけに揶揄が含まれているとわかっても、鯉登はいつも心のままに答えている。

    「…そうですか」

    その時、杉元が身じろぎしてずり落ちかけた。鯉登とそいつは同時に手を出し、それが見事にあっちとこっちを支えたので危なげなく受けとめることに成功した。思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

    「ファインプレーですね」
    「はは!ゲッツーか!」
    「そうですね」

    そいつは笑うのに慣れていないみたいに、顔をくしゃりとしわだらけにした。
    ズルズルやりながら、マンションまでぽつぽつ話しながら歩いた。そいつは北陸の方の生まれだと言った。

    「方言ありもすか」
    「もす?」
    「もす!」
    「方言ですか、うーん、なんだろ…、あんしゃととくそもんらしけだちかんわ。とかですかね」
    「…なんち?」
    「あの人はそそっかしいので良くないなあ、みたいな意味です」
    「はは、そそっかしいとクソですか」
    「だいたいクソですね」
    「それなら、あんしはやぞろしかでやっせんじゃ。ですかねぇ」
    「同じ意味ですか?」
    「だいたいは」
    「…クソじゃないんですね」
    「はは、そうですね、「ととくそもん」のおかげで大変なことでもありましたか」
    「…話題を変えましょう」
    「わははは!」

    アルコールのせいか、足取りも感情も浮いているように軽い。そいつも口下手そうな見かけによらず意外と気さくに話すものだから、会話が途切れないままあっという間にマンションのエントランスを通りエレベーターホールまでたどり着いてしまった。呼び出しボタンを押してからTシャツの肩口で汗をぬぐうと、そいつも流れる汗をハンカチで拭いていた。ぱちりと目が合うと、汗みずくの顔を見合わせているのがなんだかおかしくて笑ってしまった。

    「汗だくにしてしまいました、すみません」
    「いえ、もう帰って寝るだけですから」

    いい奴だなあ、と思う。こうしていつでも他人に手を貸し、汗をかくことを躊躇わない。鯉登の印象は良くないはずなのに、それをおくびにも出さない気遣いまで見せる。
    エレベーターが到着したので、7階と8階を押す。相変わらず杉元はぐっすり眠っている。

    「本当に助かりました。ありがとうございました」
    「いいえ、帰り道でしたから、気にしないでください」
    「今度」

    何かお礼を、と続けそうになり、鯉登は一瞬口をつぐんだ。継続的に接点を持つのは良くないのではないか?しかし、これだけしてもらって何もなしでは、あまりにも信条に反するので気持ちが悪い。隣人の距離感がいまいち掴めずに、逡巡ののち鯉登は無理矢理言葉を継いだ。

    「…何か困ったことがあったら、私に手伝わせてください」
    「はは、斬新なお返しですね。わかりました。その時は、遠慮なくお願いします」
    「はい、ぜひとも」

    エレベーターが停まる。そいつが杉元の腕を離すと、鯉登が担ぎなおすのを手伝いながら、エレベーターを出るまでさりげなく支えていた。

    「本当にありがとうございました」
    「いいえ、お気をつけて」
    「はい、おやすみなさい」
    「おやすみなさい」

    杉元が重くて頭を動かせないので、ほとんど目だけで礼をすると、そいつも会釈を返していた。律儀だ。
    ドアが閉まるのを確認して、再び一人で筋肉ダルマを引きずる。たぶん杉元の靴は大変なことになっているのだろうが、そんなことを構っていられないくらい重いのだから仕方ない。さっきよりもずっと重いような気がするが、気分が悪くないせいで不思議とすいすい歩けた。それでも、部屋の鍵を開けて中に入り、廊下に杉元を投げて自分も倒れ込むと、疲れがどっと押し寄せた。しこたま飲んでから重労働したせいか、久しぶりにアルコールが回るような感覚もあり、強烈な眠気に襲われて目を閉じた。こんな玄関先で寝たくない、と考えながらも、体はストライキしているみたいに意思でもって動かせない。出がけにつけっぱなしにしておいた冷房が廊下の方まで漏れ出していて、そこまで暑さを感じないのも拍車をかけた。杉元が、うーん、と唸りながら仰向けに倒れた鯉登の腹に腕を巻き付けたので、もうこれを言い訳にして大人しく眠気に従うことにした。
    うつらうつらしながら、あのくしゃくしゃの顔を思い出した。あまり会わないように遅く帰らないようにしないとな、と考えた。

    ###

    大学の食堂の片隅で大きなため息をついた。なぜだ。目の前のアジフライ定食が手つかずのまま冷めていくのに、食べる気になれない。
    あれから鯉登は、なるべく早めの帰宅を心がけた。何事も早めはやめに手をつけ、無駄に帰宅を遅らせないよう、教授の手伝いも自身の研究もいっそう集中して取り組んだ。その結果、夏休みに入っても早寝早起きが定着し、余暇を効率よく過ごすために家事のスキル向上を図ったおかげで心身ともに健康になり、これまで以上に充実した日々を送れるようになった。この頃は、ベランダで野菜を育ててみようかなあ、などと考えているほど心に余裕がある。
    しかし、そいつとの邂逅に関してはまったく余裕がなかった。
    つまり、頻繁に出会ってしまうのだ。なぜか三日と空けずに、それも会うはずのない時間や場所で。
    力を合わせて筋肉ダルマを運んだ翌日からこちらマンションの敷地内は言うに及ばず、ふらりと立ち寄ったコンビニでは後ろから声をかけられ、道端でほどけた靴紐を結んで顔をあげたらちょうど横を通りかかり、書店をぶらぶらしていてたまたま気になった本に伸ばした手がぶつかり、電車でつり革につかまれば前に座っている。しまいには、落ちていたSuicaを交番に届けたらそいつがいたのだから、もうそんなもの避けようがない。その時は前のお礼とチャラにしてくれと固辞して退散した。
    なぜだ。鯉登はこめかみをギリギリ締め上げて脳をフル稼働させる。しかし答えはまったく出ないし、回避する妙案も思いつかない。こうなってはもはや何故こうまで頭を悩ませて避けねばならないのかすらよくわからなくなってくる。
    いや、しかし屈しているわけにはいかない。鯉登は猛然と頭を上げると、箸を取りあげて力強く合掌する。何事も空腹で事態が好転することはないと鯉登は信じている。ガシガシ飯を掻き込みつつ、負けるものかと決意を新たにする。
    どうやらこの不可解な夢という奴は、どうしても鯉登とそいつを引き合わせたいらしい。そういう何か人智の及ばない力が働いているとでも思わなければ、あり得ないほどの偶然が重なりすぎている。そろそろ向こうだっておかしいと思うはずだ。しかし、これはおそらく鯉登の方に要因のある超常現象であるので、鯉登自身にさえ制御できていないのだから、ましてそいつの意志などまるで尊重されない確率が高い。人一人の人生において、そんなことは一瞬たりとも許されるべきではない。
    米粒、味噌かす一つ残さずすべての皿をきれいにすると、鯉登は箸を置いて再び手を合わせた。響く柏手の音で腹を決める。
    負けるものか。自分の人生も、そいつの人生も必ず守ってみせるぞと意気込んだ。

    それから一ヶ月、鯉登は頑張った。
    夏休みで時間の決まっている講義がないのをいいことに、活動時間を大幅に前倒ししたのだ。出かける予定のある日は早朝の5時には家を出て、平日なら確実にサラリーマンが帰って来ない真っ昼間に帰宅する。早朝に家を出てしまうから時間をつぶすのは大変かと思われたが、読まなくてはならない資料や論文などはいくらでもあったので、むしろ普通に生活していたら読みきれなかったかもしれないものまで手をつけることができて、かえって有意義な時間となった。
    それに何より夏の早朝は格段に涼しい。過ごしやすい気温のうちに移動してしまうのは、とても気持ちが良かった。何事も多角的に俯瞰すれば、必ず良い面を捉えることができるということを身をもって知った。これはきっと今後の人生において、大いに役立つ知見であろう。
    また、予定もなく休みにしようと決めた日は、ベランダからそいつの出勤を確認したあとに家を出るようにした。あまり勝手に他人の生活を暴くような真似はしたくなかったが、出勤確認だけはお互いの安寧のためにと目を瞑った。その際も、洗濯物や布団を干したり、天気を確認するふりをしながら万が一見られても不審ではないように装った。
    それでも土日はどうしても行動パターンが不規則になるため、一度だけエレベーターで一緒になってしまったこともあったが、他の住人がいたので会釈だけで済んだ。鉢合わせても、他人が間にいればそう気にすることもないと学習した。
    とても良い調子だった。
    相変わらず夢はみるが、この調子でいけば、このしつこい幻影も夏休みが終わる頃までには諦めて消えてくれたりはしないだろうかと考えるほど、鯉登は舐めきっていた。出会ってしまうと言っても、こんな刹那的な邂逅を重ねたところで何が変わるものかとたかをくくっていたのだ。
    それを思い知ったのが、夏休みも折り返した週明けの火曜日、雲一つない濃厚な青空と太陽の照りつける昼過ぎに、買い出しのためにマンションを出て植え込みのそばにうずくまっているそいつを見つけてしまったときだった。
    地面のコンクリートと同じような色をしたスーツの背中が目にとまり、すわ熱中症の行き倒れかと119のためのスマホを取り出しながら何気なく近づいてみると、そいつだった。鯉登は慌てて駆け寄った。

    「だっ、ど、どげんした!?大丈夫か!?わかっか!?」
    「…あ、どうも、こんにちは」
    「なあにを呑気に言ちょっか!気分の悪かか!?怪我なかと!?すぐ救急車呼ぶち、とにかく屋根んとこ入るぞ!」
    「いえ、だ、大丈夫、大丈夫です…救急車、いらんです。ちょっと熱が、目眩がしただけなので…」

    スマホを持った手をがっしり掴まれて阻まれる。しかし、その手のひらは、夏の炎天下ということを差し引いても熱かった。それなのに変に乾いている。この暑いのに。鯉登は部屋を出た時点で汗が噴き出しているというのに、そいつは先日のような滂沱の汗とは違い、刈り上げた額に脂汗のようなのをにじませているだけだった。なんとか立ち上がろうとする顔も蒼白で、いまだ熱が上がりきっていないように見えた。
    鯉登は、そいつの脇の下から腕を回してしっかりと背中を支えると、ぐっと立ち上がった。思ったよりずっしりと重くて、ふらつきそうになったのを堪えた。そいつは、ぎょっとしたように目を剥いてこちらを見た。

    「手伝う」
    「いえ、いえ大丈夫です、一人で行けます」
    「困った時に手伝う約束じゃったどん、今がそん時や思う」
    「どこか行くところだったんじゃ…」
    「ただの買い出しじゃ、気にせんでよか。支えちょっで、歩けっと?」
    「…はい、どうも、すみません」

    そいつは鯉登の肩を借りつつも、自力で歩いた。意地というか精神力というか、立ち上る気合みたいなものを感じた。こいつは一体何をそんなに気張っているのだろうか、とふと思った。
    エレベーターは鯉登が降りてきたままだったので、すぐに乗ることができた。けれども、8階のボタンを押した途端、そいつは鯉登の肩から降りようとした。

    「…あとは、大丈夫ですので」
    「じゃっどん」
    「本当にもう大丈夫ですから、ありがとうございます」

    確かに部屋までとなると、少し気が引けた。親交のない人間のプライベート空間に踏み込めるほど無神経にはなれない鯉登は、それ以上食い下がれずに仕方なく手を離した。そいつは鯉登をエレベーターから押し出すと、手すりにつかまったままぺこりと頭を下げた。平生はぴしりと背を伸ばしてまっすぐ立っているところしか見せないそいつが、自重を支えきれていない姿は目に余った。口を出さずにいられなかった。

    「ないか届けっか?」
    「…お気持ちだけで。ありがとうございました」

    扉が閉まるまで顔を上げていることもできずに、ぐったりとうなだれるのが見えた。かなりやばそうだと気を揉むが、他人にできることはもうないのは事実だ。鯉登は、ざわざわと毛羽立つような心配をなだめながら、踵を返した。この落ち着かない気持ちは、果たして自分自身から湧き出るものであるのか判別がつかない。振り切るようにマンションを出た。今は答えの出ない問いを無為に繰り返しても仕方がない。当初の予定通り買い出しに行くことにした。
    よく行くスーパーは、マンションから歩いて10分かからないところにある。大学の通り道にあるのでたいていは帰りに寄るのだが、夏休みは毎日大学へ通うわけではないので休みと決めた日に出ることにしていた。寄る日が不規則なので特売日などを狙って行くことはないが、今日は夏休みの特売をやっていた。スポーツドリンクやアイスが安くなっているのを見て一瞬そいつの顔がよぎったが、まああの様子なら誰か頼れる人を呼ぶだろうと通り過ぎた。だって、とても一人で必要なものを買いに出られるような様子ではなさそうだったから。
    そしてそれを後悔したのは、すぐだった。
    買い物袋を両手に提げてマンションの通りまで歩いてくると、さっきそいつがうずくまっていたのと同じ場所に座り込んでいる男がみえた。杉元みたいに帽子を目深にかぶって、部屋着みたいな軽装で植え込みの石垣に寄りかかっている。近づくにつれて小走りになり、帽子の下が坊主だと目視で確信できる頃にはブンブン揺れている袋の中に卵が入っていることも構わずに走っていた。

    「おい大丈夫か!?なんばしちょる!?誰か来っとか!?」
    「…あー、いや、家に何もないので…買い物に…」

    だるそうに顔を上げたそいつは、帽子の庇の下で眩しげに目を眇めた。もう鯉登がここにいることを怪訝に思う力もないらしい。鯉登は、迷わず買い物袋を道の隅に下ろし、再びそいつの腕を引っ張り上げて肩に巻きつけた。

    「何がいっと?買ってくっ」
    「…そんなことまで、してもらえません」
    「じゃあ救急車呼んでんよかか」
    「本当に大丈夫で」
    「立って歩けんもんが一人でないができっとじゃ。それとも誰かあてがあっとな?」
    「…いえ」
    「そいがなら、選べ。私か、救急車だ」

    そいつは鯉登の肩にぶら下がるように歩きながら、大きなため息をついてぐったりした。諦めたのだろう、とても重い。おそらくだいぶ歳下の学生風情にこれだけ強引な態度を取られれば、多くの社会人は良い気分にはならないだろう。印象を良くしようと思わなくて良い分、説得に手間がかからなくてかえって楽だった。とは言え、親しくもない歳上相手に敬語が抜けていたのはうっかりしていた。さすがに無礼がすぎたと反省する。
    エレベーターを待つ間に必要なものを聞き出し(それだって息も絶え絶えだった)、8階の部屋まで担いでいって玄関に下ろし、一旦下まで戻って買い物袋を回収し7階の部屋に放り込むと、またスーパーへ走った。冷房が効きすぎている店内を早足で回る間にも汗がダラダラ流れたが、人命がかかっていたので気にならなかった。でもアイスとスポーツドリンクは必要以上にどかどか買った。実家で風邪をひいたときに家族がしてくれたことを思い出しながら、近くのドラッグストアにも寄って薬と要りそうなものを揃えた。
    それからまた荷物を持って小走りに帰り、肩で息をしながら807の部屋のインターホンを押すと、なかなか出てこないのでドアを開けてみたらあっさり開いた。無用心な、と思わず眉を寄せた。

    「お邪魔します」

    もはや今さらだが、言葉に気をつけてそっと中へ入る。逡巡したが、まったく出てくる気配がないので仕方なく靴を脱いで上がった。間取りが同じなので、とりあえずリビングのドアを叩いてみた。

    「大丈夫ですか?カギ開いてますよ。ここに置いておきますか?」

    声をかけて待ってみたが、やはり返事がない。ので、一応断りながらドアを開けると、そいつは床に行き倒れていた。またか、と思いながら慌てて駆け寄る。

    「大丈夫ですか!?」
    「…だいじょうぶです」
    「大丈夫なわけなかろ!バカタレ!」
    「なんで聞いた…」
    「ああ?ほらポカリと水とお茶じゃ、どれなら飲める?」
    「…ポカリ」

    うつぶせのまま、そいつは片手だけをふらふらと上げた。鯉登はぐるりと部屋を見渡す。殺風景な部屋だった。リビングなのに、フローリングには何も敷かれていないし、壁際の薄型テレビはダンボールの上に乗っているし、その隣の本棚には引越しのときに本が落ちないように貼ったと思われるガムテープがついたままだった。あとは部屋の真ん中にぽつんと置かれた四角いテーブルとゴミ箱のほかには、まだ手をつけていないらしい引越しのダンボールが部屋の隅にいくつか無造作に押しやってあるだけで、ソファも座椅子も、座布団の一枚さえない。これでは今ポカリを渡したところで、自分で座っていることもできないこいつがどうやって飲めるというのか。
    鯉登はそいつの手にペットボトルを握らせると、失礼、と断りつつ肩をつかんでひっくり返し、膝に抱き起こした。ついでに目を白黒させているそいつからペットボトルを一旦奪い、蓋を開けてやってからその手に戻してやった。

    「これで飲めますか」
    「…はい」
    「薬も買ってきたんですが、飲まれますか?薬剤師の方に聞いたので、変なものではないと思います」
    「…ありがとうございます、いただきます」
    「でしたら、食後の服用だそうなので、アイスかゼリーかおかゆ、どれか食べられますか?」
    「…おかゆなら」
    「もし嫌でなければ私がやってもいいですか?レトルトなので、皿に出すくらいですから」
    「そんな、ことまでは」
    「では心配なのでせめて見守らせていただきます」
    「……皿はなんでもいいです」

    諦めて目を下げたそいつに、鯉登は少しやり過ぎを自覚した。しかし、もう乗り掛かった船だ。
    立ちあがるのを手伝って、よろよろと隣の寝室へ入っていく背を見送りつつ、冷却シートやら薬やらおかゆやら取り出して部屋のテーブルに並べ、残りの飲み物や食べ物を冷蔵庫に詰め込んだ。勝手に開けて申し訳ないと思えるほど物が入っていなかった。というか、ビールらしきものが数本とポン酢しか入っていなかったので、全部入れたところでまったく邪魔になりそうもなかったし、むしろまだでかい隙間があった。せっかくなので、冷却シートを箱ごと入れておいた。
    あまり使われているようには見えない対面式キッチンは、がらんとしていてどこにも食器棚みたいなものがなく、シンク下の引き出しを手当たり次第に開けると、そのうちの一つに最低限の皿が数枚入っていた。深めの皿を一枚取り出して閉める。それにレトルトのおかゆを出し、洗い籠に入れっぱなしのスプーンを添えて持って行った。
    寝室のドアは開いたままだった。中をのぞくのはさすがに悪い気がしたので、見えない位置でドアを叩いた。はい、と掠れた声が返った。

    「おかゆ置きます。あと薬と水と冷却シートも置いとくので、使ってください」
    「…本当にすみません、ありがとうございます、あの、金、払いますから」
    「あー、今はいいです。自分のも買ったので、今度計算して請求しても構いませんか」
    「その分も払います、ご迷惑、かけましたから」
    「それはお互い様ですから」
    「いや本当に」

    そう言う間に、坊主頭がぬっとドアの後ろから現れた。が、それが這ってきたと思われるほど低いところにあるものだから、こんなひどい状態の人間から金を巻き上げるのがどうしても嫌で、鯉登はつい口を滑らせた。

    「じゃあ電話番号をここに置いておきますので、生存確認のためにもご一報ください。私は今日は休みで家にいますので、何かあったときにも遠慮なくご連絡ください」

    そいつは皿を受け取りながら、苦しげに顔を歪めた。なんとなく、体調とは別の理由のように見えた。

    「…親切が、過ぎませんか」

    ごもっともだと思った。とは言え、助けることができたはずの隣人をみすみす死なせて後悔に苛まれるよりは、元気になったのち気味悪がられる方がいいに決まっている。これでそいつからも避けられるようになるのなら、お互いにとっても結果オーライと言えるかもしれないのだ。
    鯉登は、薬と水と冷却シートを持って来てそいつの前に置いてやりながら、まあ、と答えた。

    「何かの縁です」

    本音だった。そいつは俯いたまま何も言わなかった。そのあともう一度だけ頭を下げて礼を言うと、おかゆを持って寝室に引っ込んだ。それを見届けてから、鯉登はキッチンカウンターに都合よく1本だけ転がっていたサインペンを借り、冷却シートの個包装に電話番号を書きつけてから、そっとそいつの部屋を出た。
    マンションの通路へ出ると、息苦しいほどの暑さに包まれた。それで鯉登は、静かでだだっ広いそいつの部屋が冷えきっていたことに気がついた。温度が、というよりは、空気がどこか冴えざえとしていた。隙間ばかりの部屋だった。

    (あんなところで暮らしているのか)

    それは鯉登にとって少しだけ衝撃的だった。
    覗き見たようなものだし、人の幸せなんか他人に推し量れるようなものではないとは思う。けれども、それにしたって、あの部屋は。
    頭を振って思考を追いだす。振り切るように早足で歩き出した。これ以上は考えるべきでない。エレベーターを待たずに階段を駆け下り、逃げるように部屋へ帰った。
    深入りしてはいけない。そいつは、本当は鯉登とは関係のないはずの人間なのだ。そいつが今幸せであろうとも、たとえそうではなかろうとも、そいつの人生はそいつだけが先を選んで行くべきだ。鯉登につきまとう幻影などに、絡めとらせるわけにはいかない。
    その夜、そいつからメッセージがきた。

    『先程は本当にありがとうございました。
    体温計と水枕、なかったので助かりました。
    熱下がりました。
    金返します。
    よければ来週どこかで飯でも奢らせてください。
    気が済まないので。
    ご迷惑でなければ。』

    鯉登は、途方に暮れた。

    ###

    樺太の夜は、驚くほど寒かった。
    樺太アイヌの集落に泊まるとき、彼らはたいてい客人のために丸ごと一軒、家を空け渡した。村人としても得体の知れない余所者と一つ屋根の下になど寝ない方が防犯上都合がいいのだろうが、言葉も通じない他人と枕を並べることに未だ慣れない鯉登としてもそれはありがたかった。
    とは言え、屋根があるだけの野宿と言えるほど粗末な寝具では、樺太の夜は身に堪えた。谷垣と杉元はいつもチカパシを間に挟んで眠ったし、ヘンケとエノノカも身を寄せ合って暖をとっていた。
    ふう、と息を吐くと、囲炉裏の火が届かない家の隅では白く濁った。

    「代わりますか」

    背中に静かな声がした。仰向けになって顔だけそちらに向けると、眠っていたような雰囲気の一切感じられない部下がこちらを向いていた。

    「壁側は寒いでしょう、こちらは少しはましですよ」
    「…寝ていないのか」
    「寝てました。眠りが浅いのです」

    ぱちん、とかすかに火の爆ぜる音がした。ヘンケの深いいびきが規則正しく響いていて、まだ夜明けには遠そうだった。谷垣なんかはいかにもいびきをかきそうなのに、戦争帰りは誰も彼もが死んだように静かで動かない。

    「そうか、起こして悪かった。寝ろ」
    「冷えて寝つけないのでは」
    「平気だ。用を足しに行こうと思っただけだ」

    言いながら起き上がると、追随する暇を与えぬよう手早く外套と上掛けをかぶり、長靴に足を突っ込んで外へ出た。戸口をくぐると途端に寒風が横っ面に吹きつけ、慌てて外套の頭巾を引っ張り出す。雪が降っているわけでもないのに、見るみるまつ毛の先が白くなっていくのが視界の上の方に見え、その先を追いかけるように空を見上げた。
    空は、燃えていた。
    針葉樹が整然と立ち並ぶ深い森が、星空との境界を黒々と描いている。そのギザギザした黒い帯から立ち昇るように、真っ赤な光が空に広がっていた。

    「少尉殿…あれは…」

    雪を踏む音がすぐ後ろで止まった。珍しく呆けたような声に振り返ることもできず、鯉登はその光に目を奪われたまま、呟くように答えた。

    「…極光だ」

    光の端はもやのようにけぶって星空へ溶けだし、ゆらり、ゆらりと時折ゆらめいた。ろうそくの炎のようにも、巨大な生き物の体毛のようにも見えた。そのうち、赤い光の間に白や黄色が交じったり、揺らめいた赤に紫が滲んで消えたりした。
    それは総毛立つほどに恐ろしく、呼吸を忘れるほど美しい光景だった。
    背後でも、息を飲むような気配がした。

    「…山火事、ではないのですか」
    「違う。炎ならもっと不規則に揺れるし、煙が上がるはずだ。あれは、大気が光るんだ。…前に文献で読んだだけだったが、絵や写真もなくて。いや、でもあれは、間違いなく極光だ。まさかこの目で見られるとは」
    「大気がなぜ光るんです?」
    「それには、太陽やら磁気やらが関係していると書いてあったが、一度読んだだけで詳しく調べもしていないから、私もそういうものがあるということぐらいしか知らない。しばらく前までは「赤気」と言ったそうだが、本当に、赤いな」
    「赤気…ですか」
    「そう。欧米では「オーロラ」と呼ぶそうだ」
    「オーロラ…」

    こんなことなら、もう少しきちんと読んでおけばよかったと思いながら、鯉登はこの景色を父や母や、兄にも見せたかったと思った。同じものを見て一斉に話をするような時間を過ごした日々が、もうずっとずっと遠くにあった。記憶の中で今もきらめく懐かしい日々を、もはや取り戻したいとは思わない。兄はいない。父も母も、鯉登自身も、兄を引き剥がされた世界を生きている。兄がいれば良かった世界を、生きたかった世界を、生きていくともう決めたのだ。
    兄との記憶は、今も絶え間なく血を流し続けている。鯉登は、この血と痛みを決して忘れることはない。父や母も、きっとそうなのだろうと思う。
    それでも、鈍い痛みとともに乾くことのないその傷口の色が、いつかあの空のように透き通った赤になるといいと思う。
    兄を失っても、静かに、確かに、鯉登がしっかり自分で顧みることができるようになるまで黙って見ていて、待っていてくれた二人。いつか心安らかに兄の思い出を辿れる日がくればいいと、鯉登は願っている。

    「少尉殿」

    突然腕を引かれて、はっとした。どうやら、いつの間にかふらふらと歩き出していたようだった。振り向くと、険しい顔をしたそいつがこちらを見ていた。

    「得体の知れないものにうかうか近づかないでください」
    「得体の知れないものなどではない。あれはただの自然現象だ」
    「そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。ションベンはいいんですか」
    「なんだ、月島ァ、おまえもしかしてアレが怖いのか?」
    「まあ、気味が悪いとは思いますが」
    「情緒のない奴だな、きれいだとは思わないか。北海道ではそうそうお目にかかれない現象だぞ」

    鯉登は、再び空を見上げる。心なしか、さっきより薄くなってきたように見えた。淡く霧散するように端から消えていく赤い光は、やはり美しかった。この光を、目に焼き付けておこうと思った。

    「…思いません」

    低い声に思わず振り向くと、そいつは眉間に皺を寄せて空の光を仰いでいた。

    「赤気、というのを、地元のばあさんが昔見たと言うのを聞いたことがあります。空が血のように赤く染まって、不気味だったと。見た者はばあさんの他にもたくさんいたそうですが、みんな死んだと言ってました。きっと不吉の予兆だったんでしょう。ばあさんもそう言って聞かせていました」
    「みんな死んだって、いっぺんに死んだわけでもあるまい。ばあさんは生きてるじゃないか」
    「詳しくは知りません」
    「それは迷信だ。因果関係はない。そうやって不吉だなんだと知らないものを遠ざけるばかりでは、欧米列強に追いつくことなど到底できん。私が読んだ論文も向こうのものだ。これからはそういうものを書ける人間を育てなくては、戦争に勝ってもその先がない」
    「では、今あれを見ていても仕方ないですね。用がないなら入ってください」
    「…おまえは私の話を聞かんな」
    「聞きましたとも。しかし私は学もない兵卒に過ぎませんので、あれの原理を解明するような人間ではありませんし、戦後の国を憂える立場でもありません。先のことを考えるのでしたら、まずは寝不足がたたってうっかりあなたに死なれでもした時の、私の処遇などをお考えいただきたいものです」
    「わかったわかった、ちゃんと用を足したら戻る。先に寝ていろ」
    「いいえ、お戻りになるまでここで待ちます」
    「頑固者め…」
    「はい」
    「堅物、朴念仁」
    「早く行きなさい」

    鯉登はまったくいつもの調子を取り戻した風なそいつをひと睨みすると、もう一度だけそれを見上げてから背を向けた。
    厠を出ると、空にはすでに満天の星が静かにあるだけだった。あんなに壮大なものでも、消える時はあっけないのだな、となんとなく息をついた。それからふとチセの方を見ると、さっきと同じ姿のままのそいつがじっとこちらを見ていた。

    「なんだ、見張っていたのか」
    「そういう役ですから。入りましょう」

    入り口を開けてこちらに示して見せるそいつは、鯉登が戸口をくぐるまで一度も目を離さなかった。そんなに心配しなくても子どもではないのだし、鯉登は一人でもちゃんと戻るし、そうすぐには死なない。
    それでも、そいつらに比べれば戦場を知らない青年将校など、子どもみたいなものなのだろう。寒さに凍えながら、それでも眠るしかなくて眠った経験などない鯉登には、息を殺して眠るそいつらがどんな夢をみているのかもわからない。
    だからこそ、鯉登はこの樺太で己の力量を見せつけなくてはならない。
    後から入ってきたそいつが、当然のように壁側の筵へ向かおうとする。それを制して、先にそこへどかりと座った。

    「寒いんでしょう、私は平気ですから、代わります」
    「私だって平気だ。平気にならなければ、これから先へ進めないだろう。なんとかして寝る」
    「どうするんです」
    「足をあたためる。ここが冷たいと眠れないものだ」
    「どうやって?」
    「炉端の灰を袋に入れて、炬燵代わりにする」
    「そんな、しち面倒くさい…」
    「なんか言ったか?」

    自分の荷物を引き寄せて中をごそごそやろうとした鯉登に、そいつがいいから寝ろと無言で示す。

    「何か案があるのか?」
    「ありますから、とにかく寝てください」

    言いながらさっさと自分も横になって上掛けをかぶってしまう。確かに、あまり物音をたてて寝ている者を起こすのも憚られる。特にソリの舵取りをするヘンケとエノノカには、しっかり寝てもらわなくてはならない。鯉登は言われたとおり長靴を脱いで横になると、上掛けと外套を体の上にしっかりかけた。それから隣に顔を向けると、そいつがじりじりとにじり寄ってきた。

    「うわ」
    「おお」

    突然足に温かいものがあたったので、思わず声が出た。しかし、鯉登より先に声をあげたのはなぜかそいつの方だった。そいつは、鯉登の目の前で遠慮なくぎゅっと顔をしかめて見せた。

    「…こんなに冷えてて眠れるわけがないでしょう」
    「好きで冷えたわけじゃない。貴様はなぜそんなにあったかいのだ」
    「さあ、心が冷たいのじゃないですか」
    「…それは手の話ではなかったか?」
    「冗談です」
    「しかし心が冷たくて手足があったかいのなら、そっちの方が便利じゃないか。どこでだって寝られるし、いらんことを考えなくて済む」
    「…そうだと良いのですがね」

    そいつの足は鯉登の足より小さいのに、とても硬くて分厚かった。鯉登は、なるほどと納得した。体格で劣る相手に足を使うのは効果的だろう。目線が高い分、下は死角ができやすい。これは、それを実戦でやり抜いてきた足なのだ。積み重ねた死闘が、固い層となって次の勝利を援護する。

    「良い足だな」
    「はあ?」
    「温かくて強い、私もきっとそんな足になるぞ」

    鯉登はそいつの足をがしりと挟むと、目を閉じた。そいつが目を白黒させて鯉登を見ているのがわかったが、じわりと爪先に熱がともるのを感じると眠れそうな気がしてきた。ヘンケのいびきが聞こえる。歯ぎしりをしているのは、チカパシだろうか。ぱちん、と熾火が爆ぜる。

    「眠れそうだ。おやすみ」
    「…おやすみなさい」
    「これで、もし貴様の足が冷たくなったら、今度は私の足を使うといい」
    「それではイタチごっこでしょう」
    「うーん」

    なんだか急に眠気がきて、うまく頭が回らなくなってきた。しかし、上官だからと言ってこんな風に部下を使い捨てるのはいけない、それは父の示すような立派な指揮官の姿ではなかろうと思う気持ちだけが、必死に答えをひねり出した。

    「…分け合えばいい」

    奪い合うのではなく、どちらか一方がすべて得るのではなく。それは比類なき名案だと思えた。なんだかぼんやりした声になった気がしたが、満足のいく答えが出せた鯉登はもうほとんど眠っていた。けれども、そいつのその声だけは、寝入り端のわずかな意識に届いた。

    「…なるほど」

    今日は珍しいことばかりだなあ、と笑いたくなるほど、それは気の抜けた音をしていて、そしてなんとなく、そっちの方がそいつに似合っているような心地がした。

    ##

    『いやアホか!返事しろよ!』
    「アホじゃない。一昨日のことだし、そんな急ぐ案件でもないだろ」
    『メッセージの返信なんて、すぐしないならシカトと一緒だろ!いやそれは言いすぎごめん』
    「まあ、おそらく印象良くないし、今さらだ」
    『それさあ…』

    電話口で杉元が小さくため息をついたのが聞こえた。
    そいつのメッセージになんと返事をしたものか考えあぐねて悶々と一日を過ごし、夜にとうとうグラスを1つ割ってしまったので、鯉登は観念して友人を頼った。
    平日の夜も10時を回った時間、果たして杉元はワンコールほどで電話に出た。珍しく仕事が早く終わって、もう寝ようかなあとちょうどスマホをいじっていたところだったと言った。ので、鯉登はもう腹をくくって初めから全部話すことにした。
    杉元はずっと黙って聞いていた。
    夢の中のそいつには、たぶんお互いに望んだのに叶わなくて添えなかった人がいて、でも夢ではそのせいで鯉登と出会ったこと。夢の鯉登は、自らを諦めたようなそいつをどうにかしてやりたかったこと。それが上手くいったかどうかは、今のところまだよくわからないこと。でも、だから現実にそいつがいるのなら、できればその人と幸せになっていてほしいこと。鯉登がそいつに関わることで、そいつの何かが狂ってしまうかもしれないのがこわいこと。そんなことを真面目に考えてしまうほど、何かよくわからない偶然が重なっていること。それで先日とうとう部屋に上がって看病まがいのことまでしてしまったこと。そしたら、そいつの部屋がすごく荒んでいたこと。お礼の誘いが来てしまったこと。幼い頃から使っていた兄と色違いのグラスを、さっき割ってしまったこと。

    「おばさんの水族館のお土産で、兄のはもうとっくに割れてしまったんだけど私はずっと大事に使ってて、兄はペンギンで私のはアザラシが描いてあって、はじめは兄のが良かったんだけど」
    『あ、ごめん、もう聞かなくていいフェーズ入ったよな?』
    「失礼な奴だな、そんなフェーズはない」
    『いや、とりあえずさ、先言わして。あのさ、おまえさ、全部言ってくれて、ありがとな』

    鯉登は、思わず言葉に詰まった。ベッドに腹ばいになって、スピーカーにしたスマホの素っ気ない操作画面をまじまじと見つめた。そこには、見えないはずの杉元の誠実で優しい眼差しがある気がした。

    『言えないことがあんのは仕方ないって思ってたんだけど、さ、まあ、違う人間だしな。でも、やっぱ、聞かしてくれたら嬉しいなって。その、おまえあんまそうやって自分の内側っつーか、どう感じてるとか、言わねぇし、でもそれがおまえだし、だからそれでいいって思ってたんだけど、それでも言ってくれんのは、なんか、いいな。だからとりあえずお礼。幼なじみ…まあ、腐れ縁か。でも、うん、俺は、嬉しいかな』

    不覚にも。
    不覚にも、鯉登は喉が詰まって何も言えなくなってしまった。脅し文句や啖呵みたいな言葉は脊髄反射の速度でスラスラ出してくるくせに、この恥ずかしがりの照れ屋は、親しくなればなるほど素直な言葉を伝えられなくなる。そんな幼なじみが差し出す温かい本音の数々には、さすがの鯉登も胸が熱くなってしまった。
    杉元は、今そこで笑っているとわかるような柔らかい声で言った。

    『まあ、そんなんだから、俺は話いくらでも聞くし、なんならそのあと待ち合わせても大丈夫だし。まあとりあえず、とりあえずまず行って来い。で、いつ?』
    「え、いや、まだ行くとは言ってない」
    『え、じゃあなんて返事してあんの』
    「え、だからなんて返事したものかと思って電話してる」

    それで一転して杉元が怒りだし、冒頭へ至る。
    杉元は、一瞬ののちに諦めたようなため息をついた。

    「なんだ、言いたいことがあるなら言え。今なら聞ける」
    『いやいつでも聞けよ。あー、じゃあ言うけどさ、鯉登、おまえもっと自分を真ん中に置けよ』
    「…はあ」
    『頭いいからいろいろ考えちゃうんだろうし、気持ちもわかるけどな、あんまり自分じゃない奴のこと考えすぎても、答えぜってぇ出ねぇじゃん。だからそれはもう、本人に聞いてみるしかねぇんじゃねぇの?』
    「だからそれは」
    『うん、なんかよくわからんことだから、どうなるかわからんくてなんか怖いってのはわかるよ。でもやっぱ、決着、とか、なんかそういう区切りみたいなものをさ、つけなきゃいけないんじゃねぇのかな』

    杉元の真摯な声が、見ないようにしていた現実に光を当てる。いつも必死に抑えている得体の知れない蓋が、そこにはある。

    『自分の人生に他人を巻き込むのなんて、そんなの今さらだしお互い様だし。それが邪魔かどうかは、それこそ、おまえが決めることじゃないだろ』

    鯉登は、耐えきれなくなってベッドに突っ伏した。

    「…情けんなか」
    『あ?ごめん今なんつった?聞こえなかった』
    「御説ごもっとも、って言った」
    『…よくわからんけど、嫌味か?』
    「違う、そのままの意味だ。おまえがすべて正しい。…私は、卑怯な臆病者だ」
    『そこまでは言ってねぇけど』
    「いや、もっともらしい理屈をこね回して、結局私は誰のことも、自分のことさえ信じてなかった」

    幸せであればいい、と願いながら、それを確かめられたら、などと嘯きながら、その人生に関わらずにいることがどうしてできる?
    本当にそいつの幸福を見届けるつもりならば、その祝福の降る瞬間に喝采を送れる一席を得ずして真実を見極めることなど、できるはずがないというのに。

    「わけのわからない幻影に正面から向き合って、それを受けとめて、そのとき、私が私のままでいられるのか、自信がなかった。他人の人生に介入するのじゃなく、自分の人生に巻き込むのが怖かったんだ。でも、そんなの、確かに今さらだったな」
    『おう、だってもう部屋に上がってんだろ』
    「…それは本当にすべて偶然だし、30分もいなかった」
    『いやーでもそんな親切な隣人いたら、俺でもなんかしなきゃって思うわ』
    「その場に立ち合えば誰だってする範囲だろ、おまえだって絶対やるぞ」
    『しねぇよ。少なくとも俺だったら言われたものしか買わねぇし、その場で金もらって終わりにするわ』
    「…それに関しては反省してる。連絡先を渡したのは本当にどうかしていた…。心配だったんだ…だって誰も来ないって言うし…」
    『そりゃ一人暮らしならな。いきなり発作、とかじゃなきゃ、救急車ぐらい自分で呼ぶだろ』
    「…御説いちいちごもっとも」
    『あはは!素直な鯉登気持ちわりぃー!』

    杉元の明るい笑い声が響いて、鯉登も少し笑った。なんだかとても前向きな気分になってきた。脱線してしばらく軽口を言い合った。
    ひとしきりやり合うと、杉元がおもむろに咳払いなどして仕切り直した。

    『で、いつにすんの?』
    「そうと決まれば、社会人の都合に合わせる。私は夏休みだし、盆に実家へ帰ったところで日帰りだ。杉元は帰るのか?」
    『あーうん、明日から休み取れたから、盆の間はオヤジのとこいようかなって』
    「そうか、よろしく伝えてくれ」
    『そういや、おまえの話するたびにまた連れて来ていいぞって言われんだよな…。おまえなんかしたの?』
    「知らん。好きな小説家が何人かかぶっていたから、その話をしただけだ」
    『それか…、オヤジ本めっちゃ読むしな…俺本読まねぇからな…』
    「漫画は読むのに、なんで小説は読まないのか不思議だ。似たようなものだろ」
    『…どこに基準を持ってきたら似てんの?』
    「どっちも物語じゃないか」
    『あー、な』
    「なんだその返事は、杉元でもわかるように簡潔に答えてやったのに」
    『簡潔ならいつもわかりやすいってわけじゃねーんだよ』

    それからまた少し話してから、これ切ったらすぐ返事しろよ、と釘を刺さして杉元は通話を終了した。
    途端に静まり返る部屋で、鯉登はベッドに体を投げ出した。体の大きい息子を気遣い、母が餞別にと買ってくれたセミダブルの収納つきなので、広々というほどではないが体を縮こめずに寛げるのは本当にありがたいと思っている。しばし実家の父母や兄一家に想いを馳せる。

    「よし」

    鯉登は勢いよく起き上がると、スマホを掴んだ。1分もかけずに返事を打ち込むと、さっさと送信してしまった。なんとなく勢いに任せてやってしまった方がいいと思った。

    『お返事が遅くなり、申し訳ありません。
    お役に立てたのなら良かったです。
    その後お加減はいかがですか?
    お礼などは本当に必要ないのですが、
    代金のこともありますので、ご都合の良い日にお声掛けください。
    ぜひ割り勘で呼ばれたいと思います。
    お心遣いありがとうございます。』

    送ってしまうと、鯉登は肩の荷が降りた思いでスマホを放った。腹を決めてしまえば、意外と気持ちは落ち着くのだと知れた。これで返事が来なければ、まあそれまでだとも思えた。
    けれども、返事はしっかり来た。
    シャワーを浴びて歯を磨き水も飲んでさあ寝るかとベッドへ戻り、明かりを消してアラームをかけようとスマホを開くと通知が出ていた。社会人になったら、プライベートは基本的に夜だけなんだよな、とふと思いながらメッセージを開けた。

    『体調はもう元気です。
    ありがとうございます。
    では来週の木曜日19時頃はご都合どうですか。
    よろしければお好きな所を教えていただければと思います。
    まだあまりこの辺りに詳しくないので。』

    時間が日付を超えていたので一瞬迷ったが、送っておけば向こうも予定が立てやすかろうと思い直してすぐに短い返事を送った。

    『わかりました。
    よく行く飲み屋があるので、予約しておきます。
    夜分に失礼しました。
    お仕事お疲れ様です。
    おやすみなさい。』

    アラームをセットし終えたところで、通知が鳴った。驚いて思わずすぐに開いた。

    『こちらこそすみません。
    ありがとうございます。
    おやすみなさい。』

    全部ひらがなだ。鯉登はちょっと笑った。
    来週の木曜日、何を話そうかな、と考えながらタオルケットをかぶった。暗い天井を見上げて落ち着くと、途端にしんと静けさが耳に迫る。
    今日もあの夢をみるのだろうか。
    この頃はもうあまり先を見たくないと思っている。断片的な記憶を持ち寄って杉元と協議した結果、この夢の舞台はおそらく明治から大正のあたりではないかと考えているが、そのあたりの歴史を紐解くと大体この国は戦争に明け暮れている。年表だけを見れば二度目の大戦以前は戦勝国に名を連ねているが、どちらにしたって人間はたくさん死んでいるのだ。
    では、その最中に軍人であるのならば、鯉登も、その仲間たちもいつかどこかで死ぬのだろう。
    戦場で死ぬことがどんなに惨く凄まじく、軽々しいものなのか想像もつかない。そんなの、見ずにすむなら一生お目にかかりたくはない。
    そしてこんな夢をみ続けるということはすなわち、そいつもいつかそうやって死ぬのではないのか。
    鯉登は、何度か自分が悲惨に死ぬところを想像してみた。それは想像を絶する苦しみや絶望であろうと思われた。
    けれども、たぶん、それ以上に凄惨なのは、周りが先に死んでいくことだ。
    一息で死ねればきっといいだろう。半端に生きていても誰も助けてやることができない中で、足を止めれば一瞬で死の恐怖が降り注ぐ中で、目の前で無惨な姿に成り果てたそいつが死んでゆくのをもしも看取ってしまったら。助けてと懇願されながら、何も出来ずに見送ったそいつを、そのまま置いて行くしかなかったとしたら。
    鯉登はゆっくりと深呼吸をしてから、目を閉じた。
    これから先にそういう場面があるのかもしれないと気づいてから、鯉登は恐れていた。そんな場面に立ち会ったら、今度こそ正気を失ってしまうかもしれないと。
    だってこの夢に何か意味があって、そこで叶わなかった何かを今の鯉登にさせようとしているのだとしたら、そしてそのためにそいつと出会わされたのだとしたら。
    この先に待っているのは、どんな形であれ、取り返しのつかない決別なのではないのだろうか。

    ##

    翌週の木曜日は、飛ぶようにやってきた。
    というのも、連絡を取り合ってからちょうど一週間、そいつとはさっぱり一度も顔を合わせなかったのだ。もう気にすることもないかとまったく気にせず生活していたにも関わらず、数週間前までの奇跡的な巡り合わせが幻だったかのように、丸一週間その姿を視界にひっかけることさえなかったのだ。拍子抜けすぎてなぜか腹が立った。無駄な努力の一ヶ月とは思わないし(それで得たものも多くあるので)、数日実家に滞在していたということもあるのかもしれないが、それにしても少なからず徒労感はあった。腹いせに、実家から持たされたお中元のビールと煎餅をお裾分けに持っていってやった。昼間だったので、ドアに掛けておいて後からメッセージを送った。夜に短いお礼の返事がきた。木曜日までは、本当にそれだけしかやり取りはなかった。
    そして、木曜日の夜。
    大学の長い夏休みも、折り返してからはだんだんと日が短くなっていた。少し前までは19時でもまだほとんど暮れていなかった空も、今はとっぷり夜になっている。繁華街から見上げるせいか、星があるのかどうかはよくわからなかった。
    約束の店の前で、流れる季節の早さに思いを馳せてぼんやりと空を仰いでいると、遠くからだんだんと小走りの革靴の音が聞こえてきた。そちらを向くと、ちょうどそいつが通行人の間から姿を見せた。

    「お待たせしてすみません、遅くなりました」

    そいつは、見るからに仕事帰りの風体だった。小脇に鞄とスーツのジャケットを挟み、少し息をはずませている。営業なのだろうか、こんな暑い日でもジャケットを持っていなければいけないのは大変だな、と思った。
    鯉登は愛想良く見えるように笑ってみせた。

    「いえ、ちょうど19時です。すみません、お仕事終わりに急かしてしまいました」
    「いえ今日は、こちらこそわざわざお時間をいただいてしまって、あ、この間は、本当に助かりまして、いやまず金、金返しますから」
    「あーストップ」

    そいつがぴたりと口をつぐんだ。しまった、と鯉登は口を押さえる。作戦はすでに変更している。今後はこれまでの無遠慮な悪い印象をなんとか挽回しなくてはならないのだから、よくよく口に気をつけなくてはならない。こほん、と咳をする振りをして再び口を開く。

    「とりあえず、入ってからやりませんか」

    鯉登の言葉にはっとして周りを見回したそいつは、すみませんそうしましょう、と早口に言って先にのれんをくぐった。続いて鯉登が店に入ると、常連の顔を見て心得たらしい店員が案内してくれた。
    空間の居心地よりも回転率を優先したような距離感でテーブル席が並ぶ奥側の、壁際の席に腰を下ろすと、そいつはなんだか落ち着かないような顔をして周りの賑わいを見回した。鯉登は、テーブルの端のスタンドに立ててあるメニューを引っ張り出してそいつの前に広げてやった。

    「賑やかなところは苦手でしたか?」
    「いえ、逆にお嫌いかと思っていたもので」
    「え、そうですか?」
    「あーいえ、その、お若いですし、もっとお洒落なところへ行くのかなと」
    「あー、大学の友人にはたまに連れて行かれますが、ああいうところってだいたい量が少なくて、自分では選びませんね」

    最近も研究室のメンバーで失恋した同期がいたので、なぜか鯉登に慰めてもらいたいと悲痛な声で呼び出されて渋々行った飲み屋がそういうところだった。ちなみに、そいつはわりと最低なことをしていて捨てられ目が覚めたので、罰を与えると思って完膚なきまでに弾劾してほしいと言うので、望み通り軽蔑して罵ってやった。お礼になんでも食って飲みながらやってくれと言うので腹に入るだけ飲み食いしてやったが、美味いは美味いのだが、こういう時でなければ値段と量が割に合わないので来なくていいなと思ったものだ。
    そんなことを思い出して顎に手を当てていると、そいつは、ああ、と合点したように頷いた。

    「それは切実ですね」
    「でしょう。ここはボリュームもあって美味いですし、ご飯のセットが付けられるので腹いっぱい食べられていいんです。しかも土鍋で炊いてるので、すごく美味しいですよ」
    「え、それはいいですね、とても」
    「米もこだわってて、確か魚沼産のコシヒカリなんですよ。でも値段は普通のご飯セットと変わらないくらいで、さらに運がいいとおこげが入ってて」
    「うわ…それはとてもいいです。それって、すぐ頼んでも構いませんか」
    「もちろん」

    メニューをめくって最後の方にそっけなく載っている「土鍋ご飯セット」を見つけたそいつが、うわ本当に魚沼産て書いてあるスゲ、と呟いた。米がすごく好きなのがよくわかって、ちょっと笑ってしまった。
    それからメニューを端から眺めながら、鯉登のおすすめや気になったものを選び、だいたい出揃ったところで鯉登が手を上げて店員を呼んで注文した。時間と場所がそうなので、二人とも示し合わせることもなくアルコールを選んだ。1杯目はお互いに生ビールだった。注文して天気の話をしながらお手拭きで手を拭っているうちに、早々と冷えたジョッキが二つやって来た。慣れた様子でそれを持つそいつを見ながら、空に近かった冷蔵庫の中にさえ数本常備されていた缶ビールを思い出した。
    そいつは、なみなみと注がれたジョッキをひょいと持ち上げて見せた。

    「乾杯しますか?」
    「せっかくですから、しましょう」
    「では」

    乾杯、と同時に言ってお互いに控えめにぶつけ合うと、鯉登は遠慮なく呷った。いいほど喉を鳴らしてから息をつくと、ちょうどそいつもジョッキを下ろしたところだった。そいつは、あー、と気が抜けたように唸った。

    「酒はお好きですか」
    「嫌いではないんですが、あまり酔わないので。美味いは美味いんですが」
    「私も酒は好きで、酔わないんです。では今日は思いきり飲んでも大丈夫ですね」
    「そうですね、私も一度くらい潰れてみたいです」
    「あれ、以前道端で寝たというのは」
    「あーあれは…若気の至りというやつですね…」
    「ほう、つまり」
    「正気で、やりましたね…、多少は酔ってましたが、ほぼ正気で、完徹明けで眠くて、まあ誰もいないしいいかと思って」
    「決め手が雑ですね」
    「睡眠不足で判断力が低下していたんです、たぶん」
    「たぶん?」
    「…本性ではないはずだと思っています」
    「あはは」

    鯉登は思わず笑ってしまった。そいつは生真面目な顔を崩さないまま淡々と話すのに、その不器用そうな表情のうらに隠れた感情が不思議と読み取れておかしかった。
    そいつがおもむろにジョッキを置いて両手を膝におろすと、深々と頭を下げた。

    「改めまして、先日はどうもありがとうございました。本当に助かりました」
    「やあ、そんな大したことはしちょらんので、頭を上げてください。私こそ先にいろいろ世話になったので」
    「いえ、あの日は本当に動けなかったんで、たぶん、助けてもらわなかったら、死んでました」

    それは大げさでは、と言おうとした口をつぐませるほど、そいつは真剣だった。

    「普段あまり風邪をひかないもので、健康には自信あったのですが、朝ちょっとやばいかなと思いながらも出勤してしまって、上司にバレて追い返されてあそこまでタクシーで来たんですが、降りたとたん歩けなくなってしまって、暑いし、もうここで死ぬかもなと覚悟を決めました」

    道端で丸くなっていた背中を思い出した。そんな縁起でもない覚悟を決めていたのかと思うと、鯉登はあの日あの時間に買い物を思い立った自分が心底から英断であったと胸をなで下ろした。

    「間に合って良かったです」
    「すみません、本当にありがとうございました」

    そいつがまた頭を下げたところで、注文していた品々がどやどやとやってきた。広くはないテーブルにどんどんお構いなしに置かれていくので、鯉登とそいつは流されるままに箸をとった。そいつは、少し遅れてやってきたご飯セットの茶碗をしっかりと片手に持った。

    「これ何でしたっけ」
    「鹿肉の竜田揚げです」
    「鹿、はじめて食べます」
    「鳥に比べれば臭みはありますが、慣れると美味しいんです」
    「…ご飯に合います」
    「ふふ、そうでしょう」
    「あ」
    「ん?」
    「おこげ入ってました」
    「ふふふ、当たりじゃ」
    「けっこう入ってるもんですか」
    「そげんこつなかですよ、私の友人は毎回頼みますけど、1回も当たったことありません」
    「へえー、宝くじでも買おうかな」
    「私は2回に1回当たります」
    「やめときます」

    鯉登が笑うと、そいつも少し頬を緩めた。あまり笑うのが得意ではないみたいな不器用な仕草だった。加えて口数も多くないようなのに、不思議と気づまりにならない。大人の社交術というやつだろうかと感心した。
    それからあれこれ飲み食いしながら、いろいろと話した。途中でそいつがはっとしたように顔色を変えたと思うと、先日の代金を払わせてくれと慌てて財布を取り出したのでおかしかった。大方真面目で律儀でしっかりしているように見えるのに、なんだか抜けているところがある。それが人間らしくて好ましく感じられる奴であった。

    「あの」
    「はい」
    「今さらなんですが、私は月島と申します」
    「あ、そういえば名乗っていませんでしたね。私は鯉登です。あまり不便に感じないものですね」
    「こいと、どんな字ですか」
    「こいのぼりで、鯉登です」
    「はあ、縁起の良い名前ですね」
    「そうですね、名前に負けぬよう日々精進しております」

    そこでそいつは上げかけた箸を下ろして、ふと黙った。何かを考え込む風なのでそのまま待っていると、躊躇いがちに口を開いた。

    「…失礼ですが、下の名前をお聞きしてもいいですか」
    「もちろん、音之進です」
    「おとのしん、音に、進む、ですか」
    「そうです、鯉登音之進と申します。よろしくお願いします」
    「ああ、月島、基です。基本の基ひとつで、はじめと読みます」
    「月島、基、よい名前ですね」

    初めて聞いた名前なのに、ずっと前から知っている。鯉登は、さも不慣れなように口の中で転がして見せながら、とは言え口に出したことは今まで一度もなかったことに気がついた。会ったこともない人びとの名前など、これまで呼ぶ必要がなかったのだ。頭の中にある既知の感覚と、初めて喉を通る音の乖離が妙な気分だった。

    「鯉登さんこそ、かっこいい名前ですね。どこに書いてあっても、見間違えそうにない」
    「ありがとうございます。月島基も覚え易くていいですね」
    「まあ、それくらいしか良いとこない普通の名前です」
    「いいや、もう一つ良いとこありもす」
    「もす?」
    「月島基、って最後に「土」がつくでしょう。地に足がついてるので、いいです」
    「…いいですか?」
    「いいです。何事も地に足をつけていないと判断を誤りますし、人は土と離れては生きられないとシータも言っています」
    「…誰ですか?」
    「リュシータ・トゥウェル・ウル・ラピュタです」
    「すみません知りません」
    「まこち?ラピュタ王ですよ、天空の城の」
    「あ、あージブリですか?」
    「もす」
    「もす?よく覚えてますね」
    「小さな頃に擦り切れるほど観ました。観たことなかですか」
    「ありますが、まあ、昔、観たきりなので」

    そう言うと、そいつは冷やのグラスをぐっと仰いだ。何かを一緒に流し込んだような仕草だったので、鯉登はそれ以上何も言わなかった。
    そいつは鯉登の見立て通り、本当によく飲んだ。あとよく食べた。鯉登も同年代の中ではよく食べる方なので、これまでは杉元ぐらいしか付き合える胃袋はいなかった。そいつは鯉登より一回りほど歳上に見えるのに、遜色ないほどひょいひょい食べるので、鯉登は早々に遠慮を放り出して次々注文した。そいつも水割りから冷やにしたと思うと、メニューにずらりと並んだ日本酒を小気味よく空にしては涼しい顔で次を注文した。それには鯉登の負けん気もぐぐっと燃えた。負けじと、ボトルキープしている焼酎の一升瓶を持って来させてそいつを驚かせてやった。
    そうして、手酌でだばだば注ぎながら、だいぶ酔いが回ってきたな、と感じていた。そいつもなんだか頬杖をついたり意味もなくグラスを回していたり、なんとなく体が傾いているのでたぶんだいぶ酔ってきていた。時間も深くなってきたようで、居酒屋自体の活気もたけなわという雰囲気だった。
    どちらからそういう話題を振ったのか覚えていないが(自分ではなかったと思いたいが)、気がつくとモテるとかモテないとかいう話になっていた。

    「いや、嘘でしょ、あなたみたいなイケメンは絶対にモテてるでしょう」
    「あのなあ、私がイケメンかどうかは知らんが、そうだったとして、人には好みっちゅうもんがあっじゃ。顔が良いからみんながみんな好きになっわけじゃなかですよ」
    「顔が良いのはわかるんですか?」
    「世に言うイケメンの定義はわからんが、私の顔は父と母に似ているところと、似ていないところがあって、そのどちらも私は好いちょっとです。だから私は私の顔を良いと思っちょります」
    「…なんか鯉登さんって、すごくちゃんとしてますね」
    「そうですか?」
    「私があなたくらいの頃は」

    そこまで言って、そいつはぶつりと言葉を切った。そして、またその先を流し込むように酒を飲んだ。

    「でも彼女は切れないんでしょ?」
    「はあ?さては話を聞いちょらんな、そげなもんおらんとです」
    「いやあ、それは嘘でしょう」
    「嘘ついてなんばしょっと。おらんもんはおらん。おったこともなかですよ」

    そいつは目をぱっちり開けて瞬きした。人間というのは、驚くと本当にそういう顔をするのか、と頭の隅で感心した。別に鯉登は色恋沙汰に興味のないことを特段恥じたりなどしていないし、だからそれを問われたところで隠したり嘘をついたりもしない。素直に未体験の事象であると言う。だいたいの人間はそれを馬鹿にしたり、嘘だと決め付けて勝手に嫉んだりするので、今さら誰にそんな風に言われても気にしていなかった。
    それでも、なんとなく府に落ちないところがあったので、鯉登は聞かれた勢いでつい聞き返してしまったのだった。

    「そういう月島さんの方こそ、おられっとでしょうが」
    「嫌味だなあ、いるように見えますか?」
    「え、はい」
    「え、どこがですか?」

    本当にわからないという顔をしたそいつが、衝撃的だった。え、そうなのか?鯉登は慌ててしまった。だって、そいつにはとても忘れられない想いあった人がいたはずで、でも確かにそれは鯉登だけの夢に出てくる夢の話で、でも杉元は本当に出会うことができて、そして鯉登だってそいつと巡り合ったのだから、そんな大切そうな相手と会えずにここまできているはずがないはず、と思い込んでいた。
    ので、鯉登はあまり上手く頭が回せずに、あまり上手くないことをぽろぽろ言ってしまった。

    「やや、その、とても親切で気遣いのできる方なので、なんちいうか、もうとっくに結婚でもしちょりそうな気がしちょったとです」
    「はは」

    場違いにそいつが笑ったので、鯉登は驚いた。自虐的な笑みは、驚くほどその顔に影を落とした。

    「結婚ね、確かに、したかった人なら、いましたよ」

    鯉登は、冷や水をかぶったような気がした。まさか、そんな、という気持ちが湧いてきて、でもそういう可能性をまったく考えていなかった自分の浅はかさに愕然とした。

    「…なぜ、しなかったのですか」
    「しなかったんじゃないです、できなかったんです」
    「な」

    なぜ、と尋ねようとして、寸でのところで理性がブレーキをかけた。無神経に触れて良いような話ではないだけでなく、これ以上突っ込んで聞くことは、そいつの心の内側に勝手に上がり込むような行いだろうと躊躇した。
    けれどもそいつは、もう何杯目かわからない酒を水みたいにごくごく飲むと、鯉登の躊躇いに気づかなかったように言葉を続けた。

    「縁が、なかったんじゃないですか」

    そいつは、どこか遠くを見ながらぽつりと言った。

    「幼なじみで学生の頃から付き合ってて親も知り合いで、まあいつか結婚するのかなって、思ってました。俺は彼女が好きでしたし、彼女もたぶんそうだったと思います。喧嘩もしないし、浮気なんか考えたこともないし、お互い一人暮らしでしたけど、ほとんど一緒に住んでました。10年くらいそうやって。でも、なんでか上手くいかなくて、別れたんです」
    「…何か、きっかけがあったんじゃないんですか」
    「きっかけ、まあ、別れるきっかけは、あったんでしょうね。でも、結婚するきっかけがなかったんですよ。俺には。だから彼女は、この間ちゃんと結婚しました」
    「え」

    さらりと言ったそいつは、鯉登の様子に気づかないで手元のグラスに目を落とした。独り言を聞いているみたいで、少し後ろめたい気がした。そのグラスを握る手が、いつか見たカフェの窓辺で所在なく握りしめていたのと重なって見えた。

    「なんですかね、恨んでるとか妬んでるとかはないんです、あんまり。でも俺はまだズルズルに引きずってて、彼女と一緒にいた部屋を引っ越さなきゃやってられなかったのに、テレビも炬燵も箸もコップも布団も全部見てられなかったのに、まだ二年も経ってないのに。俺は、まだ全然だめです。…彼女と、またどうにかってわけじゃないんです。ただ、これから俺はどうすればいいのか、それが、ずっと、わからないんです」

    どうしてこいつはいつもこんな顔をしているのだろうか、と唐突に思った。店内のざわめきが、何か薄い膜を隔てたところから聞こえるような気がする。こいつは、鯉登の夢に出てくる人間とは違う。それなのに、なぜよりにもよってこんな顔ばかり重なるのだ。
    うつむいた顔は、初めて見るのにどうしようもなく懐かしくて、怒りを覚えるほどに、悲しかった。
    だから、鯉登は思わず手を伸ばしてしまった。

    「探しませんか」

    そいつは、胡乱げにこちらを見た。

    「何をですか?」
    「なんでもいい。何か、これからを考えられるものを」
    「…これから」
    「趣味、とか、好きなこと、好きなものとか、何かあれば先の楽しみができるかもしれません。些細なことかもしれないが、何もないよりは良いんじゃないですか」
    「…なんですか、それ」

    鯉登は、自分以外のものになるつもりは毛頭ない。だから、夢の幻惑に囚われて別の何かに意志を譲り渡すことなど絶対にしたくない。
    それでも、時に肩を貸し合い好ましく思っている隣人が、今目の前で人生の焦点を見失って途方に暮れているというのなら、力になってやりたいと思う。少なくともそれは鯉登自身の意志だろうと思えた。

    「具体的なところで言うと、新しいスポーツをやってみるとか、陶芸とか、読書とか、釣りとか、あと園芸、手芸、料理なんかも汎用性か高いので良いんじゃないですか」
    「なんか、定年後みたいですね」
    「今見つけておけば、定年後も安心です」

    そう言うと、そいつはふと笑った。それは驚くほど柔らかい笑顔だった。そうだ、そういう顔をしていてくれればいいのだ、と思った。

    「それ、なんのセールスですか」

    鯉登は、にっこり笑って言ってやった。

    「明るい未来です」

    そいつが大声で笑った。つられて鯉登も笑った。
    そんな風にも笑えるのだ。だったら、ずっとそんな顔ができるようになればいい。
    不思議な夢の中で、失ったものを抱えて希望を見いだせずに暗い眼差しを帽子の庇で覆い隠してばかりいた。それが今目の前に生きているそいつと何の関係もないことだとしても、そうであるならば、ここにいるそいつには何も失わずに幸せになっていてほしかった。ああやっぱりあれはただの夢だったのだと馬鹿ばかしく思えるほど、あっけらかんとした幸福にまみれていてほしかった。
    けれども、そうでないのなら、せめて次の幸せを見つけてほしい。
    何もかも捨ててしまったというあの部屋を思い出す。あんな空っぽの部屋で一人、今ここにある孤独ばかりを見つめていれば、誰だって己の行方を見失ってしまいそうだ。あそこに、あの隙間だらけのどこかに、何か希望を植えられたら。
    ひとしきり笑って目尻を拭ったそいつが、口端に面白がるような笑みを残したまま鯉登を見た。

    「それじゃあ、俺はまず何を買わされたらいいですか」
    「うーん、そうですねぇー、先ほど私がご提案した中で、何か気になったものはございましたか?」

    おどけてそれっぽく返してみると、そいつはますますおかしそうに酒を飲んだ。

    「そうですね、スポーツも釣りも学生時代にちょっとやりましたが、陶芸とか手芸はさっぱりですね。不器用だし、美術はだいたい3だったし。本も実用書ばかりで、物語は全然」
    「でしたら、読書が一番手を出しやすそうですかね。お手軽ですし、お値段もお手頃でご用意できます。物語でなくとも、エッセイや詩なんか読みやすいですよ」
    「詩はまったく分からないのですが、なるほどエッセイですか。何かおすすめはありますか」
    「そうですねぇ、まずどんなジャンルがお好みか見極める必要がありますね。笑えるもの、日常もの、グルメ、旅…いろいろありますが、同じジャンルでも作家によって毛色が違います。なので、書店か図書館でいくつか冒頭を読んでみると良いですよ」
    「うーん、でも書店や図書館って、たくさんあって、手当たり次第に買えるほど安くはないですし、読まなかった本を返しにいくのも億劫で」
    「それなら、古書店はいかがでしょう」
    「こしょてん」

    そいつは、初めて聞いたようにおうむ返しにした。鯉登はグラスに残っていた焼酎を干すと、一晩でかなり少なくなってしまった一升瓶を勢いよく傾けながら続けた。テーブルの上には、もう酒しか残っていない。

    「書店や図書館は性質上玉石混合にならざるを得ませんが、古書店だと店主の審美眼を通らないものは置きません。どんなジャンルでもある程度は厳選されているので、書店や図書館で探すよりは当たりを引きやすいですよ。お値段も、物によってはワンコインで買えてしまいますし、処分品だと1円とか無料で出してることもありますし」
    「あー、でも古書店って、この辺りにあるんですか」
    「ありますよ、大学の近くに何軒か。行ったことありませんか」
    「…古書店って、一見さんお断り、みたいなイメージがあって、敷居が高くないですか」

    ふむ、と鯉登はなみなみに注いだグラスを舐める。すぐにはアルコールを感じないので、かなり酔っていることを実感した。そいつも箸を持ったはいいがもう何も残っていないので、取り皿に残ったタレか何かをくるくるしている。おそらくだいぶ酔っている。
    だから鯉登もそいつも、あまりよく考えずに話してしまっていた。

    「では、ご案内しましょう」
    「ええ?本当に初見は入れてもらえないんですか?」
    「そんなことはありませんが、じゃあ月島さん、一人で行かれますか?」
    「…もちろん」
    「いやあ、今の間は行かん間じゃったなあ、絶対行かんでしょう」
    「バレたか。行きませんねぇ、わりと出不精なんですよね」
    「お連れしますので、行きましょう。本はコスパよかし、趣味にはうってつけです」
    「そりゃありがたいですけど、土日になりますよ?せっかくのお休みでしょう」
    「うふふ、大人の方はご存知ないかもしれませんが、学生には夏休みというものがありますから」
    「あー、そーいやありましたねそんなもんが」

    得意げに笑って見せた鯉登に、そいつは苦笑いして酒を傾けた。一気にグラスを干してしまったのを見て、もうそろそろお開きだな、と瓶の蓋を締めにかかった。しかし二合も残っていなさそうなのでいっそ飲んでしまうか、と一瞬躊躇った。

    「鯉登さん」
    「あ?そろそろ帰りもすか?」
    「…親切が、すぎませんか」
    「あー」

    前も聞いたなそれ、と思った。なので、すっかり酔っぱらった頭は脳直で同じ言葉をなぞった。

    「何かの縁です」

    そいつは、笑うのに失敗したみたいなくしゃくしゃの顔をした。悲しそうには見えなかったが、何かを堪えたように見えた。
    杉元に報告しなければ、と身支度をしながら思う。
    つないでゆくこの縁の先に、そいつの安らいだ笑顔があるといいと思った。

    ##

    「あ、しまった、石鹸を忘れてきました」
    「…おまえが忘れ物をしない日はあるのか?」

    鯉登が呆れて見下ろすと、そいつはまったく動じない顔で、え、ありますよ、とのたまった。日の暮れかかった道の先には、もう風呂屋の看板が見えている。

    「申し訳ありませんが、取ってきますので、先に行っててください」
    「あー面倒くさい、私のを貸してやる」
    「そういうわけには参りませんので」
    「だってもうあそこに見えているのに、トンボ返りなんか阿呆くさいだろうが」
    「でも少尉殿のは高級品でしょう」
    「そうだ、だから心して使え。間違ってもそのタワシみたいな坊主頭でゴシゴシやるんじゃないぞ」
    「そんなことしませんけど」
    「じゃあいい。行くぞ」
    「はあ」

    そこまで言うともう食い下がらない物分かりのいい補佐官は、再びずんずん歩き出した鯉登の半歩後ろを黙って付いてくる。
    豊原に宿をとって鶴見の到着を待つ間、暇を持て余した鯉登は、同じく暇そうにしている(たまに忙しそうにアシリパを追いかけたりしているが)部下を引っ張り回して街中を散策した。その収穫として、銭湯をいくつか見つけておいたのだ。旅館にも風呂はあったが、銭湯の広い湯船は格別である。風呂のある時代に生まれて良かったと思うほどには、鯉登も風呂というものが好きだ。
    けれども、涼しい顔で番台から札をもらっている隣のこの男の方こそ、行くというだけで浮かれて忘れ物をしてしまうほど、風呂に入るのが大好きなのだった。
    脱衣所に入ると、そいつは鯉登の二倍くらいの速さであっという間に裸になってしまうと、てきぱき荷物を整え、お先に、とおざなりに会釈しつつさっさと浴室へ入って行った。その背を見送りつつ、鯉登は呆れた。石鹸を忘れているくせに、先に行ってどうするつもりだ?不本意ながら、鯉登は急いで裸になると、一足遅れて浴室の戸を開けた。もうもうと立ち込める湯気の合間に、ゆっくり体を流しているそいつが見えた。湯船の隅の方に陣取り、ぴんと背筋を伸ばして汲み出した湯をかぶっている。そいつの他には、老人が二人湯船に浸かって話し込んでいるだけだった。

    「おい」
    「はい、あ」

    そいつは、罰が悪そうに鯉登の差し出した石鹸を受け取ると、すみません、と頭を下げた。そうして、二人並んで黙々と全身を洗い、きれいに泡を流してから湯船に入った。
    そいつはだんだん腰を落としてゆっくりと肩まで浸かると、地響きがしそうなほど低い声で唸った。ざぶんと一気に浸かってしまう鯉登は、そう言えば父もこんな風にするな、と考えた。

    「髪」
    「あ?」
    「別の洗い方をするのだと思っていました。石鹸で洗うのですね」
    「見たことなかったか?」
    「中尉殿や皆で入ったときは、洗っておられなかったので」
    「中尉殿をお待たせするわけにはいかないからな。小樽にいた時分には、母に勧められたこともあったけど、あんまり面倒なのでやめた。石鹸やらなんやら混ぜたりしてやるんだ。今は違うものがあるのかもしれんが、女は大変じゃな」
    「坊主ならもっと楽ですよ」
    「私は坊主が似合わん」

    頭の手拭いを乗せ直すついでに、落ちかかっていた前髪を後ろにかき上げ、落ちてこないように手拭いを置いた。この長い髪は、坊主が推奨されている軍の中にあっては異端だ。けれども、坊主頭の鯉登は春の海に沈んだから、もう二度と軍には戻らない。だから、鯉登は絶対に坊主にしない。
    そいつは、はあ、と興味がなさそうに相槌を打った。

    「坊主なんか誰がやっても同じだと思いますがね」
    「貴様にはそうだろうな」

    まあそうですね、と適当なことを言う声は、すでに心がどこかへ旅立っていた。もはや風呂に集中してしまったらしい。
    鯉登は、大きくため息をついた。知らずに詰めていくようで、吐き出してみると肩やら背中から妙な力が抜けるのがわかる。
    白い紙にぼたりと落としてしまった墨の染みを思い出した。兄に大人びた手紙を書こうと筆を取って、何度か四苦八苦してみたもののどうにも緊張して上手く書けないので、最後には結局鉛筆で書いた。そういう小さくとも確かな存在感をもってまっさらな紙を一枚丸ごと台無しにするような、拭い去れない黒い真実が一つ鯉登の胸に落ちている。それは一切を看過することができないほど鯉登の内面に深く関わることであったし、同時にそれを断罪するにはあまりにも依って立つところが大きすぎた。それをすっかり隠して胸の内だけに留めているのは、日々の眠りを浅いものにするほど鯉登をじわじわと追い詰めていた。

    「いてっ」

    そいつの声が浴室に響いた。珍しい悲鳴だと思って隣を見やると、首のあたりに手をやって顔をしかめていた。

    「痛むのか」
    「いえ、ちょっとしみただけです」
    「まだ塞がっていないのか」
    「あー、いえ、もう傷口は塞がっていますが、肩に湯をかけようとして勢いよく、つまり怪我をしていることを忘れていたんです」

    淡々と言うそいつは、もう慣れたのか傷口を気にする風もなくざばざばと熱い湯をかけまくっている。鯉登はあまり長いこと風呂に浸かっていられる質ではないので、ここまで熱いと早くも限界だ。これよりさらに湯をかける気になど全然なれない。二人の前から首までどっぷり浸かっている老人たちはまだまだ上がる気配がなく、もしかしてそういう物の怪の類なのではと勘ぐりたくなった。

    「おまえはわりと粗忽者だ」
    「まあ、あまり気の利く方ではありませんね」
    「兵卒としては秀でているのに、日々の生活に活かされないのは不思議なものだな」
    「兵卒なんですから、それだけできれば上等でしょう」
    「ずっと兵卒というわけにもいかんだろうが。尉官へ上がるつもりはないのだろう」
    「ありませんね」
    「だったら、兵でなくなれば、あとは生活だけになる。そのあとの方が長いじゃないか。まあ、またいつ徴兵がかかるやもしれんが」
    「そのあと、ですか」

    楽しそうに笑う声が反響した。情勢を眺めていれば、また何年後かには大きな戦争があるのだろうことがわかる。鯉登にとってはそうでなくてはならないが、除隊後にもどうにかして生きていかねばならない職業軍人にとっては、それは死活問題となる。せっかく生計を立てるべく仕事を見つけても、徴兵されればすべて無駄になる。年金だけで暮らして行ければ良いのだろうが、その後家族を持つとすれば十分な額ではないだろう。職業軍人の退役後については、軍の中でもたびたび議論の種になる。十代後半で徴兵され、学も金もなく軍一筋に尽くしてきた者たちの中には、郷里を持たぬ者も多い。帰る場所も身を立てる術もなく、退役後は年金だけで細々とその日暮らしを余儀なくされる者たちを救うべきではないのかという議論は、青年将校の集まりでも好まれた。
    そいつは、明らかに意表を突かれたように見えた。そんなこと考えたこともないと顔に書いてあるのが見え見えだった。

    「貴様、なーんにも考えていないだろう」
    「そんなことはありませんが」
    「じゃあ何か考えてることを言ってみろ」
    「…私は軍人です。国のため、大義のために戦って死ぬのが本懐ですので、生き残った先のことを考えておくなど未練がましいことは、本道に悖るのではありませんか」
    「それはあくまで理想論だ。そういう風にあれ、という心持ちの話だろ。生活はそういうわけにいかない。生きている限りは食わねばいかんし、安全に眠れなくてはいかん。そういうものだろう」
    「それこそが理想論では?食えず、眠れずとも、我々は死ぬために戦いました。市井には、戦争でなくても食うだけ、眠るだけで一日を終える者が溢れております。それでも生きれば生きるし、死ねばそれまでです。人間らしい生活なんぞ、生きていればの話です。今そんなことを考えておくなど、無駄なことです」
    「いいや、無駄ではない」

    鯉登がきっぱりと言いきると、そいつが苛立ったように睨むのがわかった。

    「未練のある者とない者であれば、死の瀬戸際でがむしゃらになれるのは未練のある方だろう。やらねばならないこと、思い残すことがある者ほど、生に執着せざるを得ない。そういう兵士こそ、真の強さを発揮するのではないのか。火事場の馬鹿力という奴だな。だからその後のこと、これから先のことを考えておくのは、軍人としても必要なことなのではないのか」

    ざぶざぶと先客が湯船を出ていく。お互いに手を貸しあって歩きながら、なおも親しげに話している。長生きしたいと思ったことはないが、ああいう姿は素直に尊いものだと思えた。

    「…よくわかりました。もう少し停限が近づきましたら、よくよく考えておきます」
    「うん、そうしろ」

    適当に合わせたな、と誰にでもわかるような言葉だったが、鯉登はもう熱くてそれどころではなかった。勢いよく立ち上がると、襟足をしぼりながら湯船を出た。

    「先に上がるぞ」
    「はい」
    「勝手に帰っておくから、好きなだけ入って来い」
    「ありがとうございます」

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